マイルスとギターの世界─《第四回:マイク スターン篇》
帝王沈黙の5年間、主役の座を奪ったギタリストの時代
1975年、マイルス デイヴィスは体調不良やスランプを理由に、活動を休止する。ちょうど、この時期と「ギターが主役となった時代」すなわち「黄金時代」が完璧に重なるのである。1975年、ジェフ ベックの『Blow by Blow』の大ヒットに続けとばかりに、翌1976年にはジョージ ベンソンの『Breezin'』がそれまでのジャズ史上最大のヒットを記録。同年、それに呼応するかのようにパット メセニー、リー リトナー、アル ディ メオラ、ロベン フォード、アール クルー、アランホールズワースといった面々が一斉にソロデビューを果たし、日本国内でもCharや高中正義が同年にソロデビューを飾るなど、ギターという楽器がジャズのメインストリームへと完全に躍り出たのである。
ギターアルバムが飛ぶように売れまくった時代と『マイルス活動休止』が重なるのだ。それまで常にジャズを独占してきたマイルス、常に一番であり続けたマイルス、いつの時代もジャズをコントロールしてきた王様マイルスが、ついに自分の手に負えなくなった、収拾がつかなくなった。
ついにマイルスが絶不調に陥る。この時期と入れ替わるようにして、ギターがジャズの主役になったのである。
「ジャズの主役になったギター」と「マイルスの活動休止」は、決して無関係ではない。この状況を、それまでのマイルス信者は絶対に受け入れたくはなかった。
しかし、1981年にカムバックを果たしたマイルスが、奇しくもギタリストのマイク スターンやジョン スコフィールドを起用したのは、偶然ではないはずだ。主役に躍り出たギターという楽器のダイナミズムを、復活した帝王が自身の音楽構造に取り込もうとしたのは、歴史の必然であったと言える。その新時代を告げる最初のパズルとなった男が、1953年生まれのマイク スターンであった。
バークリー音楽大学でパット メセニーに師事し、その卓越した才能を見出されたスターンは、ジャズの高度な理論を背景に持ちながらも、ロックのダイナミズムとブルースのパッションを兼ね備えた新世代の旗手である。
パット メセニーの推薦とプロへの第一歩

スターンがプロとしての産声を上げた背景には、のちに現代ジャズの巨頭となるパットメセニーとの濃密な師弟関係があった。
当時、若干19歳のパットメセニー、21歳のマイクスターン。バークリー在学中、そのマイクスターンの指導教官だったパットメセニーは、彼のずば抜けたタイム感とブルース フィーリングを絶賛し、プロの世界へ導くチャンスを窺っていた。その機会は1976年、ブラッド スウェット アンド ティアーズ(BS&T)のギタリスト交代劇という形で訪れる。
新加入のギタリストを探していたBS&T側から相談を受けたパット メセニーは、「バークリーに、とんでもない教え子がいる」とマイク スターンを強く推薦した。スターン自身、当時の様子をインタビューでこのように回想している。
「パット メセニーが僕をBlood, Sweat & Tearsに推薦してくれたんだ。彼はバークリーで僕の先生だった。それが僕にとってプロとしての初めての本格的な仕事になったんだ」
スターンは1976年から1978年にかけて同バンドに在籍し、アルバム『More Than Ever』などのレコーディングに参加。強力なブラス セクションをバックにタイトなファンク ロックのカッティングを刻み込むという、極めて実戦的な経験を積んだ。この大舞台での経験が、のちにマイルスの過酷な要求に応えるタフな精神力を形作ったのである。

ジャズクラブでの直接の遭遇、あるいは渡辺香津美とのすれ違い

活動再開に向けて秘密裏にメンバー選考を進めていたマイルスは、ニューヨークのジャズクラブ「7th Avenue South」へと足を運んでいた。ステージに立っていたのは、日本の天才ギタリスト、渡辺香津美である。香津美氏の圧倒的なピッキングとクリエイティビティに衝撃を受けたマイルスは、演奏終了後、ジャズクラブの現場で香津美氏に対して直接声をかけた。
しかし、長年の闘病や手術の影響によって極端にしゃがれてしまったマイルスのダミ声は聞き取りにくかった。香津美氏はそれが帝王からの「明日のスタジオへの召集命令」であるとは正確に判別できないまま、聞き流してしまう事態となる。さらに、日本国内での過密なスケジュールも重なり、この歴史的な遭遇は結実をみなかった。
ギタリストの獲得を急いでいたバンドのサックス奏者ビル エヴァンスは、バークリー時代の友人であったマイク スターンをマイルスに推薦する。スタジオに呼び出されたスターンが帝王の目の前で渾身のブルースを掻き鳴らすと、マイルスは即座に彼をバンドへ迎え入れた。のちにマイルス バンドの一員として来日した際、スターンは渡辺香津美氏と直接対面している。その際、スターンが香津美氏に向けて放った生々しい言葉が記録されている。
「あの時、君がマイルスのスタジオに行かなかったおかげで、僕のプロとしてのキャリアが始まったんだ。もしあの時お前がスタジオに来ていたら、マイルスのバンドにいたのは俺ではなくお前だったはずだ。本当に感謝しているよ」

剥き出しの言葉:スタジオと楽屋に刻まれた帝王とスターンの「生の証言」

マイルス バンドに投入されたスターンを待っていたのは、音楽史に残る剥き出しの言葉による洗礼であった。スタジオでの最初のレコーディング セッション時、スターンが凄まじいドライブ感と正確なピッキングでギター ソロを録音し終えると、コントロール ルームからマイルスのしゃがれた声が響いた。当時、スターンが少しふくよかな体型をしていたことから、マイルスは彼の卓越したタイム感(Time)と体型を掛け合わせ、こう叫んだのである。
「Fat, Fatty, Fat Time(デブ、デブ、デブのタイムだ)!」
スターン本人は当時の雑誌インタビュー等で、この瞬間を鮮明に証言している。
「マイルスは僕のプレイと体型を見てそう叫んだんだ。それがそのままアルバムのオープニング曲である『Fat Time』のタイトルになった。強烈なニックネームだったけれど、僕のリズムを認めてくれた最高の褒め言葉だったんだ」
しかし、バークリーで緻密なジャズ理論を叩き込まれていたスターンが、手癖で高度なコード分解(ビバップ)を弾き始めると、マイルスは激怒して演奏をストップさせた。
「そんなビバップのゴミみたいなフレーズ(Bebop shit)は弾くな!ジミ ヘンドリックスのように、お前のハートから直接出てくるブルースを弾け」
困惑したスターンが「でもマイルス、僕は白人だよ。本当にそんな風にブルースを弾いていいの?」とストレートに問い返すと、マイルスはスターンを正面から睨みつけ、こう返したという。
「肌の色なんか関係ねえ。お前のハートにあるものをそのまま出せばいいんだ」
また、ライブ名盤『We Want Miles』の過酷な世界ツアーの時期、自身のソロ演奏の出来に納得がいかず、楽屋でマイルスに「今日のソロはダメだった。次のステージでもう一度やり直させてほしい」と完璧主義ゆえに直訴したスターンに対し、マイルスは冷徹にジャズの本質である「スペース(静寂)」と引き算の美学を説いた。
「パーティーに行ったらな、いつ帰るべきかという引き際を知らなければならない。演奏しすぎるな」
多くの音を詰め込むことばかりに固執していた若いスターンに対し、マイルスは一音の重みと、あえて弾かないことの美しさを叩き込んだ。マイルス自身も、自叙伝のなかでスターンの圧倒的なビートの推進力をこう最大級に評価している。
「マイク スターンが弾き始めると、俺のケツに火がついた(He lights a fire under my ass)。あいつのタイムは信じられないほど正確で、バンド全体を強烈にロックさせたんだ」

終章:帝王の遺伝子と終わりなき「Time」の旅
マイク スターンがマイルスのバンドに在籍したのは、1981年の加入から1983年までの約2年間であった(のちに1985年のツアーにも一時的に復帰)。1983年にバンドを脱退したスターンは、同年に初のリーダー作『Neesh』を日本限定で発表。そして1986年には、名盤『Upside Downside』をリリースし、世界に向けて本格的なソロデビューを果たしたのである。
マイルス バンドというジャズ界最高峰の現場で過ごした濃密な時間は、その後のスターンのソロ キャリアにおける絶対的な背骨となった。帝王から受けた教えがどのように自身の音楽に息づいているかについて、スターンはのちにインタビューでこう語っている。
「マイルスは僕に、多くの音を詰め込むのではなく、スペース(静寂)を恐れるなと教えてくれた。そして何よりも、誰かの真似をするのではなく、お前自身のストーリーを語れと。あの2年間で学んだ引き算の美学と、ハートから直接音を出すという姿勢が、僕のソロ活動のすべての土台になっているんだ」
帝王の洗礼を受け、自己のスタイルを極限まで研ぎ澄ましたスターンは、マイルスのもとを離れたあとも、ロックのダイナミズムを内包した独自のコンテンポラリー ジャズを牽引し続けることになる。

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