小説|さいはてドライブ(第五話)
chapter5. 古川
古川に入ると、四号線沿いはにわかに店が増えた。
電気屋やホームセンター、コンビニ。ほとんどがチェーン系の店だ。泉にどこか似た風景。
あれから随分遠くに来てしまった気がするが、まだ卸町からほんの40キロだ。
疲れた。
寛二さんの言う通り、ホテルに泊まってゆっくり休んだ方がいいのかもしれない。詩映さんを帰さなければと思っていたが押し切られて、そこから押し問答をする気力もなくなってしまった。
詩映さんが調べてくれたビジネスホテルへ、僕は黙々とハンドルを切った。
ホテルに到着すると幸い空室があり、三人分のシングルルームを取ることができた。
寛二さんは大浴場の場所を確認し「さあ、ひとっ風呂浴びてすっきりするべ」と声を弾ませた。詩映さんは、夕食や着替えを買いたいので近くのコンビニへ行くと言う。明日のチェックアウト時にフロントで集合することを決めて、それぞれ部屋や外へ向かった。
僕はコンビニへ買い出しに行く気力もなく、ホテルの自販機コーナーで350mlの缶ビールを二本買った。
部屋に入り、着替えもせずそのままの格好でベッドに腰掛けた。靴を脱ぐ間ももどかしく、サイドテーブルに置いたビールを開けてグビグビとあおる。
一本はあっという間にカラになり、すぐに二本目のフタを開けた。それを半分ほど飲んで、そのままベッドにあお向けになった。
――事故を起こし、知らないおっさんを車に乗せ体調を崩され介抱し。問題ない人物だと判断したはいいが、それも絶対の自信はない。
数時間の間に、いろいろなことがあり過ぎた。
こうやって何も食べずにビールをあおると、僕は一、二本で心地よく酔いが回る。
ドラッグをやる気持ち良さってこんな感じなのかな、なんてこの程度のアルコールで考えているのだから、可愛いものだ。
体に悪いと言われるが、三十三歳の男としては健全すぎるくらいだ。
目を閉じると、少しずつ意識が混沌としてくる。
今日のことと昔のこととがまぜこぜになり、まぶたの中で反時計回りに回る。コーヒーが、ゆっくり撹拌されるみたいに。
助手席の詩映さんがうつむいて、耳にかけた髪のひとすじが頬に落ちる。何か話しかけようとすると、その横顔はすっと消えていく。
あの美しい手が、ぼんやりした残像のように浮かぶ。今日のごたごたの中で何度も目にしたはずのそれは泳ぎ回る魚のように視界から逃げ、目の端で一瞬しかとらえることができない。
――光、光。
「なんでいつもこうやって飲んじゃうの。何か食べないと体に悪いって――」
ベッド脇に亜美が腰かけて、ため息をつきながら僕を見ている。
亜美?
思わず目を開けたが、そこには誰もいなかった。
少しの間、眠っていたのか。
僕は起き上がって、ビールの残りを飲み干した。まだ、喉が渇いている。
僕はワイシャツ姿のまま部屋を出て、また自販機コーナーに向かった。
財布を持ってビールの自販機の前にぼうっと立っていると、後ろから「高藤さん」と声がした。
「まだお風呂入っていないんですか? 気持ちいいですよ」
振り返ると、詩映さんだった。部屋に備え付けられた館内着を着ている。
ビールを買うんですか? と訊きながら詩映さんは、隣の自販機に硬貨を入れて無糖炭酸水のボタンを押した。すぐにガタンと音がし、ボタンを押したその手は自販機の取り出し口に差し込まれた。そして炭酸水を取って小さなバッグに入れ、あっという間に館内着の袖の中に隠れる。呆けたようにそれを見つめていた僕は次の瞬間、手を伸ばした。
「なんで隠すの?」
僕は詩映さんの袖口に手をねじ込んで、その手をつかんだ――泳ぎ回る魚を、ようやく捕まえた。吸いつくようななめらかな感触が、僕の手のひらから全身に伝わる。
詩映さんは「えっ」と小さく声を上げて、僕の手を振り払った。
「なんで隠すの」
僕はもう一度訊いた。
「――嫌いだから」
詩映さんはこちらを見据えて、乱暴に投げ返すように答えた。
館内着の首元から、華奢な鎖骨がのぞく。手のひらにはまだ、さっきの感触が残っている。
――嫌い? その手が? 僕が?
目は開いているのに、まぶたの裏を詩映さんの手や首元や、そして亜美のくもった表情や――様々なものがゆっくり旋回する。
詩映さんは気を取り直すように、まばたきをして僕から目をそらした。
「高藤さん酔ってますよね。シャワー浴びて、早く寝た方がいいですよ」
「酔ってない」
僕は詩映さんの肩をつかんだ。
「ちょっと君らあ」
その時後ろから、間の抜けた大きな声が響いた。寛二さんだった。
どうしたの、と寛二さんは僕と詩映さんのそばに立った。
「大丈夫ですよ」
詩映さんが笑顔を作り答える。
「ならいんだけどさあ。あのさ君ら、付き合ってんの?」
詩映さんは、黙って首を振った。
「――そしたら、こういうことしちゃいけねんでねえの? 高藤ちゃん。俺らの時代だったら許されたったかもしんないけどさあ。昨今は、やばいべ」
詩映さんはもう一度笑顔を作り、ことさらに明るく言った。
「寛二さん、本当に大丈夫。気にしていないから。高藤さん、酔っ払ってるだけだし」
僕は急速に事態を把握して、恥ずかしさに顔を上げられなくなった。寛二さんは「わかった、わかった、皆早く寝るべ」と手をたたいて、詩映さんは
「おやすみなさい」
と、小走りするように部屋へと戻って行った。
僕もいたたまれなくて、自分の部屋へ逃げるように帰った。
部屋に入りベッドに腰かけて、呆然とテレビを見つめた。無音の、館内案内を映すだけの画面。
――そういう感じになっちゃった光、あんまり好きじゃないの。
いつか今日みたいに酔って亜美に迫った時、そう言われた。
――ちゃんとした光が好きなのに。いつもは冷静で、かっこいいじゃない。
亜美はそんな風に言った。天真爛漫で笑ったり泣いたり忙しく、どこか気分屋の亜美。
「そういう感じ」の自分と「ちゃんとした」自分、どちらが本当なのか時々わからなくなる。
こうして酔った時にだけ顔を出す「僕」を受け入れてくれる人が、いないことは確かだ。
親に甘え駄々をこねてほうり出された子どもみたいに、ぼうっと僕は空を見つめた。
するとふいにドアのチャイムが鳴った。駆け寄って覗き穴を見ると、寛二さんが立っている。
慌てて開けると、手に僕の財布を持っていた。
「忘れてたよお」
面食らう僕の胸に財布を押しつけ、寛二さんはもう片方の手で僕の肩をたたいた。
「いろいろあるんだべ。若えからなあ」
あんまり気にすんな、と寛二さんは踵を返した。
僕は財布をつかんでふらふらと部屋の真ん中に戻り、シャツとスラックスを脱ぎ捨てて、下着のままベッドに横たわった。
気がつくと、外はもう明るくなっていた。天井を見つめていると、途端に昨夜の出来事がはっきりとよみがえってきた。
飲み過ぎて、酔って詩映さんに絡んだ。
寛二さんに見つかってとがめられて、慌てて部屋に戻った。
寛二さんが部屋にやって来て、財布を忘れていると言って渡してくれた――
ガバッと飛び起きてベッドの下を見ると財布は、シャツとスラックスと共に床に投げ捨てられていた。
慌てて財布を開けて、中身を探った。
何枚か入っていた札もクレジットカードも、すべて元のままだった。
「――ただの、いいおっさんかよ」
僕はため息をついた。
窓際に立ってカーテンを開けると、朝日が強く差し込む。まぶしすぎて、僕はぎゅっと目を閉じた。
昨日のあれは何だったんだろう。
ホテルの自販機コーナーで酔った高藤さんに手をつかまれて、肩に手をかけられた。
寛二さんの言う通り、昨今あんなことをしたら完全アウトだ。曖昧な態度で受け入れたりせず、毅然と対応しないといけない。世の中的には。
でも、本当のことを言うとドキドキした。
近づいた時のかすかな匂い、いつもより荒くうわずった声。つかまれた時の、手のひらから否応なしに伝わる強さと熱。
高藤さんみたいな人にあんな風にされて、ドキドキしない女の人はいるんだろうか。
でもきっと、ただ酔っ払っていただけ。あの時だけのことだ。疲れていたんだろう。
高藤さんは私の手を「なんで隠すの」と言った。私が自分の手を人に見せたくないと思っているのが、どうしてわかったんだろう。
私は、結婚したばかりのあの頃から、自分のこの手が恥ずかしくて仕方がない。都会の人間にもなれない、こっちの婚家で好かれる嫁にもなれない。この歳になっても未熟で何もできない私を、そのまま表したような生白い手。高藤さんにも誰にも、見せたくなんかないのだ。
フロントにやってきた寛二さんは、昨日からは見違えるようにこざっぱりとしていた。汗や脂で汚れていた頭や顔はさっぱりと洗われ、よれよれの作業着を別のシャツに着替えている。
対照的なのは高藤さんだ。服はしっかり私服のTシャツに着替え、おそらくシャワーも浴びたのだろうけど、見るからにしょぼくれてうつむいている。
「昨日は本当にごめん」
開口一番、私にそんなことを言った。
「なし、なし。ごめんとか」
今度は、私が言う番だった。
三人で車に乗り込もうとすると、寛二さんが言った。
「高藤ちゃん、昨日だいぶ飲んだべ。大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。ビール二本だけです」
寛二さんは「えっ」と驚いた顔をした。
「ビール二本であんなになるの? 高藤ちゃん、弱々じゃん」
「――ほっといてください」
苛ついてすねたように寛二さんから目をそらして、高藤さんは車に乗り込んだ。私と寛二さんも慌てて乗り込み、私達はまた北を目指し走り出した。
〈つづく〉
