【note創作大賞2024】スカートとズボンの話 〈6〉蒼い海
第6話 蒼い海
2019年
花凛が中学受験をすることになった。今年、小学5年生だ。
志望校は、都内の中高一貫女子校に決めた。
勧めたのは「ばあば」、わたしの母だ。
花凛は
「まあ、地元の中学もちょっとなって思ってたし。頑張ってみる」
とやや消極的に志望を決め、受験のための塾に通いはじめた。
花凛は誠順の実家には長期休みごとに遊びに行っており、ホテル四季乃井にもすっかりなじんでいるらしい。
異母きょうだいの「シオリ」ちゃん、「ナギ」くんとも仲良くしている。特に上のシオリちゃんには慕われ、仲がよさそうだ。
一緒に暮らしていない異母きょうだいというのは、どんな感じなのだろう。いとこのような感じなのだろうか。じいじやばあば、そして誠順の奥さんとは、どんな風に接しているのだろうか。
花凛は断片的に、たわいのないことしかわたしには話さないので、よくわからない。でも毎回喜んで行くので、きっと良くしてもらっているのだろう。あまり深く考えすぎずに、送り出している。
誠順が、東京に来た。年に2,3度来る。もちろん、花凛に会いにだ。
誠順と花凛が2人で会うこともあれば、わたしも入れて3人のこともある。今日は3人だ。
以前は新幹線で来ていたが、最近は車だ。いろいろ仕事の用事も済ませられていいのだという。
花凛の塾通いの日なので、わたしたちは塾の近くでご飯を食べた。
「パパ、今忙しいんだって?」
花凛が誠順に聞く。誠順は、うん、忙しい、と困ったような顔をして笑った。
「ソウヨウのことで?」
そうそう、と誠順は花凛の言葉に頷いて、わたしに説明した。
「新館を作ってるんだよ、今」
そうなんだ、とわたしは頷いた。
わたしはホテルのことをほとんど聞かないし、詳しいことを知らない。
たしかに誠順の顔は、疲れているように見えた。
花凛を塾に送り届け、わたしたちはそのまま解散するつもりだった。
しかし雨がひどくなった。スマホをチェックすると、台風が接近している。
誠順は、花凛の塾が終わるのを待って迎えに行き、そのまま2人を家まで送ると言ってくれた。わたしたちはどこかで時間をつぶさなくてはいけなかった。
車を走らせ、立体駐車場のある大型スーパーを見つけて入った。だいぶ店の入口から遠い不便な所が空いていて、誠順はそこに車を停めた。
「ちょっと仮眠とっていい?」
誠順はさっき花凛に見せた困ったような笑顔で、わたしに聞いた。
疲れているんだな。これから何時間も車を走らせて帰宅するのだ。もちろん、いいよ、とわたしは言った。
わたしは、買い物して来ると言って、店舗に入った。必要なものをいくつか買ったが、他に見たいものもなく、30分ほどで車に戻った。誠順はシートを斜めに倒して、よく眠っていた。
わたしは助手席に座って、眠っている誠順を見つめた。
わたしたちが一緒にいたのは、もう10年近く前だ。
後も先も考えずに愛し合っていた、誠順の言う「ぶっ壊れていた」時期は、ほんのわずかだった。
よく思い出してしまうのは、寂しそうに花凛の寝顔を見つめる顔や、別れる直前の苦しそうな顔だ。
今どんなに忙しくても疲れていても、もうあんな顔をしてほしくない。
きっとしていない、とわたしは思う。誠順はきっと、幸せだ。
雨足が強まってくる。
ふいに、誠順が目を覚ました。
見つめるわたしと目が合い、誠順の手のひらがわたしの髪にふれた。わたしたちはお互いにわかっていたように近づいて、キスをした。
華、と誠順はささやいた。返事の代わりにわたしは、誠順の唇を食んだ。
誠順はわたしの髪をかき分けて、痛いくらいに肩や背中を抱きしめて、何度もキスをした。華、華、と、わたしを呼びながら。
2022年
わたしは母と、市民ホールの観覧席にいた。
花凛が市のスピーチコンテストで選出され、発表を聞きに来たのだ。
2年前に突然発生し世界を震撼させた感染症は、いまだ収束しない。その対策のため、観客席には保護者だけが座っていた。
花凛のスピーチのタイトルは「すべての人が、自由に服を着るために」だった。
私は、14歳です。先月、14歳の誕生日を迎えました。
そしてその日から、ズボンを穿くことができなくなりました。
「女性下衣選択法」で「単筒型下衣」を選択したからです。その日から私が穿けるのは、スカートだけになりました。
私は、幼い頃からスカートが大好きです。だから、ズボンを穿けなくなっても問題はない、と思っていました。
しかし、そうではありませんでした。
実際、穿いてはいけない、と言われると、あれも穿きたい、これも穿いておけばよかった、と後悔や、うらやましく思う気持ちばかりです。
私の母はアパレルショップに勤務し、いつもおしゃれなジーンズや、他の複筒の衣類を身に着けています。それを見ると、私も穿いてみたいなあと思いますが、もうかないません。
そして母も代わりに、かわいい単筒の服を着ることをあきらめてきたはずです。
このように、女性が着たい服を自由に着られない、そんな社会はおかしいのではないでしょうか。
わたしは思わず隣にいる母、花凛にとってのばあばを見た。案の定、眉間にしわを寄せている。
わたしは、いいぞ花凛、もっとやれ、という気持ちと、これは少々まずいのではないか、という気持ちとが交錯していた。
花凛は第一志望の中高一貫女子校に合格し、昨年入学した。ばあば念願の制服は、花凛によく似合っていた。パンデミック下の入学だったが、花凛はつつがなく学校生活を送り、周囲を安心させた。そして今年14歳を迎え、下衣選択法により単筒を選択したのだ。
しかしその頃から、ばあばはときおり愚痴をもらすようになった。
「なんだか花凛は最近、華に似てきたわ。ときどき反抗的な目つきで『私も、いろいろ考えているから』なんて言ってくるのよ」
幼いころから花凛は、わたしに顔が似ていた。よく会わせていたサヤカは、花凛を「小華ちゃん」などと呼んだ。
しかし、性格やふるまいは、だいぶちがっていた。女の子らしい格好が大好きで、行動も、迷ったときは誰かが喜んでくれる方を選択する。
そして、中学受験が最たるものだったが、いつでも誰かの期待に応えようと努力する子だった。この性格はきっとわたしではなく、誠順ゆずりにちがいなかった。
その花凛が、こんなスピーチをするなんて驚きだった。わたしは固唾をのんで、見守った。
「女性下衣選択法」は、施行されて今年でちょうど、30年になります。これまでに反対運動などが起こったことはないのか、私は調べました。
すると、民民党のサトウアサミ衆議院議員が、十代の頃から根強く活動されているということを知りました。
わたしは、市民ホールの椅子からずり落ちそうになった。どうしてここで、サトウアサミの名前が出てくるのだ。いったい彼女はどうして、忘れたころにわたしの前に現れるのだろう。
2009年にはじまった民民党政権は、わずか3年ほどで終わった。防衛面を中心に、政権運営は不安定だった。サトウアサミ1人のパフォーマンスで、それを補えるはずもなかった。
民民党は再び下野し、現在までそのままだった。サトウアサミは相変わらず党の要職を務めていたが、近年あまり目立った活動はなかった。
花凛は、彼女の現在の活動を紹介した。近年はまた、下衣選択法撤廃の活動に力を入れていたようだ。
しかしわたしは、彼女の名前をもう耳に入れたくなかった。あまりにいろいろなことを、思い出し過ぎてしまう。
わたしはサトウ議員のように、周囲に忖度せず、女性の自由な権利のために戦う人を尊敬します。
すべての人が、自由に服を着るために。
その時を迎えるために、私に何ができるのか。懸命に考え、力を尽くしたいと思います。
花凛がスピーチを終え、壇上でお辞儀をした。観客からは、大きな拍手が送られた。
帰り道、ばあばは終始ぶつぶつと文句を言った。
「女性の権利がどうとか、校風に合わないんじゃないかしら。担任の先生がよくOKを出したものだわ。いったい、どんなご指導をされたのかしら」
「だいたい、あんなギスギスした女政治家を尊敬するだなんて。あの花凛が、どうしちゃったのかしら。あの学校に、そんな子いないわよ。おかしなことを言ってるって、いじめられたりしないかしら。心配だわ」
ばあばの言葉はだいぶ表現に問題はあったが、わたしも似たような感想だった。本音は、自分の意見を持つようになった花凛を応援したい。でもそれは、今の学校にはきっとなじまないのだ。これから、思わぬ苦労をするのではないか。
その不安は的中した。
花凛は、いじめに遭った。いわゆるネットいじめだった。ほんの数人の生徒らしいが、アプリのグループだかSNSのDMだかで、キモいとかなんとか、花凛を口汚く罵っていたのだ。それが簡単にばれ、結果広まってしまうところが、また呆れるほど浅はかだ。
わたしは花凛とともに謝罪を受けたが、花凛は学校に行かなくなった。もうすぐ1か月になる。
「ママ」
自室から出てきた花凛が出てきて、リビングにいるわたしを呼んだ。
「私、来週から学校に行くね」
えっ、と次の言葉を探すわたしに花凛は、大丈夫、もう気持ちは整理できたから、と言う。
「あのくだらない人たちと距離を置くために、時間が必要だったの。もう大丈夫」
まるで、大人のようなことを言う。くだらないは言いすぎか、と花凛は、ソファに座るわたしの横に腰かけた。
「別にね、違和感を持たれることはかまわないの。でもその違和感を『キモい』としか表現できない人たちなんだよ。うちの学校、もっと皆ちゃんとしてると思ってたのに、そういう人たちがいたんだなって。残念だな、言葉が貧しいな、と思う」
わたしは驚いた。花凛はいつの間に、こんなにしっかりとものを考えられるようになったのだろう。
「そういう人たちばかりじゃなく、応援してくれる子もいるの。だからなんとかなるかなって。2,3人だけどね」
花凛は、少し寂しそうに言った。あとの人は? とわたしが聞くと
「あとの人は、ひたすら様子見。それが無難だもの。皆、変に賢いの」
わたしは、昔を思い出した。騒がしいけど自由な雰囲気の、高校の教室。一転して、どこか窮屈な空気が支配していた女子大のゼミ。サトウさんなど異質な者に、冷ややかな視線をあびせる人たち。
でも大丈夫、と花凛は気丈に前を見つめて言う。
ずいぶん大人っぽくなったが、まだかすかにふっくらした花凛の頬。変わらずくるんとした、長いまつ毛。
その横顔は、あのころの愛らしい花凛と少しも変わっていないのだ。
ねえ花凛、とわたしは、しばらく考えていたことを口に出した。
「高校、別のところに行ってもいいんだよ。もっと花凛に合った学校があると思う。また受験しないといけないけど。一緒に探してみない?」
「……いいの?」
花凛は、驚いた顔でわたしを見た。わたしは頷いた。
「オープンスクールやっているところもたくさんあるし。いろいろ探してみよう」
うん、と花凛は心から安堵したように言った。あ、でも、とわたしを見る。
「ばあば、がっかりさせちゃうね」
「大丈夫だよ」
わたしは、花凛を抱きしめて頭をなでた。
「ばあばのことは、ママにまかせて。ママは、ばあばをがっかりさせるプロなんだから。なんてことないの」
なあにそれ、と腕の中で花凛が笑った。
よかった。
これからはもっと、ばあばと花凛の間に立って、花凛を応援しよう。
こんなにしっかりとものを考えられる。周りに流されず、人を見る目だってある。花凛はきっと、大丈夫だ。
ほっとしたように花凛は、これからのことを話しはじめた。
「高校のことは夏休みが終わってから、ゆっくり考えようかな。夏休みは、ひさしぶりに四季乃井に行きたいの。シオリが、もうこっちは大丈夫だから絶対来てね、って。もう3年、行っていないんだもの」
わたしは、そうだね、行っておいで、それからゆっくり考えよう、ともう1度花凛の頭をなでた。
わたしと花凛は、3年前のあの台風の日から誠順に会っていない。あの後冬が来て年が明けすぐにパンデミックが起こり、しばらくは別の県にすら行けないほど緊迫した状況だったのだ。
震災もパンデミックも、神様が起こしたことなどではない。でもわたしはあのときの誠順とのキスを、神様に怒られたような気がしていた。
もうそれくらいにしておきなさい、しばらく会わないほうがいい、と、まるで言い聞かせられているような。
つくづく笑ってしまうくらい、わたしは誠順と縁がないのだ。
2023年
何かが崩れ去るときは、こんなにもあっという間なのか。
この年の春、イギリスのテレビ局DDCが突如「奪われたドレス 見放された日本人女性たちの30年」という番組を放送した。
「女性下衣選択法」に翻弄された日本人女性たちの悲痛な声、告発を取り上げ、日本における女性差別、人権侵害を厳しく糾弾するものだった。
日本の大手マスコミは当初、そろってこれを無視した。
しかし番組が取り上げた告発者のうち2人が「日本外国特派員協会」という場で記者会見を開いたころから、取り上げざるを得なくなった。
彼女たちの悲痛な声は全国の共感を呼び、抑えられていた下衣選択法への不満は噴出した。
これらの場に、当初の記者会見の段階から同席していたのは、サトウアサミだった。
圧倒的な世論を後押しに下衣選択法撤廃の法案は提出され、可決された。
わずか、3ヶ月ほどの出来事だった。
「歴史が動いたよね」
花凛が定休日のmer bleueで、テレビの情報番組を食い入るように見つめている。
mer bleueのバックヤードにはテレビが置いてある。花凛が幼いころ、店に遊びに来たときのために買ったものだ。
「念願がかなったわけだねえ、サトウアサミの」
耀子さんも作業の手を止め、一緒に観ている。
「正直、民民党政権のときに、やるチャンスいくらでもあっただろって思うけどね」
花凛が、そうなの? と怪訝な様子で聞く。わたしは黙って苦笑した。
「でもさあ、彼女も策士になったよね」
耀子さんは、アッシュグレーに染めたショートヘアをいじりながら言った。
「国内でワーワー言うより、外国からガツンと批判されるほうがよっぽど効くって踏んで、DDCに売り込んだわけじゃん。案の定てきめんでさ。賢くなったよ」
花凛は、憧れのサトウアサミへの辛口評に驚いた顔をしている。それを見て耀子さんは言った。
「いやでもね、すごいよ。サトウさんは、まだ花凛くらいの歳で決心したことを、何十年もかけてやり遂げたんだもの。誰にでもできることじゃないよ」
花凛は目を輝かせて、うん、すごいよね、と言った。
「耀子さん、すごくいろいろと詳しいんだね」
「最近、仕事しないでワイドショーばっか観てるからねえ」
すまして言う耀子さんにわたしは、またそんな、と笑った。
merbleueには、新しい変化が訪れていた。
新進のフランス人デザイナー、アリス・メルシエの製品が日本で唯一販売できる店となり、注目を集めていたのだ。彼女こそ、耀子さんの娘のアリスさんだった。
服飾業界はいまや廉価なカジュアルブランド全盛で、昔のように若い女性のみをターゲットにするのは、厳しい状況だった。
mer bleueは、若い頃から親しんでくれたミドル世代の女性をターゲットに据えた。アリスさんの製品の訴求力は抜群で、これからのmer bleueの原動力になってくれる、心強い存在だ。
「アリス・メルシエの母が何言ってるのよ」
「アリス・メルシエの母は、ワイドショー観ながらミシン踏んでるババアだよ」
耀子さんは笑って作業を再開した。だいたい、育ててくれたのはレオ達だしね、とひとり言のように言う。
情報番組では告発者の女性の、涙ながらの会見を映している。下衣選択法に抗議した母親が日本を去り、生き別れになったのだという。
「アリスも、寂しかったのかなあ」
耀子さんは、ぽつりとつぶやいた。
外で、話し声が聞こえた。お休みなのかしら、などと話している。わたしは、ちょっと見てくる、と入口まで出向いて扉を開けた。
そこにいたのは、サトウアサミだった。
道路には白い電気自動車が停まっており、傍らにスタッフらしき男性がリラックスした様子で立っている。
「あっ! mer bleueさん!!」
サトウアサミは、芝居がかっているほどの大きな声を出し笑顔を見せた。そして呆気に取られているわたしの手を取り、強引に握手をした。
「いつぞやかは、大変ご無礼をいたしました。おかげさまで、下衣選択法の撤廃をやり遂げました。これもmer bleueさんはじめ、ご支援くださった皆様のおかげでございます」
いえわたしは何も、本当におめでとうございます。なんと言ったらいいかわからず、わたしはモゴモゴと答えた。
聞いているのかいないのかサトウアサミは、今日はスカートを穿いてまいりました、なかなか落ち着かないものですね。いかがでしょうか、と自分の着ているスカートを示した。白いジャケットとセットアップのひざ下丈タイトスカートは、そう悪くなかった。
「とても素敵ですよ」
「ありがとうございます!」
サトウアサミは、再び握手を求めてきた。
「mer bleueさん、これからも女性が元気になる服を作ってくださいね」
そして、お写真よろしいですか? と尋ね、了承するやいなや男性スタッフに、わたしと握手したまま写真を撮らせた。そして矢継ぎ早に、SNSがどうとかいくつか確認をし、呆気に取られたまま適当に答えるわたしに早口で挨拶して、慌ただしく車に乗り込み去っていった。
後ろを振り向くと、耀子さんと花凛が様子をうかがっていた。
さすが抜かりないよね、と耀子さんはニヤニヤ笑っていた。
「きっと衆議院解散するんだよ。もうすぐ」
わたしは、思わず吹き出した。
耀子さんの隣では花凛が、ママすごい、サトウさんと知り合いだったの、と驚きと尊敬のまなざしで見つめている。
わたしと握手した画像は、1時間も経たないうちにサトウアサミのSNSに掲載された。
「吉祥寺のアパレルショップ・mer bleueの店長さん。
やり方は違えど、共に下衣選択法と向き合い、戦ってきた同志!
これからも、女性を元気にする服を作ってください!!」
とキャプションがついている。わたしは少々ひきつった顔で、サトウアサミと握手して画像におさまっていた。
この投稿の効果は絶大で、わたしはあちこちから連絡をもらった。
サヤカも、メッセージアプリで連絡をくれた。
「華ちゃん、サトウアサミのSNSに出てたよね!? びっくりなんだけど。つながりあったんだ?」
「うん。つながりっていうか因縁っていうか、いろいろね。。」
「そうなんだー! さすがはmer bleueの店長だわ♪ 顔広いね~
あっそういえば、下衣選択法なくなったよね! 今度会うとき、ミニスカはいてきてよ。華ちゃんの美脚を拝みたいの♪」
「やめて。断る。。。まじで需要ゼロだから」
「需要はここにあるじゃないか♪」
「うそだ……
あっでも、ロングワンピは買うよ! サヤカに会うとき着ていこうかな」
「着てきて~! わたしも、ワイドパンツとかはいてみたい」
「いいねー。似合うよ絶対!」
「ありがとー!
あ、そういえばね、、
サトウアサミのSNSにいいねしたからかな、いろいろ見なれないアカウントがおすすめで出てくるんだよね。
その中に気になるのがあってね……
ちょっと見てみて!」
サヤカが教えてくれたのは「blueocean_yoshir」というSNSアカウントだった。
夜自宅でわたしはSNSを開き「blueocean_yoshir」アカウントを見た。
プロフィールは、美しい海の画像だ。
「沖縄の離島にあるshot bar『Blue Ocean』です。海がテーマのcoolなカクテルを片手に、観光客と地元民が気軽に集う店。観光や昼間のアクティビティのご相談もどうぞ。人生相談もどうぞ」
と書かれている。
固定の画像の、1枚目は海。わたしはタップしてみた。
美しい海の画像とともに、こんなキャプションが添えられていた。
店名「Blue Ocean」について、ちょっとだけ。
「Blue Ocean」には、競争相手が少なく活躍できる場、という意味もありますね。転じて、いろいろなことを気にせずのびのび過ごせる場所、自分らしく思いきり翔べる場所、そんな意味を、この店名に込めてます。
店長は、東京出身です。20年ほど前、仕事や人生に行き詰まって、この島に流れ着きました^^
この島に、海の蒼さに、本当に本当に救われたんですね。
自分にとって「Blue Ocean」は、この島そのものです。
そういう場所さえあれば、人は楽しく生きていけるのかな、と思います。
皆さんひとりひとり、それぞれに「Blue Ocean」はあります。今は見つからなくても、必ずどこかにあるはずです。
それが見つかるまで、どうぞ何度でもこの島に、この店に、癒されに来てください。
お待ちしてます!
2枚目の画像は、美しいマリンブルーのカクテル。
そして3枚目は、アクティビティを楽しむ男性と少年の画像だった。
拡大して見ると男性は、昔つきあっていたヨシカワだった。
かなり日焼けをし、年相応に皺は刻まれているが、まちがいなく彼だった。
傍らの少年は、高校時代のヨシカワに少し似ていた。花凜と同じくらいか、少し歳下に見える。ヨシカワの息子なのだろうか。
わたしは海の画像とヨシカワの画像を、何度も開いて眺めた。そしてヨシカワの「Blue Ocean」の話を、何度も何度も読んだ。
Blue Ocean。
蒼い海。
自分らしく、思いきり翔べる場所。
わたしは翌日、耀子さんにこれを見せた。
「元カレ、いいこと言うじゃん」
耀子さんは、わたしの肩をたたいた。
「元気そうだね。幸せそうだし。よかったね」
わたしは、大きく頷いた。
「誰にでもBLUE OCEANが、蒼い海があるっていうこの話がね、やたら心に響いちゃって。なんでだろ。これ見てから、ずっとなの」
「mer bleueも、蒼い海って意味だもんね」
耀子さんは、さらっと言った。
「そうなの!?」
わたしは驚いた。
「知らなかったの?」
信じられない、普通調べるじゃん。耀子さんは、呆れた顔で笑った。
その通りだった。
「どうして、蒼い海、なんて名前にしたの?」
耀子さんは、さあ、と首をかしげた。
「レオがつけたんだよ。なんでかはわからないな。海はいいよ、人の心をきれいにするよ、なんて言ってた」
mer bleue。
蒼い海。
自分らしく、思いきり翔べる場所。
今はじめて知ったような、でも最初からわかっていたような。
不思議な気持ちだった。
2024年
花凛は夏休みに入ってすぐ、誠順の実家に遊びに行った。数泊して今日帰ってくる。
いつもは1人で家まで帰ってくるが、今回は東京駅のどこそこでご飯を食べたいというリクエストがあった。わたしは東京駅で、花凛を出迎えることになった。
今日も、暑い。猛暑日がつづく夏は、もう当たり前になってしまった。
わたしは駅への道を急いだ。
最近の花凛は、本当に明るい。
花凛は春に、都内の共学高校に入学した。毎日、楽しくて仕方がないと言いながら通学している。口数も増えた。
内にこもったり、無口になったり、反抗的になったり。中学時代はそんなことがよくあったが、今はどこ吹く風だ。
年齢的なものもあっただろうが、やはり中高一貫女子校で進学せず、今の高校に行ったのは大正解だった。環境って、本当に大事だ。
Blue Ocean。
蒼い海。
自分らしく、思いきり翔べる場所。
そういう場所さえあれば、人は楽しく生きていける。
昨年、昔つきあっていたヨシカワがSNSで言ったこの言葉が、最近のわたしを支えている。
わたしの大好きなmer bleueが、同じ「蒼い海」という意味だったことも、驚きだった。
悲しい別れをして音信不通になっていた彼が、そういう場所を見つけ楽しく生きていた。
そしてわたしも気づかないうちに、そういう場所に守られていた。
その2つのことがわたしを、とても温かく支えてくれたのだ。
誠順は、今どんな風に生きているのだろうか。
誠順のことになるといまだに、あえて考えることを避けて、直視できないわたしがいる。
もう5年も会っていない。最後に会ったときの強烈な記憶も、さすがに薄れてはきたけど。
東京駅に着き、東北新幹線の改札前で、わたしは花凛を待った。
到着時刻から数分が過ぎ、降車客が続々と改札に向かってきた。わたしは花凛の姿を探した。
まもなく、花凛を見つけた。
しかし花凛は、1人ではなかった。背の高い、大人の女性と2人で連れ立って歩いてくる。
とても楽しそうに話している。仲がよさそうだ。
2人は改札を抜け、わたしを見つけた花凛は大きく手を振った。
女性は屈託なく微笑んで、わたしに会釈した。
わたしは、彼女を知っている。名前も知っている。その姿は、スマホなどの小さな画像でしか見たことがなかったけど。
誠順の、奥さんだ。
「ママ」
弾けるような笑顔でわたしに駆けよって、花凛は彼女を手のひらで指し示した。
「こちら、ユキさん」
「はじめまして。ユキです」
「ユキさん」はお辞儀をした。さっぱりと朗らかな笑顔だ。低めだがよく響く声が、心地いい。
「はじめまして。花凛の母です。華です」
わたしもできるだけ丁寧に頭を下げ、花凛がいつもお世話になってます、と付け加えた。
「ユキさん、仕事とちょっとプライベートで、東京に来たの。せっかくだから一緒に新幹線乗ってこようってことになって」
花凛がニコニコと説明した。
「1泊だけで、仕事の用事と、いくつか人に会う用事があって。ちょっとバタバタなんです。東京は暑いですね」
ユキさんも、心地いい声でにこやかに説明した。
老舗ホテルの若女将としては当然の、感じの良さだった。でもわたしは彼女の笑顔になぜか、それ以上の親しみがこもっているように感じた。
「暑いですよ、本当に。熱中症には、くれぐれもお気をつけて」
わたしもありふれた受け答えに、自然と親しみがこもるのを感じた。
じゃあ、約束の時間が近いので失礼します、すみません慌ただしくて、とユキさんはわたしにまたお辞儀をした。花凛には胸の前で手を振って、またね、と笑顔で言った。
そして去り際いちだんと親しみのこもった顔で、もう一度わたしを見た。
「本当に、そっくりなんですね」
ユキさんは手を振って、あっという間に立ち去った。
「ママは私とそっくりだからすぐにわかるよ、って話してたの」
花凛は笑ってわたしに説明した。
「私とユキさんは、長いつきあいなの」
急にそんなことを、花凛は言った。
「私がはじめて四季乃井に行ったころから、ユキさんはいたんだもの」
花凛は今まで、ユキさんの話をわたしにしたことはほとんどなかった。なぜ今こうして、会わせたりしたんだろう。
わたしたちは、東京駅にある、花凛ご所望のレストランに入った。
「ソウヨウに泊まったの」
花凛は、うれしそうに報告した。以前話していた新館だ。オープンからしばらく時間は経っていたが、今回客室の予約に余裕がありようやく泊まれたのだという。
「シオリとばあばと一緒にね。朝はちゃんと、清掃の方と一緒にお掃除したよ」
ソウヨウ、見る? と花凛はスマホを取り出した。いろいろ写真は撮ったけど、公式動画の方がきれいでわかりやすいなあ、と手早くスマホを操作して、動画サイトの四季乃井のページを出し、わたしに見せた。
動画は、2年前の日付だった。
「ホテル四季乃井 新館・蒼洋オープン!若女将がご案内します」
とタイトルがついている。
冒頭からユキさんが、施設をあちこち回って紹介する。
想像したより、ずっとモダンな建物だ。
「かっこいいね。もっと、和風なの想像していた」
わたしが感想をもらすと、花凛は得意そうに言った。
「四季乃井の本館は、和風な感じなの。でも蒼洋はちがうんだよ」
ユキさんはモダンなホテルに合わせてか、着物姿ではない。白いシャツにシンプルなパンツスタイルで、颯爽と館内を歩き回っている。
2年前。
ユキさんは、「複筒」だったのか。
そしてユキさんは、最上階の客室を案内した。
「客室は、全室オーシャンビューです。こちらは最上階ですが、どの階、どの客室からも海をご覧いただけます」
客室の窓からは、キラキラと晴天に照らされた海面。
蒼洋。
ここにも、蒼い海だ。
「本館は、じいじとばあばがメインでやってるの。だから蒼洋はね、パパとユキさんのやりたいことがいっぱいつまってるんだよ。2人とも忙しいけど、楽しそう」
花凛は、動画をじっと見つめるわたしに、そんな風に教えた。
「パパとユキさんはね、仕事の相棒っていうかバディっていうか、そんな感じ。いいコンビなんだよ。2人ともやりたいことが共通だからだよね」
わたしは、頷いた。
素敵な人だったね、ユキさん。思わずそうつぶやくと、花凛も大きく頷いた。
「ユキさんは、いい人だよ。すっごく、いい人」
花凛の人を見る目は、たしかだ。
動画が終わってもわたしは、スマホの画面を見つめつづけていた。
「飲んだら?」
手をつけられず水滴だらけになったアイスティーを花凛にすすめられ、わたしは慌ててひとくち飲んだ。
食事が運ばれてきた。
食べながら花凛は、ねえ、と言いにくそうに切り出した。
「ママって、つきあってる人いないの?」
いないよ。わたしは驚いて答えた。花凛はフォークを置いてわたしを見つめ、つづけた。
「ママ、誰かとつきあったっていいんだよ。結婚とか言われると、ちょっと考えちゃうけど……でもママ、まだ若いしさ。見た目も。全然いけると思うよ」
思わず、笑みがこぼれた。花凛が、こんなことを言うようになったのだ。
うれしさや、くすぐったい気持ちや解放感や、寂しさや切ない気持ちや、いろいろなものが一気に押し寄せる。
それらを全部抑えてわたしは、笑い飛ばすように言った。
「ママのことはいいんだよ」
「花凛こそ、つきあってる人いないの」
「いないよ」
顔が、赤くなっている。
まだまだ可愛らしいその頬を、わたしは軽くつねった。
「花凛に彼氏ができたら考えるよ」
そうだ、とわたしは思いついて、花凛に言った。
「花凛、今度mer bleueにおいで。まだ複筒……じゃないや、パンツ系の服をあまり持ってないじゃない。パンツ系もスカートもワンピースも、花凛くらいの子が着られる服、たくさんあるんだよ。いろいろ着せてあげるから、おいで。いきなりデートってことになっても、困らないようにね」
花凛はわたしを見て、楽しそうに笑った。
「ママはいつも、店と服のことばかりなんだから」
〈了〉
