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92’ナゴヤ・アンダーグラウンド(3)「悲しみは雪のように」

#創作大賞2023

第三話 「悲しみは雪のように」(1992年冬)

 クリスマスまであと一週間。空気が澄んでいるのか星のきらめきも鮮やかな夜空の下だ。
 この住宅街は、名古屋市都心の灯りから遠いため、オリオンの三つ星まではっきりと見えた。
 午後十時を過ぎて、家々からは夕餉の気配も消えている。
 この小牧市は名古屋市の北に隣接するベッドタウンだ。名古屋鉄道の沿線沿いにいくつもの分譲住宅地を抱えている自治体で、さらに名古屋空港もある。
 この田神住宅もそのベッドタウンの一つだ。まだ新しい建売住宅が並んでいて、住人達も子育て中の若い夫婦が多かった。
 久利は、住宅街の一角に車を停め、一軒の民家を注視していた。
 山村の取引相手、銀巴里商事の社長宅である。
 滞っている未払い広告料は300万円近かった。
 社長は「必ず払う」と言いながら、絶対に久利達と会おうとしなかった。逃げているのだ。
 返品や差し押さえが不可能な「広告」という商品は、相手が潰れたり逃げたりすれば、全額を広告会社が背負ってしまう。この案件は寸秒を争う緊急案件だと感じた。
 幸い、登記簿から社長の自宅が判明した。住所を見ると、久利の済むワンルームの賃貸マンションから近い。そこで、山村に替わって出張ってきたのだ。
 玄関口では、
「主人はまだ帰ってきていません」の一点張りだった。だが、駐車場に社長の車はある。居留守だろうと判断した。
「明日、もう一度連絡します」と言って一端退いたが、明日家を出るところを捕まえて話をしようと決め、こうして車の中で夜を明かす覚悟を決めたところだった。一度でも目を離すと、その間に高飛びされるかもしれない。
 うとうとしかけたとき、コンコンと車の窓を叩く音がした。目を開けると警官がのぞき込んでいる。
 窓を開けると、
「近隣の住人から、不審な車があると通報がありました。降りてください」

 翌日、出社と同時に久利はアドプランニング・遊の社長室に呼ばれた。
 部屋には社長の湯沢と経理部長の花沢がいた。
「例の銀巴里、訴訟案件になったから、もう営業は関わらなくていいよ」
 社長はにやりと笑ってそう言った。
「警察から連絡受けて、びびったよ。
債務者宅への夜討ち朝駆けは法律違反ですよと、警告まで受けました」と花沢が忌々しそうに言った。
「まあまあ、そこまでやったから訴訟案件に持ち込めた側面もあるから」と湯沢が取りなすように言った。
「でも、もう以前とは違います。貸金業法など改正の話も出ているし、刑事訴追されては逆効果だ」と花沢。
「まあ、経理も、ここまでやらないと、営業の手を離してくれないですしね」と久利は皮肉に笑った。
 好きでヤクザまがいの集金や張り込みをしているわけじゃない。そこまでやらないと会社も諦めてくれなかったからだ。
 むしろ大事件になった上で、警察やマスコミに向かって大声で、
「すべては会社の命令です」と言い放ってやりたいぐらいだった。
 花沢は苦虫をかみつぶしたような表情で久利を見ている。厄介極まりない社員だが。彼が未収案件の解決に貢献していることも否定できないからだ。

 一階の自販機コーナーである。久利はベンチに腰を下ろして、午前中からエナジードリンクを飲んでいた。昨夜の疲れが抜けないのだ。
 エレベーターが降りてくると、山村が出てきた。
「先輩、やっぱりここでしたね」
「最近、事務所でみんなと居るのがおっくうでね」
「僕の回収ですみません」と山村は頭を下げた。
「君のせいじゃない。俺自身の問題さ」
「でも。」
「謝るなよ。俺も昔は先輩に救われてきたんだ」
「ええ?久利さんが」
「君みたいに何度も救われた。先輩にお礼を言ったら、この恩返しは、自分の後輩を救うことだぜ、って言われたんだ。だから気にするな。
 今度は君がだれか後輩を救えばいいんだ」
「なんか、いい話ですね」
 そう言って山村は「はっ」と気づいたような表情になった。
「最近、そんないい話によく出会うんです。セミナーのおかげかな」
「セミナー?」
「ライフチェンジャーってセミナーですよ」
 聞くと、山村が最近通っている自己啓発セミナーだという。
「おかげでネガティブになりがちな僕も、ポジティブシンキングが出来るようになりましてね。そうすると色々な気づきがある。さっきの先輩の言葉とか」
 久利には、山村の真面目さが虚無的になる前の自分のように見えた。
 近年、彼のような地味で真面目で、いわゆる「いけてない」連中のコンプレックスや寂しさにつけ込む商売が増えている。久利はそれが少し気になった。
 エレベーターが降りてきた。
 中からはデザイナーの岩田女史たち社内の女性陣が声高にしゃべりながら降りてきた。
 岩田は久利のコラム広告などを担当していて、彼が小説を書いていることを知っている数少ない社員の一人だった。
 岩田は微笑んで何か言いかけたが、山村との深刻そうなムードを察して、黙礼して通り過ぎる。他の女性達は山村の姿を一瞥し、クスクスと笑いながら通り過ぎる。
 山村は困惑したような表情で彼女たちから目を逸らした。
 失礼な連中だと思った。テレビのせいだろう。テレビで見る芸人達のお笑いネタが、「いけてない奴」や「変な奴」を揶揄したりあざ笑ったり、そんなクラスのいじめのような笑いでいっぱいになっているのだ。
 頭の悪い俺たちは、そんな芸人気取りで山村のような若者を笑いのネタにしている。まさに、山村は昔の俺なんだ、と久利は思った。

 その夜、平日だというのに、キャバクラ・JJの店内は賑わっていた。
「ご盛況ですね」と営業トークの久利に、
「宴会流れのお客ですよ。羽振り良さそうですから、せいぜい稼がせてもらいます」とチーフの黒服が答えた。
 ボックス席を二つ併せて三人の若者が掛けている。キャバ嬢と併せて五人だ。
「このコミュニケーション・スキルでどんなお客も心の壁を取り払ってくれるんだよ」
 力説するリーダーらしきイケメンを嬢たちが目をきらめかせて見つめている。
 他の二人は彼の話に追従するように手を叩いている。地味なスーツの若者で一人は銀縁めがね、もう一人は七三分けの髪で、山村のように地味で「いけてない」のが特徴だ。
「店にやってくる、ちょっと自信のなさそうな男性諸君に、このセミナー紹介してね」と彼らは商売熱心だ。
 やがてリーダーは手洗いに席を立った。どこかで見た記憶のある顔だなと思ったが、相手もそのようだ。
 手洗いから席に戻る途中、久利の前にやってくると、
「その節は、どうも」と頭を下げた。
「君は、あの」と言いかけると、
「ええ、近藤さんの組にいた如月翔です」と言った。デートクラブ・雅のイケメン、翔だった。如月てのが姓なのか。
「組は辞めたのかい」
「おかげさまで、あれがいい機会になりました」
「けっこうなことだ。まっとうな道なら応援するぜ」
 翔はにっこり笑うと、
「今は、コミュニケーション・セミナーを主催してます」と言った。
「すごいじゃないか」
「元ホストですから」と翔は苦笑い。
「今日も、そのセミナーの打ち上げの流れです」といい、ボックス席の二人に目線を投げると、
「僕のセミナーで、彼らみたいな男でも、気軽に女性に話しかけたり出来るようになるんです。お客様と堂々と渡り合えるようになるんです」と言った。
「凄いね」と答えながら、久利は先日勧誘を受けたデスビア・ダイアモンドを思い出していた。
 デスビア・ダイアモンドとは結婚前の若い男女にパーティーのような乗りで、結婚指輪用にダイアモンドの原石を売るマルチ商法だった。
 久利と山村は偵察をかねてそのパーティに潜り込んでいたのだ。
 主催者側の若者はポルシェに乗っているというのが自慢の俗物だった。
 英国のダイアモンドの会社、デビアスとよく似た名前に怪しさを感じた久利は、「デスビア? デビアスじゃねえのかよ」と言って主催者を慌てさせたのだった。
 後から山村が、
「先輩、よくデビアス社なんて知ってましたね。やっぱり日経とか読まないとな」と言ったのだが、久利は「いや、ゴルゴ13で読んだんだよ」と苦笑い。
 久利は昨今はやりの自己啓発セミナーにも同じような匂いを嗅ぎ取っていた。
 翔は久利に名刺を渡すとボックス席に戻っていった。
「伊達に元ホストじゃないな」と黒服。
「有名なの?」と聞くと、
「ホスト時代には有名でしたよ、売れっこで」と吐き捨てるように言った。少なからぬ恨みがうかがえた。店の女の子が何人もはまったのかもしれない。
 手にした名刺を見ると、セミナーの主催者名はライフチェンジャーだった。
 店を出て表に出ると山村に出くわした。同じ年頃のサラリーマンと三人組だった。
「遅くまで大変だな」と声を掛けると、
「違いますよ、プライベートです」と答えて、二人をセミナーで知り合った友人だと紹介した。近くでセミナーのパーティがあったようだ。先ほどの翔たちもその流れかと思った。
 山村同様、人畜無害で地味な二人だった。三人に、
「そうか、思いっきり羽根伸ばしてこい」と言うと、
「僕だって広告マンなんです。トレンドに敏感にならなきゃ」と山村は力んだ。
 二人は「さすが、マスコミ関係ですね」と憧れるように言った。
 マスコミ関係とは、広告会社の営業が飲み屋で自分を飾る常套句である。本当のメディア関係者はこんな曖昧なことは言わない。
 同様に法曹関係と名乗る者は弁護士や検事ではなく司法書士だし、医療関係と名乗る者は医者ではなく薬剤師だったりする。
 久利がそんな皮肉な見方をするのは自分自身の落剥感の故だろう。間違いなく、自分は人生の落伍者なのだと思っている。
 三人の背中を見送りながら、そう気づいて苦笑いした。

 翌日の午後、アドプランニング・遊の事務所で溜まった伝票を整理している久利の元へ、山村が意気込んでやってきた。駐車場から走ってきたような勢いだ。
「正式に決まりましたよ!」
「何がだよ」
「パパイヤ共済の大友理事長が次期選挙での前進党の公認候補になったんです」
 前進党とは政権与党内の反主流派が離党して誕生した保守系の新しい野党である。
 その公認を取り付けたと言うことは、「共済組合の理事長」という実績だけではなく、同時に相応の額の献金を党にしているはずだった。
「今から、今後の打ち合わせで大友理事長のところへ行くんです。同行、お願いいたします」と山村。
「わかった」
 久利は立ち上がると山村に言った。
「この件、慎重に行こうぜ」

 パパイヤ本社ビルに到着すると、入り口に立つ制服姿の警備員に驚いた。先月来たときにはいなかったはずだ。
「ずいぶんものものしいな」と久利が呟くと、
「一応、共済会社なので警備会社と契約したって聞いてます」と山村。
 受付は例の美人だ。ただ前回見たときよりは表情が暗い。疲れているのだろうか。
 久利たちに気づくと微笑んで、
「理事長たち応接室でお待ちですよ」と言った。

 応接室の豪華さは滑稽なほどだった。フロアはカーペットで覆われ、ソファとテーブルの応接セットも高価に見える。
 さすがに暖炉はないが、代わりに革表紙の何かの全集が並んだ書棚と高そうな洋酒の瓶が収まったサイドボードなどがあった。建物にそぐわない雰囲気で撮影のセットを思わせた。
 久利と山村は、そのソファで理事長の大友達彦と秘書の大友ユリと向き合っていた。
 理事長の大友達彦は地味だが高価なスーツ姿であった。
 秘書の大友ユリはえんじ色の地味なスーツだが、今風に肩が張ったシルエットだ。スカートに入ったスリットがかなり上まで来ていて、ソファに腰を下ろした時など、その奥が見えそうになる。対面に座った山村は目のやり場に困っているようだ。
「先生、党からの公認が降りたとのこと、おめでとうございます」と久利が頭を下げた。
「長年の夢が叶ったよ」と理事長。
「先生の悲願でしたものね」とユリ。
 聞くと、パパイヤ共済組合の前身である中高年の年金相談センターの頃から、国政に打って出る野望があり、日本年金党という政党まで立ち上げたことがあるという。当時の選挙の結果は惨敗だったとのこと。
「今回、前身党の公認になれたことで、本格的に国政で活躍できそうだ」
「共済組合の方は大丈夫ですか?」と久利が聞くと、
「理事長が参院の代議士になることで、ますます盤石になるはずですよ」とユリ。
「そうそう、新たに営業部門に若いスタッフも入ってくれましたしね」と言う理事長に、ユリはにっこりと頷き、
「彼らは優秀ですよ。中高年の男女をどんどん加入させてます」と言った。
 山村は、来る選挙に備えて選挙広告の概要と法的な仕組みを説明し、併せて前回選挙の資料を渡した。
「選挙広告の表現などは、色々制限などもありますので、何でもご相談ください」と山村は頭を下げた。
「私どもも、山村さん達を頼りにしてます。よろしくね」とユリ。
 客先を出た後、山村は饒舌だった。
「大きな話になりそうですね。うれしいなあ」
 現在は印刷関係の案件と求人広告が数回だったからだ。
「よかったな」
「社内の連中に一泡吹かせてやりますよ」
 元気な彼を見るのは嬉しかったが、同時に心配も感じる久利だった。

 地下鉄久屋大通り駅のある交差点で山村と分かれた久利は、そのままアネックスビルの地下にある公衆電話コーナーに向かった。
 五台の公衆電話機がすべて使用中だ。仕事の電話を入れる営業マンらしきスーツ姿が多い。ポケットベルで呼ばれたのであろう。
 いずれは携帯電話が普及するのだろうと思われたが一体いつの頃やら。
 携帯電話の契約には保証金と新規加入料で合計15万円近く必要で、さらに通話料が別途掛かるのだ。まだ中小企業や個人がおいそれと手が出せるものではなかった。
 ようやく空いた電話機の受話器を取るとテレホンカードを挿入してプッシュボタンを押した。
 短い呼び出し音の後「中署です」という女性の声に。
「防犯の都倉さんお願い」と告げた。
 女性の声は、緊張感を増して、
「至急繋ぎますね」と言った。
 待つほどもなく都倉の声が、
「よお、どうした」と返ってきた。
「彼女の緊張っぷりが気になるんだけど」
「ああ、おまえの名前、情報屋(たれこみ屋)って扱いになってるから。前に言わなかったっけ?」
「いや聞いてたけど、その設定って当分リセットはされないわけね」という久利の声から、ほろ苦い気持ちが伝わってくる。
 都倉は「がはは」と笑って、
「要件は?」と聞いた。
「パパイヤ共済って知ってるか?」
「最近話題の中高年向け共済組合だろ」
「ああ。そこに関して悪い噂はないかい?」と久利。
「特にはない、逆に何か悪い噂があるのか」と聞き返された。
 久利は、自分の勤務先と取引が始まりかけていること、おいしい仕事なのに新聞社の直系代理店が扱わないことなど、感じていた疑念をぶつけてみた。
「俺の口からはなんとも言えんな」と答えた都倉は、やはり何か知っているようだ。
「君の担当分野じゃない訳か?」
「経済犯・悪質商法は生活安全・防犯などのジャンルで、まあど真ん中だ」と都倉は苦笑いした。
「そりゃ言えねえわな」と言う久利に、
「おまえの同級生の弁護士に聞いてみたらどうだ。あの梶田晋平先生」
「知ってるのかよ、彼を」
「この業界は狭いからな。地裁のビルでよく見かけるな。遣り手だそうだぜ」
「そうなのか」
「刑事案件が多いそうだ。相談にはもってこいだぜ」
「わかった、聞いてみる」
 電話を切ったが、警察と司法の狭い業界の両方に、首まで浸かっている俺ってどうなんだよと、苦笑いが浮かぶ久利だった。

 駅からアネックスビルを地上に上がる。栄公園の噴水広場を横目に見ながら、そこで歌ってたシゲルとそれを見つめてた静香を思い浮かべた。二人は東京で上手くやってるだろうか。
 個室ビデオ・ドリーマーの栄店は久屋大通り駅から歩いて五分だ。大通りを一本裏に入った雑居ビルの地下にある。
「毎度、お世話になってます」と言いながら店長に広告掲載誌を渡すと、
「久利さん、雑誌ベリーに載ってる、パブ・ゴリラのコラム広告、久利さんが書いてるんだって?」
「ええ? ようご存じですね」
「今池店の店長から聞いたのよ」
「ああ、そうですか」
 広告はビデオレンタル・ルックの店長から紹介されたもので、サブカル系のネタを核にした蘊蓄系のコラム記事と店の紹介をほどよく混ぜた記事スタイルだった。
「70年代のバンドデシネを持ってくるなんて、いい線行ってますよ」と店長。
「おや店長もお詳しいですね」
「今池の彼と同じで、僕もアート系なのよ。丸善でヘビーメタル誌とか買ってましたよ」と一瞬、遠い目をした後、
「あ、そうそう、今池の彼、今度AV撮ることになったみたいよ」と言った。
「本当ですか?」
「モキュメンタリーっていうの? あの偽ドキュメント風のシナリオ書いてたし」
「へえー」と久利。
 自分と同じように創作に夢持ってる彼が、一歩目標に近づいたようで久利までうれしくなった。

 冬の日は短い。店を出て地上に出ると、早くも夕刻を思わせる暗さの空を背景に、並木に巻き付けた煌びやかなイルミネーション飾りがクリスマスムードを盛り立てている。
 大通りに戻ると、通りの反対側の歩道を歩く山村がいた。一人の女性と談笑している。
 商談であろうか、山村の態度が自信に満ちて見えるのが少し意外だったが、悪くはない。
 ここ何回かの集金同行で、彼は目に見えて成長してる。
 隣の女性に話しかける笑顔にもそれは現れていた。
 二人はセントラルパーク地下街に降りていく。その山村の背に心でエールを送る久利だった。

 アドプランニング・遊のビルは四階建てだ。一階にはビルの管理会社の事務室と玄関ホール、自販機コーナーがある。営業部は二階、そして三階がロッカールームとデザイン制作部門だった。
 三階でエレベーターを降りた久利は、制作と書かれたドアを開け、デザイン室に入った。右手に紙袋を下げている。
 制作部でデスクに向かって仕事をしていたのは、デザイナーの岩田美子だけだった。クリエイティブ職らしく、ジーンズとTシャツに暖かそうなジャケットを羽織っている。
「一人なんて珍しいね」と久利が聞くと、
「竹内君は撮影、チーフの鷲見さんは取材よ」と岩田女史が答えた。
「君の割り付けしてくれたベリーのコラム広告、お客関係で好評でさ」
 そう言って久利は紙袋を掲げて岩田女史に捧げるようにして「ありがとう」と言った。
「あら、」と驚く岩田女史に、
「フジヤのショートケーキ。三人で食べてな」と久利。
 制作の連中には予算の少ない仕事で苦労を掛けているからだ。予算不足で外注に出せず、彼ら自ら作業する仕事も馬鹿にならない量がある。
「うれしいわあ」と言う女史が、
「そういえば、」と語り出した。
 聞くと、先日の夜、デザイナー専門学校時代の仲間とディスコ・ラージマハルに言った時、そこで山村に会ったと言うことだった。
「山村もディスコぐらいはいくだろうよ」
「それが、彼女らしき人と一緒だったのよ」
 なるほど、驚きどころはそこなのか。でも、山村だって若者だ、ガールフレンドの一人や二人はいるかもしれない。
「彼も、ようやくモテネ期を抜けるのかもね」と女史。
 もてなくったってええやん、と思うのだが、普通の若者にとってはもてることが最重要課題なのだろう。それはいつの時代でもそうなのかもしれない。

 二階の営業部は雑然としている。各デスクの上に進行中の広告原稿が山積みになり、その山の合間に吸い殻が山盛りの灰皿が置かれている。漆喰の壁はたばこの煙で薄茶色に染まっていた。
 新年からは一階に喫煙コーナーが設けられ、それ以外の館内は禁煙になることが決まっていた。分煙だそうだ。
 久利は自分のデスクに座ると、受話器を取り上げ、梶田晋平法律事務所の番号をプッシュした。
「梶田法律事務所の梶田です」
 本人が出た。
「久利です。この間、パパイヤで会った」
「おお、久しぶり、その節は」
 秋口にパパイヤ共済本社ビルで会っていた高校の同期である。
「実は、」と久利は声を潜めた。事務所の連中には聞かれたくなかったのだ。
「お宅も守秘義務があろうからうかつなことは言えないだろうけど、例のパパイヤ、どうなの?
 俺の会社、取引拡大しても大丈夫なのかと不安になってね」
 梶田は電話の向こうで「そうか」と言って一瞬黙り込んだ後、
「実は定期共済の解約トラブルがある。契約者は満期になると解約の代わりに新たなスーパー定期に誘われるんだ」
「解約させたくないのはいろんな共済の常套手段だと思うけど、資産運用もしてるだろうし」と久利が聞くと、
「それが少々強引でね、満期金を出すのを極端に嫌っている。集めた金を運用してるかどうかも怪しい気がする」
「そりゃまずいじゃないか」
「あと、最近は契約者の集め方が催眠商法的で、ちとやばそうなんだ」
「あのセミナー商法とかか?」
「そう、どうやら連中の定期商品の営業をやってる外部企業があるらしいんだ」
「きな臭いな、警察とか睨んでないのかなあ」
「今は観察中じゃないかな。苦情の声がでかくなると踏み切ると思うぜ。
 俺はそうなる前に自分の依頼者の案件を片付けたいけどね」
「すごくドライなのね、晋平」と久利が言うと、
「大人になったってことかな。
 まあ、依頼者を救った後、あそこが弾けたら、他の被害者たちの組合を作って救済とかに回るのはやぶさかじゃないけど」と梶田。
「確かに。
 俺も正義のためと言うより勤務先が被害被ることの方が心配だから同じだな」と言う久利に、
「お互い、もう三十過ぎたからな」と梶田は苦笑いで答えた。
 礼を言って電話を切った。彼のような高校のOBが、検察など司法関係にはちょくちょくいた。彼の代以降は警察にもキャリアとして入庁しているようだ。
 久利の高校は自由放任で有名な高校で左翼系の学生も多かったが、七十年代後期には、学生もシラケ世代となり、学生運動に走るような生徒も減っていた。体制・反体制の明確な境界は失われ、かつて体制側と言われた官僚や司法に回る連中も少なくなかったのだ。
 一方、久利の大学の方の同期は、地方公務員が多い。公務員養成所と揶揄されるぐらい、県警や教員や自治体の職員が少なくない。
 そして、久利は、その両方の情報網に救われることも珍しくなかった。
 名古屋圏という大きな市場の「田舎」的な人脈に助けられてもいるのだった。

 デスクワークを終えて一階の自販機コーナーへ降りてきた。
 山村と吉良が話しているところだった。ちょっと意外な組み合わせだ。
 久利に気づいた二人が、
「どうも」と挨拶をする。
「先輩、山村君、最近垢抜けたと思いませんか?」と吉良。
 その言葉に悪意がないのが意外だった。
「そうですか?」と照れ笑いする山村。
 確かに、以前のように信金の職員然とした撚れたスーツ姿ではなかった。
 紺のブレザーにフランネルのパンツ、シックなニットのベストの下はボタンダウンのシャツだった。
「そういや、”気まぐれコンセプト”に出てくる広告会社営業マンのユニホームみたいな感じ」
「なんだか、業界になじんだみたいで照れくさいです」と山村。
「これから久利先輩とは別方面の面倒見るからな」と吉良は山村に笑いかけ、
「先輩、自分これから外回りなんで」と言って出て行った。
 吉良を目礼で見送ってから山村に向き直り、
「これもセミナーのおかげかい?」と聞いた。
「ええ、本当にライフがチェンジした感じです。受講料は高かったですけど、誰にでもフラットに話しかける自信つきました。営業にも活きそうですよ」
「そのセミナーやってるのこいつかい?」と言って如月翔の名刺を見せた。
「そうですよ! 先輩、知り合いだったんですか?」と山村はうれしそうに笑った。そして
「彼、パパイヤ共済の定期を売る契約会社もやってるんですよ。
 そこで知り合ったんですよ僕ら。
 営業成績もいいらしいですよ」と続けた。
「へえー、一度、会ってみたいな」と久利は水を向けた。彼の脳内で危機管理のアンテナが立ったのだ。
「きっと、気が合いますよ。似てるんですよ先輩に」
 山村はのんきに微笑んだ。

 地下鉄東山線今池駅の次が池下駅だ。かつては市の外れの住宅街だったエリアで、今でも大通りを外れると閑静な、しかもハイソな邸宅の並ぶエリアになっている。建っているマンションやメゾンも、昨今のものではなく、昭和三十年代に建てられたような落ち着いたものが多い。
 戦後の新興住宅街が時を経て高級住宅街に変わったのだ。近隣には覚王山日泰寺、中高一貫の杉山女学院などがある。
 世俗にまみれた今池と一駅しか離れていない場所とは思えない。
「アップタウンか」と呟いて、直ぐにビリー・ジョエルの歌「アップタウン・ガール」が脳内BGMとして風景に重なった。
 さしずめ俺はバックストリート・ガイなのねと自嘲気味に思い、そんな自分の広告屋らしい軽薄さに、久利は一人で苦笑いだ。
 その池下駅からほど近い雑居ビルの地下一階に画廊喫茶アミーがあった。
 扉を開けると、店主の趣味なのか印象派風の油絵が壁に並んでいるのが目に入る。
 ぐるりと見回すと一番奥の席に、如月翔が座っていた。
 久利の姿を認めると、にっこり笑って手を上げた。
 半年前のヤクザな印象は皆無だった。あの時は、デートクラブの事務所での金銭トラブルだったので、Vシネマに出てくるイケメンなヤクザにしか見えなかったのだ。
「山村さんから、久利さんが会いたいそうだ、って聞いてうれしかったですよ」と翔が言った。
 自分の前に並んでいる皿を示して、
「このハンバーグサンドがここの自慢でして、おすすめです。頼んでおきました」と言った。
 人の心に入り込むのがうまい。本来の彼はこちらなのだろう。
「自虐的な山村が、けっこうポジティブになってて驚いている。ありがとう。
 でもセミナー料は法外みたいだけど」と言うと、翔は苦笑いした。
「僕がセミナーで教えてるのは、ありのままの自分に自信を持つことです。
 でも僕も教わっているんですよ、久利さんに」
「俺に?」
「そうですよ、あの雅の事務所で、久利さんの口車に乗せられた時」
 雅とはあのデートクラブの屋号であった。
「口車か」と久利は苦笑い。
「あのセールストークを聞いて、ホスト時代の自分を思い出しましてね、
 言葉と演技で客を掌の上で転がす感覚、営業トークそのものだと気づいたんですよ」
「それって、褒めてんのか貶してんのかどっちだよ」
 久利は、営業職になって二年目頃の自分を思い出していた。相手の気持ちが手に取るようにわかりだし、それに応じた後の会話の伏線を張りながら会話ができるようになったころ。
 あくまで売る商品が良品だということが前提だが、まさに掌の上で相手の気持ちを転がすような万能感。営業が最初に感じる面白さであった。
「セミナーは、彼のようないけてないモテネ君を餌食にしてるようなもんですが、その代わり必ず自信を持たせます。あれは、自己暗示なんです」
「彼とデートしてるの、JJのキャバ嬢だろ?」
「よくご存じで」
「先日、栄で見たよ」
「彼女たちとの交友で彼らは経験値を積むんですよ。セミナー料には、その料金も入ってるんです」
「商売上手だな」
 経験値という言葉に、人生もゲームなのだという彼のドライな認識がうかがえた。
「これは、ほかならぬ久利さんに学んだんですよ」
 翔にそう言われると返す言葉がない。
「パパイヤの定期を売ってるらしいけど」
「ええ、ユリさんから請われて」
「そこまで営業って仕事に魅了されるとはね」
「面白いですよ。数字を上げる快感もね」
 食事を済ませて店の外で彼と別れた。
 別れ際の如月翔の笑顔が実に魅力的で、これじゃ素人はイチコロだなと思った。

 翌日の昼近く、久利は仕事持ち込みの愛車マイティボーイで、平和公園の中を走っていた。
 ここは戦後の戦災復興都市計画で、名古屋市内の多くの墓地を移設した公園墓地である。中央には平和堂というお堂があり、春には桜の名所になるほどの公園だ。諸設備もまだ新しさを保っていて、そのおかげで心霊的なおどろおどろしい雰囲気は皆無だ。
 路肩や木陰に多くの車が停まってる。休憩を取るタクシーや、サボっているセールスマンがシートを倒して居眠りしてたりする。
 ゆっくりとその間を走りながら、久利は猪子石方面から猫洞通りを目指していた。
 車内に流れるAMラジオ番組では、お笑いタレントのMCがゲストのアイドルとトークをしていた。
 リスナーからのハガキを読みつつ、
「その彼には困りますなあ」とか、
「そりゃ、どん引きですわなあ」など、いけてない独身者やモテネ男を笑いものにする毒舌でリスナーの笑いを誘ってる。
 聴いていて腹が立ってきた久利はラジオのチャンネルをFM愛知に替えた。流れてきたのは、シカゴの「What Does It Take」だった。昨年出たアルバムの曲で、こういう無害な曲こそ仕事中にふさわしいぜ、と思った。
 そういえば先月末、名古屋の広告業界では、来年の開局を予定する愛知県域での二局めの民放FM局が話題になっていた。仮名称はFM名古屋だ。正式名称はどんな名前になるのだろうか。
 株主は地元の中部新聞やテレビ局に加え大手私鉄と自動車メーカーが並んでいる。音頭をとっているのはやはり大手広告代理店で、久利たち弱小代理店は当然のように蚊帳の外だった。
 あれも広告会社、これも広告会社だ。
 目的地の店の前にマイティボーイを留めてそうため息をついた。
 名東区の住宅街の中にある、ミルキーという名の美容室だった。通りに面した個店で、三台分の駐車場が店舗の前にあるが停まっている客の車はない。二階がオーナーの住居にもなっている。
 おしゃれな筆記体のネオンが架かっているが店全体を退廃の空気が覆っている。周囲の店がクリスマス飾りなどの演出をしている中、この店は秋の紅葉の飾りを残したまま休業中だ。
 玄関を入るとオーナーが客用のソファに座って缶ビールを片手にたばこを吸っていた。
 三十代半ばだが、服も髪型も美容師らしく流行にそっている。とは言え若つくりで少し無理がある。さらに顎の不精髭が休業期間の長さを物語っていた。
「今日こそ、払ってもらいますよ」
 久利は挨拶もそこそこに言った。
「悪いねえ」と言うオーナーはちっとも罪悪感を感じていないようだ。
 広告は新聞の行数広告で「居抜きで美容院の店を売る」という不動産広告。行単価9000円で二行で18000円だった。本来は電話とファックスで完了して、振り込み確認後掲載のはずなのだが、旧知の客の上、提稿時間ギリギリの依頼だったので、なし崩しに後金になったのだ。
「今週末には払えると思う」
 オーナーはいつもの調子でヘラヘラとうすら笑いを浮かべている。
 近所の話では、何かトラブルがあって大金が必要なため店を手放すようだった。
「もうこれで三回目ですよ。仏の顔もなんとやらって言うじゃないですか。
 名東区までやってきて、手ぶらで帰る僕の気持ちわかりますか」とまずは泣き落とし。
「でも、ないもんはないからなあ」と相手は開き直る。
 久利はここで、態度を一変させる。いつもより早いのは、もうこれが三回目だからだ。
「払えない、金はない?
 でもたばこ吸う金やビール飲む金はあるんですよねえ!」と声が1オクターブ低くなっている。
 もう営業の溌剌明瞭な声ではなく、地声になっていた。
「いいかげんにしてくださいよ!
 18000円ですよ。
 向こう三軒両隣に頭を下げて3600円ずつ借りれば払える金額ですよ」
 オーナーは久利の大声にびっくりして凍りついた。
「待ってますから、借りてきて払ってくださいよ」
「わかった、冗談だよ」というとオーナーは、壁にハンガーで掛けてあるジャケットから長財布を出すと、一万円札を二枚出した。あるじゃねえかよ、と心の中で叫んだ。
「釣りはいいから」と言うオーナーに、
「それやったら、自分はヤクザと同じになりますんで」と言って釣りと領収書を返す。
「すまんね、すまんね」というオーナーの声を背で聴きながら店を後にした。
 乱暴に車を発進させた。集金できた安堵やうれしさとはほど遠い気持ちだった。
 俺は今でも十分ヤクザだ。そう感じて久利は唇をかんだ。
 FMからユーミンの「サーフ&スノー」が流れてきた。広告マンを主人公にした映画「私をスキーに連れてって」の主題歌だ。
 あの映画の中で、東京の若い広告営業マンはプロジェクトを成功させ、ゲレンデの恋も成就する。
 一方、名古屋の小代理店の久利は、未払いの広告料金を怒声を浴びせて脅し取るチンピラ広告営業マンだった。
 あれも広告会社、これも広告会社か。そう思った久利の頬に浮かぶ笑いは実に苦いものだった。

 新今池ビルのパーキングからビルの入り口に回ったところで山村に出会った。一階のパチンコ屋の前だった。
 地下街から階段を上ってきたところだ。
「お、奇遇だね」と声をかけると、山村はドギマギしながら、
「パ、パチンコです」と答えた。
 パチンコは一階だから、きっと、地下の個室ビデオかテレクラだろうと思ったが、それを言っても気の毒だ。
「この間はセントラルパークで彼女といるところも目撃してるし、名古屋は狭いな」と久利。
「あの彼女とは別れました。今は新しい出会いの準備中です」と山村は自虐的に笑った。
 強がりだろうと思った。あの女は、山村の経験値を上げるために、翔が言い含めたキャバ嬢だ。
 だが、その山村の強がりを久利は笑うことができない。
 自嘲気味に、一人回収チームとかチンピラ営業だと苦笑いして見せる自分とどこが違うのだろうと思った。
 むしろ、強がれるようになった山村を褒めてやりたかった。
「ポジティブだねえ」とだけ言っておく。
「セミナーのおかげですよ」と山村はあくまで肯定的だ。
 授業料は法外だが、一定の効果はあるようだった。

 月刊タウン誌「アイライン」を発行する名古屋トレンド通信本社は新栄にある。
 新栄は今池と栄町の間に位置する町で、その中央を片側四車線の国道十九号線が南北に走っている。隣の春日井市や多治見市に通じる幹線道路なのだが、とにかく名古屋という街は広い道路が街を縦横に走り、車がビュンビュンと行き交う街なのだった。
「アイライン」は女性向けのおしゃれ系タウン誌で広告セクションと編集は同じフロアだった。もともと記事と広告の境界線が薄いタウン誌だ。
 編集の磯谷が久利の担当になる。まだ二十代後半で、ラフなセーターとジーンズ姿がいかにも編集ぽい。
「ベリーさんのコラム広告拝見してますよ」と磯谷が言った。
「いやあ、お恥ずかしい」と久利。
「久利さん、テレ東さんのコンテスト入賞されてるんですね。名城テレビの長谷川さんから聞きましたよ」
「ええ? 長谷川氏とお知り合いなんですか」
「狭い業界ですからね」
「テレ東のあれは、佳作の一人にすぎませんよ」
「でも賞金50万でしょ、立派なもんです」と言って磯谷が切り出したのは、新しいエッセイ風の広告シリーズの企画だった。
 聞くと、アイライン誌では、そのための書き手を探していたのだという。
「広告営業をされた方なら、雑文だけ書いてきた若い人とは違い、コンプライアンスなども飲み込まれてますしね」と。
「確かに、自分は社でも”書ける営業”的に便利に使われてますわ」と久利は苦笑い。そして、
「実際に、具体的なクライアントはいるんですか?」と聞いた。
「実はここを考えています」と磯谷が提示したのは地元に本社のある日本最大の自動車メーカーだった。
 対象の商品は新しい小型のRVで、「街を探検」というコンセプトで、近隣三県の各所を、その車で回る記事を考えているという。
「実は、今、頭にある企画があるんですけど」
 そう久利が話し出したのは、東海三県の旧い映画館を巡るルポルタージュだった。
 平成に入り、映画館はシネマコンプレックスが中心になり、街からは大きなスクリーンが消え始めていた。
 映画ファンだった久利は、前々からそれら旧館を写真と文で残しておきたかったのだ。
「映画は、その時代の鏡でしたからね。平成に入った今、昭和の思い出を残しておく旅に、平成の車で出かける。悪くないんじゃないかなあ」
「いいですね、昭和のレトロってこれから来ますし」と磯谷も乗ってきた。
「6月に廃刊になった”ほっちぽっち”ってありましたでしょう?
 実はあそこに提案したかったんです」
「ほっちぽっち」は文化系の地方エンターテイメント雑誌というタウン誌だったのだが、より女性寄りファッション寄りの「ベリー」や「アイライン」、文化情報寄りの「東海ランナー」に押されて廃刊してしまったのだ。
「あそこのようなカルチャー系の記事も充実させたかったんですよ。渡りに船だな」と磯谷。
「そこでお願いなんですけど、ぜひ、このタイアップ記事、署名記事にしてほしいんです」
「ライターとしての今後のキャリアにするんですね。いいでしょう。早速企画書のたたき台作ってください!」
「作りまっせ、候補地ももう絞ってありますから」と久利のテンションも上がる。
 クリエイティブな仕事に、ここまで、飢えていたのだなと、あらためて久利は腑に落ちたのだった。

「凄いじゃない」とカウンターの向こうのミチコが言った。
「いよいよライター業、本格始動じゃないの!
 じゃ、この一杯はお祝いね」と和泉和子ママが焼酎のお湯割りをカウンターに置いた。梅干しが入れてある。
「この後も仕事入ってるんだけどなあ」とぼやく久利。
「記事に名前が載るってそんなに大事なの」というミチコに、
「会社員との二足のわらじだけど、仕事が増えるように知名度上げたいんだ」と久利。
「いずれは小説書きたいんでしょう?」と聞くミチコ。
「そっちは難しいんだよなあ」
「やっぱり文章書くのって大変なの?」と聞くママに、
「文章書くことより、会社員と小説家の脳みその切り替えが難しいんだ」と答える。
「書くときは、脳をその状態に持って行くんだけど、そうなる前に日常の仕事が襲ってくる。
 まるで滑走中に何度も速度が落ちて永遠に離陸できない飛行機みたいなもんです」
「へえー、そうなの。
 でも、作家だろうと営業だろうと、どっちの久利さんも好きよ」というミチコ。
「あらら、君は商売上手いなあ」と苦笑いする久利だった。

 中区錦三丁目にある花梨は知る人ぞ知る高級クラブだ。
 夜の商工会議所という別名があり、企業人や政治家の客が多いことで有名だ。
 当然、久利は仕事で来ている。仕事でしか入れない店なのだ。とはいえこんな高級店から営業広告など出ない。
 明朝掲載の訃報広告、俗に黒枠などとも言われる死亡広告の取材だった。
 臨時ものと呼ばれる広告で、金額は馬鹿にできない。地元ブロック紙だけでなく、全国紙の中部版にも同じ体裁で掲載することが決まっていて、広告料も軽く100万円超えであった。
 もっともその葬儀に集まる香典で広告費以上の金が動くんだろうから企業にとっては痛くもかゆくもなかろうと思った。
 死亡したのは地元中堅企業の役員だった。死去した事実と今後の式の予定が喪主と葬儀委員長の名で書かれている。
 電話取材時に文章をフォーマットに落とし込み、すでにゲラ状態にした原稿を店に持参したのだ。
 客席のVIPたちを眺め、早くもノンノンに戻りたくなった。
 店の黒服が、
「お聞きしております、こちらへ」と言って案内してくれた。
 依頼主は奥のボックスにいた。下腹が突き出た中年で、葬儀には直接関係しないらしく、当該企業の総務系の平役員だろうと思った。
 ボックス席には若い男と痩せた中年男のコンビもいて、平役員を接待する取引先だろう。
 ボックス席に座るような指示もなかったので、やむなく通路に片膝をついた中腰でゲラを渡した。俺はボーイかよと声に出さずにぼやく久利。
 平役員はでっぷりとした腹の上に原稿を置いて確認している。
 原稿をチェックした上で、
「大丈夫だ」と言ってゲラにサインをした。そして、その後は「よろしく」と言って手を振るともう久利の方には一顧だにせず、
「役員はつらいよ。社葬の責任者だ」と自慢げに苦笑いしてホステスたちを見回した。さすがにホステスたち、
「すごいですわ」とお世辞を忘れない。
「役員には役員の苦労がおありなんですね」と接待コンビも揉み手で愛想笑いをしている。
「では」と席を立った久利の目に、奥のボックス席で盛り上がるグループが飛び込んできた。
 ひときわ大きな笑い声。
 パパイヤ共済の大友理事長と秘書のユリ、そして如月翔だった。そしてもう一人は新聞でもおなじみの前進党の幹事長・子母沢一郎だった。
 三人で子母沢の接待なのであろう。
 久利の胸に違和感が湧き上がる。
 ここは年金共済の役員が遊びに来るような店ではなかった。政治家への一歩を踏み出して気が大きくなっているのだろうか。
 子母沢を見かけた客が、席を立って挨拶に来るたびに、
「次期選挙で、我党の候補として立つパパイヤ共済理事長・大友君だ」と幹事長が紹介する。
 ホストの大友理事長の鼻の穴は満足そうに膨らんでいる。
 如月翔は、百戦錬磨のホステスたちを如才なく操って子母沢を喜ばせている。ホステスというツールを使って、掌の上で遊んでいるのだ。
 そしてユリはその翔の隣にぴったりと座り、賞賛するようなまなざしで見つめている。傍目にみてもぞっこんなのがわかる。
 久利は店を出た。
 錦三丁目の交差点で、たばこ屋の軒先の公衆電話から中部新聞の広告局に電話を入れ、ゲラ拝のOKを伝える。
 大口案件の終了で気分が緩んだ。
 だが小さな代理店にとっては、黒枠が大口案件なのだと思い、また自分の仕事の卑小さに歯がみするような気分になった。
 さらに、そんなルサンチマンを抱える自分の矮小さに歯がみする。
 この時間帯、この街はネオンと街灯で昼間より明るい。
 そのまま帰る気になれず、丸の内三丁目のカフェ・バーに入った。
 扉を開けるとレッド・ホット・チリ・ペッパーズが流れてくる。
 ペニー・レーンと呼ばれる店で、一晩中テレビにMTVを流している店だ。
 久利のような広告営業や広告デザイン関係の人間がしばしば足を運ぶ店だった。
 ウイスキーの水割りを頼んで、テーブルに肘をついてテレビモニターを眺めていると曲が変わった。
 浜田省吾の「悲しみは雪のように」だ。
 ボーイが運んできた薄い水割りのグラスに、
「孤独で、
 君のからっぽの
 そのグラスを満たさないで」という歌詞の一説が重なった。
 水割りを飲み干した久利は、
「皮肉だな」と一人呟くのだった。
第四話 「約束の橋」(1993年春)
https://note.com/hajime_kuri/n/n4e44b58980a2


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