高良大社と高良玉垂命|筑紫一宮の国魂と謎の武神に導かれる旅
@Ricoです。
前回の武蔵御嶽神社の三部作シリーズのまとめとして、「武神」というキーワードに辿り着きましたね!
そこで再び考えることとなった「高良大社」のこと。
昨日まとめた「武神」の記事では、
日本各地の「山・神宝・地域王権」が重なる場所を
ひとつのモデルとして整理しました。
九州初参拝で不思議なご縁から始まった九州遠征の旅。少し振り返ってみようと思います。それは大分・国東半島のケベス祭から始まりました。
奇祭と呼ばれるこの火祭りの境内で、なぜか目に留まったのが小さな高良玉垂社。関東では出会ったことのない神さまの名前に、何か引っかかるものを感じたのです。
その予感は的中しました。翌日、福岡から久留米へ。バスがないという予想外の展開から始まった参拝は、地元の方との奇跡的な出会いを経て、奥宮への道へと導かれていきます。

ケベス祭での出会い|高良玉垂社との最初のご縁
国東半島の櫛来社(岩倉八幡社)で年に一度行われるケベス祭。起源や由来が一切不明とされる国選択無形民俗文化財です。



火の玉が飛び交う激しい祭りの最中、境内で気になったのが高良玉垂社でした。祭礼前にもなぜか気になり、参拝させていただいたのです。
なぜかその存在が心に引っかかります。

この小さな気づきが、翌日の高良大社参拝へと繋がっていくのです。九州の地で最初に参拝した八幡宮の境内社が、次なる道を示してくれました。
朝の参道|久留米大学前からの長い道のり
久留米大学前駅に降り立ったのは朝の7時30分頃。乗り換え案内通りに行くはずだったバス停が見つかりません。
Googleマップを確認すると、歩けない距離ではない。一升瓶が入った重いリュックを背負いながら、筑後国一の宮への道を歩き始めます。
玉垂宮の灯籠、道沿いの仏さま。歩いているだけで、この地が長い歴史を持つ聖地であることを感じさせてくれます。青空が広がってきた朝の参道は、期待と不安が入り混じる特別な時間でした。


お不動さまの導き|予期せぬ出会いへの布石
参道を進むと、大きなお社にお不動さまがいらっしゃいました。九州での最初のお勤めです。フルフルでお参りさせていただきながら、無事に辿り着けますようにと祈りを捧げます。

すると不思議なことが起きました。道が合っているか不安になった時、トレッキング姿の地元の方が通りかかったのです。
なぜかお声掛けさせていただき、「東京から来ました」とお伝えすると、「よろしければ、上までご案内しますよ」という思いがけない申し出。
まさに神降臨でした。お不動さまの導きだと直感的に感じたその瞬間から、この日の参拝が特別なものになることを感じたのです。

高良玉垂命という謎|記紀に登場しない筑後の主神
高良大社の御祭神である高良玉垂命は、朝廷から正一位を賜っているにも関わらず、古事記や日本書紀には登場しない謎の神です。
その正体については、
武内宿禰説、藤大臣説、物部祖神説、彦火火出見尊説、
水沼君祖神説、綿津見神説、景行天皇説、新羅神説、高麗神説など、
実に多くの説が存在しています。
江戸時代には武内宿禰に比定する説が主流でしたが、明治以降は特に比定されていません。これほど多くの説があるということ自体が、この神の謎の深さを物語っています。
筑後国一の宮として、また延喜式内の名神大社として高い地位にありながら、その正体が分からない。さらには、日本中の神々が出雲に集う神無月にも、高良玉垂命は出雲に行かず、当地では10月を「神在月」と言います。
<武神>山岳封納型武神としての高良玉垂命
実は、高良玉垂命は日本の武神体系において重要な位置を占める神でもあります。
先日記した「日本の武神体系|山と神宝・武具と王権の関係性」の考察では、高良玉垂命を「山岳封納型武神」として分類しました。
「玉を垂れ納めた」神=神宝封納の山として、九州王権・筑後国造との結びつきが強い神格です。山そのものを"武具の納め場=封印場"とみなし、山を押さえることが地域支配の完成を意味している。
この構造は、日本武尊が武蔵御嶽山に武具を納めたという伝承と同じ類型に属します。
境外摂社との出会い|高樹神社の意味深な伝承
御手洗池を渡ると、気になるお社がありました。後から調べると、これは高良大社の境外摂社である高樹神社でした。

高良山にはもともと高木神(高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山と呼ばれていましたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したという伝説があります。
※この結界が後述する「神籠石」とされます
古くは高牟礼権現と呼ばれた高良山の地主神さま。この伝承は、何らかの支配者の交代が起こったことを暗示しているようです。
必要なご縁は必ずあるし、離れることもあれば繋がっていくものもあり、そこに良し悪しはない。そう確信させられる場所でした。
背比べ石と馬蹄石|日本武尊の伝承との繋がり
二の鳥居を過ぎ、さらに山道を登っていくと、背くらべ石と馬蹄石がありました。
背くらべ石は、神功皇后が朝鮮半島への出兵を前に、この石と背丈を比べて吉凶を占われたという伝説のある石です。

馬蹄石は、大石の上に高良の神が神馬の蹄の跡を残されたという伝説があります。しかし実は、この石こそが本来の「神籠石」であり、現在神籠石と呼ばれている列石は、かつては「八葉の石畳」と呼ばれていたのです。


式内社・伊勢天照御祖神社|筑後における皇大神宮
さらに登ると、式内社の伊勢天照御祖神社が鎮座しています。御祭神は天照大神。
桓武天皇延暦三年(784年)、伊勢国山田原より遷座された、筑後における最も由緒正しい皇大神宮の分祀です。左右には境内社の八幡宮・天満宮が鎮座されます。

このお社を取り巻く雰囲気に目を惹かれました。伊勢の神さまが、なぜこの高良山に勧請されたのか。そこにも深い意味があるように感じられます。
ついに本殿へ|高良玉垂命との対面
延々と続く参道と山道。二の鳥居に到着したのが7時47分、そして8時20分、ついに朝日を拝しながら本殿に到着しました。



高良大社の創建は履中天皇元年(400年)と伝えられ、897年には正一位を授けられ、延喜式内の名神大社として高い地位にありました。
御祭神
正殿:高良玉垂命
左殿:八幡大神
右殿:住吉大神
本殿に合祀されるのが豊比咩神社で、豊比咩大神(豊玉姫命)が祀られています。


現在の社殿は久留米藩第3代藩主有馬頼利の寄進によるもので、万治3年(1660年)に本殿が、寛文元年(1661年)に幣殿・拝殿が完成しました。
九州最大級の権現造|江戸の西の護り
社殿は圧倒的な総漆塗り。江戸初期の権現造で、神社建築としては九州最大規模を誇る国の重要文化財です。
天正18年(1590年)、徳川家康が関東に封ぜられると、神社には朱印地三十石が寄進されました。慶長11年(1606年)、家康の命により大久保石見守長安が普請奉行として社殿を改築。南向きだった社殿が、江戸の「西の護り」として東向きに改められたのです。
御本殿の上の方には、目を惹く龍の彫刻。朱色の社殿と龍の組み合わせから、聖地としての威厳を感じさせます。


高良大社の神紋|木瓜に込められた意味
高良大社の神紋は木瓜です。四方に開いた雲の中から高良の神がご出現なさるその瞬間を表わすのだそうです。
興味深いことに、本殿前の神輿庫には三基の神輿があり、中央が玉垂宮(神紋:竜の丸と横木瓜)、向かって右が八幡宮(神紋:右三ツ巴)、向かって左が住吉宮(神紋:五・七の桐)となっています。
まさに今回の九州での巡礼場所にピタピタと合致する神々が揃っていました。
▶︎九州初参拝ルート
・ケベス祭(岩倉八幡宮)
・宇佐神宮
・高良大社
・住吉神社
・志賀海神社

摂社末社の参拝|九躰王子と武内宿禰
境内には多くの摂社末社が鎮座しています。
印鑰社(いんにゃくしゃ)の御祭神は武内宿禰。
高良大社の印と鍵を守る重要な社です。

高良御子神社には、高良玉垂命の御子神である九躰王子が祀られています。第一王子の斯礼賀志命から第九王子の安楽應寳秘命まで、九柱の神々です。

真根子神社には壱岐真根子命が祀られ、武内宿禰の忠臣とされます。
また、五所八幡宮・日吉神社・風浪神社が合祀されています。

奥宮への道|地元の方の導きで向かう聖地
授与所でご奉納を済ませると、またまたご案内いただいた方と再会できました。
「奥宮、行かれます?」との問いかけ。時間的に、場所もイマイチ分からないから奥宮は無理だと思っていたのに、思わぬ展開です。
出来ればうかがいたいですと答えると、またまた奥宮までご案内いただく流れとなりました。降臨した神のような方の導きで、いよいよ奥宮へと向かいます。

毘沙門嶽への道程|森の香りに包まれて
御本殿から奥宮までは、意外とあっという間で、だいたい15分ぐらいの道のりです。

森の緑の香りが全身に染み渡る山道を、いろんな話をしながら進んでいきます。お日さまが眩しく、清々しい朝の空気が心地よい。
途中、「毘沙門嶽」の表示がありました。山中に初めて仏教を伝えた隆慶上人建立の毘沙門堂があり、戒壇が設けられたと伝わることから、山頂を毘沙門岳、高良内へ向かう谷を毘沙門谷と称しています。

奥宮(別所)|高良大社の原点となる聖地
ついに奥宮に到着しました。
高良大社奥宮は、白鳳七年(687)高良山に仏教を伝えた隆慶上人が毘沙門天(高良神の本地)を感見して、天竺の無熱池の清涼な水を法力で招き寄せたとする清水に毘沙門堂を建てた、高良山信仰の原点となる聖地です。
江戸時代までは高良大明神の御廟所「高良廟」「御神廟」と称されていました。


鳥居には「高良廟」と記され、初寅祭の案内板には「高良の神の本地は、毘沙門天である」という信仰が起こり、この奥宮の神は毘沙門天とされたとあります。

毘沙門天との不思議な縁|奈良から続く導き
振り返ってみれば、奈良に惹かれて何度も足を運ぶようになった最初のキッカケは吉野・金峯山寺の蔵王権現さまでした。
そして翌年に、あり得ない勢いでうかがったのが信貴山の毘沙門天さま。まぁまぁ、結構大変な状況からのスタートでしたが、たくさんのヒントをいただきました。
こうして振り返ると、「!」というお試しみたいなものがある時って、毘沙門天さまがいらっしゃる場合が多いことに気づきます。

武神としての毘沙門天
毘沙門天が高良玉垂命の本地仏とされたのも、偶然ではないでしょう。
武神体系の考察で明らかにしたように、その中で「山岳封納型武神」は、山そのものを武具の納め場として神聖視する信仰です。
毘沙門天という仏教の武神が、高良玉垂命という謎多き神の本地とされたのは、両者が共に「武」の本質を体現する存在だったからではないでしょうか。それは単なる戦いの神ではなく、地域を「鎮める」霊力を持つ存在としての武神です。
社殿前の霊水|無熱池の清涼な水
社殿前の湧水は、隆慶上人が天竺の無熱池の清涼な水を迎えたと伝わっています。
この霊水は「高良山勝水」とも呼ばれ、その水を飲むと勝負に勝てるという言い伝えがあるそうです。試合を控えた野球少年などが、勝利祈願のため水を飲みに来ることもあるとか。
諸願成就の神として民間の信仰がきわめて篤く、現在も寅の日には多くの参拝者が訪れるそうです。

神籠石の真実|八葉の石畳と古代山城
高良山には、もう一つの重要な遺構があります。それが神籠石です。
神籠石とは、山に巨石が並べられている遺跡のことで、現在では飛鳥時代ごろに作られた山城であると考えられています。
高良山の神籠石は、ほかの神籠石にさきがけて学会に報告され、神籠石という遺跡の名前の発祥となりました。
しかし、本来高良大社の参道脇にある「馬蹄石」など、神の依り代となる岩石のことを指す名称であったが、近くにある列石(高良山では「八葉石塁」「八葉の石畳」と呼ばれていた)と混同して学会に報告されたため、列石遺構の方にこの名が付けられたのです。
列石の規模|延々1600メートルの石の結界
列石は1メートル内外の長方形の切石を一列に並べたもので、高良大社社殿背後の尾根(海抜251メートル)を最高所とし、南側の尾根にそって下り、西裾の二つの谷を渡り、1300余個、延々1600メートルに及びます。
北側の列石は確認されていませんが、天武天皇7年(678)の「筑紫国大地震」によって崩壊したのではないかとの説があります。
高良玉垂命の玉とは|海神の宝珠との関係
高良玉垂命の「玉垂」という名前の由来について、興味深い伝承があります。
干珠・満珠を龍宮にて賜ったのち、玉を龍宮から高良へ持って行き、神代に納めたという、干珠は白い玉・満珠は青玉なり、干珠・満珠を高良の神代に納められたことにより、高良を玉垂と呼ぶようになったといいます。
この宝珠は海に投げ入れることで潮の干満を操る力があるとされています。海神との深い関わりを示す伝承です。
神宝封納としての玉垂
神宝(この場合は干珠・満珠)を山に納めることで、その地域の「鎮め」の霊力を確立する。
それは単なる物理的な支配ではなく、霊的な次元での地域統治の正統性を示す行為でした。
高良玉垂命という神名自体が、この神宝封納の事実を永遠に記憶するための名前だったのかもしれません。
高良大社と海の道|住吉・八幡との関係
高良大社の御祭神の配置には深い意味があります。中央に高良玉垂命、左に八幡大神、右に住吉大神という配置です。
今回の九州巡礼で、高良大社の後に住吉神社、志賀海神社とうかがう計画を立てていたのですが、まさにその流れが高良大社の神々の配置と一致していました。
住吉大神は海神として、八幡大神は応神天皇として、それぞれ海の道を通じて大陸との交流に関わった神々です。高良玉垂命もまた、海神の宝珠を持つ神として、この海の道の守護者だったのかもしれません。
筑紫の国魂|高良山が持つ意味
高良大社は古代から筑紫の国魂と仰がれ、筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に篤い信仰圏が見られます。
「筑紫の国魂」という表現は重要です。筑紫という広範囲において、その御力をいただいていると考えられ、九州を語る上で中心となる場所であったことを示しています。
標高312メートルという決して高くない山ですが、筑後平野を一望できる位置にあり、古代から戦略的にも信仰的にも重要な場所でした。

神仏習合の痕跡|高良山二十六ヶ寺の記憶
明治の廃仏毀釈より以前には、高良山内に26ヶ寺360坊と言われるほど多くのお寺がありました。
奥宮が毘沙門堂であったことをはじめ、高良山全体が神仏習合の聖地として栄えていたのです。現在も境内各所に、その痕跡を見ることができます。
明治初年の神仏分離により、毘沙門堂は「水分神社」と改められましたが、「あらゆる願い事を叶えてくださる神様」として、高良大社の数ある末社の中でも、今日特に厚い信仰を集めています。
征西将軍宮との関わり|南北朝時代の記憶
南北朝のころは征西将軍懐良親王の祈願をうけ、山下に征西府がおかれた由緒ある社です。
奥宮については、征西将軍宮懐良親王の御在所となったとの説もあります。また、九州における南朝方の重要な拠点として、高良山が機能していたことがわかります。
月神としての高良玉垂命|三御嶽の雪月花
高良玉垂命には「月神」という別の顔があります。
月神という性格は、海の干満を司る宝珠を持つことと関連があるのかもしれません。月の満ち欠けと潮の干満は密接な関係があるからです。
高良山の石|神籠石はどこから来たか
神籠石の石材について考えると、興味深い疑問が浮かびます。これだけの量の切石を、どこから切り出してきたのでしょうか。
高良山近くの山にも神籠石がいくつもあることから、どこかに共通の石切り場があったはずです。もしかすると、そこには石工集団の祭神を祀る神社や祠があるかもしれません。
祭神が分かれば、どんな集団が築造に関わったのか見えてくる可能性があります。
天智天皇と白村江|神籠石築造の背景
天智2年(663年)の白村江の戦で敗れる前後の対外情勢の中で、当時の中央政府が北部九州の防衛のために築いた山城の一つと考えられています。
白村江の戦いは、日本(倭国)が支援する百済軍と、唐と新羅の連合軍が行った海戦です。この敗戦により、大陸からの侵攻に備えて、北部九州に多くの山城が築かれました。
高良山神籠石もその一つとして、筑後平野を守る重要な防衛拠点だったのでしょう。

帰路での感謝|循環する恩の流れ
奥宮参拝を終え、展望台でしばし休憩。再びの御本殿に参拝し、御朱印を授かりました。2024年の10月、この日の出会いと導きに感謝しながら。

帰りは階段を下ります。案内の神のような方は、影で出演しながら最後まで見守ってくださいました。
だれしもが誰かの御力を借りて、みんな生きているのです。それを恩送りして循環していくこと。力強い大地に支えられながら、われわれは生きている。遥か遠い九州の地で出会うすべてのことは、きっとこれから先に繋がっていきます。

まとめ|謎多き神と奥宮が語るもの
高良大社と高良玉垂命。その正体は今も謎のままです。
高良玉垂命の謎の多さは、むしろこの神が九州における古代王権の武的正統性の根幹に関わる存在だったからかもしれません。
しかし、だからこそ多くの人を惹きつけるのでしょう。
武内宿禰なのか、物部氏の祖神なのか、それとも海神なのか。
もしかすると、それらすべてを包含する存在なのかもしれません。
奥宮で出会った毘沙門天。霊水の湧く聖地。神籠石という古代山城。これらすべてが、九州の古代史における高良山の重要性を物語っています。
初回の九州遠征で、予定になかった高良大社への参拝。しかし振り返ってみれば、ケベス祭での小さな気づきから始まり、地元の方の導きを経て奥宮まで参拝できたこの流れこそが、必然だったのでしょう。
九州の地で感じた神々の導き。それは確実に、これから先の道へと繋がっていっているのです。

では。
いつも、ありがとう^^
@Rico
幸せは自分のために
世界が平和であるために
