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介護の風景(一部改稿)

いろいろな風景がある。
もちろん〈やさしい〉こころの風景がはじめにある。それでもひとは人格も性格も不安定な生き物だから、いつも〈やさしく〉いられるわけではない。忍耐の風景もある。

忍耐を必要としないくらい、いつも〈やさしい〉気持ちが上回っている状態でいられたら。ー
満潮がゴツゴツした岩を覆い隠してしまうように。

先日、歯科の待合室でのこと。
互いに80は越えているだろう、と見える老夫婦が支え合ってやってきた。
おそらくやまいの後遺症だろう。夫人は、半身が不自由な様子で、先が4点支柱になった杖をついて、ゆっくり擦るように足を運んでいた。

待合室は、沓脱場くつぬぎばからほんの数センチの上がりかまちになっていて、通常、スリッパに履き替える。
夫人にとってはそれが難儀な様子だった。
亭主には、妻をひょいと介助できる程の体格がない。とても痩せていて、短く刈った白髪がまばらだ。

「ちょっと待っていて」

少しでもかまちの縁に足を寄せようと、すり足している妻をそっと離し、壁の端に立てかけてあった折り畳み式のパイプ椅子を持ってきて広げた。
待合の患者が増えたとき用に用意されているのを知っていたらしい。
そこへ腰掛けるように妻を誘う。
妻は、なんとか身体を反転させて、かまちの縁に据えられたそのパイプ椅子に腰を下ろす動作をする。

転ばないように。
夫の痩せた手が、それを介助する。

夫人は、ようやく腰かけることができたが、安定しない様子だった。
椅子はかまちの上、足の先は、沓脱場くつぬぎばの方に伸ばしたままだから、高さが合わない。
靴のままかまちにあがるのを遠慮しているせいだ。
脱ぎ履きしやすいマジックテープ仕様のリハビリ用シューズを履いているが、それさえ、脱ぐのは容易でないのだ。

「ひとまず、そのままあがっちゃって。今、底は拭くから」

なんとか靴を脱いで框に足を上げようとする夫人に言いながら、夫は袈裟懸けさがけにしているポシェットの中に拭くものを探した。
あらかじめ用意してあるらしい。
しかし、夫の言葉が聞こえないのか、そうしている間に、夫人は、右足を半ば脱ぎ掛けてしまう。
マジックテープは外しきれていない。
中途半端な脱ぎ方だが、それが精いっぱいなのだ。
ウエットティッシュを取り出した夫は、ポシェットから視線を戻してそれに気が付いた。

ひとまず、そのまま、あがって、と言ったのに。
その方が手間がかからないのに。ー

怒るだろうな。
と、思った。
呆れたような、がっかりしたような気持ちになるかもしれない。
こういう状況を想定して、周到に用意してあったのだから、苦労が報われない。
しかし、どれほど〈やさしい〉のだろう。
夫は、細い身体からだを、夫人の足もとに折り曲げて、
「なんだ。脱いじゃったんだね。でも、ほら、こうして拭くから、履いたままで大丈夫なんだよ」
と、脱ぎ掛けた靴の底を拭き、剥がれかけたマジックテープを閉じなおした。
そして、その姿勢のままもう一方の足も軽く持ち上げて、底を丁寧にぬぐった。
ようやく、両足がかまちの床について安定した。

「ほらな。大丈夫なんだよ」

忍耐を必要としないくらい、いつも〈やさしい〉気持ちが上回っている状態でいられたら…。
でも、そんな願いには、到底、手が届かず、自責の念に悩む時の、いかに多いことか。

別のある日。
調剤薬局で薬を待っていた。
「お薬手帳お持ちですか?」
と、親子らしい二人が聞かれていた。
息子は50歳前後のがっしりした体格の無精ひげ、母親は小さかった。
「お薬手帳!」
ぶっきらぼうに息子が母親を振り返った。
はあ? という様子の母親はピンとこない様子だ。
「お薬手帳だよ。いつもそれに入れてるだろ!」
「……」
「貸して!」
息子が、母親の手にしているバックをひったくるように奪って、中を探る。
薬剤師は困惑した様子で待っていた。
「すみません。これです」
息子は母のバックから取り出した手帳を丁寧に薬剤師に渡した。
イライラするのは仕方がない。
それでも、こうして母に付き添って調剤薬局まで来ているのだ。
お薬手帳もしっかり管理している。
もう少し、〈やさしく〉言ってあげられれば、それに越したことはないが、それが難しいのは誰もがよく知っている。

〈やさしい〉気持ちで努力をする…。
でも、いろんな事情に縛られる。

また、別のある日。
[お昼ちゃんと食べた?]
と、突然LINEが来た。
定年を迎え、雇用延長で勤務している先輩からだった。
意味が分からず、戸惑っていると、
[ごめん。間違えた]

その後、エレベーターを待っていた時、後ろからその先輩に声をかけられた。
「このあいだは、ごめんね。実家の父がさ。一人暮らしだから、一日一回送ってるんだよ。」
先輩の実家は遠い。
今から別のキャリアもしんどい。

「なんだ。見てないのかよ?ちゃんと見てよ。」
と休憩室の端で壁の方を向いて電話している先輩を見かけた。
「既読つかないからさ。心配したよ。」
父親は弁解しているらしい。
「わかったよ。なら、いいよ。うん。じゃあね。」
気遣う〈やさしい〉気持ちを、毎日、LINEでつないでいる。

どうあればいいのか、身近になるほど、わからない。

健忘がはじまった実家の母は、近くの妹が看てくれている。
母は、同じく健忘がみられる仲のいい従妹いとこと、よく長電話しているらしい。
「それがさ。ふたりで昔話ばっかりしているの。聞いてると、へえ、お母さんって、そういうことあったんだって、初めて知ることが多くてびっくりするよ。でさ、お互いちょっと物忘れだから、ふんふん、て言いながら、また、同じ話を繰り返し、し合ってるのよ」

時々、様子伺いに、気持ちばかりの電話をする。

電話というのは用件がないと意外と間がもたない。
「元気?」
「元気」で、本来の用件は終わってしまう。
近くに居れば、お互いにTVに向いているだけでも間がもたないという感覚はないから、不思議だ。
切るタイミングも難しい。

遠くにいると〈やさしい〉気持ちでいるのは、容易やさしい。
母と妹は時々、喧嘩もしている。

出たくないってきかないのよ、と妹から折り返し連絡のあったことがある。こちらは、そもそも掛けたい時に勝手にかけている。
電話なんて、気遣っているようで、所詮、自分勝手な自己満足の振舞いなのだ。

「電話ありがとね。あたしは元気よ。暑いからお前も気を付けなさいね。いつでも、来てね。待ってるからね。また、うなぎ食べにいきましょう」
先週の土曜、久しぶりに一緒に食べたことは忘れてしまっているらしい。
「うん。またね」
と、約束にならない言葉を返す。
なかなか切れない。
「ほら、ここの赤いところをプチっと。」
妹が母にスマホの操作を教えている声が聞こえて、通話が切れる。

―了―

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