小説|さいはてドライブ(第二話)
chapter2. 仙台~富谷
悩んで悩んで、どうしても結論を出せないことがあった。この三か月。
金曜日の今日、私の事情を会社でただ一人知る課長――温かい親戚の叔母さんのような人だ――に「今日が手続きの期限のようだけど」と優しく言われた。私は、期限を週明けだと勘違いしていた。
どうしてこんなに、ギリギリまで決められなかったのかと思う。迷っていただけでなく、とにかく私はあっちの方、北の方に行きたくなかったのかもしれない。
課長は、私にこんな提案をしてきた。
「早退して、高藤くんの車に乗せて行ってもらったらどう?」
彼は今日岩手に向かうから同乗して、富谷で降ろしてもらえばいいじゃない、と。
課長の温情に感謝して、私はまだ日が高いうちに早退し、営業社員の高藤さんが運転する社用車に乗り込んだ。
高藤さんと二人きりで車に乗るなんて、不思議な気分だった。
事務職員の間では、よく高藤さんの話が出る。
率直すぎて苦手という人、表裏がなくていいじゃないと言う人、仕事で助けてもらっちゃったと言う人。ネガティブ二割、ポジティブ八割くらい。どちらにしろいつも誰かしらが高藤さんを気にかけて、彼について話したがる。
菊池さんという誰とでもすぐに仲良くなれる人がいて、彼女はよく高藤さんと話しては、いろんな情報を皆に流す。
驚いたのは、少し前に聞いた「高藤さん、結婚するらしいよ」という情報。東北学院大学の後輩の子で、南光台の実家に住んでいるんだって、と。
そうなんだ、結婚するんだ。
信号待ちで高藤さんは、AMラジオをFMに切り替えた。流れてきた今どきっぽい軽快な曲を知っているらしく、リズムを取りながらふんふんと口ずさんでいる。沈黙を苦にしないところが心地いい。
窓の外は、いかにも幹線道路にありそうな店が立ち並ぶ、泉の風景だ。東側のホームセンターや大型家具店が並ぶ風景を眺めると、運転席の高藤さんが目に入る。
高藤さんは、意外と大きい。男の人ってやっぱり皆大きいんだなと思う。圭太は小柄な方だったけど、それでも隣に並ぶと体の厚みやたくましさを感じて安心した。今思うと。
高藤さんはひょろっと背の高い人だと思っていたけど、こうして隣に並ぶとひょろっとなどしていない。自分とは全く違う厚みを持った、肩や背中。シャツの一番上のボタンを外した首筋は、実家で飼っているラブラドールレトリバーの「リュウ」とよく似た、滑らかな象牙色をしている。
この体にもたれてみたら、どんな感じだろう。
肩にもたれて、頬で温もりを味わってみたら。
一瞬衝動的に思って、自分にびっくりした。何を考えているんだろう。リュウが、目の前にいる気になっちゃったんだろうか。
この人は車に相乗りさせてくれているだけの同僚で、しかももうすぐ結婚するのに。
どうかしている。
こうして男の人の運転する車の助手席に座るのは、圭太と別れて以来だった。隣に座る男の人の存在は、守られている安心感を思い出させる。そんな安心感は、忘れたつもりでいたのに。
「詩映さん住んでるの、富谷だっけ」
高藤さんはふいに、そんなことを聞いた。
「違いますよ」
「そっか。なんでまた、富谷市役所に?」
どうしよう。一瞬ためらったけど、私は正直に話した。
「離婚したんですよね、私。三か月前に」
高藤さんは軽く眉をあげた。そして「あー」とも「おー」とも聞こえるような小さな相槌を打つ。
私は、結婚していた頃住んでいたのが富谷で、やらなければならない手続きがあるのだ、と話した。
離婚のことは、課長にしか話していない。これからも会社の人たちには、秘密にしておくつもりだ。そのために今日の手続きがあるのだから。
高藤さんに話しちゃったら意味がないかな――でもこうやって車に乗せてもらっているのだし、高藤さんは菊池さんみたいに皆に言いふらしたりはしないだろうから、大丈夫。
「結婚してたんだ」
ごく軽い口調で、高藤さんは言った。
「会社に入った頃には、もう別居していたけど。離婚成立したのが三か月前です」
「そうだったんだ」
皆いろいろあるんだね、とまたあまり重みのない調子で高藤さんはそう言って、それ以上何か聞いてくることはなかった。
私は東京で生まれて、結婚するまでずっと東京の実家で暮らしていた。圭太と結婚し彼の生まれ育った宮城で暮らすことになり、三十二歳ではじめて東京を離れた。
私の両親は宮城で暮らすことを、さらにそれが圭太の実家の近くということを聞くと顔をくもらせた。
「富谷市、仙台の隣か。若い世代の多いベッドタウンだね」
父は私が住む街を調べて、自分を納得させるようにそう言った。都心に近くて若い世代の多い街なら都会育ちの娘でもなんとかやっていけるだろう、と思ったのかもしれない。
私はというと、東京を離れて早く宮城へ行きたかった。三十二歳まで親元にいた自分が、これでようやく独り立ちできるのだから。それに、東京の人の多さやあわただしさにはうんざりしていた。私にはきっと地方の暮らしの方が合っている、そんな風に思っていた。
富谷のニュータウンは、ひしめき合うような東京の住宅地で育った私には、まるで夢のようだった。圭太が結婚前に建てた家は私の実家の二倍以上の広さで、周りに並ぶ家々も同じだった。どこの家も植栽で彩られて、カーポートにはワゴンサイズのファミリーカーとコンパクトカーや軽自動車が並んでいる。整然と区画された、新しい清潔な街。
ところがそこから車を五、六分も走らせると、途端に景色が変わる。小さな農地や古い家が並ぶ、古い山あいの集落。圭太の実家は、そんな所にあった。整然とならされたニュータウンの裏は、こうなっていたのか。
圭太と結婚して間もない頃。圭太の両親の家に私と圭太と、やはり近くに住む、圭太の兄の一家が揃った。
兄の娘は小学生だった。彼女が私の手を眺めて、突然言った。
「手、真っ白! ネイルもきれーい。東京の人って皆こうなの?」
するとそこにいた圭太の母は軽く眉をしかめ、苦笑いのような笑顔を見せた。
「これから圭太と詩映ちゃんのところに赤ちゃんが生まれて、ずーっと抱っこしたりなんだりで、詩映ちゃんの手もあっという間にばあばみたいなゴワゴワした手になるんだよ。すぐだよ、すぐ」
――ちゃらちゃらしていて頼りないと、思われているんだろうか。
圭太のお嫁さんとして自分に求められていることがこの時、よくわかった。
ネイルはやめた。圭太の実家に行くときは、できるだけ地味な服を着た。だけど、そんなことは関係なかったのかもしれない。「すぐだよ」と言われた赤ちゃんは、私たちの所にはさっぱり訪れなかったのだから。
四号線が七北田に差しかかると、それまで続いてきた店の灯りが急に途切れ、東側は鬱蒼とした森に包まれる。ここに来ると、結婚したばかりの頃の心細さを思い出す。
大きな道路を走っていて突然こんな暗い森が現れるとは思わなくて、急に怖くなった。
今まで東京でいろんなことを見知ってきたつもりだったけど、自分の今まで生きてきた所など世界の中ではほんの一部だった。一歩出るとそこは得体の知れない世界なんだと、たまらない気持ちになった。
結婚三年で家を飛び出して、それから一年近く。もうすぐこっちに来てから四年になる。
私は四年経ってもこの暗闇に慣れるどころか、前よりずっと心を重く引きずられてしまう。そして北へ向かい富谷に近づくほどいっそう、心はずんと重くなっていく。
泉インターチェンジをすぎてしばらくすると、大きな交差点に差しかかる。圭太の両親がいつも「ヤマトの交差点」と言っていた。むかしここにクロネコヤマトの物流センターがあったらしい。
信号待ちの間、高藤さんはスマホの地図アプリを眺めていた。社用車にはナビがついていない。
「富谷市役所への道、わかりづらいな。詩映さん自力で行ったことある?」
「――いちおう」
「じゃ、市役所まで運転してもらおうかな。もうすぐイオンがあるでしょ。そこで車停めて交代しよう」
「えっ」
私はうろたえた。運転は、一年以上していない。
道路上の看板に「富谷市」と表示が出て、車は富谷市に入った。まもなく濃いピンク色の、見慣れた明るい看板が見えてくる。ここだな、と一人言を言いながら高藤さんは交差点を右折し、イオンの駐車場に入った。
結婚していた頃、一番よく来ていたショッピングセンター。だだっ広い駐車場は「詩映ちゃんでもここなら停められるべ」といつか圭太の母に言われた。高藤さんは建物から遠く離れた、駐車場の入口に近い場所に車を停めた。
「じゃあ、交代」
高藤さんは運転席を降り、外で軽く伸びをした。私は仕方なく、助手席を降りて運転席へ回る。遠くにイオンの外壁がぼんやりと目に入った。あの頃は真っ白だったけど、今は茶とベージュ基調のデザインに変わっている。目の端に入るそんな風景に一瞬意識を奪われながら運転席に乗り込みドアを閉め、私はぎこちなくシートベルトを締めた。
ブレーキを踏んでギアをドライブに入れ、おそるおそるブレーキから足を離しハンドルを切った。
今停まっている場所からは、二つ出口が見える。たしか右の出口から出た方が、スムーズなのではなかったっけ。四号線を北向きに無事出られれば、あとはわかるのだけど――私は市役所への道を思い出しながら、ふらふらと右の出口へ進入した。
目線は少し先の、四号線へと信号待ちをする車の列にあった。フロントガラスを横切る黒い影に気づくのと、高藤さんが「ブレーキ!」と叫んだのがほぼ同時だった。慌ててブレーキを踏むと、運転席側の窓のすぐ脇に、黒い服を着た男が倒れていた。
キャアともヒャアともつかない情けない声が思わず出て、私はブレーキを踏んだまま呆然とした。ハンドルを握る手がガクガクと震えている。
「――俺がまず降りるから。詩映さんも脇に車よせて、すぐ降りてきて」
早口だけど静かな、でもそれが返って緊急事態を思わせるような口調で高藤さんは言って、車を降りて男に駆け寄った。
大丈夫ですか、お怪我はないですか、男に駆け寄り呼びかける高藤さんの声に、「危ねがったべえ」と威圧するようなガラガラ声が、かぶさるように周囲に響いた。すぐに駐車して車を降りたが、恐ろしくて男を直視できない。縮み上がるような思いで、目を伏せながら男の元へ歩み寄った。
「姉ちゃんか。運転してらったのは」
はい、と自分でもよく聞こえないくらいの小さな声で答えた。道路に座ったままの男は、五、六十代だろうか。ごわついた短髪に脂ぎった額、太い眉、ギョロッと鋭い目をしている。
〈つづく〉
