92’ナゴヤ・アンダーグラウンド(2)「サヨナラ」
第二話 「サヨナラ」(1992年秋)
お洒落な戸建て住宅が並ぶ街を抜けると真新しい地下鉄駅のロータリーが現れる。高層アパートとショッピングロードが印象的な新しい街だ。
夕暮れ時の表通りはきらびやかな灯りに映えて、行き交う人々も若やいだ雰囲気である。名古屋市名東区の藤が丘駅だ。
地下鉄とはいうものの、二つ前の上社駅からは地上へ出て高架の上を走っている。駅舎も高架の上で少し未来感があった。
東へ東へと街が拡張してきた名古屋市の一番新しく急成長中の街が藤が丘だった。
駅前の中京銀行の駐車場に止めた車の中で、久利と山村は今回の回収作戦を練っていた。
助手席で回収表を見ていた久利が顔を上げると、
「一年半ってのは長いけど、遅れてる理由は何?」と聞いた。
「やっぱり、問い合わせがさっぱりで、腹立ててるんです。もう今は新聞紙じゃない、求人誌の時代だったのに騙されたって」
「信頼度が欲しくてあえて中部新聞だって言ったの社長の方だろう?」
「ええ、当初ウチからは求人誌を提案しました」
「で、結局問い合わせゼロだったんだ」
「一件はあったそうですけど。決まらなかったと」
「じゃあ、社長の言い分はヤクザの難癖とかわらんじゃん」
「そ、そうなんですけど」
「請求書の再発行は?」
「二回出してます」
「一年半で二回は少ないなあ。毎月出すことも圧になるんだぜ」
「それも嫌みっぽくて、ちょっと抵抗がありまして、」と相変わらず山村は弱気だ。
「払わねえ方がよっぽど嫌みだよ」と久利。
どうも社長が難物らしい。実際、会ってみるのが一番だ。
「まあ、当たってくだけろだね」
久利はそう言って助手席の背に深々と背を預けると、
「ゴー!」と言った。
その工場は藤が丘の駅から程近い長久手町にあった。
造成中の宅地の外れで、宅地以外の三方は畑であった。広々と広がる荒野の中にぽつんと立っているようにも見える。
自動車部品の孫請け工場らしい。
部品倉庫の一角が仕切られて事務所になっている。
久利と山村は、その事務所で社長と対峙していた。
四十代前半だろうか、髪に白いものが混じり始めた中年である。他には地味な印象の事務の女性がデスクで伝票仕事をしているだけだ。
「すまんね、どうやらウチの検収漏れだったようだ」と社長が薄ら笑いを浮かべて言った。
年下の久利と山村を、見下すような態度だ。いつも元請けの企業担当からこんな扱いを受けているんだろうなと久利は思った。その反発が自分より格下の広告会社の若い営業に向かうのだ。
「まったく効果のない広告だったから、出したことも忘れていたよ。支払いを忘れるのもしょうがないね」と皮肉たっぷりの物言いだ。
山村は困ったような笑みを浮かべて、
「社長は毎月そうおっしゃるじゃないですか」と泣き声で言った。
「請求書再発行してくれた?」
「今まで二回出していますよ」
「二回じゃ少ないよ」と言って社長は嘲るように笑った。予想通りの回答だ。
山村は舐められている、と久利は感じた。
社長の態度は、自分より小さい動物を玩具のようにいたぶる猫科の獣を思わせた。
「社長、今回は再発行した請求書を持参いたしました」と久利が封筒を渡した。
「判った、じゃあ月末の支払日に予定しておこう」と社長は言った。
「いや今回は、明日お願いします。また来ますので」と久利はきっぱりと言い切った。
「おいおい、ウチの支払日を無視するのかねアドプランニング・遊さんは?」と社長は待ってましたとばかりに言った。
久利は手にしていたバインダーノートを、目の前の机に力一杯叩きつけるようにして置いた。
バン!
事務所中にその音が響く。
ぎょっとして凍り付く社長。久利の「堪忍袋の緒が切れた」という演技だ。
「社長さんよ、今まで御社の検収漏れで散々待ってきたんですよ。
しかも私どもは、二回も請求書再発行して辛抱強く待ってきたんだ。
まともな会社は検収漏れなんてしない!
ところがお宅はその二回でも検収漏れしてる。
最後ぐらい、こっちの都合に合わせるのが礼儀ってもんでしょうが」
久利は立て板に水を流すように啖呵を切った。
呆然と立ち尽くす社長。
「明日、お支払いください」
その久利の言葉は「お支払いいただけますか?」という疑問形ではなく要請であり命令であった。
何か言い返そうとした社長に、
「そうしないと、また月末にはお忘れになってるかもしれないじゃないですか?」と言葉をかぶせ、皮肉たっぷりに満面に笑みを浮かべてみせた。それが返って底知れない。
「じゃ、また明日来ますので」
久利はそう言うと、山村の方を向くと、顎で「行くぞ」とサインした。
翌日、アドプランニング遊の一階の自販機コーナーである。ここはエレベーターホールの一角で、自販機と灰皿が置かれ、喫煙スペースにもなっていた
終業間近の夕暮れ時、窓からは日没直前の薄暮の空が覗いている。頻繁にエレベーターのドアが開き退社する連中が降りてくる。
ベンチに座って缶コーヒーでブレイクしている久利に、内勤の女の子たちが会釈をして帰って行く。
定時に帰れるのは経理や総務の内勤だけだ。営業は、このベンチでエナジードリンクを飲んでまた夜の街に営業に出る。ご丁寧に自販機の腹には「24時間戦えますか」というリゲインのポスターが貼ってあった。
ベンチに腰を下ろしている久利の元に山村がやってきた。手にはそのリゲインを持っている。
「先輩、昨日はすっとしましたよ。
今日、午前中に行ったら、社長の奴すんなり払ってくれました」
山村の声は弾んでいた。
「あの手の奴は、相手がおどおどしてると図に乗るタイプだからなあ。俺みたいにヤクザになる必要はないけど、堂々としてればいいんだよ」
「それが僕には難しいんです。全然反響なかったといわれたら、すいませんって言っちゃう」
「そういうときは、謝罪はするな」
「すいません以外に、どう言えばいいんですか」
「この場合は、残念です、でいい」
「そうなんですか」
「すいません、と言うと、罪を認めたなと思われて相手は図に乗る。悪いことはしていないんだから、残念です、という気持ちの表明にとどめておくんだよ。クレーム話法ってやつだ」
「先輩、すごいですね」
「普段から隙は見せない。今回のように、追い詰められてから、ヤクザの様に凄んで一発逆転するのは最低の方法さ」
そう言うと、久利は飲み終えたコーヒー缶をボックスに投げ入れた。
開店前に撮影を終えることができて久利はほっとした。プレイギャル誌の広告記事用の写真である。
ここは女子大小路にあるキャバクラ・JJの店内だ。
女子大小路は、かつてここにあった中京女子短大(現・至学館大学短期大学部のこと)にちなむ名前で、三百メーター弱の距離から小路と呼ばれている。この街が居酒屋、スナック、クラブ、ゲイバー、ホストクラブ、外人パブ、音楽系クラブなど千七百件以上の店が集まる名古屋第一の歓楽街だったせいか、女子大という名前がそこはかとなく性的なアイコンとして通用するせいか、今でも延々と女子大の名が残っている。だが、最近はその名古屋第一の座を錦三丁目、通称錦三(きんさん)に奪われつつあった。
チーフの黒服と挨拶をしてカメラマンを返した頃、喧しい娘達の声が聞こえてきた。店のキャバ嬢たちがバックヤードから現れ始めたのだ。
全員、女性らしさは強調しているが全体的に落ち着いているところは、キャバクラがタイム制とはいえクラブに準じるエロのない接客業だからか。
それでも髪やアクセサリの端々に各人の個性が残っていて、髪を盛ってる娘や、メイクやネイルにギャルの片鱗を漂わせてる娘もいて面白い。
「あら、久利ちゃんじゃない」という声を掛けられ驚いて振り向くと、そこに静香がいた。
内藤静香と初めて会ったのは中学一年の春だった。
放課後の部活の後、教室へ戻った時のことだ。扉を開けた途端、きゃあという悲鳴に振り向くと、着替えている最中の静香が脱いだ体操服で前を隠して叫んでいる。
慌てて教室を出た。当時、久利の通う田舎の中学には部活用の部室がなかったのだ。
着替えの終わった頃、教室に入ったのだが、なんとも気まずい。
慌てて詫びる久利に、静香と一緒にいた女生徒が大爆笑をした。マンガみたいな出会いだと。それが二人の救いになった。
それがきっかけで静香と友達になったのだ。冗談が言い合える異性の友達。
彼女を異性として本当に意識し始めたのは三年生になってから。それでも表面は友達のままだ。
卒業式を翌日に控えた朝。朝礼に際してのフォークダンスの時間に、静香と初めて手を握り合った。
その別れ際、静香は久利の手を離す寸前に、ぎゅっと握って来た。
はっとして顔を見ると、なんとも不思議な表情で見つめている。
これは、告白なのか?
手を離してペアを換わり遠ざかる靜香の背中を目で追った。
彼女の気持ちを確認することなく二人は卒業して別れ別れになった。
いや違う。夢いっぱいで都会の高校に進学するあの春、久利は田舎の中学の思い出と一緒に静香を過去に封印したのだ。
「卒業以来じゃん」という静香の声。
「静香、キレイになったねえ」という久利の声もうわずり気味だ。
大人の化粧をした内藤静香は、少女の頃の面影をかすかに残しているからこそ、とても美しく感じられた。
「シズカです、よろしく」と言って静香は名刺を渡す。
「店ではカタカナなのね」と頷く久利。
その時、黒服のチーフが声を上げて開店前の儀式が始まった。
久利は会釈をすると店を出た。
彼女は今、どう暮らしているんだろうか。今度はじっくり話してみようと思った。ここへは仕事で何度も来る予定だしな。
この年になると、愛した女より、愛してくれる女の方がずっと大切なのだということが判ってくる。
久利の頬に浮かんだ笑みには、珍しく皮肉も悲しみもなかった。
☆
「さあ、今朝のお買い得情報は、本日から発売のフレークアイス、フミちゃんどうぞー」
元気いっぱいの女性MCのアナウンスで、カメラが切り替わり、ピラミッド型に紙パックの積まれたテーブルの前の娘に切り替わる。
ここは、中区大須二丁目の名城テレビのスタジオだった。
久利はスタジオの隅でクライアントとオンエアの様子を見ている。
クライアントは名城牛乳の専務だ。広告扱いは別代理店なのだが、商品プロモーションの案として持ち込んだ「試供品頒布当日のテレビモーニングショーでの告知」を採用されて今日に至っているのだ。
アドプランニング遊のような弱小広告会社は利益を上げるために何でもやる。
久利自身、キャラのぬいぐるみに入ったことも珍しくないし、大須のイベントでは信長になり、名城公園を舞台にしたイベントでは加藤清正にも扮したことがある。
今回は着ぐるみやコスプレがないだけ、まともな仕事だよな、と思っている間にオンエアは無事終了した。
「専務、では視聴者プレゼント用に後日送り先の住所FAXしますんで」という久利に、
「ありがとう、商品プレゼントで、こんなプロモできるとは助かるよ」と専務。
「てっきり、もうご存じかとおもってましたよ」と笑いながら、暗に、現在お取引中の広告会社さんは、この企画を教えてくれなかったんですね、というビームを浴びせ続けた。
「自分、少し後片付けがありますので」と言って、専務がスタジオを出るまで頭を下げて見送る久利に、
「商売上手やねえ」と言う声。
D(ディレクター)の長谷川だった。今回の話を振ってくれた本人だ。
「また同じようなネタがあったら教えてください。新規クライアント開拓のええネタになりますんで」
「ところで、最近、書いてる?」
「いや仕事が忙しくてそっちには手が回りません」
「惜しいなあ。佳作まで獲ってるのに」と長谷川。
佳作というのは、東京にある名城テレビのキー局が主催した「ビジネスドラマ原作大賞」のことで、昨年の第二回で久利の応募作品は佳作四編の一つに入っていたのだ。
好景気を反映してか、佳作四編の賞金が各50万円、大賞ならば300万円という賞金総額500万円が売り文句の大盤振る舞いだった。
「広告の仕事も小説と同じぐらい面白いもんでして」と久利は苦笑いした。
本音を言えば、まだ才能に自信がなく、名古屋から東京の出版社まで営業には行く勇気も金もなかったのだ。当然、会社を辞めるわけにもいかない。
「久利さん、実は相談があるんだけど」と長谷川が声を落として言った。そして、指でスタジオの外を指し示す。「場所を変えて」というサインだった。
名城テレビの一階ロビーには喫茶ルームがある。部外者は入れない場所で、タレントやマネージャーが打ち合わせに使っていたりもする。窓の外には若宮大通りが走っている。幅広い歩道に植えられている銀杏が黄色く色づき始めていた。
その窓際のテーブルに長谷川と向かい合って座った。
「相談ってなんですか」
「ちょっと固めのドキュメンタリー作りたいんだ」
「珍しいですね」と久利が驚いたように言った。
名城テレビは名古屋の民放では最後発で、10年前の1983年に開局していた。CM料も他局より一桁安く、局の営業が「同じ予算でうちなら10倍の本数出稿できます」とやけ気味に豪語するほどだった。
確かに他局のタイムテーブルで数カ所に線が引かれる程度の予算でも、名城テレビのタイムテーブルだと全面が赤線で真っ赤になっていた。
クライアントからも「大砲と言うよりマシンガンだね」と褒めているのか笑っているのかわからない評価が出ていた。
ドキュメンタリーを作る、そんな冒険じみたことをやれるようになったのかと感慨深く感じた。
「ウチはゲリラみたいな戦い方してる局だけど、やる時はやりまっせ、って感じだよ」
「その意気やよし、ですかねえ」と久利。
「うちでもさ、ATPのテレビグランプリドキュメンタリー部門に挑戦しようってことになってね。社会問題や裏社会に関して切り込めるネタ探してるんだよ」
「そういうことを知ってそうな相手というのが俺ってことですか?」
「そのとおり!」と長谷川。
「あまり嬉しく感じないのはなぜだろう」と久利、苦笑い。
「それって卑下することじゃないよ。ジャーナリズム的には」
「俺はジャーナリズムにも一抹の懐疑心を持ってまして」
「あら、聞き捨てならない」
「第四の権力・マスメディアって、政府や体制だけでなく、個人にも牙むいてる側面ありますからね」と言った後、ニヤリと笑って、
「とインテリ気取ってみました」と続けた。
長谷川は、
「深夜帯でニュース番組のコーナーの拡張のような形で企画したいな」と言った。
久利の目を見つめると、
「何かネタあったら耳打ちしてよ、お願いね」と言った。目は笑っていない。真剣だった。
長谷川はレシートを取ると、
「ゆっくりしてってね」と言って立ち上がった。
まあ、長谷川のようなDに頼られるのも悪くはない。特に弱小代理店の営業としては。
☆
若宮大通りとクロスする久屋大通りは、名古屋の中心部を南北に走り栄町、矢場町という繁華街を繋いでいる。
隣接するエリアには名古屋市役所を始め県庁などの庁舎が集まる官庁街、百貨店の集まる栄町などがある。
六年前に東急ハンズをテナントとするアネックスビルが建ってからは、若い客が集まる街になっていた。
最近ではバドワイザーの協賛するビアガーデンが評判になり、その会場を闊歩するバドガールが話題になった。
週末の土曜日だけあって、人通りは多い。その賑わいを横目に、久利は表通りを一本裏に引っ込んだビルの地下一階にいた。
個室ビデオ・ドリーマーの栄店だった。広告掲載誌(例のプレイギャルだ)を届けに来たところだった。
この店は平日のサラリーマン客がメインの客層なので土曜日の客は少ない。
暇そうな店長は、
「菊池えりさんのサインもらったんですよ」と壁に貼った色紙を誇らしげに示していた。
店内には個室ビデオに来る淋しい客達の孤独感が漂っている。
早々に仕事を終えると、階段を上がった。昼下がりの陽光が眩しい。休日出勤の久利にとっては、週末の華やいだ喧噪もまた眩しさの対象だ。
歩道のそこここで露店が出ている。外国人が目立った。手製のクラフトっぽいアクセサリーや偽ブランド品の店が多い。以前は、この手の店はイスラエル人が多かったそうだが、五年前のイラン・イラク戦争以来、難民として流入したイラン人も多かった。
県警の都倉に言わせれば、裏で変造テレカや違法薬物なども売っているらしい。もっとも匂わせるだけで、詳しくは語らなかったので、彼にとっては裏取り中のホットな案件なのだろう。
夜までタイトな予定もなかったので噴水広場に足を向けた。
ギターの音と歌が聞こえてきたからだ。
噴水を背にしてギターを抱えた青年が歌っている。アップテンポのパンクっぽい歌で、歌詞に少し文学性を感じた。ブルーハーツから火が付いたJパンクってやつか。
髪は短めでユニクロっぽいコーデは地味目だが、それが歌で勝負してる感あった。何よりメロディラインにオリジナリティがある。
傍らにはギターケースが置いてあり、そのケースが投げ銭の受け皿を兼ねているのだろう。白いコインと数枚の紙幣が入っていた。
その傍らにはシングルCDが積んであり、「シゲル」というミュージシャン名を書いたPOPが置いてある。
少し離れた所に折りたたみ椅子を置き、恋人と思しき娘が座っている。曲に合わせて楽しげに体を揺すっている。
内藤静香だった。すっぴんに近い薄い化粧は、JJの店内で見た時よりずっと学生時代の彼女を思わせた。
そうか、今の彼女の心をつかんでいるのは彼なのか。
彼らの前に半円を書くようにして聴衆がいる。まだそれほど多くはないが、それでも足を止めて聴いているのだ。
一曲歌い終えるとシゲルは頭を下げた。拍手が湧く。
静香も聴衆を煽るように大仰な動きで手を叩いていた。
オリジナルの曲と併せて、「夏の魔物」などスピッツの曲も歌っていた。悪くない。
「彼女こそが、僕のファン第一号だったんです」とシゲルが言った。
静香はその横で嬉しそうに微笑んでいる。
久屋大通りの東にある喫茶店のテラス席だった。
「彼女の人を見る目は間違いないぜ」と言いながら久利は笑った。その笑いに自嘲が混じっているのは久利しかわからない。
「CD、今ちょっと話題なのよ」と静香。
インディペンデント、要は自費プレスなのだが、それが天白区にある本屋の店頭で話題になっているという。
「あの店か」と久利は呟いた。
ヴィレッジヴァンガードという尖った本屋で、店頭に飾ってある英国車MGミジェットが話題になり、お洒落系タウン誌でも頻繁に記事になっていた。置いてある本もこだわりがうかがえて、特にサブカル系の本が多かった。
「おかげで、名古屋のミュージシャンからお声も掛かるようになって、いよいよ前座でライブハウスに出れるようになったの」
「でも気がかりなことが一つ」とシゲル。
静香もその言葉に顔を曇らせた。
「音楽業界って、薬系の事件少なくないのよね」
「覚醒剤か?」
「ううん、葉っぱの方。アーチスト界隈は葉っぱなのよ」
「大麻か。ダウン系なのね」
「そう、でも大麻から入ってシャブへ行く人もいて」
その話は県警の都倉からも聞いたことがあった。大麻でダウンさせた後、覚醒剤でアップさせるのが効くらしい。そこまで行くともう重症だと。
「まさか君たちやってるの?」
「シゲちゃんはやってないけど、」
「お世話になってるジョージ先輩がどっぷり浸かってて、それが見てて苦しいんです」とシゲル。
「おまえもアーチストならやれよ的な圧もあるんだって」
「童貞を小馬鹿にするヤリチン先輩の心理か」と久利。
「ねえ、久利ちゃん、助けてくれない?」
「ええ?」
この既視感は何? と久利は思った。嫌な予感がした。
「ノンノンのママから聞いたのよ、久利ちゃんって事件屋だって。トラブルメーカーだって」
「それを言うならトラブルシューターだよ、ていうか俺は広告マンであって事件屋じゃねえし」と憮然として答える久利。和子ママの無邪気な笑顔を思い浮かべてため息をついた。
「その先輩、イラン人の売人ともツーカーで」
そりゃ、警察案件だろうと言いかけたが、静香の真剣な目に見つめられると断ることもできない。
この目力は静香ではなくシズカの方かもなと思った。
新今池ビルのテレクラ・リンリンの店頭だ。店長が退屈そうに店番をしている。
「景気はどうっすか」と聞いてみた。
「ぼちぼちね。警察に睨まれてるし」
「警察?」
「犯罪の温床になってるんじゃないかって」
「確かに準風俗っぽいけど」
「以前、恋人商法ってあったじゃない?」
「ああ、百科事典やダイヤモンドね」
恋人商法とは独身の男性に声を掛けて友達になり、三度目のデートで「実は」と高額な百科事典やダイヤモンドの原石を売る商法である。
「ああいう孤独につけ込む連中が、テレクラに来る寂しがり屋の男を狙って電話掛けてくるらしいのよ」
「あの手この手ですねえ、って感心しちゃいけないけど」と久利は苦笑い。
こんなネタが聞けるのも営業の面白さだ。
「で、君の方は最近はどう?」と店長が上を見た。
このビルの三階にあるヤクザの事務所を指している。大学の同期の近藤が若頭か何かをしてるらしいが、先月ちょっとしたことで関係ができてしまった。
「あれ以来会ってないですよ。関係もありません」と苦笑いする久利。
「あそこも大変だったんですよ。昨年は」
「あれですか」と久利。
「あれ」とは、昨年、名古屋で頻発した暴力団の抗争事件である。地元の連合会が解体されて、その多くが神戸系の王道会の傘下に吸収されているのだ。神戸の組織のトップが、名古屋の組織に移ってきたとも言われている。
三階にある近藤の所属する組もそのとばっちりを受けたらしい。もともと近藤の組は中村区のソープ街大門を縄張りに抱えていた地付きの組だったはずだ。
「ヤクザ業界ではデリヘルなんかの風俗を裏で牛耳るグループ企業を作ろうって話があって、今、この界隈はきな臭いのよ」
このテレクラ・リンリンもその渦中にあるらしい。
「私はその手の関係では、無色透明ですから」と久利は念を押しておいた。そんな関係、広告商売では百害あって一利なしだ。
次はリンリンの隣の個室ビデオ・ドリーマーだ。ここへも掲載誌を届けに入る。
四方の壁中のアダルト・ビデオが迫力だ。ウインドーはポスターで塞がれ外からの目線をシャットアウトしている。
バスケットを手に提げた客がカウンターから個室に向かう。バスケットには、ビデオとおしぼりと飲み物が入っている。
客も店員もお互いに目線を合わせないのがマナーってところか。
リンリンといいドリーマーといい、性欲ビジネスは廃れないなあと感じた。
「ねえねえ、久利さん、長久手のルックさんの記事書いたのって君だってね」
店番の青年が言った。言葉使いがややお姉系だ。
「ええ、ど、どこでそれを?」
「中部ユニバースの営業からよ。彼もルック出入りしてるから」
「ああ、そうですか」と合点のいった久利。
中部ユニバースとはビデオ作品の卸元である。
「この記事広告書いた人、映画好きなんだなってわかりました」と青年。
「ありがとう。うれしいな。私、シナリオとか独学してたんで」
「僕も映画好きでしてね。映像専門学校出てるんですよ」
「ええ、そうなの? 意外!」
「で映像だけでは食えませんから、こうやって色々バイトを」と言って店を見回して笑った。そして、
「映像の方の仕事もAVの撮影助手ですけど」と苦笑い。
「だからサインもらえるんだ」と壁に貼られた菊池エリの色紙を見た。
時々小説を書いてる久利にとっては、夢を追う同志に出会った気分だった。
「ご武運を」と言って店を出た。
ドリーマーを出たところで、後輩の山村を見た。声を掛けようとして思いとどまる。
山村は、今まさに、テレクラ・リンリンに入っていったからだ。他人の恥部を見たような気分だ。
淋しさ持て余してるのだろうか。久利は広告業界に入ったばかりの昔の自分を思った。
大学の体育会で武道ばかりやっていた久利は、お洒落な私大の広告研究会で女子大生達とちゃらちゃら遊んでいた連中が跋扈する広告業界では浮いていた。
押っ取り刀で、ジタバタとファッションやライフスタイルを変えたのだが、三年後に、そんな自分に強い自己嫌悪を感じて、一人で文芸趣味に戻っていったのだった。
そんな昔の自分を見ているようで、山村という後輩は久利の心にとげのように刺さっていたのだ。
翌日の午後だ。アドプランニング・遊の本社である。
三階の会議室で今まさに回収会議の真っ最中だった。営業が全員集められ、未収案件の報告をする。異様に回収の遅い案件や信用度の低い客先をチェックする。
普段、営業から軽視されている経理が、このときとばかりに居丈高になる会議でもある。
経理部長の花沢が、
「山村君、今月はかなり未収減って大変だったね」とねぎらった。
「ご心配掛けて。残りも頑張ります」と平伏する山村。
「久利さんもありがとうな。後輩のために奔走してくれて」と言って言葉を切った花沢は、
「でも山村君、君の解決した案件は久利さんが関わったものばかりじゃないか。自分で解決したものひとつでもあるか」と言った。
山村はうなだれて机の上を見ている。会議の席上で公開リンチかよ、と久利は思った。
失笑の声も漏れてくる。笑ったのは営業の吉良だった。青学出身で広告研にいたという絵に描いたような軽薄さで、ある意味世間が抱く広告営業の姿でもあった。
「久利さん、君にも問題はある」と花沢は続けた。
「もう少し、穏やかにやって欲しいんだ。お客からはあの男は何だ、とか、もう二度とお宅には頼まんとか苦情の電話が半端ない。そこんところよろしく頼むよ」
久利はかちんときた。
「言わせていただきますが、ここまで山村の案件がこじれても、彼と一緒にクライアントのところへ行って頭を下げた上司や仲間が居ましたか?
みんな、難を恐れて逃げてたじゃないですか。俺のことを強行班だのなんだのとおだて上げて、逃げ回ってるじゃないですか」
会議室がしんと静まりかえった。
「うちのような客筋だと否応なくヤクザと絡んだりする時もあるけど。社の利益や営業の安全守るために、事務所に行くのいつも俺じゃないですか」
ぐるりと見回すと、管理職の連中も困ったように視線を外す。
久利は立ち上がると、
「次の仕事がありますんで」と言って会議室を出た。
もっと大人になれよ、と内心自分にぼやきながら、それでも言いたいことを言い切った気持ちよさは否定できなかった。
一階の自販機コーナーで、缶コーヒーを片手にベンチに座っていると会議を終えた営業達が降りてきた。
吉良が、
「先輩、怖い物知らずというか、さすがですね」と早速すり寄ってきた。
「やけっぱちの裏返しだよ。いつ辞めてもいい会社だし」と久利はとことん自嘲気味だ。
吉良の後にやってきたのは山村だった。
「先輩、すみません」
「いきなり謝罪かよ。もっと自信持て。最近、やばい体験の数ではおまえが一番だぜ。それを自信に変えるんだ」
山村は失敗も多いがそれを隠したり糊塗したりはしない。だから助け甲斐があるのだ。
吉良などは、いいかっこをするために未収案件を自腹を切って解決してると思われるケースがあったからだ。
「先輩、明日の夜、クライアントと飲むんですけど、先輩も一緒に来てくださいよ。日頃のお礼です」
「うちで接待できるクライアントって珍しいじゃん」
「あのパパイヤ共済さんですよ」
「あれか」
パパイヤ共済とは、五年前に設立された中高年の年金対策を目指す壮年組合の貯蓄型定期である。労働組合や農協などの共済スタイルで、組合にも農協にも入っていない中小企業のサラリーマンを中心に話題になっていた。
「どこからの紹介なんだよ」と聞くと、
「アド中さんです」と山村。
アド中とは、正式にはアド中部エージェンシーという中部新聞の専属広告代理店である。
アドプランニング・遊のような小代理店は中部新聞とは直取引ができないため、アド中を通して広告を投げるのである。
中部スポーツの場合、広告掲載のバックマージンは30%なのだが、アド遊は5%をアド中に落として25%が取り分になるのである。
「ゆくゆくは全労済や県民共済みたいな大クライアントになるかもしれません」
そういう山村の顔は野心に満ちていた。
彼が元気で意欲的なのは悪くない。ただ、アド中がそんなおいしい客をすんなり紹介してくれることが解せなかった。直で扱えない何かがあるのだろうか。
その夜、キャバクラ・JJのカウンター席である。この店は大半がボックス席だが、カウンター席も4席だけあるのだ。久利はその端っこに座っていた。
店はまだ空いている。混み出すのはこの後二時間程後か。
「あれよ」とシズカが顎をしゃくった先のボックスに二人組の男がいた。
一人は痩せた中年で、もう四十は優に超えているだろう。肩まで伸ばした長髪に白いものが混じっている。絵に描いたようなミュージシャン姿に、これがジョージ先輩だろうと思った。
もう一人は、小太りの中年で、夜だというのにサングラスをかけ、鼻の下には髭を蓄えていた。太ったフレディ・マーキュリーといったところだ。興業関係者だろう。
「ジョージさんすごい」というキャバ嬢の嬌声が聞こえてくる。
「彼、有名なの?」と聞くと、
「四年前にヒットを飛ばしてる。夜のヒットスタジオで、ちょっとだけ映像流れたのよ」
聞くと、ランク外の注目曲というコーナーだという。わずか数秒のインサートだが、それでも名古屋ではスターなのであろう。それが名古屋だ。
「彼のプッシュでシゲルは注目浴びたから、恩はあるんだけど」とシズカの気持ちも複雑そうだ。
あくる翌日の栄公園、噴水広場だ。
名城テレビのディレクター長谷川が同行していた。
シゲルの歌が終わって聴衆が拍手を送っている。
静香は隣に立って、シングルCDを手売りしていた。
「いいんじゃない? 無名の新人を通して、夢を追う現代の若者心理を描く」と長谷川。
「地方の音楽シーンを背後から蝕むドラッグカルチャーとかもね」と久利が言うと、
「それは、あくまでハプニングという形でね」と長谷川、苦笑い。
シゲルがギターを抱えてやってきた。
「こちらが、このあいだ話したディレクターの長谷川さん」と久利が紹介すると、シゲルはぺこりと頭を下げた。
「君の活動をドキュメンタリーで追いかけたいんだ。それを通して現代の若者にとっての夢や希望を探りたい」
長谷川の熱っぽい言葉に、
「光栄です!」とシゲルは頬を紅潮させた。
静香もやってきて、凄いよシゲちゃんと背中を叩く。
「もう、やばい連中とは手を切らなきゃな」と久利。
「テレビのドキュメンタリーが入ると聞いたら、先輩達も引いてくれると思います」
そう言うとシゲルは静香と顔を合わせて微笑んだ。
長谷川と別れると、久利はアネックスビルに向かい、その地下にある地下鉄久屋大通駅への階段を降りた。
黄色い公衆電話が五台並ぶ電話コーナーがある。NTTのムーバが登場して以来、携帯電話ユーザーが現れて、最近はここも少し空き始めていた。
おなじみ会社支給のテレホンカードを挿入すると、県警中署に電話を入れた。
呼び出し音の後、
「中署です」という女の声。
「久利と申します。防犯の都倉さんお願いします」と言った。
「お待ちください」とオペレーター。
待つほどもなく、都倉が出た。
「早いなあ」と驚くと、
「うちの部内ではおまえのことは、俺の情報屋って扱いになっている」と都倉がさらりと言った。
「ええ? かんべんしてくれよ。おまえもか」と苦笑い。
「おまえもかって、どういうこと?」
久利は客先から事件屋扱いされている現状を伝えた。
「おまえらしいな」と笑った上で、都倉は声をひそめ、
「その葉っぱネタ、俺たちも協力するぜ」と言った。
どうやら、別の筋から追いかけていたらしい。
「シャブと一緒にイラン人が持ち込んでる。で、ヤクザの資金源につながってるんだ」
「シゲルや静香に害がないようにしたい」
「任せとけ、麻取(マトリ)とも競合してるから極秘案件だ。メディアには出ない」
「その節は頼りにしてるぜ」と言って電話を切った。
その夜、久利は山村と一緒に中区丸の内にある料亭・河甚にいた。
河甚は名古屋市最古ととも言われる老舗料亭で、信長の清洲越しで名古屋に来た商人・河原屋甚左衛門が始めたと言われている。
官民問わず接待で使う分には間違いない店だった。
広い座敷席の上座にパパイヤ共済理事長の大友達彦が座っている。
五十歳前後だろうか、白髪交じりではあるがまだ髪はふさふさで、メタルフレームのメガネが金融機関の理事長らしさを醸し出していた。
その右手には、三十前後の女性が秘書然として控えていた。肩の張った今風のスーツが、今風の出来る女を主張していた。
久利に向かって艶然と微笑みながら、
「秘書の大友ユリでございます」と名刺を出した。
「大友さんというと?」と久利が聞くと、
「ええ、達彦の娘です」とユリは微笑んだ。
「こんな優秀な娘さんがスタッフとは、理事長もご安泰ですね」と久利は歯の浮くような台詞を平然と口にする。それが嫌みにならないのは営業の技なのだろう。
感心したように眺めていた隣の山村が、理事長の空いた杯に気づき、素早く徳利を差し出す。
「先生、どうぞ」
「山村君、君とアド遊さんには、来る参院選の広告もお世話になるつもりだからよろしくな」と理事長が言った。
「先生、ご出馬の噂は本当でしたか」と久利。
「共済組合の理事長として、国政の場で働きたい思いが昂じましてね」と苦笑を浮かべる理事長に、
「体がいくつあっても足りませんよ」とユリが笑った。
「今後も山村をよろしくかわいがってやってください」
久利はそう言いながら、どうしてアド遊なんだろうという疑問が頭を離れないのだった。
翌日の午後。久利はマイティーボーイの助手席に山村を乗せパパイヤ共済本社に来た。
共済の本部は、東区清明山の近くの国道沿い、四階建てのビルの一階と二階に入っていた。千種区の閑静な住宅街に隣接している。ビルの三階と四階は小さな貸ホールになっている。隣の駐車場が時間貸しを併用してるのは地価の高い東区だからか。
パパイヤ共済ビルと銘打たれてはいるが、当の共済もテナントの一つに過ぎないことは密かに調査済みだった。
理事長に昨夜のお礼をした後、大友ユリと打ち合わせのある山村と別れ、久利はビル一階のビジネスホテルのようなエントランスロビーでソファに座って山村を待っていた。
受付嬢はどこかの事務所からの派遣スタッフだろうか、しっかりとした受け答えの美人である。
このスタッフ、栄の「電通名古屋ビル」レベルだなと久利は思った。スタッフ派遣会社も電通や放送局には選りすぐりの美女を送り込むのだ。
同時に「名城テレビより格上だわ」とも想い、直ぐに「すまん」と心の中で同局に詫びた。
ビルのドアが開くとブリーフケースを下げた一人の男性が入ってきた。
まっすぐに受付に向かい、
「理事長にご面会したい」と言った。
「お約束はございますか」と受付嬢。
「何回も電話したけど取り次いでもらえなくてね」と男は皮肉な笑みを浮かべた。
「お名前をお願いします」
「梶田晋平法律事務所の梶田です」
受付は「かしこまりました」と言うと、内線電話を取って声をひそめて梶田の来訪を告げた。
内線から返ったであろう答えに対して、
「ええ、受付に見えてます」と言った。
受付女性は梶田に、
「内容を伺ってもよろしいですか?」と聞いた。
「先月来、お問い合わせをしてる契約者の解約の件ですよ。ちなみに書面でも問い合わせてます」
受付女性は「かしこまりました」と頷くと、
「こちらでお待ちください」と久利の目の前のソファを指した。
梶田は久利の正面に座った。
どこかで見たことのある男だと思って見ていたら、相手の方も同じような目でまじまじと見返してくる。
「あのお、」とどちらからともなく切り出した途端、
「久利か」
「晋平か」と同時に声が出た。
「卒業以来だな」と言う梶田に、
「もう十年以上経ってるし」と久利。
高校の同級生であった。聞くと東区で法律事務所を開いているという。
「検事になってる奴もいるぜ、隣のクラスの稲葉とか」
久利の高校は地元の名門校だったので、同窓生には法曹界や検察界に進んだ者や国家公務員、医者や学芸関係が珍しくない。
「知らなかったよ」と言うと、
「久利は同窓会とか全然来ないしな」と梶田。
「まあね」と答えながら、行かない理由は君たちが眩しすぎるせいさ、と心の中で答えた。
「今日は、何?」と聞くと、
「守秘義務があるからそれはちょっと」と口を濁す。
そこへ山村が戻ってきた。見送りに来た大友ユリが、梶田の方に向かい、
「梶田さん?」と聞き、「こちらへ」と言って奥へ誘う。
梶田と目で挨拶を交わした久利に、
「あの方、お知り合いだったんですか?」と山村が聞いた。
「高校の同窓生だ」と答える。
「あの人、ちょくちょく来てるみたいですけど」という山村。
その時、久利のポケットベルが鳴った。見ると記憶にない番号だ。
受付で電話を借りた。
呼び出し音一回で電話が通じた。
「久利ですが?」
電話の向こうからは半泣きの女の声が、
「助けて!」と言った。
静香の声だった。
「シゲちゃんと一緒だけど、久利ちゃんを呼べって」
「あんたが久利か。いろんな所に首突っ込んでるってな」
受話器の向こうの声が男に変わった。
「一度じっくり話そうやないか」
「何の話だ」
「取材の件だよ」
男はジョージだった。久利は今すぐ行くことを告げると場所を聞いた。堀川沿いの倉庫街だった。
電話を切ると山村に二カ所への連絡を頼んだ。名城テレビの長谷川と中署の都倉だ。
「午後の会議、遅刻しますって言っといてくれ」
久利は山村にそう言いおくと、駐車場に置いてあるマイティーボーイに向かった。
車の中は熱かった。日射しは秋だが、車内はまだ夏だった。ウインドを空け風を通す。
イグニションを回してエンジンを掛ける。
グローブボックスの中を探って最初に触ったカセットテープを取り出してプレーヤーに挿入した。
パット・ベネターの「ハート・ブレイカー」のイントロが流れ出す。
ギアをローに入れ、アクセルを踏むと、
「テンション、上がるぜ」と呟いた。
水主町まで出た後、堀川西岸沿いを南に向かうと直ぐにその倉庫は見つかった。
倉庫としては小さいが、壁に鮮やかなペンキで「スタジオ・J」と描かれている。こんな時でも、その書体が「インパクト」と「Times New Roman」と判るのが広告マンの性(サガ)だった。
スタジオの名前の下には、消えかけた文字で中西興業と書かれていた。
扉の前に白人の男が一人立っていた。半袖から覗いた二の腕には軍隊で入れたと思しき刺青。ファッションモデルもかくやという恐ろしいほどのイケメンでもあった。イラン人だろう。
車を降りると流ちょうな日本語で「久利さん?」と聞いてきた。
「いきなり呼ばれてね」と答えると、
「こっち」と言って中へ誘われた。
倉庫の中は音楽スタジオに改装されていた。中央には折りたたみ椅子に座らされたシゲルと静香。その前のソファにジョージが座っているのが見えた。
入り口にはジャージを着た若い女が咥えタバコで立っている。これまた彫りの深い顔立ちで浅黒い肌からラテンアメリカのメスティソ美人だと思われた。
夜の納屋橋近辺に立っているコロンビア娘らしい。うっすらとほうじ茶のような匂いもした。
ソファにふんぞり返る男に
「あんたがジョージさんか」と聞くと、
「そういうあんたが、シゲルをつけあがらせた久利ってか」とジョージ。
久利より十歳ほど年長だけあって舐めたような言い方だ。
「久利ちゃん、ごめんね」と半泣きの静香。シゲルの顔には殴られた痕があった。
「シゲルの取材の件だけど、窓口を俺の事務所にしてくれないか」とジョージが猫なで声で言った。
「若い奴に大麻を強いる様な奴の事務所は信用できないんですよ」と久利はうっすらと苦笑いを浮かべて言った。
「凡人に何が判る。アーチストには大麻の刺激も必要なんだよ」とせせら笑うジョージ。
舐めてるのは久利が一般ピープルだからか。その歪んだアーチストしぐさが久利のルサンチマンを刺激した。
「未だにウッドストック気取ってるのですか。四半世紀前ですよ。
そんな周回遅れだから、名古屋でくすぶったまま、後輩いびりしか楽しみがねえんじゃないの?」
うっと言葉を飲み込んでいるジョージにたたみかけるように、
「本当に才能ある奴は、薬なんかに頼らねえよ」と、思い切り挑発した。
「てめえ!」と判りやすい反応をするジョージを、イラン人がまあまあとでもいうように押さえた。
そして、
「ジョージさん、太いお客なのよ。私も、それ守らないとねえ」と、セールスマンのような口調で言った。流ちょうな日本語が反って違和感を呼ぶ。
「アムジ、ちょっとお灸を据えてやってよ」とジョージが言った。
アムジと言われたイラン人はニヤリと笑うと、指の骨を鳴らして首を回した。
久利より頭一つは身長が高い。胸板の厚さも二倍ほどありそうだ。洒落にならない。
「アムジ、ケ ボニート(すてきよ)」とコロンビア娘が、暴力の予感に嬉しそうな声を上げた。
アムジは素早く近づくと左手で久利の胸元を掴んだ。久利は待ってましたとばかりに、その手首を掴んで閂に固めようとしたが微動だにしない。恐ろしい筋力だ。
呆気にとられた瞬間、アムジの右拳が顔面に飛んできた。唇が笑っているのが見える。尻餅をつくように腰を落としてアムジを前のめりさせ拳の勢いを減衰すると同時に、相手の左脚に右膝をぶつけるようにして絡めて倒した。柔道の足がらみだ。
相手の上に乗りマウントを取ったが一瞬にしてひっくり返され、逆に首を絞められる。
薄れる意識の中で、軍隊武術にはかなわねえと思った。イラン・イラク戦争で数年前まで戦場駆け回ってた連中だし。見よう見まねの柔道技は少林寺拳法しかやってない俺には無理だったのねと反省していた。
意識が戻ると、久利はスタジオの隅で寝かされていた。
警官と思しき男女で周囲は騒然としている。
「薬物反応あり」
「尿検要」など警察用語が飛び交っている。
「気づいたか」と声を掛けられた。
見ると都倉が笑っている。
「俺、落ちてたの?」
「ほんの一瞬な」
「まさか本当に来てくれるとは」
「表に停まってるマイティボーイが目印になって直ぐ判ったぜ」
「静香とシゲルは?」
「無事だ。彼らは協力者って立場だから心配するな」
「ありがとう助かったよ」
「こっちもイラン人組織を切り崩していく端緒になったかもしれん」
周囲を見るとジョージが手錠を掛けられていた。
「小便なんて出ねえよ、さっきしちゃったし」と叫んでいる。
刑事の一人が、
「カテーテルで膀胱から直接取るから痛いけど我慢しろよ」と言った。
「え?」と、呆気にとられるジョージ。
「カテーテル持ってきました」と言ってやってきた女性刑事が、ジョージに向かってにやりと笑う。
「滅多にない体験かもね」と久利は呟いた。
表に出ると、長谷川がいた。カメラクルーを伴っている。
「いい絵が撮れましたよ」と言って久利にウインクすると、クルーと一緒に警察の動きに併せて場所を移動した。
ちょうど手錠を掛けられたイラン人がパトカーに乗せられるところだった。
「ディオス ミオ!」とコロンビア娘が半泣きで叫んでいる。
「イランの売人とコロンビアのパンパン(娼婦)ってカップル多いんだ」と都倉が言った。
「孤独感で惹かれあうんだろうな」と呟く都倉の横顔は、社会学を専攻してた彼の学生時代を思わせた。
アムジの車からの押収物には売人の携帯電話番号が書かれた変造テレホンカードや覚醒剤などもあり、違法コンビニとでも言えそうなアイテム数だったらしい。
☆
店内にはサザンオールスターズのバラードが流れていた。
開店直前のキャバクラ・JJである。
「今日はJ・POPデーでして、みんなで歌おうよ、なんです」と黒服。
久利は広告掲載誌を届けに来たのだった。
チーフの黒服は、
「広告は好評でして、オーナーも喜んでましたよ」と言った後、
「そうそう、シズカさんシゲルと一緒に東京に行きましたよ」と教えてくれた。
「そうでしたか」と久利は初めて聞いたように答えた。
実は、静香からその話は聞いていた。ジョージらの大麻関係の噂を絶つために新天地へ行くのだという。
名古屋にいるよりはずっと可能性はあるだろう。夢のために名古屋を飛び出せる二人が少しうらやましかった。
その日の終業後、久利は丸の内三丁目のゴールデン・プラザビルにいた。
スナック・ノンノンのカウンターだ。店内には小さなボリュームで有線放送が流れている。
「ひどいじゃないですか」とカウンターの向こうの和泉和子ママにこぼす。
「ごめんなさいね。こんな大騒動になるなんて」と和子は笑っている。
「今の俺、この近辺のお店の駆け込み寺みたいになりかけてます。そりゃ広告のお仕事も来てますけど、トラブルネタもあるんです。断るのに苦労してます」
「だってトラブルメーカーとして優秀なんだもん」とママ。
「いや、だからそれはトラブルシューターですよ、っていうか事件屋じゃねえですから」
その様子にミチコも大笑いだ。
「久利さん、あまり淋しそうでなくてよかった」とミチコがグラスを出した。
「彼女とは、卒業の時にサヨナラしてるからさ」
ミチコがそっと微笑みかけてきた。ちょっと弱ってる男はこういう笑みにコロリといくのだ。
「君は商売、うまいなあ」と久利は苦笑。
流れる曲が変わった。イントロだけで、四月に出た「サヨナラ」(GAO)だと判る。
「好きなのよ、この歌、紅白にでるかもね」とママ。
胸に迫るようなメロディを聞きながら久利は気づいた。
静香とのサヨナラは、「15歳の自分」とのサヨナラでもあったのだと。
☆
平日午後のビデオレンタル・ルックは客が少ない。店長も暇を持て余しているので、久利はいつも大歓迎される。
「評判上々だよ、例の記事広告」
店長は喜色満面だった。
壁には、その記事が貼ってあった。
「西区からも人が来るのよ」
「想定してた商圏より広いですね」
「それだけじゃなくて、あの記事広告読んだ雑誌ベリーが取材に来た!」
「そうですか!」
「ベリー」は(株)アンプが発行する情報マガジンで、先行する(株)名古屋トレンド通信が発行する「アイライン」と並んで、名古屋の二大情報誌と言われていた。
「でね、僕の友人が今池で、パブ・ゴリラっていう店やってるんだけど、今度マスターを紹介するから記事広告書いて欲しいんだ」
「いいですよ、大歓迎。メディアは何ですか?」
「雑誌アイライン。
そのお店がさ、映画やマンガや音楽やらのサブカル系なのよ。久利ちゃん詳しいでしょ、そういうの」
「ええ、ありがとうございます。テンション上がるわー」
久利は、大きく頷きながら、胸に湧き上がる興奮に震えた。
初めて広告の仕事で評価されたのだ。CMでもないし、「揺れるまなざし」でも「ランボー」でもないが、自分のコラムが評価されたのだ。
これこそ広告の仕事だよ、と思うのだった。
第三話 「悲しみは雪のように」(1992年冬)
https://note.com/hajime_kuri/n/nfd74f4ca788c
