小説|さいはてドライブ(第四話)
chapter4. 大和~三本木
詩映さんは、相変わらず助手席で小さくなっている。気にしなくていいよと言ってあげたいが、そう大らかになれない厄介な事態だ。
しかしそもそも、富谷イオンで運転を代わろうなどと言った僕が悪かった。まさか、あんなにひどい腕だとは思わなかったのだ。
詩映さんは、僕と代わって運転席に着いた途端
「……アクセル、ブレーキ、サイドブレーキ……」
などとぶつぶつ言いながら確認を始めた。これほど不安なことはない。
走り出しても、目線がさっぱり定まらなかった。キョロキョロしているのに肝心な所は見ていないという、運転初心者の典型だ。
ふいに、卸町大通りで詩映さんがつぶやいたことを思い出した。
とうに青々と繁っているケヤキ並木を見て「緑が濃くなってる」と。
今日みたいなことを頼まれるのだから車がなくて、車通勤でもないに決まっている――地下鉄通勤で卸町駅と会社との往復なら、めったにあの大通りは通らないだろう。
運転は、かなり久しぶりだったのかもしれない。会社は車通勤をする人がほとんどだから、そんなことを考えもしなかった。
そういえば、富谷市役所での手続きは大丈夫なのだろうか。もっとも、これから引き返して向かっても受付時間に間に合わないだろうし、どうするかと聞かれても詩映さんも困るだろう。言い出しかねていると、おっさんが後ろからお喋りを始めた。
「俺はねえ、大衡で働いてんだ。大衡さ、トヨタの工場があるべ? その近くに、ドラッグストアの物流センターがあんのさ。でっけえのよ」
詩映さんが、そうなんですか、と相槌を打った。車は大衡付近を走っており、道路脇には標語の看板が立っている。
「『明るい郷土で健やか成長』。俺が言うと冗談にしか聞こえねえな」
おっさん、いや寛二さんはガハハと笑った。
「いやでも、毎日一生懸命働いてんのさ。もう体力勝負よ。次から次とシャンプーだ洗剤だって流れてきて、せっせとこっちからこっちに詰めねばなんねえ。んでも、グジグジくだらねえことを言うやつもいなくて、皆でせっせと働くのは悪くねえよ。んだから、還暦過ぎてこんな体になってもなんとかやってんのさ」
僕はこの寛二さんを信用していいのか、必死で見極めようとしていた。子どもの結婚式というのは、はなはだ怪しいが――礼服など持っていないし、荷物もごく少ない――しかし最悪、単なる遊びの移動に使われるだけだとしてもいいと思った。僕達に危害を加えたり、金を取ったりする気がないのなら。
富谷、大和を過ぎると、目に入る風景がさらに寂しくなってきた。今使われているのかわからないような葬祭会館、病院、明らかに閉店したコンビニや、レストラン跡の建物が建ち並ぶ。
運転は当然、高藤さんに代わってもらった。
やってしまったな。情けないやら申し訳ないやらで、ずっと下を向いている。高藤さんもあきれているに違いない。
大衡に勤めているという「寛二さん」の職場の話を聞いているうちに、いつの間にか四号線は片側一車線になっていた。
結婚していた頃、圭太の両親や祖父と車で何度かこの辺りを通ったことがある。
窓の外は、左手にまばらな建物、右手に農地。
広がる農地にも、何が植えられているのか私にはさっぱりわからない。何かが植えられた農地だけでなく、雑草が繁ったような荒涼とした農地もある。植えられる前なのか刈り取られた後なのか、はたまたどちらでもない休耕地なのか。私には何ひとつわからなかった。
圭太の祖父――「じいちゃん」は八十代後半だが元気で、家族中誰も逆らえないような存在だった。
いつだったか秋頃に、「あそこは稲刈りが終わったんですね」なんてわかったようなことを言って、じいちゃんに
「休耕田だっちゃ、何にも知らねえんだな」
と苦々しく言われた。
怖くて、じいちゃんに自分から話しかけるのはもう絶対にやめようと思った。
じいちゃんは昔、地域の少年野球チームの監督をしていた。圭太の父も兄も圭太もその下でプレーをし、高校や大学まで野球を続けた。圭太や一家にとって、じいちゃんは絶対の存在だった。
圭太の実家では、じいちゃんを中心に、圭太の父と兄、圭太――男の人達が居間で酒を酌み交わす。女の人達は食事を準備したり子どもを遊ばせたりしながら、ずっとダイニングにいる。家族なのにこんなに男女がくっきりと隔てられている世界を、私は結婚して初めて知った。
派手でも都会好きでもない私が、この家にも土地にも全くなじめない。
圭太の家族とも、小さな子どもを持つニュータウンのご近所さんとも仲良くなれなかったり、絶望的な不器用さと方向音痴で車の運転が一向に上手くならなかったり、海や山を楽しむようなアウトドア派でもなくて、それがなければイオンくらいしかないこの地に辟易したり。
その一つ一つは、取るに足らないことだったのに。
圭太との新しい生活に希望を持ってここに来たけど、真新しい街と古い集落の共存するこの地で「お嫁さん」として生きることに、私はどこか現実感を持てなかった。そして結局、ずっと変われなかった。
もし、子どもがいたらどうだっただろう。そしたら案外、けろっとして変わることができたのだろうか。
「そうだ、三本木に道の駅ってあったよねえ」
寛二さんが、また後ろで唐突に声を上げた。
「もうすぐ三本木ですよ」
高藤さんが答えると、寛二さんはすぐに「寄ってってけねえかな」と言った。
「いいですよ」
「土産を買いてえんだ。息子達にさ。まだ何も買ってねえから」
高藤さんは小さく相槌を打って、表情を変えずハンドルを握る。
高藤さんは、どう考えているんだろう。
寛二さんは、息子さんの住む岩手に行きたがっている。だけど何やら持病で――それも本当かどうかわからないけど、さっきの顔色は尋常ではなかった――バスにも新幹線にも乗れないから、この車で連れていってほしい、と。高速でなく下道で。
下道で盛岡まで、一体どれくらいかかるのだろう。
この人、本当に大丈夫なんだろうか。
何か、別の目的があったらどうしよう。
でも、さっきスーパーのベンチで「息子の結婚式に行ってやりたい」と話したあの切実な目は、きっと嘘ではない。
あれを見てしまったら、何か自分にできることはしてあげたい、そう思ってしまう。
ひたすら無口になる私と高藤さんを尻目に、寛二さんは喋り続ける。
「三本木ってさ、面白えよね。東京は六本木だけども、宮城は三本木。あ、岩手には一本木があんのよ。免許センターがあってさ――他はなあんにもねえ所よ。免許の書き換えにしか行かねえ所よ、一本木」
ほどなくして三本木道の駅に着いた。ぐるぐると旋回するような複雑な入口を入る。私でも目が回りそうで思わず寛二さんを振り返ったけど、道の駅の建物を子どものような無邪気な顔で眺めていて元気そうなので、安心した。
「僕らはいいです。買い物して来てください」
高藤さんはそう言って、私に目配せした。私もそれに目で応えてうなずいた。駐車場に停まった途端寛二さんは子どもみたいに車から飛び出し、建物に駆け込んだ。
「本当にごめんなさい。私が事故を起こしたからこんなことに」
私の言葉を高藤さんは、首を振って制した。
「なし、なし。ごめんなさいとか――もはやそういう状況でもないっていうか」
うなずく私に、シートに深くもたれながら高藤さんは訊いた。
「そういえば、市役所は大丈夫なの? いやもう今日は、間に合わないけど」
そう、今日はもう間に合わない。だからもう手遅れだ。あまりにいろいろなことが起こりすぎて意識の隅っこに押し込んでいたことが、ずんと胸に重くのしかかった。
「大丈夫――いやもういいんです」
もういいんだ、これで。そもそもやろうとしていることが、不自然だったのだから。
これからのことを考えながら重い気持ちを振り払うように、私はそう自分に言い聞かせた。
「それより、高藤さんのお仕事は? あの人を送ってて間に合うんですか?」
心配そうにこちらを見る高藤さんに、私は訊いた。
「大丈夫だよ。アポは月曜日だから。前乗りして、岩手にいる大学の友達と会うつもりだったんだ。それをキャンセルすれば……まあいくらなんでも日曜日の夜までには、あの人を送り届けることはできるだろ」
すみません、とまた頭を下げる私に高藤さんは「すみませんは、なし」とぴしゃりと言い、それより、と車の中なのに声をひそめた。
「あの人――寛二さん、どう思う?」
高藤さんの目が、こちらをのぞき込む。リュウ――実家で飼っている、賢いラブラドールのリュウをまた思い出してしまった。
「怪しい、けど」
高藤さんは、ふっと笑ってうなずいた。
「でも、息子さんのために帰りたいっていうのは嘘じゃない気がする」
「結婚式は嘘かもしれないけどね」
高藤さんは笑いをこらえるように言った。
「結婚式、嘘かな?」
「いやだって、礼服も何も持っていないじゃん。怪しさ満載だよ」
「確かに……」
私は高藤さんの言葉にうなずきながらも、大和のスーパーでの寛二さんの表情を思い出した。
「でもね、あのスーパーのベンチでのあの顔は、どうしても嘘には思えなくて」
私の言葉に、高藤さんは二、三度うなずいた。
「――よし、このまま行こう」
はい、と返事をする私に高藤さんは首を振った。
「いや詩映さんは、もう帰らないと。ここから古川駅まで送るから、電車で帰ればいい」
「えっ。ダメですよ。そもそも私が招いたことだもの。帰るなんて、そんな無責任なこと」
「あの人大丈夫とは思うけど、100%安心じゃないでしょ。二人で危ない目に遭っても仕方ないじゃん」
言い争っているうちに、寛二さんが戻って来た。
「見で、見でえ。酒だの笹かまだの、野菜だのさあ。あとシソ巻き。これ、うめえよなあ」
運転席の窓越しに寛二さんはますます無邪気な様子で、袋の中身を見せてきた。
「野菜なんか買ったんですか。新鮮なまま持って行けるかな」
高藤さんの言葉に寛二さんは「んだなあ」と思案顔をしながら、後部座席に回り車に乗り込んだ。
「わかんねえけどさ、これからどっか宿に泊まるべ?」
えっ、と高藤さんは後ろを振り返った。
「まさか、夜通し走るつもりではねえべ。俺も疲れたし、ひとっ風呂浴びて休みてえのさ。古川さ行けば、どっかホテルあるべ。野菜は、ホテルで冷蔵庫さ入れれば大丈夫でねえの? 高藤ちゃんも、もう休んだ方がいいぜ。なあ詩映ちゃん?」
寛二さんはそう言って、私に同意を求めた。
「そうですね! 古川のビジネスホテル探しましょ――高藤さん、行こう」
高藤さんは呆気に取られ、寛二さんと私に気圧されたようにハンドルを切った。車はまた、四号線を北上し始めた。
〈つづく〉
