思い通りでない日々の中で
このところ、自分の考えや働きだけではどうにもならないことに、改めて向き合わされる場面が続いていました。うまくいかない仕事、予定通りに進まない用事、考えれば考えるほど結論の出ない問い──それでも日々は続いていきます。
きょうのnoteでは、ふと目にした言葉や、誰かのささやかな一言から導かれたような中での心の動きを綴りました。そして後半では、私事や仕事などの整理についても少し。
誰かの共感や気づきにつながればと思います。
思いがけず出会う景色
今日は教会で、ある方のお話をうかがう機会がありました。そのとき、ふと思い出されたのが、イエス・キリストを羊飼いにたとえる詩編の一節です。
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
直接そのお話の内容と関係があるわけではないのですが、「苦しみの先に見えてくる開けた景色」というイメージが、心に浮かんできました。繰り返しますが、これは話し手の方が語っていた内容ではなく、あくまで私自身の感じたことです。
自分の意思で生まれてきたわけでもなく、行きたい場所に行けるとは限らない人生。思い描いた道とは異なる歩みの中で、思いがけずたどり着いた場所に広がっている景色には、想像を超える美しさがあるのではないか──そんなふうに感じたのです。
もし人生がすべて思い通りに運んでいたとしたら、思いがけない美しい景色に出会うことは、なかったのかもしれません。そう考えると、「思い通りになること」そのものが、必ずしもよいこととは限らないのだと、あらためて思わされました。
迷いと向き合う
今日は教会の役員会もあったのですが、役員会の冒頭では、月ごとに交代で分かち合いが行われます。今回の話題は、禅僧・南直哉師へのインタビュー記事『恐山菩提寺の院代が語る「不確かな」現代 生きるためにすべきことは』からでした。
役員会での分かち合いとは直接関係ないのですが、記事のうち無料部分にあるこの箇所について思ったことも書き留めておきたいと思いました。
「現代は自己決定と自己責任が問われます。それは商売の原理であって、人間社会を覆うものではないのに、世の中の規範として強いられるから、人はおびえるのです」
『恐山菩提寺の院代が語る「不確かな」現代 生きるためにすべきことは』
ここからは私の見立てに過ぎないのですが、生成AI(AI: Artificial Intelligence、人工知能)は、この自己決定と自己責任を補強するために、使われるようになっていると感じます。なぜかというと、商売の原理である自己決定と自己責任(この言葉には違和感を覚えますが、今回はこのまま使います)が必要なときに、切り捨てられるのは「迷っている時間」だからです。
私自身、仕事ではスピードを求めることが多々あります。仕事のうえで、迷っている時間があるとしたら、そこには無駄が多いというふうにも考えます。
しかし、それはあくまで仕事の話、共通の目的が明確で、世界の動きが不確実であってもそれに対応していけばいいと分かっているシチュエーションでの話です。「先が見通せない不確かな時代」の中で進むことそのものについて、迷いというものを切り捨てることは、果たして本当にいいことなのか。自信を失い「生の強度」が落ちてしまった持たざる者の現存が、それを物語ってはいないでしょうか。
実はこのときの分かち合いでは、話がAIにも及びました。そこで私が言ったのが、AIには迷いというものがないことです。
藤木正三師によると、信仰とは、誠実に迷いに常住することとのこと。
信仰は迷いを解くことのように誤解されていますが、実は、誠実に迷いに常住することなのです。
「信仰」でなくてもいいのかもしれません。何でもいいのでしょうけれど、自分自身が信じている何かしらに基づいて生きていくということは、誠実に迷いに常住すること、言ってみれば迷いと向き合うことが必要だと思います。そして、それを「世の中がそれを許さない」のだとしたら、その世の中をおかしいと疑うことも必要ではないかと思わされます。
今週の予定
教会の事務仕事
今日、教会の事務仕事について多少の進捗を出せたのですが、まだ解決していない点があり、それを早く確認して、今週中には次の四半期に教会員に知らせる必要のある事務連絡を済ませたいところです。
実家情シス
実家の情シス仕事が入りました。内容を聞くに、それなりに時間をとられそうです……いつ行こうか……
仕事
ここで詳細に書けることはあまりないのですが、それこそ「思い通り」にいかなかったことをいかに挽回するかを考えています。挽回するのは自分のためではなく、仕事の目的のためだと心得ましょう。そして、前にも書いた通り、ここ数ヶ月で増えたせっかくの「味方」と、うまくやっていきましょう。
それでも歩いていく
「思いがけず出会う景色」や「思い通りでない歩み」について書きながら、あらためて感じたのは、私は自分の意志だけで生きているわけではない、ということでした。思い通りにならない日々、納得できない現実、不安や迷いの中で——それでも私は歩き、たまに立ち止まりながら、これからも歩いていくのだと思います。
誰かに導かれるように、あるいはただ前に進むしかなかったから進んだその一歩の先に、想像もしなかった景色が現れることがあります。それは、私が完全ではなく、迷いながら生きているからこそ出会えた、思いがけない恵みなのかもしれません。
これからも、選んだことも、選べなかったことも含めて、与えられた歩みを受け止めながら、誠実に迷いと向き合っていけたらと思います。

