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「素」で書くための、自意識への抵抗

文章を素直に書くようにしてきたけど、「素」で書くのが苦手だったんだな、と気づいた。

私はどうも、行儀よく書いてしまうきらいがあった。

小説やエッセイを読んできて、「こんな文章を書きたい」と強く憧れたのは精緻で瑞々しい文体だった。

加えて独学でWebライティングを習得したため、「分かりやすい」と言ってもらえるものの、なかなか「遊び」を入れられなかったように思う。

「素」が入るようになったのは、ゲームのエッセイを書き始めた頃だっただろうか。

元がオタクなので、ゲームやアニメは自然と細かい設定や関連するシリーズを追ってしまう。
意図せずとも自然体で書いている自分がいる。

「素」で書くとは、「自意識を脱ぎ捨てる」ことだ。

行儀よく安全運転を心がけてきた人間がアクセルを踏もうとすると、真っ先に邪魔をしてくるのが自意識である。

平たくいえば「こんなこと書いたら引かれるんじゃないか」「痛いんじゃないか」といった懸念だ。

だからといってブレーキをかけながらでは、減速するばかりで書きたいことが書けない。

結果、誰かの心を揺さぶるような勢いはなくなる。
書く側もフラストレーションが溜まる。
「言いたいことも言えないこんな世の中」を作ってしまうのは自分だ。

反面、アクセルを踏んだだけの文章を世に出すのも危険である。
書かなくていいことまで書いて、突っ走ってしまうからだ。

そもそも一般人は、自分が思っているほど読まれない。
noteのダッシュボードに「精読率(完読された割合)」があれば、自意識などというガラス板はバットで粉々に砕け散るだろう。

分かっていてもそうでなくても、文章を書いて投稿するというのは、自意識への抵抗である。

その戦いに、確実に手応えがあった記事がある。
ここ最近書いていた「名探偵コナン」の記事だ。

昔から好きだったコナンへの再熱っぷりを、狂気すれすれに書いた前後編だ。
夢中で書き上げ、「多分ちゃんと読んでくれたんだろうな」という人の顔が見えた。

なぜ書けたのかというと、最近読了した本にこのような記述があったのだ。

書くとなると、やっぱり、普通に思っていることとは違う、気取りとか、カッコつけとか、人目を何か意識する。
(中略)人が文章を書くときというのは、誰もがこの自意識に苦しめられるんですね。

町田康 著「私の文学史」より引用

誰でも「それらしい」、よそ行きの文章を書いてしまうことがあると思う。
「行儀よく」もその一種だろう。

ただ、自意識は「客観的に物事を見る」能力でもある。

前述のように、アクセルだけでは文章は書けない。
時間を置く、推敲する、誰かに読んでもらうといったブレーキも必要だ。

それでもブレーキを踏んでしまうとしたら、おそらく「普通」から外れる怖さに囚われているのだろう。

「なんか、批判されるかもしれない」とか、「これを言ってしまったら、俺は終わる」という恐怖。
それに阻まれて、せっかく、本当に考えているおもしろい、変なことが書けないんです。

同上

この本では、「そのときどきの本当の気持ち=おもしろい文章を書くコツ」だと述べている。つまり「素」。
そのために「普通」を乗り越える必要があるのだ。

では、自意識とやらをやっつけるにはどうすればいいのか。
要は「素」で書く練習をすればいいのだ。

別に毎日noteを投稿せずとも、ノートなりメモアプリなりで、本当の気持ちを書く。
誰にも見せない安全な場所で本音を連ねてから、公の場で素を出してみる。
自意識を脱ぎ捨てるとは、その繰り返しなのだろう。

私は前述のコナンのnoteで、本当に思ったことを書いた。
好きなライターさんの影響や、ネタに走った部分もあるし、数字だけでいえば特別反応がよかった訳でもない。

だけど、適切にブレーキを踏みながら言いたいことを言えて、あとから「素=本当の気持ちを書けたな」と思えたなら、必ず誰かの心に届く文章になる。

記事に限らず、私の文章を真摯に受け取ってくれる人に、改めて感謝したい。


※ヘッダー画像はみんなのフォトギャラリーからお借りしました。ありがとうございます。

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