『ひとすじのノート』をはじめた理由を、あらためて
基本的に毎週水曜日に『ひとすじのノート』を書くようになり、気がつけばそれなりの数になりました。
これだけの数が積み重なったという事実は、自分自身にとっても少し意外であり、同時に、どこか納得できるものでもあります。
そこで今回はあらためて、『ひとすじのノート』をはじめた背景や意図、そして自分なりの逡巡について、少し丁寧に書いてみようと思います。これまで断片的には触れてきた内容ですが、一度まとめて言葉にしておくことにも意味があるように感じています。
大きな影響を受けた一冊──『灰色の断想』
以前にも書いた通り、このノートは、ある一冊の本から大きな影響を受けています。それが、故・藤木正三師の『灰色の断想』です。藤木師が遺されたその文章は、私にとって、読むたびに姿勢を正されるような、不思議な力を持っています。
『灰色の断想』に触れたとき、そこにあったのは、強い主張や派手な言葉ではありませんでした。むしろ、日常の中で立ち止まり、考え、祈り、そして再び歩き出すための、ごく静かな言葉の連なりでした。その静けさこそが、今の自分には必要なのだと、直感的に感じたのだと思います。
このノートは、『灰色の断想』を半ば模倣しているところがあります。藤木師にはお目にかかったことがなく、生きた時代も重なっているとはいえ違う時代ですし、歩んだ人生は全く異なるものです。ですから、ある意味では「模倣としての拙さ」が出ているようにも思いますし、そこで出会った文章のあり方に、強く惹かれたことを素直に記しているともいえます。
題名についての正直なところ
『ひとすじのノート』という題名については、正直なところ、あまり胸を張れる由来があるわけではありません。いいものを思いつかなかった、というのが実情です。「ひとすじ」という言葉も、少し気恥ずかしさがあります。どこか気負っているようにも聞こえますし、自分がそんなに一貫した人間かと問われると、即答できるわけでもありません。
それでも、今さら変えるのもな、という気持ちが勝り、この題名のまま続けています。題名が先に立派であって、中身が追いついていない、という状態なのかもしれません。ただ、その違和感も含めて、自分なのだろうと思っています。
400文字という形式
形式は400文字以内、いわば、むかしの原稿用紙1枚分です。この分量も、『灰色の断想』から受けた影響が大きいものです。藤木正三師は、奉仕されていた教会の週報に、これらの断想を掲載していたと聞いています。その記憶から、「原稿用紙1枚分」という感覚が、自分の中に自然と残っていたのだと思います。
400文字という制限は、短いようでいて、意外と多くのことを要求します。言いたいことを詰め込みすぎれば散漫になりますし、慎重になりすぎれば、何も言えなくなってしまう。そのぎりぎりのところで言葉を選ぶ作業は、決して楽ではありませんが、自分にとっては必要な訓練でもあります。
AIを使わないと決めている理由
「ひとすじのノート」において、私はある明確なルールを設けています。それは、題材選びにも、執筆にも、AIを使わない、ということです。これは技術への否定や拒絶ではありません。むしろ、私は日常的にAIの助けを借りていますし、その恩恵もよく理解しているつもりです。
それでも、このノートに関しては、人格的なことを書きたいと思いました。AIを使っていても、その人の人格がまったく現れないわけではありません。しかし、人格的なことを表現しようとするとき、AIはあまりにも「もっともらしいこと」を書けてしまいます。いわゆるハルシネーションの問題も含めて、そのもっともらしさに頼ることは、誠実ではないと感じたのです。
もちろん、AIの「もっともらしいこと」によって、自分の思考が整理される場面は多々あります。それ自体を否定するつもりはありません。ただ、この断想に関しては、整理されすぎない言葉、整っていない思考のままの言葉を、そのまま差し出したいと思いました。そして、AIは祈れません。少なくとも、私が考える意味での祈りはできない。その一点だけでも、ここではAIを使わない理由として、十分でした。
なお、AIを使わないということ以外で気をつけているのは、字数と、具体的な他者を貶めることのないようにすること、その二点だけです。それ以上の縛りは設けていません。
では、なぜはじめたのか
では、そもそもなぜ「ひとすじのノート」をはじめたのか。これについては、正直に言うと、自分でもよく分かりません。明確な動機や目的があったわけではないのです。
ただ、書いておきたいと思ったことは確かでした。何かに抗っているとも言えますし、かといって、反対ばかりしているというわけでもありません。人生や世間といったものに対して、完全な否定から入っても、何もはじまらない。そのことは、これまでの経験から、身に沁みて分かっていました。
自分の人生や、世間というものを、ある程度は肯定しつつ、それでも自らを律する姿勢は崩さない。その緊張関係の中で、考え続ける必要を覚えたのだと思います。そのための仕組みとして、このノートが必要だったのかもしれません。
公開することへの迷い
今後、ずっと続けるのかと問われれば、それも分かりません。正直に言えば、書いていて気恥ずかしいのです。ここまで内省的な文章を、人目にさらす必要があるのだろうか、と思うこともあります。公開せずに、どこかに書き溜めておくだけでもいいのではないか、そう考えることもあります。
実際、インターネットが普及する前であれば、こういう文章は、どこかに埋もれていたでしょう。藤木正三師ほどの内容が書けていれば、出版の声がかかる、ということもあったのかもしれません。しかし、自分の書いているものが、そうした水準にあるとは、とても思えません。
それでも書いておく理由
それでも、やはり書いておいたほうがいいのだろうな、とも思っています。こういう形で自分を律しておかないと、おそらく自分は、よからぬ方向に進んでしまいそうだ、という感覚があるからです。
誰かに読まれることを前提にすることで、初めて立ち上がってくる言葉もあります。公開するという行為は、同時に、自分自身への抑止力にもなります。その緊張感が、今の自分には必要なのだと思います。
おわりに
「ひとすじのノート」は、立派な思想や結論を提示する場ではありません。むしろ、迷いながら考え続けるための、ささやかな記録です。つづくかどうかは分かりませんし、途中でやめてしまう可能性もあります。それでも、書けるうちは、もう少しつづけてみようと思っています。
あらためて理由を言葉にしてみても、やはり、はっきりとした答えは出ません。ただ、それでいいのだろうとも感じています。答えを出すためではなく、問いを持ち続けるために、このノートはあるのだと思うからです。
