見出し画像

山上の垂訓に「欠けている」もの

「幸い」と聞いて、どんな場面を思い浮かべるでしょうか。昇進、合格、快晴の休日、ライブのチケット当選——そんなものを想像する人が多いはずです。少なくとも、「迫害」を連想する人はあまりいないでしょう。ところが、イエスは言います。「義のために迫害された人々は、幸いである」と。

迫害されているのに、幸い? 罵られ、悪口を浴びせられているのに、喜びなさい?

きょう読んだ聖書箇所は、有名な山上の垂訓の一節です。あまりにも有名で、あまりにもきれいに引用される言葉。でも、よくよく読むと、かなり過激で、かなりやっかいです。

「幸い」という言葉の「手触り」が、私たちの感覚とずれているからです。


義のために迫害された人々は、「幸いである」?

きょう読んだ聖書箇所から。

山上の垂訓は、有名な箇所です。キリスト教徒でなくても知っている人は多いでしょう。

義のために迫害された人々は、幸いである
天の国はその人たちのものである。
私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

『マタイによる福音書』第5章10節〜12節(聖書協会共同訳)

迫害というと、江戸時代の禁教とキリシタン弾圧が日本では有名な事例です。そこからキリスト教は解禁になったものの、大日本帝国憲法第28条における「信教の自由」は、「安寧秩序を妨げず、かつ、臣民としての義務に背かない限りにおいて」でした。

日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

『大日本帝国憲法』第28条

日本国憲法第20条においてその前提条件は解かれましたから、いまの日本で、キリスト教に対する迫害というものは、表向きはありません。

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。

『日本国憲法』第20条1の前半

「表向き」というのは、地域によってはまだまだ慣習的なものがあったりしますし、日本ではキリスト教やイスラム教などはやはり「異教」と認識されていることもあります。SNSなどで、キリスト教徒は日本人ではないなどという趣旨のフレーズを目にしたこともあります。さすがにそれ以上のことは書かれていませんでしたが、日本国籍があってもキリスト教を信じている人間は外国人のようなものであり、かつ、外国人に対する差別的な扱いを適用することは正当である、というニュアンスは十分に伝わってきました。

ところが。

迫害を受けたときの対処が、山上の垂訓では特に指示されていないのです。いや、「大いに喜びなさい。」とは書かれていますし
天には大きな報いがある。
のだそうです。ありがたいことですイエス様ありがとうございます……いやそうじゃなくて。

迫害に対して毅然として立ち向かえとは書かれていない、そのことにツッコミたいのです。

そういえば。

世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は2025年3月、東京地方裁判所から宗教法人法に基づく解散命令を受けました。

旧統一教会側は即時抗告し、現在は東京高等裁判所で審理中とのことですが、旧統一教会は「信教の自由」を掲げてこの命令を「国家による不当な弾圧」や「宗教迫害」であると受け取り不当性を訴えています。この解散命令が正当か不当か、ここで論じることはしませんし、旧統一教会がキリスト教か異端かということを論じることもしませんが、見方によっては、旧統一教会は、「迫害」に対して「毅然として立ち向かっている」と言えます。

(宗教法人法は、財産管理や事務など宗教団体の世俗的な側面に対して法人格を与えて法的な枠組みを定める法律です。したがって、解散命令が確定すれば宗教法人格は失いますが、任意団体として活動を継続することはできるので、旧統一教会がその信条に基づく宗教活動を行えなくなることはありません。このことに注意が必要です)

さて、仮に、キリスト教のある教派が、国から同じような対応をされて、かつそれが不当であった。そういうことを考えてみます。そして、客観的に見て、多くの人がこれを「迫害」だと受け取れる。そのような場合、その教派はどうするべきなのでしょうか。

聖書のこの箇所には、毅然として立ち向かえとは書かれていませんし、毅然として立ち向かってはいけないとも書かれていません。ですから、その教派は毅然として立ち向かうことも、そうはせず粛々と従うこともあり得ます。

……いやさすがに例が大袈裟ではないか? 確かにそうだと思います。それではもう少し生活に近い(?)例にしましょうか。あるキリスト教とが、地元の神社の祭りやお寺の盆踊りなどに参加しないことで、「村八分」とまでは言わないまでも地域で「不当な」扱いを受けていたりすることもあるでしょう。

(なお、このようなケースでは、地元の神社の祭りやお寺の盆踊りといったものが地域コミュニティの基盤となっていることもあるので、「不当な」扱いをする側から見ると、「果たすべき義務を果たしていない」ように見えることにも注意が必要です。クリスチャンである石破前首相が、総裁選出陣式を行ったのは神社の境内だったそう。是非はさておきますが、石破前首相が神社が地域で果たしている役割を重視していたことは伺えます)

クリスチャンではないから分からない、という場合は、逆に、海外で、キリスト教に基づくという理由で地域の祭りに参加しなかったら地域内で冷遇された、という場面を想像してみるといいかもしれません(「日本人は異教に寛容」だという理解をしていると、これも想像しづらいかもしれませんが)。

いずれにしても、迫害に対してどうすべきということをイエスは論じてはおらず、聖書には書かれていないのです。

なぜでしょうか。

正直いうと、私には分かりません。

ですが、もしこの箇所に迫害に対してどうすべきということをイエスが論じていたら、この箇所は何か根本的なものを失うように思います。

小春どころじゃない日和

先週の日曜日はこんなことを書きました。

関東は大雪で、あちこちで交通が乱れました。幸い、私自身は大きな影響を受けなかったものの、なかなかの寒さ。路上の雪は消えましたが、植え込みの上などにはまだ雪が残っていました。

すぐに回復しない時間の中で

いや待って。きょうは20度近くありますよ最高気温。

……まあ、暖かいからいいか。というわけできょうは午後、お台場まで足を伸ばして、有明の方向まで散歩したのですが、チューリップが綺麗でした。あのあたり、好きなんですよ。

今週の予定

木曜日はm-flo『SUPERLIMINAL』ライブ

有休使って行きます。ただいま予習中。

ところで『come again *Reloaded』。m-flo loves 櫻井翔!?

以前からコラボレーションしていたそうですが、これ、嵐のメンバーが参加している楽曲と聞いてもにわかには信じられない曲です。櫻井翔ってこんな声でしたっけ!?!?!?

note

書けるときに原稿をせっせと書いています。

仕事

前述のm-floがありますから、4日で全力で終わらせられるようがんばります。

身の周りの整理整頓や、必要なものの修理など

あるものの修理に必要な道具をそろえ、作業場所の確保に向けて動いています。

確定申告

確定申告はもう少し時間がかかりそう。

Rustプログラミング

勢いで始めてしまったのですが、「ちょっとしたコマンドラインインタフェース」を作るつもりが、思ったよりテストケースを考えるのが大変で、思ったのとは別のところにボトルネックがありましたね……AIでプログラミングはかなり楽な時代になったと思いますが、それでも、AIにコードを生成させればちょちょいのちょい、なんてことはないようです。むしろ、プログラミングの素養を持っていると簡単ではないのかも。

今週のテーマは「書かれていない中で、生きる」

以上を踏まえたうえで、自分なりに咀嚼した結果として、今週のテーマは「書かれていない中で、生きる」としました。

正解はない。

山上の垂訓が迫害への具体策を書いていないように、私たちの日々にも万能のマニュアルはありません。だから探り探り進むしかない。一方で、たとえば仕事においては、「答え」を出さなければならない場面も確かにあります。その緊張の中で大切にしたいのは、反射的に反応することではなく、そのときどきの結果と現実をきちんと受け止めたうえで、できるだけ素早く、そして誠実に応答すること。

迷いながらも立ち止まりすぎず、急ぎすぎず。そんな姿勢で一週間を歩んでいきたいと思います。

いいなと思ったら応援しよう!