マイルスとギターの世界─ 《第二回:ジョンマクラフリン篇》
「マイルスの片腕にして、ジャズの歴史を変えた男」
2026年、マイルスデイヴィス生誕100周年を記念し、過去にマイルスのバンドに参加した門下生ギタリストを紹介してまいります。その第一弾として、今回はジョンマクラフリンをフィーチャー。帝王マイルスとの衝撃的な出会いやバンド加入の真実、そしてジミヘンドリックスとの凄まじいセッションの全貌など、彼らの関係性の深層を紐解いていきます。
1. 帝王マイルスとマクラフリンの運命の出会い
イギリスが生んだ驚異的なテクニシャンであり、ジャズの高度な和声理論とロックの野生的なダイナミズムを融合させた至高のギタリスト、ジョンマクラフリン。1942年、イギリスのヨークシャーに生まれた彼は、ロンドンのセッションシーンで腕を磨いた後、1969年2月に運命の転機を迎える。イギリスの無名ギタリストにすぎなかったマクラフリンは、天才ドラマーであるトニーウィリアムスに誘われ、彼が新たに結成するバンド「ライフタイム」に加入するためにアメリカのニューヨークへと渡った。
ニューヨークに到着したその夜、トニーはマクラフリンを連れて、マイルスデイヴィスが演奏していたジャズクラブを訪れる。そこで紹介されたマイルスは、マクラフリンを一瞥すると、あの独特のハスキーボイスでこう言い放った。 「明日、午前10時にスタジオに来い」
マクラフリンは何の曲をやるのか、自分が何をすればいいのかも一切知らされないまま、アメリカに到着した翌朝、歴史的名盤『In a Silent Way』のレコーディングスタジオに立たされることになった。
スタジオに入ったマクラフリンは、ハービーハンコックやウェインショーターといった巨匠たちに囲まれ、極度の緊張の中にいた。マイルスが提示した新曲の譜面を見たマクラフリンは、その複雑なコード進行に戸惑いを隠せない。彼が「マイルス、これはどう弾けばいいんだ?」と尋ねると、マイルスはジャズ史に残る有名な謎の指示、まさに禅問答のようなディレクションを出した。
「ギターを弾けないようにギターを弾くんだ」
(Play it like you don't know how to play guitar.)
この指示にパニックになりかけたマクラフリンだが、最終的には開き直り、「ギターを始めたばかりの子供のような、最もシンプルで無垢なアルペジオ」を即興でポロポロと鳴らした。これを聞いたマイルスは「それだ!」と叫び、すぐにレコーディングの赤いランプを点灯させた。こうしてマクラフリンが手探りで弾いたピュアなギターの音が、アルバムの冒頭を飾る伝説的なテイクとなったのである。

2. 絶対的存在ジミヘンと先行者ラリーコリエルの恐怖
1960年代末におけるジャズ界の地殻変動は、マイルスが一人で歴史を進めたわけではない。「ジミヘンドリックスという絶対的な太陽」の周囲にいたラリーコリエルやジョンマクラフリンといったギタリストたちが、ジミのエネルギーを直接浴びてジャズ界に持ち込み、それをマイルスが嗅ぎ取って自身の音楽を爆発させたというのが歴史のリアルな構造である。
マクラフリンより1年早くジミと接触していたラリーコリエルには、1968年5月の名曲「Voodoo Chile」の録音現場において、ジャズ史に残る有名な逸話がある。スタジオにいたコリエルに対し、ジミは「おい、ラリー、お前も一緒にギターを弾けよ」と声をかけた。しかし、コリエルは参加を辞退した。彼は自伝の中で、当時の心境をこう振り返っている。 「朝の7時半だった。ジミに一緒に弾こうと言われたけれど、人生で初めて『いや、断る』と言ったよ。あそこで俺が付け足せるものは何一つなかったからだ。ジミ、お前がもうすべてのギターを弾ききっていたんだ」
また、別のジャムセッションでは、コリエルが調子に乗ってネックの上を縦横無尽に超高速で弾きまくり、高度なジャズのテクニックを見せつけた。その場を目撃していたソフトマシーンのロバートワイアットは、その後の光景をこう生々しく証言している。 「コリエルは愚かにもジミとテクニックの勝負(ギターバトル)を始めようとしたんだ。コリエルは指板の上を縦横無尽に、超高速で10分間も弾きまくってジャズの高度な技を見せつけた。次にジミがソロのステップ前に出てきて、アンプのボリュームを上げ、『バウォーーーン!』と強烈なフィードバックノイズを1音だけ鳴らした。その一発の音だけで、コリエルが過去10分間で弾いたすべての小賢しい音符が消し去られてしまったんだ。まるで火炎放射器に向かって歩いていくようなものだった。愚かな挑戦だったよ」
コリエルはこの時、ジャズの小賢しいテクニックはジミの圧倒的な「音の壁」の前には無力であると思い知らされ、自身のプレイスタイルをよりロック的、あるいはファンク的なダイナミズムへとシフトさせていくことになる。
しかし、ジミの側もまた、彼らの持つジャズの知性を貪欲に吸収しようとしていた。セッション前のウォームアップ中、コリエルがジョニースミスから学んだ3オクターブを駆け上がる超高速のメジャーセブンスアルペジオを弾いて見せると、ジミは目を輝かせて「おい、今のカッコいいな!もう一回やってくれ!」と大喜びし、そのコード感や運指を熱心に学ぼうとしていたという。


3. 天才同士の知性と野生の交錯
ジミヘンドリックスは、マクラフリンがイギリスからアメリカに渡る直前の1969年1月に録音したファーストソロアルバム『Extrapolation』を聴いており、その洗練された和声や複雑なコード進行に深い興味を抱いていた。ジミはマクラフリンの「超高速なランでありながら、バックの複雑なコード進行に完璧に調和していく圧倒的なハーモニーの知識」にひどく感銘を受けていたのである。
ジミのバンドのドラマーであり、イギリス時代からマクラフリンの友人だったミッチミッチェルが「イギリスからとんでもないジャズギタリストが来ている」と紹介した際、ジミは「彼(マクラフリン)がやっているようなジャズのアプローチを、俺のロックのダイナミズムと融合させたらどうなるだろう」と周囲に楽しげに語っていた。
1969年3月25日、ニューヨークのレコードプラントスタジオにて、二人の直接のセッションが実現する。当時、本当にお金がなかったマクラフリンは、お気に入りの高級エレキギターを売却してしまっており、手元にあったのは安価なギブソンのアコースティックギター(ハミングバード)だけだった。これに無理やり後付けのピックアップを装着して持ち込んだマクラフリンは、ジミのマーシャルアンプとバディマイルズのドラムが鳴らす超爆音ブギウギの中で、プラグインした瞬間に凄まじいハウリングを発生させてしまう。本人は後年、この機材トラブルをこう振り返る。 「当時、本当にお金がなくてエレキギターを持っていなかったんだ。アコースティックギターに無理やりピックアップを付けたものしかなくて、ジミのマーシャルアンプの爆音に繋いだ瞬間、もの凄いハウリングが起きてコントロール不能になった。でもジミは本当に優しくて、僕を温かく迎えてくれたよ」 「あのセッションには絶対にソリッドボディ(エレキギター)が必要だったんだ!」
しかしジミは、そんなマクラフリンをバカにするどころか、非常に実直に対応した。マクラフリンはジミの人間性を「非常に謙虚で、優しく、気取らない最高の男だった」と絶賛している。ジャムの合間の休憩時間、マクラフリンがいくつかのジャズのコードボイシングを指板上で弾いて見せると、ジミは真剣な眼差しで見つめ、「それをどうやって弾いているんだ?」「そのコードの響きはどういう仕組みなんだ?」と熱心に質問してきた。マクラフリンは後年、こう語っている。 「ジミはエフェクターや爆音のイメージが強いが、実際は他のミュージシャンの新しいアプローチを吸収しようとする、極めてオープンで謙虚な音楽家だった」
面白いのは、マイルスがこの二人の接近を敏感に察知し、強い嫉妬心を抱いていた点である。マイルスはスタジオでマクラフリンに対し、「ジミヘンみたいに弾け!」と指示を出す一方で、「あいつ(ジミ)の真似をするな、お前自身のままでいろ」という、矛盾した複雑なディレクションを行っていた。

4. トニーウィリアムスとの確執とヘッドハンティング
ジミとのセッションからわずか2ヶ月後の1969年5月、トニーウィリアムスライフタイムの『Emergency!』の録音に向かったマクラフリンのサウンドは、完全にロックの凶暴なエレクトリックギターへと変貌を遂げていた。このあまりの破壊力を耳にし、「これだ!俺が探していたサウンドはこれだ!」と狂喜乱舞したのがマイルスであった。
しかし同時に、マイルスは凄まじい嫉妬と危機感を覚えた。マイルスは自伝の中で、自分がまだ静的なアプローチにとどまっていた段階で、17歳で自分が大抜擢し実の子のように可愛がってきた元子分のトニーに、先を越された悔しさを率直に白状している。 「トニーのやつ、俺より先にやりやがった」 「あのサウンドは、本来なら俺のバンドが真っ先に鳴らすべき音だった」
マクラフリンの才能に完全に惚れ込んだマイルスは、トニーに「ジョンを俺のバンドにくれ」と要求し、強引な引き抜きに動く。マイルスはトニーのバンドのライブに堂々と現れ、客席の最前列でマクラフリンのプレイを凝視した。そしてライブ終了後、楽屋に乗り込んでリーダーであるトニーの目の前で、マクラフリンに向かって直接交渉を始めた。 「おいジョン、お前はいくら稼ぎたいんだ? 金ならいくらでも出す。俺のバンドに来い」
これにトニーは激怒した。「僕がイギリスから連れてきたんだぞ!」とマイルスに猛抗議し、スタジオや楽屋で怒髪天を突く勢いで叫んだ。 「マイルス、あんたは僕の師匠だけど、これだけは許さない! ジョンは僕がイギリスから連れてきた僕のギタリストだ!」
この事件は二人の間に大きな亀裂を生んだ。マクラフリン自身もトニーへの恩義を感じていたため裏切れず、さりとて帝王からの誘いも断れず、「昼はマイルスのレコーディングに参加し、夜はトニーのライフタイムでツアーやギグをこなす」という限界に近い二重生活を数ヶ月間送ることになる。マイルスは後年、自伝の中でトニーへの悪さを認めつつも、自身の冷徹な音楽至上主義をこう語っている。 「音楽のためには、誰のどんなバンドからでも最高のプレイヤーを奪うのが俺のやり方だ」

5. エレクトリックマイルスの頂点とスタジオのハプニング
マイルスはマクラフリンを「俺がそれまで聴いた中で最高のギタリスト」と絶賛し、彼の野生的なギターを触媒にして『Bitches Brew』のセッションへ臨んだ。
スタジオでマイルスは完成された譜面をほとんど渡さず、マクラフリンが「どこを弾けばいいのか」と尋ねると、「自分の耳を信じて、周りの音に反応しろ」とだけ告げ、その瞬間の即興を引き出す心理戦を仕掛けた。セッション中、マイルスがスタジオを離れてコントロールルーム(副調整室)に入り、残されたメンバーだけでマクラフリン主導の即興ジャムセッションが始まった。そのトラックがあまりにも素晴らしかったため、マイルスはこれをそのままアルバムに収録することを決定し、リスペクトを込めて「John McLaughlin」という彼の名前そのものをタイトルとして命名した。
さらにロック色の強い1970年の名盤『Jack Johnson』に収録された「Right Off」の冒頭は、完全なハプニングから生まれている。あの激しいロックリフは、「レコーディングが始まる前の、ただの待ち時間の退屈しのぎ」で弾いていたものだった。
マイルスがスタジオにまだ現れていない時間、待ちくたびれたマクラフリンが、ファンキーなEコードのリフを突然大音量で弾き始め、それにビリーコブハムとマイケルヘンダーソンがノリで合わせた。この演奏の尋常ではない熱量に気づいたプロデューサーのテオマセロは、メンバーに何も言わず密かに録音ボタンを押した。数分間、ギタートリオによる凄まじいジャムが続いたところで、隣の部屋にいたマイルスがトランペットを持ってスタジオに飛び込んできた。あまりのカッコよさに興奮したマイルスは、そのままの勢いで歴史的なトランペットソロを吹き放ったのである。

6. 機材テクノロジーの獲得と新たなる旅立ち
マクラフリンはイギリス時代から、伝統的なジャズギターの優しく丸いトーンに限界を感じ、ジョンコルトレーンのサックスのような空間を切り裂く表現を渇望していた。その理想を体現していたジミから、多くの音響の魔法を盗み取った。
マクラフリンは後年のインタビューで、ジミの足元のエフェクターについてこう大絶賛している。 「ジミはギター界における『一人の人間による革命(One-man revolution)』だった。彼がワウペダルとマーシャルアンプだけでやっていたことは、本当に信じられないレベルだったんだ」
ジミのマーシャルアンプによるドライブ感や、人間の声のように咽び泣くワウペダルの表現力を完璧にジャズへ移植したマクラフリンは、かつてジャズ界で忌み嫌われていた「歪み(ディストーション)」に対する認識を根底から変えた。 「ジミのおかげで、ジャズギタリストが音を歪ませてアグレッシブに弾くことへの『罪悪感』が完全に消え去った。あれはノイズではなく、現代の新しいエレクトリック楽器のトーンなんだと教えられた」
マクラフリンの才能が完全に開花したのを見たマイルスは、1970年後半、彼にこう告げて背中を押した。
「もう俺のバンドにいる必要はない。お前は自分のバンドを始める準備ができている」
この言葉を受けて1971年に結成されたのが、伝説の超絶技巧ジャズロックバンド「マハヴィシュヌオーケストラ」である。マクラフリンは後年、「マイルスは僕の父親のような存在であり、音楽人生のすべてを教えてくれた」と深い感謝を語っている。
この影響とリスペクトは、10年後の1979年、ラリーコリエル、パコデルシアとのアコースティックギタートリオ結成へと美しい伏線回収を見せる。コリエルは後年、マクラフリンとステージに立った時のことをこう回想している。
「1960年代末、僕らはジミヘンという同じ太陽の周りを回っていた。お互いにジミから盗んだエネルギーをジャズに持ち込もうとしていた戦友だからこそ、10年経っても言葉を交わさずに最高のギターバトルができたんだ」
若き天才たちがジミヘンから持ち帰った「本物のエネルギー」を、力ずくで奪い取って自分の燃料にする最高の捕食者であったマイルス。その帝王の傍らで、知性と野生を限界までデッドヒートさせたギタリストたちのドラマこそが、エレクトリックジャズ誕生の真実の姿なのである。

ジミヘンという転換点:コリエルとマクラフリンのプレイスタイルが変えたJAZZとマイルスの歴史
ジミヘンとのセッション前とセッション後の主なタイムライン
【録音年・日】 【出来事・関連作品】 【スタイル】
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1967年4月録音 Gary Burton / Duster モダンジャズ
1968年6月22日 コリエルとジミヘンのセッション ???
1969年1月録音 John McLaughlin / Extrapolation モダンジャズ
1969年2月録音 Miles Davis / In A Silent Way モダンジャズ
1969年3月25日 マクラフリンとジミヘンのセッション ???
1969年4月発表 Larry Coryell / Lady Coryell ジャズロック
1969年5月録音 Tony Williams / Emergency! ジャズロック
1969年8月録音 Miles Davis / Bitches Brew ジャズロック
1970年2-4月録音 Miles Davis / A Tribute to Jack Johnson ジャズロック
1971年発表 Mahavishnu Orchestra / Inner Mounting Flame ジャズロック
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1969年2月の『In A Silent Way』から、わずか半年後の『Bitches Brew』へ。とても同じ年の録音とは思えないほどマイルスのサウンドが激変した背景には、明確なファクトが存在する。
ジミヘンドリックスという破格の個性の登場は、ラリーコリエルやジョンマクラフリンといった感度の高いジャズギタリストたちを直撃し、そのプレイスタイルを決定的に変貌させた。彼らがジミから吸収したエレクトリックのダイナミズムや音響的なアプローチをジャズの世界へと持ち込み、その劇的な変化をマイルスデイヴィスが鋭敏に捉えて自らのバンドへと反映させていった。エレクトリック期のマイルスの進化、そしてジャズの歴史の大きな転換点は、これらギタリストたちの覚醒と地続きのファクトとして存在している。つまりジミヘン→ジャズギタリスト→マイルス→ジャズ史を変えた、と言っても過言ではない。
次回も引き続き「マイルス門下生ギタリスト」続編をお送りします!
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