【伝記①】『亡国への道』から読む高橋是清──成功した経済政策はなぜ戦争経済へ変質したのか
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全四部作となっております。
◆第一章 高橋是清という男──「財政家」になるまで
高橋是清という名前を聞くと、多くの人は「高橋財政」という言葉を思い浮かべる。
世界恐慌のさなか、日本をいち早く不況から脱出させた財政家。
金本位制から離脱し、積極的な財政支出を行い、日銀による国債引き受けも活用した人物。
現代の経済政策論では、ときに「日本版ケインズ政策の先駆者」として語られることもある。
しかし、ここで一度立ち止まった方がいい。
高橋是清を「積極財政をやった人」という一言だけで理解すると、後に日本がなぜ財政・金融・通貨の制御を失い、戦争経済の泥沼へ入っていったのかが見えなくなるからだ。
高橋是清という人物の本当の面白さは、むしろそこにある。
彼は最初から「財政拡大をすれば経済は成長する」と考えていた人物ではない。
官僚、銀行家、日銀総裁、政治家、首相、大蔵大臣。
そして日露戦争の戦費を海外から調達した国際金融の実務家でもあった。
つまり高橋是清は、国家財政だけでなく、通貨、為替、国際金融、戦争、そして政治の現実を一人の人生の中で経験した人物だったのである。
だからこそ、彼の人生を追うことは、そのまま戦前日本の経済政策を追うことになる。
●1-1 幕末に生まれた少年
高橋是清は1854年、江戸に生まれた。
時代は幕末。
ペリー来航からわずか一年後であり、日本がそれまでの鎖国体制から大きく揺れ動き始めた時代だった。
後の高橋是清が生きることになる明治、大正、昭和という三つの時代は、日本にとって国家そのものを作り替えていく時代だった。
高橋は幕府の御用絵師の子として生まれ、仙台藩士の養子となった。
その後、海外留学を経験する。
ここが、後の高橋是清を理解するうえで非常に重要になる。
高橋は、単に日本国内の制度だけを知っていた官僚ではなかった。
若い頃に海外へ出て、外国の社会や経済に触れた経験を持っていた。
日本銀行によれば、米国留学中には手違いから奴隷として売られるという、現代では想像しがたい経験までしている。帰国後は英語教師などを経て官僚となり、農商務省では特許局長まで務めた。さらにペルーで銀山開発に取り組んだものの失敗し、無一文で帰国するという波乱の人生を送っている。
普通なら、この段階で人生が終わっていても不思議ではない。
ところが、高橋是清はここから金融の世界へ入っていく。
●1-2 失敗した鉱山経営者が日本銀行へ
ペルーでの鉱山事業に失敗して帰国した高橋は、日本銀行に採用される。
1892年のことだった。
この出会いが、日本の歴史を大きく変えることになる。
高橋は日本銀行で経験を積み、1899年には副総裁に就任する。
ここで身につけたのが、後の「高橋財政」の土台となる国際金融の感覚だった。
高橋は国内の税収や予算だけを見ていたわけではない。
日本という国が、
どれだけ外貨を稼げるのか
海外からどれだけ資金を調達できるのか
円の信用をどう維持するのか
国際金融市場から日本がどう見られているのか
という問題を、実務として経験していた。
そして、その能力が最も大きく発揮されることになるのが、日露戦争だった。
●1-3 日露戦争──高橋是清が学んだ「国家にはお金が必要だ」
1904年、日露戦争が始まる。
日本にとって、この戦争は軍事的な戦いであると同時に、巨大な資金調達戦争でもあった。
戦争には兵士だけではなく、武器、弾薬、船、鉄道、食料、輸送など、莫大な資金が必要になる。
しかも日本は、ロシア帝国と比べれば経済規模の小さな国だった。
問題は、その戦費をどう調達するのかだった。
そこで重要な役割を果たしたのが高橋是清だった。
高橋は日露戦争の戦費調達のため、海外で日本国債を売り込んだ。
日本銀行によれば、高橋は副総裁時代に日露戦争の戦費調達のための外債募集に手腕を発揮したとされる。
ここで高橋が学んだことは非常に大きい。
それは、「国家は自国だけで完結しているわけではない」という現実だった。
国債を発行する。
海外の投資家が買う。
外貨を調達する。
その資金で戦争を遂行する。
そして、戦争が終われば、その借金を返済しなければならない。
つまり国家財政とは、「政府が好きなだけお金を使える財布」ではない。
国内の税収だけでなく、通貨、金利、為替、国際収支、海外投資家の信用まで含めた巨大な経済システムなのである。
この経験は、後の高橋是清の政策思想を考えるうえで極めて重要になる。
●1-4 日本銀行総裁へ
高橋は1900年代を通じて金融・財政の実務経験を積み、1911年、日本銀行総裁に就任する。
日本銀行の第7代総裁だった。
ここまで来ると、高橋是清は単なる官僚ではない。
日本の金融政策を担うトップである。
そして、その後は政治の世界へ進む。
大蔵大臣を歴任し、1921年には内閣総理大臣にも就任する。
国立国会図書館の資料によれば、高橋は日本銀行総裁、首相、大蔵大臣などを歴任し、最終的には大蔵大臣を7回務めた。
ここで高橋是清の経歴を一度整理してみよう。
幕末生まれ →海外留学・海外経験 →官僚 →特許行政 →ペルー鉱山事業 →失敗・帰国 →日本銀行 →副総裁 →日露戦争の外債調達 →日本銀行総裁 →大蔵大臣 →内閣総理大臣 →再び大蔵大臣これを見ると、高橋是清が単なる「財政拡大論者」ではなかったことが分かる。
むしろ、国家財政と国際金融の両方を知る実務家だったのである。
●1-5 高橋是清は「積極財政論者」だったのか
ここからが、本稿の重要なポイントになる。
現在、高橋是清はしばしば「積極財政の象徴」として扱われる。
確かに、後の高橋財政では大規模な政府支出を行い、金融緩和も進める。
しかし、「高橋是清=いつでも財政拡大を支持する人物」と考えるのは正確ではない。
高橋是清が後に軍部と激しく対立することを考えれば、そのことはよく分かる。
高橋が重視したのは、単純な政府支出の「量」ではない。
むしろ、国家経済全体をどう安定させるかという問題だった。
景気が落ち込んでいるときには、政府が支出を増やして需要を支える。
しかし、景気が回復してくれば、いつまでも同じ速度で支出を増やし続けるわけではない。
この点は後の歴史を見るうえで極めて重要になる。
なぜなら、高橋是清が1930年代に行った政策と、その死後に日本が行った政策は、「政府がお金を使った」という表面的な部分だけを見ると似ているが、目的と制御の仕方が大きく違うからである。
●1-6 高橋財政を理解するための「三つの財布」
高橋是清の経済政策を理解するとき、財政だけを見ると本質を見失う。
重要なのは、財政・金融・為替の三つである。
日本銀行の解説でも、高橋財政は財政政策だけではなく、為替レート政策と金融政策を含むマクロ経済政策の総体として理解する必要があると説明されている。
つまり、
財政政策
政府がお金を使う
↓
金融政策
日銀が金融環境を緩和する
↓
為替政策
円の価値・為替レートが調整される
↓
輸出・生産・雇用が回復
↓
税収・企業収益・所得が改善
↓
経済全体が回復という連動を考えていた。ここが非常に重要だ。
高橋財政は、「国債を発行して政府がお金を使えば、それだけで経済成長する」という単純な話ではない。
当時の日本は金本位制という強い制約の下にあり、為替レートと金の流出入が経済政策を大きく縛っていた。
その制約を外し、金融・財政・為替を組み合わせることで、経済をデフレから引き上げようとした。
後の昭和恐慌への対応は、まさにこの発想から始まる。
●1-7 そして世界恐慌がやってくる
高橋是清が再び日本経済の中心人物として登場するのは、1930年代初頭だった。
1929年、ニューヨーク・ウォール街の株価暴落をきっかけに世界恐慌が始まる。
日本もその波に巻き込まれていく。
だが、日本の場合、世界恐慌だけが原因だったわけではない。
1920年代から日本経済は、
第一次世界大戦後の反動
関東大震災
昭和金融恐慌
銀行問題
デフレ
国際競争力の低下
など、複数の問題を抱えていた。
そして1930年、日本は国際金本位制へ復帰する。
ところが、その復帰が日本経済をさらに苦しめることになる。
日本銀行の研究によれば、当時の日本は経常収支赤字を抱えていたうえ、旧平価という実態より円高な為替レートで金本位制へ復帰したため、デフレ圧力が強まった。そこへ世界恐慌が重なり、昭和恐慌が深刻化したと整理されている。
つまり、日本は世界恐慌に巻き込まれただけではない。
自ら選んだ政策が、不況をさらに深くしていた。
そして1931年。
この状況をひっくり返すために、高橋是清が再び大蔵大臣として登場する。
ここから、日本経済史上でも特に重要な「高橋財政」が始まる。
●1-8 「財政拡大」の前に、何を変えたのか
高橋是清が大蔵大臣に就任したのは1931年12月。
彼は就任すると、まず金本位制から離脱した。
日本銀行の記録によれば、高橋は就任当日に金輸出再禁止を実施し、これによって円相場は実態に合わせて変動できるようになった。そのうえで、政府支出の拡大、公定歩合の引き下げ、国債の日銀引き受けなどを組み合わせた。
ここで、後の議論につながる非常に重要なことが起きている。
高橋は、「まず財政を拡大した」のではない。
その前に、「経済政策を縛っていた制度上の制約を外した」のである。
金本位制から離脱する。
円相場を柔軟化する。
金融を緩和する。
そのうえで財政支出を拡大する。
この順番を見ると、高橋財政の姿がかなり違って見えてくる。
●1-9 高橋是清を「積極財政の神様」にしてはいけない理由
高橋是清の人生をここまで追うと、一つのことが見えてくる。
彼は、「お金を使うこと」そのものを信奉していたわけではない。
国家財政には制約がある。
国際金融市場にも制約がある。
為替にも制約がある。
中央銀行にも役割がある。
そして何より、経済には現実の生産能力がある。
だからこそ、景気が崩壊しているときには財政・金融政策を大胆に使う。
しかし、経済が回復した後まで同じ政策を無制限に続ければ、話は変わる。
ここに、後の日本史を読み解く巨大な分岐点がある。
高橋是清が行った「積極財政」と、彼が暗殺された後に日本が進んだ「戦時財政」。
この二つは、同じように政府支出が膨らんだとしても、同じものではない。
前者は、経済を立て直すための政策だった。
後者は、国家の資源を軍事目的へ集中させる政策へ変質していく。
その違いを理解しなければ、戦前日本の財政破綻を理解することはできない。
●1-10 そして高橋是清は、もう一度「財政の限界」と向き合うことになる
1930年代。日本経済は、世界恐慌から急速に回復していく。
この回復こそが、次章以降の物語の出発点になる。
なぜなら、1930年代半ばの日本は「戦争をしなければ生きていけないほど貧しい国」だったわけではないからだ。
むしろ高橋財政によって、日本経済は大きく立ち直っていた。
ところが、その経済的な回復とほぼ同じ時期に、別の力が日本国内で強くなっていく。
軍事費をもっと増やせ。
満州をさらに拡大せよ。
中国大陸への関与を強めよ。
国家総動員体制を作れ。
つまり、「経済を立て直すための財政」と「軍事力を拡大するための財政」が、次第に衝突し始めるのである。
そして、その対立の中心にいたのが高橋是清だった。
●第一章のポイント
高橋是清の人生をここまで整理すると、次のことが見えてくる。
高橋是清
│
├─ 海外経験
│
├─ 官僚経験
│
├─ 日本銀行
│
├─ 国際金融
│
├─ 日露戦争の戦費調達
│
├─ 日本銀行総裁
│
├─ 大蔵大臣
│
└─ 首相
↓
「財政だけではなく、通貨・金融・為替・国際金融を一体で見る」
↓
昭和恐慌
↓
高橋財政だから高橋是清を理解することは、「積極財政は正しいのか、間違っているのか」という単純な議論ではない。
むしろ問うべきなのは、「どのような条件の下で財政を拡大し、どこで止め、誰が止めるのか」という問題なのである。
この問いは、90年前の日本だけの問題ではない。
そして次章から、その答えを高橋財政そのものの中に探していく。
◆第二章 世界恐慌──日本経済がどん底に落ちた
高橋是清という人物を理解するうえで、避けて通れないのが「昭和恐慌」である。
なぜなら、高橋財政の大胆さは、単に高橋是清が積極財政を好んだから生まれたものではない。
日本経済が、それほどまでに深刻な状態に陥っていたからこそ、高橋は従来の経済政策を大きく転換した。
そして、その転換を理解するには、まず「なぜ日本はそこまで苦しくなったのか」を知らなければならない。
ここを飛ばしてしまうと、
不況になった → 高橋是清が財政出動した → 景気が回復した
という単純な物語になってしまう。
実際には、その前に日本は、金本位制、円相場、デフレ、国際収支、金融危機、世界恐慌という複数の問題を抱えていた。
そして高橋是清は、その絡み合った問題を一つずつ外していくことになる。
●2-1 1929年、世界恐慌が始まる
1929年10月、ニューヨークのウォール街で株価が大暴落する。
いわゆる世界恐慌の始まりである。
その後、アメリカでは銀行破綻や企業倒産が相次ぎ、失業者が急増。
ヨーロッパにも危機が波及し、世界経済全体が急速に縮小していった。
当時の日本も、この世界的な不況から逃れることはできなかった。
特に大きな打撃を受けたのが輸出産業だった。
日本は当時、生糸を主要な輸出品としていた。
そして最大の輸出先の一つがアメリカだった。
アメリカの消費が落ち込めば、生糸の需要も落ちる。
生糸価格が下落すれば、輸出業者だけでなく、農村にも影響が及ぶ。
こうして世界恐慌は、「アメリカの株式市場 → 世界の需要 → 日本の輸出 → 日本の企業・農村」という経路で日本経済に伝わってきた。
しかし、日本の場合、問題はそれだけではなかった。
●2-2 世界恐慌の前から、日本経済は弱っていた
「世界恐慌が起きたから日本経済が悪化した」だけでは、昭和恐慌の全体像を説明できない。
日本経済は1920年代から、すでにいくつもの問題を抱えていた。
第一次世界大戦中、日本は輸出を急拡大させた。
しかし戦争が終わると、その反動が来る。
さらに1923年には関東大震災が発生。
銀行や企業が抱える不良債権問題も深刻化し、1927年には金融恐慌が発生した。
つまり1920年代末の日本経済は、
第一次世界大戦後の反動 →関東大震災 →銀行・企業の問題 →金融恐慌 →デフレ →世界恐慌というように、複数のショックが積み重なった状態だった。
そこへ、さらに大きな問題が加わる。金本位制への復帰である。
●2-3 「金本位制に戻れば、日本の信用は回復する」
当時の国際金融を理解するには、金本位制を理解する必要がある。
金本位制とは、簡単にいえば、通貨の価値を金との交換関係によって支える制度である。
各国が金との交換比率を一定に保つことで、為替相場も安定する。
当時の国際社会では、金本位制は国際金融の「共通ルール」のような役割を果たしていた。
第一次世界大戦によって多くの国が金本位制を停止していくなか、日本も一時的に金本位制から離れていた。
しかし、1920年代になると、「日本も正常な国際金融体制に復帰すべきだ」
という考えが強くなる。そこで登場したのが、当時の大蔵大臣・井上準之助だった。
●2-4 井上準之助の「金解禁」
1930年、日本は金本位制へ復帰する。いわゆる「金解禁」である。
その目的は明快だった。金本位制に復帰することで、
円の信用を回復する
国際金融市場から信頼を得る
財政・金融を健全化する
国際収支を改善する
といった効果を期待したのである。
一見すると、非常にまっとうな政策に見える。
しかし問題は、どの為替レートで金本位制に復帰するのかだった。
日本は旧平価、つまり以前の金と円の交換比率で金本位制に戻った。
ところが、このレートは当時の日本経済の実力から見ると、円高方向に設定されていた。これが日本経済に強烈なデフレ圧力をかけることになる。
●2-5 円高は輸出企業を直撃する
当時の日本は輸出によって外貨を稼ぐ必要があった。
ところが円高になれば、日本製品は海外から見て高くなる。
例えば、
1ドル=2円だったものが、
1ドル=1円になれば、日本企業が同じ価格でドルを受け取っても、円に換算したときの売上は半分になる。
もちろん現実の為替レートや企業収益はこんな単純な計算ではない。
しかし、方向性としては、「円高 → 輸出競争力低下 → 輸出減少 → 生産減少」という圧力がかかる。
しかも世界恐慌によって、海外の需要そのものが縮小していた。
つまり日本は、「世界の需要が落ち込んでいるところに、自ら円高という追加の重しを乗せた」状態になった。
そして、この政策が最も深刻な影響を与えたのが、生糸などの輸出産業だった。
●2-6 「正しい政策」が間違ったタイミングで危機を深くする
ここで重要なのは、井上準之助の政策を単純に「間違い」と片付けないことだ。
金本位制への復帰には、当時としては合理的な理由があった。
国際金融のルールに戻る。
通貨の信用を高める。
財政規律を取り戻す。
これは決して荒唐無稽な政策ではない。
問題だったのは、日本経済の状態と、その政策のタイミングが噛み合っていなかったことである。
景気が弱い。
世界恐慌が起きている。
輸出需要が落ちている。
それなのに、円高方向の圧力を受け入れ、さらに財政・金融を引き締める。
経済全体から見ると、アクセルを踏むべき局面でブレーキを踏むことになった。
日本銀行の資料でも、金本位制復帰後に円高によるデフレ圧力が強まり、そこへ世界恐慌が重なったことが昭和恐慌を深刻化させたと説明されている。
そして、この状況をひっくり返す人物として登場するのが、高橋是清だった。
●2-7 「緊縮すれば信用が上がる」とは限らない
ここで、現代の経済政策にもつながる重要な論点が出てくる。
財政を引き締める。
政府支出を抑える。
国債発行を減らす。
通貨価値を維持する。
一見すると、「国の信用を高める政策」に見える。
しかし、それが景気後退をさらに深刻化させ、企業倒産や失業を増やし、税収を減らしてしまったらどうなるのか。
政府の財政状況は、必ずしも改善するとは限らない。
これは非常に重要なポイントである。
なぜなら、財政健全化は「支出を減らせば達成できる」という単純な話ではないからだ。
政府の財政収支は、
税収 - 政府支出だけで決まっているわけではない。
景気が悪化すれば、税収も落ちる。
失業が増えれば、社会保障支出が増える。
企業収益が落ちれば、法人税も減る。
つまり、「緊縮 → 景気悪化 → 税収減」という逆回転も起こり得る。
昭和恐慌は、この問題を日本が極めて厳しい形で経験した時代だった。
●2-8 1931年、高橋是清が再び登場する
そして1931年12月。若槻礼次郎内閣が倒れ、犬養毅内閣が成立する。
大蔵大臣として再登板したのが、高橋是清だった。
このとき高橋は77歳。すでに若い政治家ではない。
しかし、この老財政家がここから日本経済を猛烈な勢いで変えていく。
高橋が最初に行った重要な政策の一つが、金輸出再禁止だった。
これによって日本は事実上、金本位制から離脱する。
そして円は、従来の固定された金との交換関係から解放され、為替市場で大きく下落していく。
これが日本経済に大きな変化をもたらす。
●2-9 円安が日本経済を反転させる
円安になると、日本製品は海外から見て安くなる。
輸出企業にとっては競争力が改善する。
例えば、
円高 →日本製品が海外で高くなる →輸出に不利 →生産減少だったものが、
円安 →日本製品が海外で安くなる →輸出に有利 →生産拡大 →雇用・所得改善へ反転する。
もちろん、円安には輸入物価上昇という副作用もある。
しかし当時の日本は深刻なデフレに陥っていた。
そのため円安による輸入価格上昇は、単なる悪材料ではなく、過度なデフレを反転させる力として働いた。
そしてここから、日本経済は急速に回復していく。
●2-10 金融政策も緩和する
高橋是清は為替だけを動かしたわけではない。
日本銀行の公定歩合を引き下げ、金融環境を緩和した。
つまり、
金本位制から離脱 →円安 →金融緩和 →輸出・投資・需要を刺激という政策を組み合わせた。
そして、さらに重要なのが財政政策だった。
政府支出を拡大する。特に公共事業などを通じて需要を作る。
景気が悪いから民間が支出しない。ならば政府が支出する。
これは現在のマクロ経済学から見れば、それほど奇異な考えではない。
しかし1930年代初頭の日本においては、非常に大胆な政策転換だった。
●2-11 日銀による国債引き受け
高橋財政を語るとき、必ず登場するのが「日銀引き受け」である。
政府が国債を発行する。
それを日本銀行が直接引き受ける。
政府は得た資金を財政支出に使う。
これだけを見ると、
「政府が国債を発行すれば、日銀がお金を作ってくれる」
という現代的な議論に直結させたくなる。
しかし、ここには注意が必要だ。
高橋是清は日銀引き受けを無制限の財政ファイナンスとして導入したわけではない。
日本銀行の研究でも、高橋財政期の日銀引き受けは、景気回復のための財政政策を支える手段として用いられた一方、国債の日銀引き受けそのものを無制限に続けることを意図したものではなかったと整理されている。
ここは後の戦時財政との決定的な違いになる。
高橋にとって重要だったのは、日銀が国債を引き受けられるかどうかではなく、その政策をどこまで、何のために使うのかだった。
●2-12 高橋財政が成功した理由
ここまでを整理すると、高橋財政は一つの政策ではない。
金本位制から離脱 →円安 →輸出競争力回復 →金融緩和 →信用環境改善 →財政支出拡大 →国内需要拡大 →生産・雇用回復 →税収・企業収益改善という複数の政策が連動していた。
しかも重要なのは、当時の日本が深刻なデフレ・失業・需要不足に陥っていたことだ。
つまり、「需要が足りない経済」に対して需要を作ったのである。
この点は、後に日本が経験するインフレ局面とはまったく状況が違う。
●2-13 アベノミクスとの共通点
ここで現代に少し目を向けてみよう。
2012年末に発足した第二次安倍政権は、いわゆる「三本の矢」を掲げた。
その中心の一つが大胆な金融緩和だった。
さらに財政政策を組み合わせ、デフレ脱却を目指した。
これを高橋財政と比較すると、確かに似ている部分がある。
高橋財政
金本位制離脱 +金融緩和 +財政拡大 +円安
→デフレ脱却
アベノミクス
金融緩和 +財政政策 +成長戦略 +円安
→デフレ脱却「デフレから脱却するために、金融・財政・為替環境を変える」という大きな方向性には共通点がある。
だから高橋是清は、しばしばアベノミクスの先駆者として語られる。
しかし、ここで終わってしまうと危険だ。
●2-14 高橋財政とアベノミクスは同じではない
まず、経済環境が違う。
高橋財政の日本は、
世界恐慌
深刻なデフレ
高失業
金本位制
輸出産業への強い依存
という状況だった。
一方、アベノミクスが始まった2010年代の日本は、
先進国として成熟した経済
少子高齢化
巨大な国内金融市場
変動相場制
低インフレ・低成長
巨大な政府債務
というまったく違う経済環境にあった。
そして何より重要なのが、「デフレから脱却する政策」と「インフレが進んだ後の政策」は同じではないということだ。
高橋財政の評価を現代に持ち込むなら、
高橋是清は積極財政をやった。
だから現代も積極財政を続ければいい。
という結論にはならない。
むしろ学ぶべきなのは、経済環境に応じて政策を変えることである。
●2-15 高橋財政の「成功」が、次の問題を生む
ここからが、この物語の本当に重要なところだ。
高橋財政によって日本経済は急速に回復していく。これは大きな成功だった。
しかし、成功したからこそ、別の問題が生まれる。
景気が回復してくる。
生産が増える。
企業収益が改善する。
税収も増えてくる。
ところが、その一方で日本国内では軍事支出をさらに拡大しようとする勢力が強くなっていた。
高橋是清から見れば、「景気回復のために必要だった財政拡大」と、「軍事拡張のための恒常的な財政拡大」は別物だった。
ここに決定的な対立が生まれる。
高橋は景気回復後、軍事費の膨張に警戒を強めていった。
軍部は、もっと軍事費を増やすことを求める。
そして1936年。その対立は、最悪の形で決着する。
二・二六事件。
高橋是清は、軍事費をめぐる政治的対立の中で、青年将校たちによって暗殺される。
●2-16 「高橋財政の成功」の次に何が起きたのか
ここで一度、第二章の流れを整理しておこう。
世界恐慌 →輸出減少・デフレ →金本位制復帰 →円高・緊縮 →昭和恐慌の深刻化 →高橋是清登場 →金本位制離脱 →円安 →金融緩和 →財政拡大 →急速な景気回復 →しかし軍事費拡大要求 →高橋是清と軍部の対立つまり、高橋是清の物語は、「不況を救った偉大な財政家」で終わらない。
むしろ、ここからが本題なのである。
高橋是清は、「財政を拡大すべき時」と「財政を抑えるべき時」の両方を知っていた。
そして、その後の日本は、この二つを区別できなくなっていく。
●第二章のポイント
昭和恐慌から高橋財政までを一言でまとめれば、「政策によって深くなった不況を、政策によって反転させた」ということになる。
金本位制への復帰そのものが悪だったわけではない。
財政規律そのものが悪だったわけでもない。
問題は、その政策が、その時点の経済環境に適合していたかだった。
そして高橋是清は、その点を理解していた。
不況のときには財政・金融を大胆に動かす。
しかし、経済が回復してくれば、政策も変える。
この「出口」の発想こそが、後の歴史において極めて重要になる。
なぜなら、高橋是清の死後、日本はまさにその逆へ進んでいくからだ。
景気回復後も軍事費を拡大する。
戦争が始まっても支出を拡大する。
財政赤字を国債で埋める。
そして国債を日銀が引き受ける。
やがて政府は、その支出を止められなくなる。
「景気を救うための積極財政」が、いつの間にか「国家そのものを戦争に投入するための財政」へ変質していく。
その転換点にいた人物こそ、高橋是清だった。
◆第三章 「高橋財政の奇跡」──日本はなぜ世界恐慌から最速級で立ち直ったのか
第二章では、昭和恐慌に至るまでの経緯を見てきた。
世界恐慌そのものに加え、日本は金本位制への復帰と円高、緊縮政策によってデフレ圧力を強めていた。
そこへ登場したのが高橋是清だった。
1931年12月、高橋は大蔵大臣に就任すると、金輸出を再禁止し、事実上の金本位制離脱へ踏み切る。
さらに金融緩和と財政支出を組み合わせた。
その結果、日本経済は驚くほど速いスピードで回復していく。
しかし、ここで重要なのは、「高橋是清が財政支出を増やしたから、日本経済は復活した」という一行で終わらせないことだ。
高橋財政の本質は、財政・金融・為替を一体として動かし、デフレによって縮んでいた経済を再び動かしたことにある。
そして、この「成功」が後に日本を大きな分岐点へ導く。
経済が回復した後、日本は二つの道を選べた。
一つは、経済成長をさらに伸ばし、平時の豊かさを追求する道。
もう一つは、回復した経済力を軍事力の拡大へ振り向ける道。
日本は後者へ傾いていく。
その分岐点を理解するためにも、まず高橋財政がどれほど強烈な効果を発揮したのかを見ておきたい。
●3-1 「恐慌の日本」から「回復する日本」へ
1931年末。
高橋是清が大蔵大臣に就任したとき、日本経済は深刻なデフレに苦しんでいた。
企業は売上が伸びない。
物価は下落する。
農産物価格も下落する。
輸出も低迷する。
銀行も企業への融資に慎重になる。
いわゆる「デフレ・スパイラル」が起きやすい状況だった。
そこで高橋は、まず経済を縛っていた金本位制から離脱した。
円の価値を金との固定的な関係から切り離し、為替レートが経済実態を反映しやすい環境を作った。
すると円は大きく下落する。
円安になると、日本製品の海外での価格競争力が改善する。
日本は輸出を通じて需要を取り戻していった。
さらに政府は積極的に支出を増やした。
金融も緩和した。
つまり、
金本位制離脱 →円安 →輸出競争力改善 →生産回復 →雇用・所得改善
+
金融緩和 →資金調達環境改善
+
財政支出 →国内需要を下支えという複数の経路を同時に動かしたのである。
●3-2 「円安」は当時の日本にとって何だったのか
現在の日本では、円安というと、
輸入物価上昇
エネルギー価格上昇
食料品価格上昇
実質所得の低下
など、ネガティブな側面が強調されることが多い。
しかし1930年代初頭の日本では、状況が違った。
当時の最大の問題の一つは、「物価が上がらないこと」だった。
物価が下落する。
企業の売上が減る。
賃金も下がる。
投資も減る。
雇用も悪化する。
さらに需要が減る。
こうした悪循環が続いていた。
そのため円安は、輸入価格を押し上げる副作用を持ちながらも、輸出産業を刺激し、国内のデフレ圧力を弱める方向に働いた。
つまり、同じ円安でも、デフレ経済とインフレ経済では意味が変わる。
これは現代の日本経済を考えるうえでも極めて重要なポイントだ。
●3-3 輸出が回復する
円安によって日本製品の国際競争力が高まると、輸出が回復していく。
日本はもともと生糸や繊維製品などを輸出することで外貨を稼いでいた。
そこへ為替環境の変化が加わる。
輸出企業の採算が改善する。
生産が増える。
工場が動く。
雇用が増える。
所得が増える。
そして、その所得が国内消費へ回る。
この循環が始まる。
つまり高橋財政は、「政府がお金を配って景気を良くした」だけではない。
為替政策によって輸出競争力を回復させ、財政政策によって国内需要を支え、金融政策によって企業や金融機関の資金繰りを改善する。
複数の政策を組み合わせたのである。
●3-4 公共事業が経済を下支えする
高橋財政では、公共事業を含む政府支出も拡大した。
不況になると民間企業は投資を控える。
家計も支出を抑える。
すると経済全体の需要が不足する。
この状態で政府まで支出を減らせば、需要はさらに縮む。
そこで政府が道路、河川、治水などの公共事業を増やす。
企業に仕事が発生する。
雇用が生まれる。
労働者に所得が入る。
その所得が消費に回る。
経済全体の需要が下支えされる。
現在の言葉で表現すれば、財政乗数を通じて総需要を押し上げる政策ということになる。
ただし、これも重要なのはタイミングだ。
需要不足のときには有効でも、経済が完全雇用に近づき、供給制約が強まった状態で同じことを続ければ、物価上昇圧力が強くなる。
高橋財政を後の戦時財政と比較する際には、ここを絶対に外してはいけない。
●3-5 日銀引き受けは「魔法の財布」ではなかった
高橋財政をめぐって、現代でも議論になるのが日本銀行による国債引き受けである。
政府が国債を発行する。
日銀がそれを直接引き受ける。
政府がその資金を支出する。
この仕組みだけを見ると、
「国債を発行して日銀に引き受けさせれば、政府はいくらでも支出できる」
ように見える。
しかし、それは高橋財政を正しく理解したことにはならない。
高橋が日銀引き受けを利用した背景には、「金融市場を通じた国債消化が困難な状況でも、財政政策を実行できるようにする」という事情があった。
そして重要なのは、引き受けた国債がそのまま永久に日銀の金庫に眠るわけではないことだ。
市場で売却するなど、金融政策との関係の中で調整されていた。
つまり、「日銀引き受け=無制限の財政支出」ではない。
むしろ高橋財政を研究する際には、「どれだけ発行したか」だけではなく、「その資金が経済のどこへ流れ、経済がどの状態にあるときに使われたのか」を見る必要がある。
●3-6 日本は世界恐慌から急速に回復する
結果は劇的だった。
日本経済は1930年代前半から急速に回復していく。
世界恐慌が続いている中で、日本は他国に先駆ける形で景気回復を進めた。
もちろん、「高橋財政だけがすべての原因だった」と単純化するのも正しくない。
世界経済そのものが徐々に底を打ったことや、軍需需要の拡大など、複数の要因が存在した。
しかし、金本位制からの離脱、円安、金融緩和、財政拡大が、日本の回復を強く後押ししたことは重要である。
日本銀行の研究でも、高橋財政期には実質GDPが急速に回復し、1930年代前半にデフレから脱却したことが確認されている。
そして日本経済が回復すると、社会の雰囲気そのものが変わっていく。
●3-7 「戦争前=貧しい日本」というイメージを疑う
戦前の日本を語るとき、「貧しい農村」「軍国主義」「物資不足」といったイメージが強い。
もちろん、農村の貧困や所得格差など、深刻な問題は存在した。
しかし、それだけでは1930年代半ばの日本社会を説明できない。
都市部では消費文化が発達していた。
百貨店が繁栄し、映画や音楽などの大衆文化が広がり、モダンガールやモダンボーイと呼ばれる都市文化の担い手も登場した。
銀座などの繁華街には洋装の女性が歩き、カフェや百貨店が都市生活の象徴となっていった。
つまり、1930年代の日本は「戦争直前だからすでに国民生活が破綻していた国」ではなかった。
むしろ経済回復によって、都市部を中心に消費社会が形成されつつあった。
ここは、後の「なぜそんな国が戦争へ向かったのか」という疑問につながる。
●3-8 輸出大国としての日本
1930年代の日本は、輸出競争力も急速に高めていた。
特に綿製品などの繊維製品は国際市場で存在感を強めた。
円安を背景に日本製品が海外市場へ大量に進出し、欧米諸国との貿易摩擦も強まっていった。
つまり、
円安 →輸出競争力上昇 →輸出増加 →工業生産拡大 →雇用増加 →所得増加 →国内消費拡大
という循環が成立していた。
これは高橋財政の重要な成果だった。
しかし、ここにも一つの落とし穴がある。
輸出が増え、工業生産が伸び、国力が高まってくると、「もっと国力を高められるのではないか」という発想が生まれる。
そして当時の日本では、その「国力」を経済的な豊かさだけではなく、軍事力として捉える勢力が強くなっていた。
●3-9 「この勢いを5~8年続ければ、一等国になれる」
この時代を象徴する言葉として、しばしば引用されるのが宇垣一成の認識である。
宇垣は、当時の日本の経済成長を見て、「この勢いを5~8年続ければ日本は世界一等国になる。戦争など始めてはならない」という趣旨の考えを示したとされる。
この言葉が示しているのは非常に興味深い。
当時の日本には、「戦争をしなければ生き残れない」という考え方だけが存在していたわけではない。
むしろ、「戦争をしなければ、日本経済はもっと強くなる」という見方も存在していた。
これは非常に重要な分岐点である。
つまり、1930年代の日本は、「戦争か、経済的衰退か」という二択だったわけではない。
少なくとも経済面では、平和を維持しながら成長する道が存在していた。
それにもかかわらず、日本は別の道へ進んでいく。
●3-10 ここで高橋是清の存在が重要になる
高橋是清は、景気を回復させるために財政を拡大した。
しかし、経済が回復してくれば話は変わる。
高橋は軍事費の膨張を警戒するようになる。
軍事費を増やせば、政府支出は増える。
軍需産業には仕事が入る。
短期的にはGDPも増えるかもしれない。
しかし、それによって民間向けの資源が圧迫されれば、経済全体の構造は変わってしまう。
鉄を軍艦に使えば、自動車や建設に使える鉄は減る。
石炭を軍需工場へ回せば、民間産業に回る石炭は減る。
労働力を軍需産業へ集中させれば、民間産業の人手が不足する。
つまり、「財政支出が増えた」という数字だけでは、経済政策の中身は分からない。
重要なのは、何に支出したのか。そして、その支出によって、経済の生産能力がどう変化したのか。である。
●3-11 「政府支出=成長」ではない
ここで、現代の経済議論にもつながる重要なポイントを整理しておこう。
政府支出が増えればGDPは増える。
これは国民経済計算上、一定の条件では当然のことだ。
しかし、GDPが増えることと、国民経済が豊かになることは完全に同じではない。
例えば、
政府が100億円を使う →軍需工場が100億円分の兵器を生産 →GDPは増えるということは起こる。
しかし、その100億円が、
道路
住宅
発電所
教育
研究開発
医療などに使われた場合と、経済に与える長期的な効果は同じではない。
さらに戦争の場合、兵器は基本的に消費される。
戦闘によって破壊されれば、民間の生産能力として残るわけではない。
したがって、「軍事支出でGDPが増えたから経済が強くなった」という単純な判断は危険である。
この視点は、後の戦時経済を分析するうえで決定的に重要になる。
●3-12 アベノミクスとの比較──「三本の矢」は高橋財政の再来だったのか
ここで再び現代へ戻ろう。
2013年以降のアベノミクスでは、
大胆な金融緩和
機動的な財政政策
成長戦略
という「三本の矢」が掲げられた。
高橋財政との共通点は明らかだ。
どちらもデフレからの脱却を目指した。
どちらも金融緩和を重視した。
どちらも円安による輸出・企業収益改善の効果を受けた。
どちらも財政政策を組み合わせた。
しかし、ここでも「同じ」と言ってしまうのは雑すぎる。
高橋財政は、金本位制という巨大な制度的制約から離脱することから始まった。
一方、アベノミクスは、変動相場制の下で、すでに低金利だった日本経済に対して、さらに金融緩和を進めたという違いがある。
また、高橋財政期の日本は若い人口が多く、工業化の途上にあり、世界市場への輸出拡大余地も大きかった。
現在の日本は人口減少・高齢化が進み、潜在成長率も当時とはまったく違う。
したがって、「高橋財政が成功したから、現代でも同じことをすれば成功する」
とは言えない。
歴史から学ぶべきなのは政策の「名前」ではなく、その政策が、どんな経済環境の中で機能したのかである。
●3-13 高橋財政の本当の成功とは何だったのか
ここまでを見ると、高橋財政の成功を単に、「GDPが増えた」「株価が上がった」「輸出が増えた」だけで評価するのは不十分だと分かる。
本当の意味で重要だったのは、経済が自律的に回復できる状態を取り戻したことである。
デフレによって企業が投資できない。
家計が消費できない。
金融機関が貸せない。
輸出も伸びない。
そんな状態から、
為替正常化 →輸出回復 →生産回復 →雇用改善 →所得増加 →国内需要回復 →税収改善という循環を作った。
つまり政府が永遠に支え続ける経済ではなく、民間経済が再び動き出すところまで持っていく。
これが高橋財政の重要な特徴だった。
●3-14 しかし「成功」は、新たな誘惑を生んだ
ここから物語が急に暗くなる。
経済が回復する。
国力が高まる。
輸出が増える。
工業生産が増える。
税収も改善する。
すると、政府の側には、「もっと使えるのではないか」という誘惑が生まれる。
特に軍部にとってはそうだった。
軍艦を増やしたい。
航空機を増やしたい。
兵器を増やしたい。
軍需工場を拡大したい。
そのためには巨額の予算が必要になる。
そして、「日本経済は回復している」という事実そのものが、軍事費拡大の根拠として利用されるようになる。
しかし、高橋是清はここでブレーキを踏もうとした。
景気回復のために財政を拡大した高橋が、「もうこれ以上、軍事費を増やすべきではない」と言い始めたのである。
ここに、高橋財政の最大の逆説がある。
●3-15 「積極財政」を始めた男が、「財政拡大」に反対する
高橋是清は、財政支出を増やした。
しかし、だからこそ財政の限界も知っていた。
景気が悪いときに財政を拡大する。
景気が回復したら抑える。
そして軍事費が経済の生産能力を圧迫するようなら、さらに警戒する。
これは、「積極財政か緊縮か」という二択ではない。
むしろ、「景気循環と経済の供給能力に合わせて、政策を変える」という考え方だった。
ところが日本は、この原則から離れていく。
1936年。その転換点が訪れる。
二・二六事件である。
●3-16 1936年──高橋是清暗殺
1936年2月26日。青年将校らが東京で武装蜂起する。
二・二六事件である。
高橋是清は自宅を襲撃され、殺害された。
享年81歳。
高橋是清の死は、一人の政治家の死というだけではなかった。
日本の財政政策にとっても大きな転換点だった。
高橋は軍事費の膨張に抵抗していた。
その高橋がいなくなる。
そして、その後、日本は日中戦争へ向かっていく。
ここから、「景気回復のための財政」と、「戦争を遂行するための財政」の境界線が急速に消えていく。
●第三章のポイント
高橋財政が教えてくれることは、単純な「積極財政礼賛」ではない。
むしろ、非常に逆説的である。
高橋是清は、不況のときには大胆に財政・金融政策を動かした。
しかし、経済が回復すると、財政の拡大を抑えようとした。
ここに重要な違いがある。
不況 →財政拡大 +金融緩和 +円安 →経済回復 →民間需要・生産回復 →政策の正常化が必要ところが高橋是清の死後、日本は別の道へ進む。
景気回復 →軍事費拡大 →日中戦争 →さらに軍事費拡大 →臨時軍事費特別会計 →財政統制の弱体化 →日銀引き受けの常態化 →戦時経済つまり、高橋財政の問題は「積極財政をやったこと」ではない。
むしろ、「積極財政を、いつまで、何のために続けるのか」という出口戦略を失ったとき、同じ財政拡大がまったく別のものに変質するということなのである。
そして、その変質を象徴する人物が、高橋是清の次に登場する。
高橋是清が殺された1936年。
翌1937年、日本は日中戦争へ突入する。
ここから日本の財政は、景気対策ではなく、戦争を継続するための巨大な仕組みへ変わっていく。
◆第四章 転換点──高橋是清の死と「戦争の財布」の誕生
第三章までで見てきたのは、ある意味で非常に皮肉な歴史だった。
高橋是清は、世界恐慌によって深刻なデフレに陥った日本経済を立て直した。
金本位制から離脱し、円相場を柔軟化する。
金融を緩和する。
財政支出を拡大する。
その結果、日本経済は世界恐慌からいち早く回復していった。
ところが、経済が回復した後、高橋是清は今度は財政支出の拡大そのものにブレーキをかけようとする。
特に問題になったのが、軍事費だった。
これは一見すると矛盾している。
「積極財政を行った高橋是清が、なぜ財政拡大に反対するのか?」
しかし、実は矛盾していない。
高橋が重視していたのは、財政を拡大することではなく、財政を経済の状態に合わせて制御することだったからである。
景気が悪ければ支える。
景気が回復すれば抑える。
そして国家の生産能力を超えて支出を膨張させない。
高橋是清の最後の仕事は、まさにこの「ブレーキ」を踏むことだった。
そして1936年、そのブレーキ役が歴史から消える。
●4-1 二・二六事件──高橋是清が殺された日
1936年2月26日。
東京で青年将校らによる武装蜂起が起きた。いわゆる二・二六事件である。
襲撃の対象となったのは、首相官邸や陸軍省など、当時の日本政治の中枢だった。
そして、その標的の一人に高橋是清がいた。
高橋は自宅で襲撃され、殺害された。
享年81歳。
高橋是清の死は、単なる一政治家の暗殺ではなかった。
なぜなら高橋は、その時点で日本の財政政策をめぐる重要な争点の中心にいたからだ。
軍部は軍事予算の拡大を求めていた。
高橋はそれに抵抗していた。
つまり、「国家は軍事費をどこまで増やせるのか」という問題をめぐって、両者は正面から衝突していた。
●4-2 なぜ軍事費をめぐって対立したのか
高橋是清は、軍事力そのものを否定していたわけではない。
日露戦争の戦費調達に携わった人物である。
国家安全保障に必要な軍事力があることも当然理解していた。
問題は、「軍事力を増強するためなら、財政上の制約を無視してよいのか」という点だった。
ここが非常に重要である。
高橋は財政を、
「国が必要だと思ったものを、必要なだけ買うための財布」
とは考えていなかった。
国家にも支払い能力がある。
国民経済にも生産能力がある。
政府が使える資源にも限界がある。
だから軍事費を増やすなら、その分だけ何かを諦めなければならない。
これは現在の経済学でいう、「機会費用」の問題でもある。
鉄を戦車や軍艦に使えば、その鉄は民間産業には使えない。
石炭を軍需工場に回せば、民間工場に回る石炭が減る。
労働者を軍需産業へ集めれば、民間企業の人手が不足する。
つまり、政府が国債を発行して資金を調達できるかどうかと、国家が実際にどれだけの物資を使えるかは別問題なのである。
高橋は、この現実を理解していた。
●4-3 「お金がある」と「物がある」は違う
ここで、戦時経済を理解するための重要な原則を一つ押さえておきたい。
政府は国債を発行できる。
中央銀行は通貨を供給できる。
しかし、お金そのものを食べることはできない。
軍隊が必要とするのは、
食料
鉄
石炭
石油
ゴム
航空機
船舶
弾薬
輸送能力
労働力
である。
これらは紙幣を印刷するだけでは増えない。
だから政府が大量の通貨を供給して軍需産業に支出すれば、軍需品を作るための資源が軍事部門へ移動する。
その結果、民間部門に残る資源が減る。
経済全体の供給能力を超えて需要だけが膨らめば、物価上昇圧力が強くなる。
この構造は、戦時経済を考えるうえで極めて重要である。
●4-4 高橋是清が恐れていたもの
高橋が恐れていたのは、単なる「赤字」ではなかった。
政府の赤字そのものは、景気対策として必要になることもある。
問題は、赤字が何のために、どこまで膨張するのかである。
景気が落ち込んでいる。
民間需要が不足している。
失業者が多い。
工場の設備が余っている。
この状態なら、政府が支出を増やしても、比較的インフレ圧力は弱い。
余っている生産能力を使えるからだ。
しかし、
景気回復 →生産能力が限界に近づく →それでも政府支出を拡大 →軍需が民間資源を吸収 →物資不足 →物価上昇
となれば、同じ「財政拡大」でも意味はまったく違ってくる。
高橋是清は、その境界線を意識していた。
だからこそ、経済が回復した1930年代半ばには、軍事費の急増に警戒を示したのである。
●4-5 高橋財政から「戦時財政」へ
ここで、これまでの流れを一度整理してみよう。
昭和恐慌 →深刻なデフレ →高橋是清 →金本位制離脱 →金融緩和 →財政支出拡大 →経済回復 →軍事費拡大要求 →高橋が抑制 →二・二六事件 →高橋是清暗殺
ここから先、日本の財政政策は大きく変わっていく。
それは、「景気を回復させるための財政」から、「戦争を遂行するための財政」への転換だった。
この違いは、単なる言葉の違いではない。
政策目的そのものが変わったのである。
●4-6 1937年、日中戦争が始まる
高橋是清が暗殺された翌年、1937年。
盧溝橋事件を契機として日中戦争が本格化する。
ここから日本の軍事支出は急速に膨張していく。
そして政府は、通常の予算制度だけでは戦争遂行に必要な支出を処理できないと判断する。
そこで登場するのが、臨時軍事費特別会計である。
この制度が、後の日本の財政史を考えるうえで非常に重要になる。
●4-7 「臨時」のはずだった特別会計
普通の国家予算には、基本的なルールがある。
毎年度、
どれだけ税収があるのか
何にいくら使うのか
どれだけ国債を発行するのか
を決める。
そして国会が審議する。
これは単なる形式ではない。
政府が国民から徴収した税金や、国民の信用を利用して調達した資金を、誰が、どのような目的で、どれだけ使うのかを政治的にチェックする仕組みだからである。
ところが戦争が始まると、「通常の予算では間に合わない」という理由が出てくる。
そこで作られたのが臨時軍事費特別会計だった。
名前の通り、戦争遂行のための特別な財布である。
当初は「臨時」だった。
しかし戦争が長期化すると、その財布は閉じられなかった。
むしろ年々巨大化していく。
●4-8 単年度主義が持っていた意味
ここで、現代の財政議論とつながる。
現在、
「単年度主義は古い」
という議論がある。
確かに、研究開発やインフラ整備など、複数年度にわたる事業について、毎年ゼロから予算を組み直すことには非効率な面がある。
そのため基金や複数年度の予算措置には合理性がある。
しかし、単年度主義がなぜ存在するのかを忘れてはいけない。
単年度で区切ることには、「一度決めた支出を永久に続けないためのブレーキ」という意味がある。
毎年、「本当に必要なのか?」を問い直す。
「昨年より増やす必要があるのか?」を確認する。
「成果は出たのか?」を検証する。
つまり単年度主義は、単なる行政上の面倒なルールではない。
財政を政治的にコントロールするための仕組みでもある。
●4-9 戦争が「予算の例外」を生み出す
戦争には緊急性がある。これは否定できない。
敵が攻めてきているとき、「来年度の予算審議まで待ちましょう」というわけにはいかない。
だから戦時には、通常時とは違う財政制度が必要になる。
問題は、例外がいつまで続くのかである。
「戦争だから例外」が、「戦争が続いているから例外」になり、さらに、「戦争を続けるためには例外が必要」となる。
すると、例外が恒常化する。
これが制度上の非常に危険なポイントである。
臨時軍事費特別会計は、まさにその構造を持つことになった。
●4-10 巨大化する「戦争の財布」
臨時軍事費特別会計によって、戦争遂行に必要な巨額の支出を、通常会計とは別枠で処理できるようになった。
もちろん、戦争そのものが巨大な支出を必要とする。
しかし重要なのは、予算制度の外側に巨大な支出領域が形成されたという点である。
そして戦争が拡大すればするほど、その財布も膨らむ。
戦争 →軍事費増加 →特別会計拡大 →さらに軍需調達 →生産資源を軍事部門へ集中 →民間物資不足 →さらに統制 →さらに政府支出という循環が形成されていく。
ここで財政は、経済を支えるための政策手段から、国家総動員を実現するための装置へ変わっていく。
●4-11 軍事費が経済のどこまでを占領したのか
戦争が拡大するにつれて、軍事費は国家経済の中で巨大な割合を占めるようになる。
松元崇氏『持たざる国』では、軍事費のGNP比が、
1936年:約5.6%
1941年:約27.9%
終戦前:約98.7%
まで上昇したとされる。
この数字は、そのまま単純比較するには統計上の注意が必要だが、少なくとも戦時下で軍事部門が経済全体を圧倒する規模へ拡大したことを示す重要な指標である。
ここで考えてほしいのは、「軍事費が100%近くになる」とは、国家が豊かになることなのかということだ。
答えは当然、そう単純ではない。
経済活動が軍需に集中しているだけなら、それは民間生活の豊かさを意味しない。
むしろ、
軍需増加 →鉄・石炭・労働力を軍事部門へ →民間産業の資源減少 →生活物資不足 →配給・統制ということが起こる。
つまりGDPの数字だけを見れば、経済活動が活発に見えても、国民が使えるモノやサービスが減っている可能性がある。
●4-12 戦時経済の本当の制約は「お金」ではない
ここで、本稿全体を通じて重要になる原則をもう一度確認しておこう。
政府が自国通貨建て国債を発行できる。
中央銀行が国債を買える。
だからといって、
鉄が増えるわけではない。
石油が増えるわけでもない。
食料が増えるわけでもない。
労働力が突然増えるわけでもない。
つまり、財政には名目的な制約と実物的な制約がある。
名目的には、「自国通貨を発行できる政府は、支払い不能になりにくい」
という議論が成立する。
しかし実物面では、「その通貨で買える物資が存在するのか」という別の制約がある。
戦時日本は、この実物制約に猛烈な勢いでぶつかっていく。
●4-13 「国債を発行すれば資源が増える」わけではない
例えば、政府が1000億円の国債を発行して軍需産業へ支出したとする。
軍需企業はそのお金で、
鉄
石炭
労働力
輸送
機械
を確保する。
しかし日本経済に存在する鉄や石炭、労働力の量が変わらなければ、軍需産業がより多く確保した分だけ、民間産業が使える量は減る。
そこで政府がさらに支出を増やす。
すると、より多くのお金が、同じ量の物資を追いかけることになる。
これがインフレ圧力につながる。
そして、「物価が上がったから価格を固定しよう」と価格統制を始める。
すると表面上の価格は抑えられる。
しかし物資そのものが増えたわけではない。
その結果、
配給
品不足
闇市場
低品質化
実質的な購買力低下
などが発生する。
つまり、価格を固定しても、資源不足は消えない。
●4-14 ここで「財政ガバナンス」が問題になる
この段階になると、問題は単なる経済政策ではなくなる。
政府がいくら使ったのか。
何に使ったのか。
どこから資金を調達したのか。
その支出によって何が犠牲になったのか。
これを国民と国会が検証できなければ、財政政策は制御不能になる。
だから財政には、「使えるか」だけでなく、「誰がチェックするのか」という問題がある。
これが財政ガバナンスである。
戦前日本の問題は、単に軍事費が増えたことだけではない。
軍事費を増やす仕組みそのものが、「止めにくい仕組み」へ変化していったことにある。
●4-15 現代の「基金」と戦前をどう比較するか
ここで現代の政策に目を向けてみよう。
近年、日本では基金を使った複数年度の政策が増えている。
高市政権も、長期的な政策や投資を実行するために、単年度主義を柔軟化する方向を重視している。
これは、それだけで戦前と同じだという話ではない。
ここは明確に区別しなければならない。
現代日本には、
選挙
国会
会計検査
情報公開
独立した司法
財政法制
市場による国債評価
中央銀行制度
など、戦前とは異なる制度が存在する。
したがって、「基金を使う=戦前の臨時軍事費特別会計」という比較は成立しない。
しかし、歴史から学べる論点はある。
それは、「単年度の予算審議から外すなら、その代わりに何でチェックするのか」という問題である。
複数年度予算そのものが悪いわけではない。
むしろ長期投資には合理性がある。
問題は、
複数年度化 + 情報公開不足 + 成果検証不足 + 予算の膨張 + 終了条件の不明確さが重なったときである。
そこで初めて、財政ガバナンス上の危険が大きくなる。
●4-16 「柔軟な財政」と「止められない財政」は違う
これは現代の財政議論で非常に重要な区別である。
例えば、「10年間で研究開発に1000億円必要だ」という政策があるとする。
毎年100億円ずつ予算化するより、基金を作って長期的に支援した方が効率的な場合もある。
これは合理的だ。
しかし、その場合でも、
目的
金額
期間
支出条件
成果指標
中間評価
終了条件
を明確にする必要がある。
つまり、単年度主義を緩めるなら、ガバナンスを強めなければならない。
これが重要なのである。
戦前日本から学ぶべきなのは、「単年度主義を絶対視しろ」ということではない。
むしろ、「予算を柔軟にするほど、監視と透明性が必要になる」という原則だ。
●4-17 そして戦争は、財政の目的そのものを変えた
1937年以降、日本経済はさらに戦争へ組み込まれていく。
ここで最も重要なのは、「政府がたくさんお金を使った」という事実ではない。
政府支出の目的が、景気回復から、戦争遂行へ変わったことである。
景気回復なら、最終的な目的は民間経済の自立的な回復だ。
しかし戦争遂行なら、目的は軍事力の維持・拡大になる。
すると、「民間経済を豊かにする」という目的より、「軍事的に必要なものを確保する」ことが優先される。
その結果、経済の論理そのものが変わる。
●4-18 高橋是清がいなくなった後
ここで改めて、高橋是清の死の意味を考えてみたい。
高橋財政は、財政・金融・為替を組み合わせて日本経済を立て直した。
しかし高橋は、「財政には限界がある」ことも理解していた。
そして軍事費が急拡大すれば、その限界を超えると警戒した。
ところが1936年、高橋は殺された。
翌1937年、日本は日中戦争へ突入する。
そして「臨時軍事費特別会計」という巨大な戦争用の財布が作られる。
ここから日本は、「どうすれば経済を回復させられるか」ではなく、「どうすれば戦争を継続できるか」という問いに経済政策を従属させていく。
この違いは極めて大きい。
●4-19 「亡国への道」はここから始まる
松元崇氏『持たざる国』が問題にしているのも、まさにこの部分である。
日本は戦争に負けた。
だから経済が破綻した。
だから戦後インフレが起きた。
この説明だけなら、経済破綻の原因は「敗戦」という外部ショックにある。
しかし、もし実際には、敗戦より前から財政・金融・通貨の制御能力が失われていたのだとしたら、話は変わってくる。
戦争は原因ではなく、すでに進んでいた経済政策上の問題を極限まで増幅したものだった可能性がある。
その検証をするには、次に、通貨政策を見なければならない。
なぜなら、財政だけでは国家経済は動かないからだ。
政府が巨額の支出を行うなら、その裏側には必ず、「そのお金をどうやって調達するのか」という問題がある。
そして日本は、中国大陸での戦争を拡大する過程で、非常に危うい通貨政策へ踏み込んでいく。
●第四章のポイント
高橋是清の死は、戦前日本の経済史における大きな分岐点だった。
高橋財政は、不況 → 財政・金融緩和 → 景気回復という政策だった。
しかし、その後の日本は、景気回復 → 軍事費拡大 → 戦争 → さらに軍事費拡大という道へ進んだ。
そして、そのために作られたのが臨時軍事費特別会計だった。
ここで重要なのは、特別会計そのものが悪なのではない。
戦争のような非常事態に特別な財政制度が必要になることには合理性がある。
問題は、例外的な制度が長期化し、規模が拡大し、通常の財政統制から離れていくことにある。
この問題は現代にも通じる。
基金や複数年度予算も、それ自体が悪いわけではない。
しかし、柔軟性を高めるなら、同時に透明性・成果検証・終了条件を強化しなければならない。
そうでなければ、「長期投資のための制度」が、「誰にも止められない財布」へ変わってしまう。
そして戦前日本では、まさにそのような財政膨張が戦争と結びついていく。
次章では、いよいよその財政をさらに支えた「通貨」に踏み込む。
政府が国債を発行する。
軍需産業へ資金が流れる。
しかし、戦争を続けるには外国から資源を買わなければならない。
そこで重要になるのが、円、占領地通貨、外貨、そして為替レートだった。
通貨の価値を政策的に固定すれば、何が起きるのか。
そして、その「固定」がなぜ巨大な裁定取引を生み、日本の外貨を流出させることになったのか。
次章では、松元崇氏『持たざる国』の中でも特に刺激的な論点である、「通貨政策の傲慢」を検証していく。
参考文献・引用資料
松元崇『「持たざる国」への道――「あの戦争」と大日本帝国の破綻』
大木毅『日独伊三国同盟――「根拠なき確信」と「無責任」の果てに』
日本銀行「高橋是清」に関する人物・金融史資料
日本銀行金融研究所 高橋財政、昭和恐慌、金本位制、国債の日銀引き受けに関する研究資料
国立国会図書館「高橋是清」に関する人物・近代日本政治史資料
※本文では、上記資料をもとに、高橋是清の経歴、日露戦争時の外債募集、昭和恐慌、高橋財政、金本位制離脱、日銀による国債引き受け、軍事費拡大、戦時財政などについて整理・考察しています。
※松元崇氏『「持たざる国」への道』からは、戦前日本の財政・通貨・国際収支・戦時経済の構造、および軍事費の拡大に関する議論を主に参照しています。
※大木毅氏『日独伊三国同盟』からは、戦前日本の対外政策・軍事政策における意思決定過程、政策判断を支えた「根拠なき確信」と責任構造について主に参照しています。
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