あの「南無阿弥“家康”」も! トーハクに江戸時代の将軍の手紙や日記がズラリ
先週も金曜日は久しぶりにトーハクを歩いてきました。安土桃山から江戸時代の部屋のラインナップがガラッと変わっていました。どんなものが展示されていたかと言えば……初代の家康からはじまり、三代・家光、五代・綱吉、十代・家治、十一代・家斉などが書いた書状、朱印状、和歌などです。
■初代・徳川家康の書跡
ズラリって言っても「将軍15人のうちの5人しかいないじゃないか」と言われればそれまでなのですが……特別展や企画展などで様々な博物館から集めれば15代を揃えられると思いますが、所蔵品だけでこれだけ揃えられるのは、すごいことじゃないかと思います。
◉徳川家康の《日課念仏》
「うわぁ〜」って思いながら一つ一つを眺めていき、やはり最もグッと来たのが、徳川家康がしたためていたという《日課念仏》です。

徳川家康筆|江戸時代・17世紀|紙本墨書
個人蔵
さて、《日課念仏》は、徳川家康の死後に形見分けをしたのか、色んな場所に残されています。トーハクにも、所蔵品のほかに寄託されているものがあるようで、現在展示されているものは「個人蔵」とあります。ちなみに昨年の特別展「法然と極楽浄土」で展示されていたのはトーハク所蔵品ですが、“伝”徳川家康《日課念仏》とされていました。今回のは“伝”ではなく、家康さんが確かに書いたものと鑑定されているの“かも”しれません。
《日課念仏》は、基本的に「南無阿弥陀仏」と整然と隙間なく書いていったものです。なのですが……時々、隠れキャラのように「南無阿弥家康」と書いている箇所がある……というのは有名な話です。現在の展示品には、上から3段目の左から3行目に、その「南無阿弥家康」というのが確認できます。「確認できる」と断言はできず……「あぁ、そうかもね」という感じです。
上から3段目を拡大してみると、下図のようになります。左から3列目に注目してみると「南無阿弥家康」と書かれているかわたしには分かりませんが、確かに「南無阿弥陀仏」ではないことが分かります。

さて、大河ドラマ『どうする家康』でも、関ケ原の陣中……茶臼山の本陣で、家康が一心に念仏を書くシーンがありましたね。「なんでそんなことをしてたの?」といえば、いろんな説がありますよね。これまでの自らの罪を許してもらいたいからとか……これまで戦いで亡くなった配下たちの供養のためだったとか……単に雑念を払いたかったから……かもしれませんし。まぁ、これだという一つの目的のためではなく、様々な思いを載せていたというべきなのでしょう。
家康の《日課念仏》とは全く関係ないのですが、金曜は、トーハクから帰宅して夕飯を食べた後に、息子と2人で『キングダム 大将軍の帰還』を夜中まで観てしまいました。映画館へも行ったので、観るのは今回が2度目でした。
『キングダム』は、基本は始皇帝=大王・嬴政(えいせい)と、家臣の信(しん)が、中華統一していく話なのですが、今回の『大将軍の帰還』に限っていえば、主人公は、同国の大将軍・王騎(おうき)だと言っても異論は少ないでしょう。
その王騎(おうき)将軍の名言はたくさんあるのですが……トーハクで《日課念仏》を見てきたばかりのわたしが、観ていて最もジーン…ときた言葉が、これです。
十三の頃より数え切れぬほどの戦場を駆け回り、数万の戦友を失い数十万の敵を葬ってきました。
命の火と共に消えた彼らの思いが、全てこの双肩に重く宿っているのですよ
まるで徳川家康のセリフのように感じながら、大沢たかおさんの演技に見入り、鳥肌を立てつつ、少しホロリとしてしまいました。何度観ても、聞いても、感動してしまいますよね……って、観たことある人は多くないかもしれませんが……。
この思いって、王騎(おうき)将軍に限らないんだろうなぁと思うわけです。『坂の上の雲』でも、同じようなセリフがあった気がしますし、いつの時代も将軍たちは……将軍に限らず士官・下士官だって、自身の指揮によって、何人、何十何百何千、あるいは一億人の生死を左右すると自覚していることでしょう。まぁ本来なら政治家にも同じような思いを抱いていて欲しいものですが……軍人のように、指揮の結果が、眼の前で生死という形で現れるわけではないので、政治家には難しいのかもしれません。かくいうわたしは、そんな重責が双肩に載ったら……ガクッと膝から崩れ落ちてしまいますけどね……。
◉初期の大奥で権勢を振るった、愛孫・千姫への手紙
トーハクでは、7月19日から特別展『江戸 大奥』が始まります。同展のテーマは、タイトルにあるとおり、江戸城の大奥です。その江戸城の主といえば、歴代の将軍なのは言うまでもありません。つまり、特別展『江戸 大奥』が本来「裏」の場所を紹介するのに対して、今季の所蔵品点の東博コレクションでは、江戸城の「表」を揃えて展示していると言っていいでしょう。
そんな江戸幕府を創建した初代・家康の書は、他にも展示されています。
まずは《日課念仏》を紹介しましたが、次に観たいのが徳川家康から愛孫の千姫へ宛てた手紙です。

徳川家康筆|江戸時代・元和元年(1615)|紙本墨書
これまでも何度か見たことがあるので、おそらく頻出展示品なのだと思います。《書状(ちょほ宛)》です。
「あれ? 千姫宛てではないの?」という感じですが、「ちょぼ」さんとは、千姫の侍女です。解説には「実質は孫である千姫に宛てた書状です」とあります。内容は……大阪の陣で、夫である豊臣秀頼を亡くし、自身も命からがらに落城前に脱出した千姫に向けて、体調を心配して送ったものです。
返々、御わづらひ
あんじまいらせ候、めでたく
御わづらひ御心もと
なくおもひ候べく候、藤九郎
まいらせ候、何と御いり
候や、くわしく承
候べく候、くわしく
藤九郎申まいらせ
候べく候、
ちょほ申給へ大ふ
ChatGPTで現代語訳してもらうと、以下のようになりました。
くり返しになりますが、あなたのご気分がすぐれぬと聞き、心から案じております。お加減がよくなられたと聞き、ほっとしておりますが、まだ気がかりな思いは尽きません。
藤九郎をそちらへ遣わしました。どうか、どのようなご様子でお過ごしか、詳しく知らせてください。
どうか、つらいこと、苦しいことがあれば、遠慮なく話してください。心より案じております。
千姫は、この手紙を受け取った翌年の9月29日に、家康の家臣である本多忠勝の孫、伊勢桑名藩の本多忠刻(ただとき)のもとへ嫁ぎます。ちなみに本多忠刻(本多平八郎忠為)の所持していた《太刀 銘 守利》は、以前、静嘉堂美術館で見ることができました。(記事中の「大坂城」が「大阪城」と間違って記載されているのに、いま気が付きました)
そんな千姫ですが、本多忠刻との間に男子を生んだものの、その後、3歳で早世してしまいます。また夫の忠刻も、その3年後くらいに亡くしてしまいます。忠刻を亡くした後、千姫は江戸へ帰り、三代・徳川家光の姉として、「大奥」で絶大な力を持ったそうです。※千姫の時代には「大奥」という呼称ではなかったようです。
さて、初代・徳川家康の手紙が、もうひとつ展示されています。これについては、誰に宛てたものなのか記されていません。封書がなくなってしまったのかもしれませんね。

徳川家康筆|江戸時代・17世紀|紙本墨書
個人蔵
ただ、以下のように記されているそうです。
御陣之様子承度候、
以飛脚令申候、可然
様取合可為本望候、
其表之儀具可被申越候、
次上方弥無異儀候、
可心安候、恐々謹言、
五月十一日家康
陣中のご様子をぜひお聞かせいただきたく、
飛脚を通じてお伝え申し上げますので、
そのようにお取り計らいいただければ本望に存じます。
そちらの方面の詳細についても、あわせてご報告いただければと存じます。
なお、上方の様子は一層変わりなく、異常はございませんので、
どうかご安心くださいませ。
恐れながら謹んで申し上げます。
■大奥で絶大な権力を握った千姫……の、弟・徳川家光からの手紙
さて、千姫の話に戻ります。特別展『江戸 大奥』では、主要人物の1人として紹介されるようですが、先述のとおり、大坂城落城のあとに江戸に一旦戻った千姫は、徳川四天王の一人、本多忠勝の孫にあたる本多忠刻のもとに嫁ぎました。千姫が嫁いだことも関係していた気がしますが、本多家は桑名から姫路へと転封となったのですが、千姫の不幸は続きます。息子が3歳という若さで早世してしまった後に、夫の忠刻も亡くなってしまいます。
傷心……だったかは分かりませんが、千姫は娘の勝姫とともに江戸……江戸城に帰り、出家して天樹院と号したそうです。出家後は娘と2人で……確認が必要ですが、今の東京近代美術館あたりにあった竹橋御殿で暮らしました。そしてWikipediaによれば、徳川家光の厄年を避けるために江戸城から移った家光の側室・夏(後の順性院)と、その後生まれた家光の三男で甥の綱重と暮らすようになります。千姫は綱重を養子にすることで、将軍家直系子息の養母という位置づけとなり、大奥に対しても大きな発言権を持つようになったようです。その権威は、弟・家光の死後も持続し、4代将軍・家綱……つまり千姫の甥の時代になっても、大奥の最高顧問的な権威をもつことになりました。

徳川家光筆|江戸時代・17世紀|紙本墨書
高梨正治氏寄贈
そんなお姉さん・千姫に宛てた、三代将軍の家光の手紙が展示されています。内容から、おそらく寛永11年(1634年)に出した手紙のようです。
高校の教科書に載っているのですが、家光の時代……1627年(寛永4年)に、紫衣事件(しえじけん)という、事件が発生しました。
この年、後水尾天皇は大徳寺の沢庵宗彭ら十数人の僧侶に、幕府に相談せず紫衣着用の勅許を与えました。これは従来の慣例に沿ったものでしたが、幕府は「禁中並公家諸法度」に違反しているとして、その勅許を無効として、紫衣を取り上げるよう命じました。朝廷と、沢庵さんたちの大徳寺の僧侶たちは「天皇の決定に幕府が口を出すのはおかしい」として強く抗議しました。幕府は妥協を示すものの、最終的に1629年、沢庵宗彭ら抗議した高僧たちを出羽国や陸奥国へ流罪としました。この事件により、「幕府の法度が天皇の勅許より優先する」という認識を明確にし、幕府の朝廷に対する優越が確立されました。事件にショックを受けた後水尾天皇は、幕府に相談せずに譲位し、幕府との対立が深まりました。(ちなみに、この時に女性天皇である明正天皇が即位しました)
その後、紫衣事件や譲位強行で悪化した朝廷と幕府の関係を修復しつつ幕府の権威を示すため、徳川家光は大軍を率いて上洛。後水尾上皇に謁見しました。トーハクに展示されている手紙は、将軍の徳川家光が姉の千姫へ宛てたものです。

此たび道すがら何事なく入洛
につき、御使ことにもくろくの
ごとく給、まんぞく申候べく候
昨日しゆびよく参内、
院参申候まゝ、御心やすかるべくに
猶使に申ふくめ候、かしく
いへ光
天樹院の御方へ
まいる
【ChatGPTによる現代語訳】
このたびの旅の途中、何事もなく無事に京都に入りましたので、お使いのことについても予定どおりにしていただき、満足しております。
昨日は滞りなく参内し、上皇さまにもご挨拶を済ませましたので、どうかご安心ください。
念のため、使いの者にもさらに申し含めておきました。かしこ
家光
天樹院様のもとへお届けいたします

家光の書については、もう一つ展示されています。

徳川家光筆|江戸時代・17世紀|彩箋墨書
寄竹祝(たけのいわいによす)
身の老(おい)は さらにもいはず 呉竹(くれたけ)の
すくなる御代に 千世もつかへむ
【ChatGPTによる現代語訳】
自分が年を取ったことなど、いまさら言うまでもない。
けれど、まっすぐに伸びる呉竹のような(立派な)この御代(=将軍の治世)に、私はこれからも千年にわたってお仕えしよう。
◉続く千姫の幕府における存在感……徳川綱吉の書
大奥が、制度として成立したのは、三代・家光の時代です。大奥の制度化については、姉の千姫(天樹院)と乳母の春日局(かすがのつぼね)に一任していたのかもしれません。大奥を整備していたことで、徳川家光には家綱、綱重、綱吉という子がいました。
三代・家光のあとの将軍位を継いだのは、四代・家綱です。さらに五代には、同じく家光の子である綱吉が継ぎます。先述した千姫の養子となった綱重は、綱吉の兄にあたりますが、この頃には亡くなっていたようです。
ということで、千姫(天樹院)からすれば、四代も五代も甥っ子であり、それぞれの将軍からすれば、逆らってはいけない怖い叔母……もしくは、やはり絶対に軽んじてはいけない優しい叔母という存在だったでしょうね。

そんな五代将軍の徳川綱吉は、「儒教に基づく徳治主義的支配を目指しました」と、解説パネルに記しています。彼は漢学と儒学に造詣が深く、湯島聖堂を整備したのも彼です。
記されている「存心」の二字は「心中に思うところ・考えの意」なのだそうです。となりには「動則思礼行則思義」と……つまり「礼と義を重視すべき」と添えられています。
■歴代将軍による朱印など
◉徳川家康から森山神社への朱印
まずは徳川家康が、天正18年(1590年)に関東入封の翌年に、神奈川県のは山にある森山神社に宛てた朱印です。安堵状という感じでしょうか。

安土桃山時代・天正19年(1591)|紙本墨書
野島好行氏寄贈

寄進森山大明神
相模国三浦郡
葉山郷之内
参石之事
右令寄附之訖
殊可專祭祀之
状如件
天正九年 辛卯
十一月日(家康朱印「福徳」)
解説によれば「徳川家康が森山神社に相模国三浦郡葉山郷(神奈川県三浦郡葉山町)の地3石を寄進した文書」ということになります。年月日の下には、家康が用いた朱印「福徳」が捺してあるようですが、退色してちょっと読みにくいです。

◉三代・家光から禅興寺の住職宛て

江戸時代・正保2年(1645)|紙本墨書
禅興寺住持職事、任先例可令執務之
状如件、
正保二年八月十二日従一位(徳川家光花押)
昌秀西堂
将軍徳川家光が禅興寺住持職に昌秀を補任することを認めた文書です。室町幕府以来、禅宗寺院の住職については歴代将軍がこれを保障していました。江戸幕府でもこの伝統が残っており、将軍の代替わり毎に公帖と呼ばれる文書が発行されていました。
◉十代・家治
徳川家治(とくがわ いえはる)は第10代将軍。田沼意次を重用したことでも知られ、大河ドラマ『べらぼう』でもおなじみですね。昨年、寛永寺にある歴代将軍の墓所を見学した時に見た、この方の息子……徳川家基さんのお墓が、将軍のお墓のように立派で違和感を感じました。『べらぼう』では、毒サツされたことになっていて……それが本当の話なのかは分かりませんが、父・家治さんの悲しみは相当なものだったろうと推察しました。

江戸時代・安永5年(1776)|紙本墨書
禅興寺住持職について周溟を補任するように将軍徳川家治が認めた文書。幕府初期においては将軍の花押が据えられていましたが、幕府政治が安定してくると印章が使用されるようになりました。また朱印か黒印かは宛所の地位によって使い分けられていました。


ここに記されている禅興寺という寺は、おそらく……おそらく鎌倉にかつてあった寺だと思うのですが……明治時代に廃寺となったとも……江戸時代を通じて、それなりに重んじられていたでしょう寺が、明治になるとコロッと廃寺になってしまう……なんてことがあったんですかね。この文書と関連しているのか分かりませんが、鎌倉・禅興寺の塔頭に明月院というのがあり、そちらは今でも続いていて、禅興寺の面影を感じることができるとかなんとか、誰かのブログに記されていました。鎌倉もオーバーツーリズム気味のようなので、しばらく行くことはないと思いますが……行くことがあったら明月院も訪ねてみたいと思います。
◉十一代・家斉
徳川吉宗の三兄弟を擁立して立てられた御三卿の一つ、一橋家から、前項……十代・家治(いえはる)さんの養子となり、徳川将軍家の十一代となった家斉(いえなり)さんです。
整理すると、徳川の宗家は、吉宗→家重→家治と続いて家基へと継がれるはずでした。その時に、御三卿の一橋家と田安家がバッチバチな関係だったわけです。田安家は松平定信が東北の白河へ左遷のような雰囲気で追いやられたうえに、将軍・家治の息子・家基は毒サツされてしまいます。その後に一橋の家斉が、将軍位を継ぐことになり……「え? 誰かの策略だったんじゃないの?」ということで、実際はどうか知りませんが上記のような陰謀論が渦巻いているわけです。
ちなみに養父の徳川家治から将軍位を継いだ家斉さんは、「歴代将軍・子宝に恵まれたランキング」で圧倒的な一位です。男女あわせての合計は53人(男子26人・女子27人)。側室は40人とも言われているそうで……側室40人は大げさだったかもしれませんし、同時期に40人が居たわけではないだろうと推測しても、それぞれの側室には侍女などが配置されていたでしょうから、大奥は大変な人数になっていたんじゃないでしょうか。そもそも、そんなに部屋があるのか? と。

江戸時代・天明7年(1787)|紙本墨書
さて、今回の展示では、陸奥国の磐城平藩の支藩、湯長谷(ゆながや)藩主……内藤因幡守(いなばのかみ)宛ての、将軍からの年始の献上品……お歳暮に対するお礼の手紙です。
為歳暮之祝儀、
小袖一重到来
歓思食候、猶
松平周防守可
申候也、
十二月廿七日(黒印「家斉」)
内藤因幡守どのへ
【ChatGPTによる現代語訳】
歳暮(年末)の贈り物として、小袖一枚を頂戴し、ありがたく思っております。なお、このことは松平周防守(松平康福)にも申し上げるつもりでおります。
内藤因幡守どのへ

この内藤因幡守(いなばのかみ)ですが、解説パネルには「内藤政誠」ということになっているのですが……この「内藤政誠」をググっても、検索に引っかかりませんし、Wikiで歴代藩主を調べてもこの名前の殿様はいませんでした。そのため、可能性としては誤りかもしれません。
解説パネルによれば、書かれたのは天明7年(1787)。この年の湯長谷(ゆながや)藩の藩主は、内藤政徧(ないとう まさゆき)という方です。ただし、またまた問題があり、この政徧さんの官位は「因幡守」ではなく「主殿頭(とのものかみ)」でした。たしかに、同藩の歴代藩主には「因幡守」が少なくないのですが、政徧さんは違うんです。なので……残念ながら、この文書が誰に宛てられたものか、確信を得る答えが見つかりませんでした。まぁ解説パネルにある「内藤政誠」というのが、誰かの別名なのかもしれません。
とにかくこの文書は、湯長谷藩主への礼状であることは確かなようです。文書には「お歳暮については、松平周防守(松平康福)にも伝えておく」といったことが記されています。この松平康福とは、現在の『べらぼう』にも出てきていて、芝居に独特の味がある相島一之さんが演じています。松平康福さんは、この時には老中で、諸大名と将軍との間を取り次いでいたようです。

■二代将軍・秀忠の保科正之の文書
保科正之(ほしなまさゆき)といえば、会津松平藩の始祖として知られていますが、実は恐妻家とキャラ付けられている2代将軍・徳川秀忠の隠し子と言われています……庶子であることは間違いありません。秀忠は徳川家光をはじめ二男五女をもうけていますが、側室は置きませんでした。この事実から、正室のお江の方(お江与)……織田信長の妹・お市の娘で、淀君の妹……が、側室を許さなかった……だから秀忠は尻に敷かれていたのだ……と類推されたわけです。
ただし、その秀忠と大奥にいた侍女・お静の方との間に、1611年(慶長16年)にできた子が、保科正之でした。徳川秀忠は既に将軍位を継いでいましたが、1614年からの大阪の陣の数年前であり、徳川家康は大御所として駿府に君臨していた頃です。
侍女が懐妊したと聞いて「やべぇ(汗)」と、秀忠が焦ったかは知りませんが、その出生は極秘とされました(実は、秀忠とお静の方の一人目は堕胎していて、保科正之は二人目)。
とにかく保科正之は、お静の方の実家である旗本・神尾家で生まれます。その後、徳川秀忠(もしくはその側近は)は、おそらく家康にも相談したのでしょうが、武田信玄の次女であり穴山梅雪の未亡人だった見性院に、保科正之の養育を託します。
その後の保科正之は、見性院や徳川家康・秀忠が信頼を寄せていた、同じ武田信玄の旧臣の信濃国高遠藩主・保科正光に預けられます(2万5000石)。ちなみに保科正光の祖父・保科正俊は、息子が出陣した第一次上田合戦の際に、騎馬40騎と雑兵360人程で籠城し、高遠城を守り切りました。このことで、徳川家康から手掻包永(かねなが)の太刀が贈られたとWikipediaにあります。
ということで7歳で保科家に預けられた保科正之は、保科正光の子として育てられます。そして「元和年間、三代将軍家光公は、目黒で鷹狩のみちすがら、当山(目黒の成就院)に参拝され、瞬興和尚(中興第15世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永8年、正之公は信州高遠城主となります。お静は、大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました」と、目黒の成就院のホームページに記されています。
その後、1629年(寛永6年)に、保科正之は兄の徳川家光にお目見得します。信頼を得た保科正之は、家光を補佐し、武断政治から文治政治への転換を進めています。保科正之の建議によるものではないにしろ、この頃の幕府は、殉死の禁止や末期養子の緩和、玉川上水の開削など、多くの制度改革を断行しました。
兄の徳川家光は、息子の徳川家綱を後見するよう保科正之に頼んだとされています。そんな家綱が将軍位を継いでから6年後の1657年に明暦の大火が、江戸城本丸をはじめとした江戸市中を襲います。翌年には、加賀藩前田家の普請によって、現在も江戸城(皇居)本丸に残る天守閣の土台(天守台)が築かれますが、「天守閣はもはや軍事的に不要であり、権威の象徴にすぎない」「このような非常時に莫大な費用をかけて再建するのは庶民の迷惑になる」として、再建に強く反対した……という話はとても有名です。(が……それなら天守台を築く前に言い出せばよかったんじゃね?…とも思います)
まぁとにかく、保科正之は徳川秀忠の庶子として生まれたことは、まだ整備化されていなかった大奥では、大事件だったかもしれません。そのため、今回の出品となったかもしれず……また、わたしが幕末の会津藩の歴史にとても興味を抱いていることもあり、藩祖・保科正之の書いたかもしれない書が見られることに少し感動しました。

江戸時代・17世紀|紙本墨書
解説パネルによれば、会津に転封となった後の保科(松平)正之が、「猪苗代城代などを務めた重臣・篠田半田衛門の奉公に対し、その知行を加増し子孫の分割継承を保障した文書」なのだそうです。
一、篠田半左衛門知行
高之積、千石に
なして内膳に
とらせ候事
一、内膳せがれに
別各に三百石
とらせ候事
一、数馬権右衛門に
弐百石づゝ、重市
四百石づゝになして
とらせ候事、
右、是は半左衛門
数年別而
奉公仕候故、
子共孫迄も
重恩を為取候
事、余之ひき
べつにはなるまじく候
者也、
肥後守
八月廿一日正之(花押)
篠田内膳どのへ


ちなみに、幕末・戊辰戦争の折に同藩で結成された白虎隊が有名ですよね。白虎隊もいくつかに分かれていたのですが、……特に有名なのが、飯盛山での自刃ですね。白虎士中二番隊のうち、中隊長の篠田儀三郎が率いた19名です(うち1名は蘇生=生き残る)。同隊は、主に身分の高い家臣の子息で構成されていたと記憶しますが、調べてみると、隊のリーダーが篠田儀三郎ということで、展示されている文書にある重臣・篠田半田衛門(半田衛門は誤植っぽい)の子孫にあたります(『補修 會津白虎隊十九士傳』による)。白虎隊士・篠田儀三郎の資料によれば、篠田氏の本姓は平家であり、本国(本籍?)は「信濃」とあるので、おそらく高遠時代から付き従ってきた家臣なのでしょう。儀三郎さんの父・篠田兵庫の家禄は200石なので、まぁまぁの家柄です。その風貌は「髪はざんぎりにて、やせて背高く、面長にて色赤黒く、鼻高く、両眼の間やや遠し。」。戊辰戦争時は(おそらく数えの)17歳……満15-16歳。出陣時には「黒のマンテル、黒のズボン、藤色のチョッキ。朱鞘の刀を革にて下げる。」と、かなりオシャレな格好をしていたようです。
■室町将軍の足利義輝の書
江戸時代の徳川将軍家の書や文書は、ほかにも水戸黄門こと徳川光圀の書なども展示されていました。前述したとおり、これはおそらく特別展『江戸 大奥』の関連展示。
これとは別に……本館2階の5室には、室町時代の第13代征夷大将軍の足利義輝の書が見られます。この5室は、平安時代から江戸時代までの刀剣甲冑が展示されていて、ほとんど常に、室町または江戸の将軍のほか戦国武将の書が、その肖像画とともに見られます。
いつもは「ふふ〜ん」などと知ったような顔をして展示に見入った後に、分かったような分からないような気持ちで通りすぎるのですが、今季の足利義輝の書は、なんとなく「かっこいい」ような気がして写真に撮っておきました。大奥とは全く関係ありませんが、noteしておこうと思います。

足利義輝筆|室町時代・16世紀|紙本墨書
個人蔵
解説には「たっぷりと墨を含んだ筆を力強く動かす青蓮院(しょうれんいん)流の流れを汲む室町時代の特徴的な書風です」とあります。この墨が流れるような雰囲気が良いような気がします。
ところでなんて書いてあるかといえば「龍虎梅竹」なのだそう。
「左下の花押(かおう)は、将軍になる前のものと推測されます。」ともありますが、その花押は分からなかったので、次回にでも見てこようと思います。

模者不詳|江戸時代・19世紀|紙本着色
解説によれば、この絵は足利氏の京都の菩提所・等持寺にある、歴代将軍の等身大の肖像刻を元に描いたんじゃないかとしています。「装束のほかにやや垂れた目元などの顔貌表現も一致します」と記しています。
ということで、軽く写真を貼り付けて終わらせようとして書き始めたのですが、興が乗って、また長くなってしまいました。これだからなかなかnoteを更新できないんですよね……。noteの下書きばかりが増えていますが、仕上げていけるようにしたいと思います。
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