マイルスとギターの世界─《第三回:ピート コージー篇》
引き続き、マイルスデイヴィス生誕100周年を記念し、過去にマイルスのバンドに参加した門下生ギタリストを紹介してまいります。
ジミヘンが「追っかけ」をしていた怪物
のちにマイルス デイヴィスをして「ジミ ヘンドリックス以降、最も過激なギタリスト」と言わしめ、帝王の魂を燃やし尽くした最後の劇薬となった怪物、それがピート コージーである。
1970年代中期、マイルス率いるエレクトリック バンドは、ジャズの歴史の中で最もラウドで凶暴な「ヘヴィ ファンク ロック」を展開していた。その混沌と狂気の中心に立ち、当時のアルバム『Agharta(アガルタ)』や『Pangaea(パンゲア)』で凄まじい歪みとノイズを撒き散らした彼の活動期には、「狂気的」とも言える逸話が多数残されている。帝王の命を削り、その魂を極限まで煽り立てた男の知られざる正体と、その全貌を紐解いていく。
1. マイルスが明かした「ジミがピートを追いかけていた」という事実
ロック界の頂点に君臨したジミ ヘンドリックスと、ジャズを破壊したノイズ狂ピート コージー。この二人の間には、知られざる初期の関係性があった。ジミがブレイク前、若き日のピート コージーの追っかけ(ファン)をしていたという逸話は、単なる噂ではなく事実である。
1975年にマイルスが来日した際、音楽雑誌のインタビューでピート コージーについて次のように語っている。 「ピート コージーは大変に長い経験を積んだミュージシャンだ。亡くなったジミ ヘンドリクスなんかは、昔はよくこのピートの後を追っかけていたんだ。彼の音楽的才能はまぎれもなく素晴らしいものだ」 マイルスがジミの死後、その幻影の代わりとしてコージーを大抜擢したのは、単にスタイルが似ていたからではなく、「ジミが手本にしていた男」という事実を知っていたからであった。
2. クラブに通い詰めていた無名時代のジミ
ピート コージー本人の証言(音楽サイト『The Last Miles』などのインタビュー)によると、二人の出会いは1960年代前半、ジミがまだ「ジミー ジェームズ」と名乗って無名のセッション ギタリストをしていた頃に遡る。当時、コージーはフェニックスやシカゴのR&Bシーンで凄腕ギタリストとして活動していた。そこへ、まだ自身のバンドを持つ前だったジミ(当時はジョニー ジェンキンス&ザ カジュアルズなどのバンドに在籍)が、コージーの演奏を聴くために彼が出演するクラブへ頻繁に足を運び、客席から熱心に指の動きを見つめていたという。
3. ジミがコージーから盗んだ「クレイジーなトリック」
ジミ ヘンドリックスといえば「歯でギターを弾く」「背中に回して弾く」といった、破天荒なステージ パフォーマンスで世界を揺るがしたが、これらは当時の黒人ブルースやR&Bギタリストたちの間で受け継がれていたエンターテインメントの技術であった。コージーのバンドにはアルヴェスター ジェイコブス(通称ピッグ)という、歯や頭の後ろでギターを弾く天才的なショーマンがいた。客席にいたジミは、コージーたちのブルース フィーリングと、そのクレイジーなパフォーマンス技術をすべて吸収し、のちにイギリスへ渡って大爆発させたのだ。コージーは「ジミは僕たちのバンドから、たくさんのショースタイルやトリックを学んでいったんだ」と語っている。
4. 歴史の逆転:マディ ウォーターズの『Electric Mud』での再会
その後、ジミは1967年に世界的な大スターとなる。一方のコージーは、チェス レコードの専属セッションマンとして裏方で腕を振るっていた。1968年、ブルースの巨匠マディ ウォーターズが、大ヒットしていたジミ ヘンドリックスのサイケデリック ロックに対抗すべく、問題作『Electric Mud』というアルバムを制作する。このアルバムで、「ジミ ヘンドリックス風のファズまみれの凶暴なギターを弾いてくれ」と頼まれたのが、皮肉にもジミに影響を与えた張本人であるピート コージーであった。
コージーがこのアルバムで見せた、ジミ以上に過激でヨレヨレなサイケデリック ブルース ギターが、のちにマイルス デイヴィスの耳に留まり、あの『Agharta』の狂気へと繋がっていくことになる。若き天才たちが同じ黒人音楽 of コミュニティで刺激し合い、お互いのトリックを盗み合っていた時代の、熱く面白い史実である。

ステージを戦慄させた4つの狂気的逸話
ジミをも虜にしたその圧倒的なポテンシャルは、1973年にマイルス バンドへと合流したことで、完全にタガが外れたサイケデリック ノイズへと変貌を遂げる。当時のステージで繰り広げられた、常軌を逸したパフォーマンスの数々を紹介する。
1. 床に寝そべり、テーブルを叩いてノイズを出すステージ
ピート コージーのステージ パフォーマンスは視覚的にも異様であった。巨漢に長い顎髭を蓄え、奇抜な衣装をまとった彼は、演奏中に突如ギターを持ったままステージの床に仰向けに寝そべるのである。そして、エフェクターを並べた特製の小さなテーブルの前に寝転んだまま、手でエフェクターのノブを高速で回したり、叩きつけたりして、およそ楽器とは思えない爆音の宇宙的ノイズを鳴らし続けた。この予測不能なパフォーマンスは、主役であるマイルスさえも圧倒したとされている。

2. 独自の「変則チューニング」と謎のエフェクター群
彼の出すサウンドの狂気さは、誰も真似できない独自のセッティングにあった。コージーはギターのチューニングを一般的なものとは全く異なる独自の変則チューニング(一説には調弦すらしていないランダムな状態)に設定していた。さらに、当時としては最先端かつ異例の組み合わせ(サスティナー、ワウペダル、リングモジュレーターなど)を何台も直列で繋ぎ、意図的に回路を過負荷にさせて凶暴なファズ サウンドを生み出していた。共演したメンバーですら、彼が次にどんな音を出すのか全く予測できなかったという。
3. マイルスを煽り立てる「ギターの爆音」
マイルスは通常、自身のバンドメンバーに対して厳格なコントロールを求めるが、コージーに対してだけは「もっとやれ」と完全な自由を与えていた。ライブ中、コージーがアンプのボリュームを最大にして耳を突き刺すような超爆音のフィードバック ノイズを鳴らすと、マイルスはそれに触発されて狂ったようにエレクトリック トランペットを吹き鳴らした。コージーの狂気的なプレイは、病気や精神的疲弊で満身創痍だった当時のマイルスをステージ上で覚醒させる「劇薬」だったのだ。
4. 楽器としての「ポータブル チェロ」の導入
コージーはギターだけに飽き足らず、ステージに改造されたチェロを持ち込んだ。彼はチェロをギターのようにストラップで肩から斜めに掛け、エフェクターに接続してディストーション(歪み)を深くかけた。 tenderそして弓で弦を激しく掻き毲(むし)るように引き摺り、ジャズの概念を完全に破壊するフリー ジャズ的な不協和音を響かせた。このエレキ チェロによるノイズもまた、当時のライブのハイライトの一つであった。

解明・怪人の足元:Morley、Halifax、そしてMusitronicsのMu-Tron III
YouTubeなどで当時の放送用動画をチェックしても、ピートコージーの「足元」や「テーブルの上」を克明に映し出したものはほとんど存在しない。
彼が手にするギター自体は、FenderのStratocasterやTelecaster、あるいはビグスビーアーム付きのGibson Les Paulなど一般的な選択肢も見られるが、1973年のオーストリアはウィーン公演では12弦ギターのVox Phantom XIIというビザールなセレクトを披露し、マニアを泣かせている。さらにこの時期のトレモロマーク的存在といえば、日本のモリダイラ楽器のブランドであるMorrisが少数製作した、透明アクリルピックガード付き・木目調のセミアコ「Morris Mando Mania」だ。近年ではEastwood Guitarsという工房が、まさにコージーのイメージに当て込んでこれを復刻したことでも話題を呼んだ。

そしてコージーの後方に控えるスタックアンプは、1973年の東京公演以降、Yamahaのエンドースメントによって用意されたYamaha PE-200A(ヘッド)とTS-110 / TS-100(キャビネット)の組み合わせである。レジールーカスや管楽器群に至るまで全員がこのクリーンなYamahaのアンプ(Yamaha PE-200A、Yamaha TS-200など)での音作りに終始したが、コージーの凶暴な歪みはアンプではなく、すべてテーブルの上と下に要塞のごとく並べられたエフェクターから生み出されていた。
コージーの歪みの核は、世界初のファズボックスの系譜であるMaestro Fuzz Tone(FZ-1BまたはFZ-1S)であった。FZ-1Bはストーンズの「Satisfaction」で有名な、ジジーとした初期のブラス風サウンド直系。FZ-1Sはサステインを稼いだ後期のモデル。いずれにせよ、コンプ感の効いたMaestroのファズトーンが彼の核にあった。さらに彼は、アタッチメント型のファズであるJordan Electronics boss toneも隠し持っていたとされる。

コージーは手元のテーブルの上にMXR Phase 90(スクリプト・ロゴ期の初期型)を置き、手動でOn/Offして混沌としたフェイズ効果を加えていた。そしてテーブルの下に隠された3台のペダルのうち、ワウ以外の正体は、ウィーン公演の動画などで一瞬確認できる Musitronics のエンヴェロープ・フィルター、Mu-Tron IIIである。


肝心のワウペダルについて、コージーはウォームなトーンのためのMorley、そしてたまに Vox Clyde McCoy を使っていたとされるが、彼のエグいリードトーンを司っていたのはドイツ製のHalifax(HofnerブランドでもOEM製造された、Schaller製のようなプラスチック筐体と思われるマニアックなファズワウペダル)だった。当時の来日ステージ写真では、このHalifaxの前段にヒューズ付きの怪しげな銀メッキの斜面型ボックス(詳細不明の謎のペダル)を繋ぎ、Halifaxの後段から Mu-Tron III へと信号を送る、完全に歪みとフィルターに特化した直列ルートが構築されている。
(※ちなみに1973年当時は、リーブマンらの管楽器群にも世界初のフェイザー Maestro Phase Shifter PS-1A が接続され、フェイズの効いた「オルガン・トーン」を生み出すのが流行していた。)

12トンの「音響兵器」:右往左往する位相とSynthi Aの威力
1975年の来日公演。マイルス・デイヴィス七重奏団が日本へ持ち込んだアンプ、スピーカー、そして各楽器の総重量は、なんと12トン(前回公演時は4トン)に達していた。主催者側が楽器運搬に最も苦労したというこの巨大な電子要塞。そこから放たれる「電化サウンド」の核となり、聴衆と関係者を最もギョッとさせた秘密兵器が、ピート・コージーが持参したアタッシュケース型のポータブル・アナログシンセサイザー「Synthi A(EMS社製)」である。
当時の専門誌『スイングジャーナル』は、その威力をこう伝えている。
「その巨大な音響装置から今回送り出されたエレクトリック・サウンドの中でファン、関係者をギョッとさせたのが、ギターのピート・コージーが秘密兵器として持参した 'Synthi' と呼ばれるポータブル・シンセサイザーの威力。ピートはロンドン製だと語っていたが、アタッシュケースほどのこの 'Synthi' は、オルガン的サウンドからフルートやサックスなど各種楽器に近い音を出すほか、ステージ両サイドの花道に設置された計8個の巨大なスピーカーから出る音を、左右チャンネルの使い分けで位相を移動させることができ、聴き手を右往左往させたのも実はこの 'Synthi' の威力だったわけ。」
この12トンの音響兵器システムにおいて、Synthi Aは単なる楽器ではない。コージーはこのポータブル・シンセサイザーを、ギターの音の位相をリアルタイムで移動させる「音響コントローラー」として駆使した。ステージ両脇にそびえ立つ計8個のスピーカーを使い、音が左右に激しく揺れ動くことで、観客を文字通り「右往左往」させる音響的なパニックを生み出したのである。
このSynthi Aによる位相移動のトリックは、1996年にリマスタリングされた完全版『Agharta』の2枚目ラスト部分(オリジナルLPでカットされていた部分)で、生々しく体感することができる。また、1974年のアルバム『Get Up With It』収録の「Maiysha」では、コージーのギターを EMS Synthi A の外部入力へ通し、内蔵LFOとスプリングリバーブをかけた、極めて奇妙で歪んだトレモロ効果を聴くことができる。コージーはこの1台のアタッシュケースで、マイルス バンドの「電化サウンド」を前衛的な「ライヴ・エレクトロニクス」の領域へと押し上げたのである。

絶頂のドキュメント:大阪フェスティバルホールの奇跡『Agharta』と『Pangaea』
1975年2月1日、大阪フェスティバルホールで行われた昼・夜2回の公演を完全収録した『Agharta』と『Pangaea』は、エレクトリック マイルス期の最高峰にして、ジャズ史上で最も狂暴なライブ音源である。この2作は、昼の部(Agharta)と夜の部(Pangaea)でメンバーの疲労度やテンション、空気が全く異なる。その中でのコージーの圧倒的なプレイの聴きどころは以下の3点に集約される。

『Agharta』:1曲目「Prelude(Part 1)」の狂気的な先制攻撃
アルバムが始まってすぐ、アル フォスターの超高速ファンク ビートに乗せて、コージーがジミ ヘンドリックス直系の超爆音ワウ ギター ソロを炸裂させる。ジャズの概念を完全に消し去るようなディストーションと、狂ったようにペダルを踏み込むワウのサウンドは、まさにコージーの狂気が絶頂にあることを示している。
『Pangaea』:2曲目「Gondwana」でのエレキ チェロ乱入
夜の部である『Pangaea』の後半では、バンド全体が呪術的でダークなアフリカン ファンクの沼に沈んでいく。ここでコージーはギターを置き、エフェクターを深くかけたチェロを弓で激しく掻き毲るように演奏する。美しさとは無縁の、背筋が凍るような不協和音ノイズが、会場の空気を完全に支配する瞬間は圧巻である。

レジー ルーカスとの「静と動」のギター コンビネーション
もう一人のギタリスト、レジー ルーカスがマシーンのように正確でタイトなファンク カッティング(伴奏)を刻み続けるからこそ、コージーはその上で完全に理性を失ったかのようなフリーキーなノイズ ソロを弾き倒すことができている。この2人のギタリストの鮮烈な対比も大きな聴きどころだ。

三人目のピラニア:ドミニク ゴモンというカンフル剤

コージーが狂気のノイズを極めつつあった1974年、マイルス グループのステージには、もう一人の異物たる若きギタリストが立っていた。当時わずか18歳のフレンチ ブラジリアン、ドミニク ゴモンである。
ほとんど飛び入りのような公開オーディションを経て加入したゴモンの記録は、1974年3月のカーネギーホール公演を収めた『Dark Magus』に刻まれている。ここではコージー、レジー ルーカス、そしてゴモンによる「3ギター」という凄まじい布陣が敷かれ、まるで獰猛なピラニアの群れが獲物に喰らい付くようなカオスを現出させていた。
ブートレグで聴ける同年5月のブラジルはサンパウロ公演などを検証すると、ゴモン単体は非常にタイトでファンキーな、のちのPファンクや80年代マイルス バンドを支えるドウェイン “ブラックバード” マクナイトにも通じるファンクネスを持っていたことがわかる。コージーのようなフリーキーなアヴァンギャルドさには欠けるものの、マイルスの意図は明確だった。コージーの激烈なノイズの壁に対し、まだ足りていなかったファンクとしての「妖艶さ」を補強するためのカンフル剤として、この若き若者を起用したのだ。その3ギターによる血肉の削り合いを経て、翌1975年の『Agharta』『Pangaea』における、コージーのあの「蛇がのたうち回るような妖艶なトーン」が完成されたのである。

帝王の完全燃焼と1975年の突然の引退
この日本公演の直後、1975年後半にマイルスは突如として音楽活動を完全に停止し、1980年まで約5年間にわたる暗黒の引退(失踪)期に入る。主な理由は肉体の限界、精神的な燃え尽き症候群(バーンアウト)、核心たるドラッグとアルコールへの溺溺であった。
実は、この日本ツアー中のマイルスは満身創痍であった。持病の大腿骨頭壊死による激しい腰と足の痛みに加え、胃潰瘍による吐血、変形性関節症、さらには深刻な肺炎を患っていた。ステージ裏ではまともに歩くこともできず、大量の鎮痛剤をウイスキーで流し込みながら、執念だけでステージに立っていたのだ。
引退理由とピート コージーの深い関係性
ピート コージーという存在は、マイルスの引退に対して「マイルスを限界まで延命させた功労者」であり、同時に「マイルスのエネルギーをすべて吸い尽くして燃やし尽くした最後の劇薬」という、極めて深い関係性にあった。
痛みに耐えかねてステージ上でうずくまりそうになるマイルスを、コージーの出す暴力的なギターノイズが何度も奮い立たせた。マイルスは生前、当時のコージーについて「あいつの音が俺の耳に入ると、痛みを忘れてトランペットを吹かざるを得なかった」という言葉を残している。コージーの狂気が、マイルスの最後の生命力を絞り出していたのだ。
そして何より、マイルスが70年代初頭に目指しながらもジミの死によって頓挫した「狂暴なエレクトリック ファンク ロック」という理想は、このピート コージーという怪物の出現によって完全に具現化され、完成してしまった。マイルスにとってコージーとのバンドは「やりたかったことの究極の到達点」であり、これ以上の爆音や過激さは肉体的にも音楽的にも存在しないところまで行き着いてしまったのである。すべてを表現し尽くしたからこそ、マイルスはこのバンドの解体とともに、燃え尽きるように引退を選んだ。『Agharta』と『Pangaea』は、マイルスが命を削り、コージーがノイズでその魂を極限まで煽り立てた、文字通り「奇跡と狂気のドキュメンタリー」と言える。
1981年の復活:なぜ帝王はコージーではなくマイク スターンを選んだのか

1981年の復活時、マイルスは一度ピート コージーとの再始動を計画したものの、最終的にそのプロジェクトを放棄し、マイク スターンを起用した。そこには、ジャズクラブでの奇妙なすれ違いから始まった代役劇と、コージーが突き詰めた70年代の「混沌」から80年代の「洗練」への明確な方向転換があった。
当初、マイルスが白羽の矢を立てたのは、ニューヨークに滞在していた日本の渡辺香津美であった。クラブでの演奏に感動したマイルスは直接声をかけるが、あの独特な極端にしゃがれたハスキーボイス(ささやき声)がうまく聞き取れず、渡辺はそれがスタジオへの招集命令だと気づかぬまま聞き流してしまう。指定期日に渡辺が現れず激怒したマイルスは、その場にいたビル エヴァンスに代役を探させ、急遽ボストンから呼び出されたのがマイク スターンであった。スターンはすぐに駆けつけてプレイを披露し、その場で即採用となる。
この偶然の代役劇で加入したスターンであるが、マイルスがコージーのようなノイズ路線へ戻さず、彼をエースに固定したのには、ピート コージーのスタイルとは対極にある音楽的、体調的な現実が存在した。
1. リハビリ期のマイルスを支えた「正確なビート」
5年のブランクを経たマイルスは、唇の筋肉(チョップス)や体力が著しく衰えていた。コージーが放つ、いつどこから飛んでくるか分からない「予測不能な爆音ノイズの壁」は、病上がりの帝王にとって肉体的にも精神的にも負担が大きすぎたのである。対してスターンが提供する、タイム感がカチッと決まったタイトなファンク ビートは、衰えたマイルスが安心して音を乗せる完璧な足場となった。
2. 混沌(70年代)から洗練(80年代)へのシフト
マイルスは復帰にあたり、コージーと共に頂点へ導いた70年代の暗く過激な呪術ファンクに戻る気は毛頭なく、より明快で都会的なポップ ファンクを目指していた。スターンはジミ ヘンドリックス譲りの歪んだロック トーンを持ちながらも、バークリー音楽大学で培った高度なジャズ理論に裏打ちされた美しい旋律を完全にコントロールできた。このロックのダイナミズムとジャズの洗練の同居が、80年代のマイルスの理想に合致したのだ。
3. 時代の流行とビジネスへの意識
1980年代に入り、レコード会社からのセールスへのプレッシャーや、時代の流行(MTVの誕生やポップ ミュージックの隆盛)をマイルスは冷静に見極めていた。アングラで過激なノイズ ジャックだった70年代とは違い、80年代のマイルスは「より多くの大衆に届く、クールでダンサブルな音楽」を意識的に作ろうとしていた。そのため、一般のリスナーを置き去りにしかねないコージーの混沌としたスタイルよりも、ロックやフュージョンのリスナーを熱狂させられるマイク スターンの端正でエネルギッシュなギターが、戦略的にも必要不可欠であった。
メジャーな活動期間が短く、残された動画や資料も極めて少ないピート コージー。しかし、ひとたびその音を聴けば、誰もが「この怪物は何者だ!?」と囚われずにはいられない。現代の技術がジミ ヘンドリックスの機材をデジタルモデリングで再現しようとするように、いつか、このジャズ史に現れた唯一無二のノイズ狂の足元を狂熱的に追い求め、再現しようとする追跡者が現れるかもしれない。それほどまでに、彼はマイルスの命の灯火を限界まで煽り立てた、唯一無二の「70年代の劇薬」であったのだ。
次回も引き続き「マイルス門下生 ギタリスト全史」へ続く
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