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マイルスとギターの世界─ 《第一回:生誕100周年記念》



1. 時代の頂点、その変遷の記録


2026年、マイルス デイヴィスは生誕100年という大きな節目を迎えました。
Miles Davis(1926年5月26日 - 1991年9月28日)

「マイルスの歩み=ジャズの歴史」という定説

「帝王」の名を欲しいままにしたこのトランペット奏者は、常に世界の最先端音楽シーンにアンテナを張り巡らせ、新しい音に対して誰よりも貪欲に食らいついていきました。

彼はジャズの歴史を塗り替えてきた革新者として語られますが、その真の凄みは、まだ形を成したばかりの新たなサウンドを独自のセンスで研ぎ澄ませ、圧倒的な知名度を持つ「時代の主流」へと引き上げた点にあります。

ビバップから始まり、クールジャズ、ハードバップ、サードストリーム、モードジャズ、エレクトリックジャズ、そしてフュージョンやヒップホップ ジャズに至るまで、マイルスが動くたびに、それらジャズのサブジャンルは完成され、世界へと浸透していきました。言い換えれば、マイルスがジャズをアップデートしてきたのです。そして、その歴史は、マイルスが率いたバンドメンバーの変遷そのものと言えます。

ジャズの巨人たちの登竜門:最高峰がぶつかり合う戦いの場

マイルスのバンドは、いつの時代もその時の最高峰のミュージシャンが集う場所であり、ジャズ界における最大の登竜門であった。

ジョン コルトレーン、ビル エヴァンス、ハービー ハンコック、ウェイン ショーター、キース ジャレット、チック コリア、ジョー ザヴィヌル、トニー ウィリアムス、ジャック ディジョネット、ロン カーター、そしてマーカス ミラー…。彼らはいずれもマイルスの元で経験を積み、後にジャズの歴史を塗り替える巨人となった。

この「マイルス バンドこそが時代の最先端である」という事実は、ギタリストにおいても全く同じことが言える。マイルスは常にその時代の最高峰ギタリストを起用し、あるいは彼らの才能を熱望した。



2. 衝撃の事実:帝王とギタリスト、運命のすれ違い


マイルスが寄せた関心は、実際に参加した面々だけに留まりません。歴史を象徴する名手たちもまた、帝王からその才能を熱望されました。

ジミ ヘンドリックス:幻に終わった「世紀のコラボレーション」

マイルスが最も惚れ込み、単なる門下生ではなく対等な関係として共作を熱望した唯一のギタリストが、ジミ ヘンドリックスである。1960年代末、当時の妻ベティ マブリーを介して出会った二人は、互いの音楽性とカリスマ性に深く傾倒。マイルスは、ジミと盟友のアレンジャーであるギル エヴァンス、そして自身による共同レコーディングの約束を取り付けていた。

しかし、セッションのためにスタジオを予約し、歴史が動こうとした矢先の1970年9月、ジミが急逝する。計画は「ロック ジャズ史上最大の幻」として幕を閉じたが、マイルスが受けた衝撃は計り知れない。ジミから得た強烈なインスピレーションは、そのままアルバム『Bitches Brew』をはじめとするエレクトリック ジャズの奔流へと昇華された。後のギタリストたちへ執拗に課されることとなる「ジミのように弾け」という命題は、この失われた邂逅から始まったのである。


ジム ホールの推薦とジョージ ベンソンの矜持

1968年、マイルスはアルバム録音のためにジム ホールを誘うも、自身のライブ出演というスケジュール上の都合で辞退される。その際、ジム ホールが代役としてマイルスに推薦したのが、当時新進気鋭だった若きジョージ ベンソンであった。

ベンソンは名曲「Paraphernalia」の録音に参加し、その演奏をマイルスは絶賛。録音後、マイルスからレギュラーバンドへの熱烈な勧誘を受けたが、すでにソロとして成功を収め始めていたベンソンは、自身のキャリアを優先しこれを辞退した。


渡辺香津美: 7th Avenue Southでの聞き逃し

1981年、マイルスが活動復帰作『The Man with the Horn』を制作していた頃、ニューヨークのジャズクラブ「7th Avenue South」で渡辺香津美の凄まじいライブ演奏を聴いたマイルスは、彼の才能を大絶賛した。その際、マイルスは独特のしゃがれたハスキーボイス(ささやき声)で「〇月〇日に〇〇スタジオに来い」と直々に声をかけた。

しかし、渡辺香津美はマイルスの英語と特異な発声がまったく聞き取れず、それがバンドへの勧誘であることに気づかないまま聞き流してしまったのである。 指定の期日に渡辺香津美がスタジオに現れなかったため、マイルスは急遽、別の若手ギタリストであったマイク スターンを起用した。

後にマイク スターンは来日した際、渡辺香津美に対し「もしあの時お前がスタジオに来ていたら、マイルスのバンドにいたのは俺ではなくお前だったはずだ」と語ったと言われている。

渡辺香津美のライヴを聴きにきたマイルスとチャカカーン
Miles Davis & Chaka Khan



パット メセニー:帝王からの連絡を待ち続けた片想い

世間では「パット メセニーがマイルスの誘いを断った」という噂が流れることもありますが、現実はその正反対でした。パット メセニー本人がマイルスから誘いを受けなかったことを、後々まで残念に思っていたというエピソードは、ファンの間でも切ない逸話として知られている。

パットはマイルス デイヴィスを心から深く敬愛していました。同じジャズ フェスティバルに出演した際、パットはマイルスに「ギターが弾けるのか?俺のバンドに来い」と声をかけてもらうことを期待し、ギターケースを持ってマイルスの前を何度も「ウロウロ」と歩いてみせたと語っています。しかし、そのアピールも虚しく、帝王から彼にバンド参加のオファーが届くことはなかった。

1991年にマイルスが逝去した際、パット メセニーの落胆ぶりは相当なものだったと言われている。最高峰のギタリストとして頂点に君臨した彼にとっても、マイルス バンドという「登竜門」をくぐることは、叶わなかった最大の憧れだったのかもしれない。


スティーヴ ルカサー:帝王を断った「ブラザー」への忠誠

1985年、マイルスは「Human Nature」のカバーに向け、作者のスティーヴ ポーカロからシンセサイザーの音作りを学ぶためTOTOのスタジオを訪れた。この邂逅を機にマイルスは楽曲「Don't Stop Me Now」にゲスト参加。演奏の謝礼としてジェフ ポーカロの絵画を譲り受けるなど、メンバーと深く意気投合した。

レコーディング後、マイルスはルカサーに直接「俺のバンドで弾かないか」とオファーを出す。「マクラフリンのようなジャズ ギタリストがいるのになぜ僕を」と問うルカサーに対し、帝王は「あいつらは素晴らしいが、俺はお前のクレイジーなロックンロールが気に入ったんだ」と即答したという。

しかしルカサーは、数日後に迫ったTOTOの世界ツアーと「高校時代からの兄弟であるメンバーを放り出せない」という義理を優先し、この誘いを辞退する。マイルスは怒るどころか「それはクールだ」とその忠誠心を認め、快く受け入れた。最高峰の舞台よりも仲間との絆を選んだこの決断は、ルカサーにとって音楽人生最大の誇りとして刻まれている。

マイルスとTOTOのメンバーによるレコーディングスタジオでの写真


スコット ヘンダーソン:先約と「表現の自由」を優先した選択

マイルス デイヴィスがスコット ヘンダーソンを自身のバンドに誘ったというエピソードも、単なる噂ではなく本人が公に明かしている事実である。1980年代後半、エレクトリック バンドの刷新を急ぐマイルスは、チック コリア エレクトリック バンドを経て自らのグループ「トライバル テック」を始動させたばかりのスコットに白羽の矢を立てた。ブルースの泥臭さとアラン ホールズワース譲りの高度な概念を併せ持つ彼のプレイは、帝王にとって魅力的なピースだった。

ある日、スコットの自宅にマイルス本人から直接電話が入る。ハスキーボイスによる「俺のバンドで弾かないか」というスカウトに対し、スコットは明確な理由を持って辞退を伝えた。第一の理由は、ウェザー リポートの盟友ジョー ザヴィヌルの新プロジェクトへの参加という先約があったこと。プロとしての義理を何よりも優先した結果である。

そして第二の理由は、当時のマイルス バンドにおける「ギターの役割」への不満だった。マイク スターンやジョン スコフィールド以降の編成を冷静に分析していた彼は、ギタリストがファンキーなカッティングに徹し、ソロの時間が極めて限定的である現状を危惧した。「一晩中マイルスの後ろでコードを一つ二つ弾き続けるだけの役回りは自分には耐えられない。自分のやりたい即興演奏ができないなら、たとえマイルス バンドであっても入る意味がない」と断じたのである。帝王からの誘いという名誉よりも、自らの音楽的誠実さとソロ プレイヤーとしての誇りを貫いたこの決断は、スコット ヘンダーソンという音楽家の本質を物語っている。


ロベン フォード:カセットテープ1本で即決された電撃の半年間

誘いを断ったギタリストたちとは対照的に、帝王の直感によって電撃加入し、短期間でその座を去ったのがロベン フォードである。1986年、バンドのギタリストが急遽脱退した際、マイルスはロベンの演奏が録音されたカセットテープをわずか数分聴いただけで「こいつだ、今すぐ電話しろ」と即決した。すでに自身のキャリアを確立していたロベンだったが、帝王からの直接の勧誘に驚きつつも、即座にワールドツアーへの同行を決意する。

しかし、そこでマイルスが彼に求めたのは、代名詞であるブルース ソロではなく、ひたすらタイトなファンクのカッティングに徹することであった。マイルスの傍らで演奏する時間を「人生の宝」と誇りつつも、夜な夜な数個のコードを刻み続ける役回りは、ソロ プレイヤーとしての彼の本能とは相容れなかった。「自分には合わない」と悟ったロベンは、わずか半年ほどで自らバンドを去る決断を下す。この離脱理由は、奇しくもスコット ヘンダーソンが加入を拒んだ理由と完全に一致しており、当時のマイルス バンドにおけるギタリストの理想と現実の乖離を物語る象徴的なエピソードとなっている。

マイルスとロベンフォードが実際に共演した際のライブ画像


プリンス:ギタリストとしての才能を愛した「帝王と天才」

1980年代後半、マイルスが「自分以降の最大の天才」と公に絶賛し、共演を熱望したのがプリンスである。プリンスはマルチプレイヤーだが、マイルスは特に彼のファンキーで鋭いギタープレイを高く評価していた。マイルスはプリンスの本拠地ペイズリー パーク スタジオを訪れ、プリンスがマイルスのために書いた楽曲「Can I Play With U?」などでトランペットを吹き、セッションを行っている。

マイルスはプリンスを自身のツアーやステージに正式に引き込もうと何度もアプローチを試みた。しかし、プリンス自身も世界を席巻する巨大なポップスターであったため、恒久的なバンドメンバーとしての参加はついに実現しなかった。

それでも二人の交流は深く、1987年12月31日にはペイズリー パークで開催されたプリンスのニュー イヤーズ イブ コンサート(「Sign O' the Times」ツアー最終日)の終盤にマイルスが登場し、実際のライブ共演を果たしている。その貴重な共演映像は、過去にYouTubeでも出回っていた。互いへの深いリスペクトは、マイルスが亡くなるまで途切れることはなかった。

マイルスとプリンスが共演した際のライブ画像


3. ポスト ジミヘン:帝王が追い求めた「幻影」と犠牲者たち

マイルスのエレクトリック ギターへの執着は、夭折した天才ジミ ヘンドリックスへの憧れであり、常に「ジミのようなギタリスト」を探し続ける旅でもありました。

当時、マイルスはジミ ヘンドリックスの音楽を聴いて「俺がやりたかった音楽はこれだ」と語り、その革新的なサウンドとエネルギーに深く心酔していた。これ以降、マイルスの頭の中は「いかにしてジミ ヘンドリックスの衝撃を自らのバンドに取り込むか」という一点に集中することとなる。

その執念が具現化したのが、1969年の『In A Silent Way』や『Bitches Brew』のセッションである。マイルスはイギリスから渡米したばかりのジョンマクラフリンに対し、「ジミ ヘンドリックスのように弾け」と直接命じた。ジャズの素養を持ちながら、ロックの破壊衝動を体現することを求められたギタリストたちは、ここから未踏の領域へと足を踏み入れることになる。

執念が生んだ「数学的ポリリズム」

1960年代後半、マイルスはバンドの方向性を電気楽器の導入とポリリズムの強化へと舵を切る。曲をワンコードだけで押し通し、リズムセクションに数学的なポリリズムを課す手法は、当時の音楽シーンを震撼させた。ドラムが4/4拍子を刻む傍らで、パーカッションが6/8や7/4拍子を重ね、ギタリストはさらに異なる拍子をぶつける。この複雑なクロスリズムこそが、マイルスの設計図であった。

1970年代初頭、マイルスはキーボード奏者の演奏による拡張に限界を感じ、その解決策として新たなギタリストたちを次々と起用していく。当時ジミ ヘンドリックスに深く惚れ込んでいたマイルスは、ギタリストを追加するたびに「別の味(another flavor)」を求めた。よりジミヘン的で、よりロック的な破壊衝動。マイルスのエレクトリックギターへの執着は、夭折した天才への憧れであり、常に「ジミヘンのようなギタリスト」を探し続ける旅でもあった。


幻のギタリスト アート ジャクソン

当時20歳の若い黒人ギタリスト、アート ジャクソン。マイルスはその才能に惚れ込み、制作費を自ら肩代わりしてCBSコロンビアでの録音をセットアップした。そうして生まれたのが、幻のアルバム『GOUT』である。 プロモ盤のみが制作されたものの、結果としてこの作品は謎の発売中止となった。中止の理由は、セールスを懸念したレーベル側の判断か、あるいは本人のドラッグ中毒による活動不能説など、諸説が飛び交っている。
近年になり、ようやく再発されたが、彼はマイルスが追い求めた「ジミヘンのようなギタリストの “ 犠牲者 ”」だったのかもしれない。

Art Jackson / Art Jackson's Atrocity Gout


ギターがジャズの主役となった時代

多くのジャズ評論家や歴史家が語るように、マイルスの歴史はすなわちジャズの歴史そのものである。マイルスは常に既存のジャズを破壊し、更新し続けてきた。

そうした意味において、1970年代から80年代にかけてのマイルス デイヴィスとは、常に理想のギタリストを追い求めた「探求の時代」であったと言える。ジミ ヘンドリックスという巨大な偶像から始まり、数多の名手たちと繰り広げた試行錯誤の軌跡。それは、かつて管楽器が担っていたジャズの主役の座が、ギターへと引き継がれていった変革の時代そのものを、まさにマイルスの歴史(=ジャズ史)が示しているのではないだろうか。

ジャズ黄金時代とは、ギターがジャズの主役となり、最もジャズが盛り上がった時代であった。この結論こそが、帝王マイルス デイヴィスが歩んだ足跡そのものと合致するのである。

 ↓次回、第2回「マイルス門下生 ギタリスト全史」へ続く↓

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