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東京国立博物館の『縄文土器を読む』……もちろん読めませんでした……

先日、埼玉県立の「歴史と民俗の博物館」で、特別展『縄文コードをひもとく』を見てきました。その時のことは過去noteに記しましたが、とってもわくわくする展覧会でした。そこで触発されたわたしは、いつも行っている東京国立博物館(トーハク)に展示されている縄文土器も、この機に見直してみましょうよ……と思い立ちました。

埼玉の歴史と民俗の博物館で『土偶を見る』
埼玉県立の「歴史と民俗の博物館」で『土器を読む』

さっそくトーハクへ行ったわたしは、いつもは「へぇ〜」とか「ほぉ〜」とか言いながらも、実は真剣に見たことはなかった「縄文土器」の数々を、ちょっと真面目に見て回ってきました。これはその時の記録です。


トーハクの縄文土器は、縄文時代の草創期から後期や晩期に至るまでを、時代区分に従って3〜10個前後の土器を集めて展示されています。それぞれの時期や地域によって、どんな違いがあるのか? または無いのかを見ていきたいと思います。ちなみに網羅はしませんでしたが、弥生土器についても、少しだけ紹介しておきます。

■縄文草創期の土器(関東地方)

まず縄文時代の草創期から始まります。この時期については、神奈川県横浜市の紀元前11,000年〜紀元前7,000年の花見山遺跡から出土した土器が並べられています。それにしても紀元前11,000年って……途方もなく昔の遺物が、こうして目の前に展示されていることが驚きであり、奇跡的なことですよね。まぁ奇跡と言えば、草創期に限らないし、縄文時代に限らないとも思いますが、それにしても紀元前11,000年ですよ……。

花見山遺跡出土の土器(神奈川県横浜市)
縄文時代(草創期)・前11000年~前7000年
神奈川・横浜市教育委員会

展示されているのは大小4つの土器です。パッと見て思うのは、あれ? なんだか原始的……未開人の作った土器とは思えないな……ということ。たしかに文様はシンプルですけど、手前の器などは特にですが、薄いですよね。高度な技術とまでは言いませんが、なかなかの技術を備えた人たちだったのかも……と、まぁ少し身内贔屓なところはありますが、そう思いました。

解説パネルによれば「花見山遺跡は、多摩丘陵東部に位置する縄文時代草創期を代表する遺跡」なのだそうです。「1977-1978(昭和52・53)年に発掘調査が行われ、竪穴状遺構を1基確認されました。数多くの隆起線土器とともに、槍先形尖頭器や有舌尖頭器そして片刃石斧などが出土しました」とあります。

現在の海岸線からは遠いですけど、今よりも温暖だったと想像される縄文時代には、それほど湾から離れてもおらず、近くには大きな川が流れていたと想像できます。

地図を拡大してみると……あぁ、東名高速道路の横浜青葉ジャンクションの、ほど近くではないですか。ここは車で何度も通ったことがあります。東西のどちらから差し掛かっても、長い下りがあり、ジャンクションを過ぎると長い上りになるところです。その窪地が川の河口だったのか、それとも東京湾の深い入江だったのでしょうから、海の幸を享受できる好立地だったのでしょう。

■縄文早期の土器(関東地方)

次は紀元前7000〜前4000年の、縄文時代の早期の土器です。2つの土器がエントリーしてくれています。

手前は、神奈川県横須賀市の夏島貝塚から出土した《深鉢形土器》です。なんと明治大学博物館から借りている? 寄託? されたものだそうです。明治大学と言えば考古学の名門校ですし、大きいとは言えないまでも立派な付属博物館もあります。

わたしの中学3年時の担任が、明治大学の史学科卒で、卒業してからも東京の多摩あたりで、テント泊をしながら穴を掘り続けて(発掘して)いたそうです。その時に、テントの横に考古学会の重鎮先生が、隣にテントを設営してきたそうです。さっそく一升瓶のお酒を持って、隣のテントを訪ね……、狙い通り取り入ることに成功したそうです。そしてその重鎮先生のツテで、無職だったわたしの担任は、某県の教育委員会に忍び込むことができたといいます。そのうえ当時は人手不足だったそうで、教員免許を持っていないのに、中学校の社会科の教師として、わたしが通った中学に赴任することになったそうです(わたし達の学年が教師として7年目で、もう教育委員会へ戻ると言っていましたが……)。昔だったからなのか、単なる嘘だったのかは知りません。ただ、わたしは先生という人種に好かれることはないのですが、この先生にだけは良くしてもらった記憶がありますし、その後、史学科へ行くことはありませんでしたが、多くの影響を受けたと思っています。そうか……本物の教師じゃなかったからだなぁ。

《深鉢形土器》千葉県香取市 城ノ台貝塚出土
個人蔵

そして奥に展示されている《深鉢形土器》が、千葉県香取市の城ノ台貝塚から出土したものです。こちらは個人蔵。

同貝塚は千葉県の利根川の河口近く……というか、縄文時代は完全に太平洋に面していただろうエリアですね。近くには小貝川という……いやぁこちらも懐かしい……学生時代に部活の用事で何度も行ったことがある場所です。東へ利根川を下れば銚子に至り、北には霞ヶ浦や鹿嶋があります。ということで、鹿島神宮や香取神宮が近くにあることから分かる通り、古代からめちゃくちゃ栄えていた場所。この近辺には貝塚があっちゃこっちゃにあって、土器や土偶も多く出土しています。

■縄文前期の土器

さぁ次は紀元前4000〜前3000年の縄文前期です。何千年単位で現代に近づいてきているのですが……まだ紀元前4000年……前期です。どれだけ縄文時代が長かったのか分かりますね。

この時期の土器は、4点がエントリーしています。解説パネルには「筒形をなす器形の特徴から円筒土器と称されています」とありますが、個々の遺物名称では、《鉢形土器》または《深鉢形土器》とあって「誰が《円筒土器》って呼んでるねん!?」ってツッコミたくなりますが……学術名称と通称との違いということでしょうか。

《鉢形土器》神奈川県横浜市港北区下田町出土
縄文時代(前期)・前4000~前3000年

解説パネルには「胎土に繊維を含み、撚った縄を回転させたり、縄の側面や端部を押し当てたりして文様を施す特徴があります」とも記されています。実物を見てみると、たしかに縄を押し当てたような跡……文様が見られますね。

《鉢形土器》神奈川県横浜市港北区下田町出土
縄文時代(前期)・前4000~前3000年
《深鉢形土器》神奈川県横浜市 折本貝塚出土
《深鉢形土器》青森県八戸市是川字一王寺出土
縄文時代(前期)·前4000~前3000年

この深い円筒形の《深鉢形土器》は、青森県八戸の一王寺というところから出土したものです。おそらく明治か大正に発掘されて、そのまま帝室博物館へ納められたのでしょう。同地からは、前期から晩期まで3つの土器と、石偶のようだけど形が分からないので《異形石製品》と呼ばれる縄文遺物が、トーハク所蔵となっています。

一王寺という場所も、今では山間ですが、縄文時代当時は、八戸湾とも言うべき場所の入江の一つという感じだったのでしょう。

■縄文中期の武蔵国分寺が所蔵する土器群は撮影禁止

縄文時代の中期(紀元前3000~前2000年)については、たくさんの土器が展示されているものの、現在の展示品は全て撮影禁止となっています。というのも現在、展示されているのは武蔵国の国分寺が所蔵している遺物だからです。武蔵多喜窪遺跡第一号住居跡からの出土品。

縄文の中期と言えば「The Jomon-Doki」的な、装飾性の高い器が揃っています。武蔵国の国分寺蔵の土器についても同様です。これは撮りたい! と思うのですが……残念ですが禁止です。

とはいえ、トーハクにも縄文時代中期の火焔土器(伝新潟県長岡市馬高出土)をはじめ、縄文中期の土器も多く所蔵しているんですけど……なぜアレらを考古室に展示してくれないのか……と思って調べると、この国分寺から寄託されている多喜窪遺跡の、しかもこの「第一号住居跡」からの出土品は、すべて重要文化財だということ。

文化財オンラインの同遺跡のページでは下記のように、その重要性を記しています。

多喜窪遺跡は国分寺市西元二丁目一〇番地を中心とする地域で、多摩川によって開析された標高七五メートルの河岸段丘上に立地する。
 昭和二十四年から二十五年にかけて、甲野勇教授らによって繩文時代、奈良時代の住居跡が多数発見されたが、本件はその第一号住居跡から発見された一括遺物である。遺物は主として炉を中心とする附近に多く発見されたが、土器類、石器類などが多く内容も豊富であった。
 特に土器には優れたものが多く、蛇身装飾を文様に巧みに採りいれて表現するものなど、力強く豪華で中期の最盛期の特色がよくあらわれている。殊に上図の土器は繩文式土器を代表する秀作であろう

武蔵国分寺の多喜窪遺跡は、現在では国分寺の寺域からは外れています。ただし、同遺跡からの出土品が、武蔵国分寺というお寺の所蔵となっているということは、発掘当時は、お寺の敷地だったということなのでしょう。

この国分寺というエリアは、近くに府中というエリアがある通り、律令制が敷かれて以降は、確実に武蔵国の中心だったということ。そんな国分寺周辺は……というか多摩川沿いは、縄文・弥生から奈良・平安時代の遺跡がひしめいているエリアです。

ちなみに文化財オンラインでは、画像が掲載されていませんが、以下の国分寺市のページでは、どんな土器なのかを見られます。

ということで縄文中期の土器については、以前、江戸東京博物館で見た特別展『東京に生きた縄文人』を参照しようと思います。「派手な土器だなぁ」と感じたら、だいたい縄文中期です。そういう装飾性の高い土器を中心に撮ってきていたようで……だいたい縄文中期です。

教科書に載っているのも、縄文時代と言えば、これらの火焔のような土器ですよね。これを見せられつつ、教科書の文言には「縄を押し付けたような、文様がある土器を使っていたのが、縄文時代です!」とか言われても……分からないですよね……。だって火焔土器の文様って、「縄目の文様」ではないですから。

■縄文後期の土器

縄文時代の後期は、紀元前2000〜前1000年です。あと1000年でキリストが誕生しますよ! という感じになってきました。この時期は、トーハクの展示においては装飾性……デコレーションが削ぎ落とされているのですが、形については様々です。

まずは一番奥の右側の《深鉢形土器》。こちらは青森県八戸市南郷大字島守(荒谷)からの出土品です。ちなみに、ここに並ぶ縄文後期に関しては、そのほとんどが青森県出土です。

《深鉢形土器》青森県八戸市南郷大字島守(荒谷)出土
縄文時代(後期)・前2000~前1000年・松館富治氏寄贈

この《深鉢形土器》↑↓は、小学生の頃に描いた迷路のような文様が、土器の上半分に描かれています。ただ……なぁんとなくなのですが、この文様は、美術工芸的観点から言えば、そんなに上手ではないんじゃないかなぁ……なんて生意気なことを思ってしまいました。

《深鉢形土器》青森県八戸市南郷大字島守(荒谷)出土
縄文時代(後期)・前2000~前1000年・松館富治氏寄贈
右が《鉢形土器》青森県八戸市南郷大字島守(荒谷)出土・松館富治氏寄贈
左が《壺形土器》秋田県鹿角市 大湯環状列石出土・塩野半十郎氏寄贈

この2つ土器、右は松館富治さん、左は塩野半十郎さんが寄贈されたものです。松館富治さんについては、ほかにもいくつもの考古遺物が寄贈されていますが、どんな方なのかは、ネットで調べた限りは何もわかりませんでした。

一方の塩野半十郎さん、しっかりとトーハクの記録に「塩野コレクション」として刻まれています。塩野さんは、明治31年1898に東京都の秋川市(現:あきる野市)に、農家の長男として生まれました。畑を耕している時に、いくつもの土器片が出てきて、その文様に興味をもち始めて収集を開始します。そうして地元のあきる野市や八王子、青梅、国分寺などの多摩地域一帯の縄文時代遺跡を、70年超にわたって発掘し、遺物を収集していきました。これらを昭和58年1983にトーハクへ寄贈……「塩野コレクション」と呼ばれています。

同コレクションの時代区分ごとの遺物点数は、旧石器時代が1件、縄文時代が710件、古墳時代以降が56件、国外の新石器〜青銅器時代が3件となります。縄文時代だけで、土器が241点、石器250件(約2000点)、土器片90件(約2万点)という膨大なものとなっています。

以上、塩野コレクションに関してより詳しく知りたい方は、『東京国立博物館ニュース 第689号』(リンクはPDF)に記されています。

右が《鉢形土器》青森県八戸市南郷大字島守(荒谷)出土・松館富治氏寄贈
左が《壺形土器》秋田県鹿角市 大湯環状列石出土・塩野半十郎氏寄贈
《壺形土器(J-37163)》青森県八戸市松館淵助沢出土
《注口付壺形土器(J-34857)》青森県田子町原出土
《有孔壷形土器》新潟県佐渡市出土(J-34863・高20.7_口径10.5cm)
《異形片口土器》青森県七戸町長久保出土・個人蔵
《異形片口土器》青森県七戸町長久保出土・個人蔵
《壺形土器(J-1627)》青森県弘前市十腰內出土
《香炉形土器》青森県出土・松館富治氏寄贈
《香炉形土器》青森県出土・松館富治氏寄贈

■縄文晩期(関東地方)の土器

さて……書いていて力尽きてきましたw やっと時代は縄文時代の晩期となります。それでも紀元前1000年〜前400年のことです。

縄文晩期(関東地方)の土器

ざっと並んでいるところを見ても、前項で見た縄文後期と、この縄文晩期との差は、よく分からないような気がします。製陶技術のようなものが上がってきているとか、素材が異なるとか、熱する温度帯が大幅にアップしているなどの違いがあるんでしょうかね……。

《深鉢形土器》東京都板橋区小豆沢貝塚出土・後藤守一氏寄贈

後藤守一さんという方も、おそらく寄贈されている土器の数が多いのじゃないかと予想します。牧野富太郎さんが『日本植物志図篇』の第一巻第一集を刊行した1888年(明治21年)の生まれです。様々な学問が西洋化されていって、とにかく標本やコレクションを多く所蔵して「分類」することが重視されていた時代なのではないかと想像します。

中学校教師を務めた後に、1921年(大正10年)から1940年(昭和15年)まで帝室博物館に勤務。その間の1932年(昭和7年)には、前述した塩野半十郎さんと出会い、考古学について教えていったそうです。おそらく発掘の方法や、保管整理や記録の仕方などを伝授したのでしょうね。

まぁ戦中は大政翼賛会的な活動を考古学に持ち込んだり、「神道考古学」を提唱し、樋口清之らとともに皇国史観考古学の推進者として活動したり(Wikiによる)していたそうなので、そうとう脱線した感が否めませんけど……明治大学の史学科の立ち上げ時に先生となったり、國學院大学の先生も務めるなど、我が国の考古学には欠かせない人物だったことは間違いなさそうです。

あ……あと後藤さんは、トーハク所蔵の埴輪に《踊る人々》とネーミングしたことでも知られています。それについては、以前のnote『もう1つの「“あ”埴輪」が展示されています』に記しましたので、ご興味があれば……。

《深鉢形土器》東京都板橋区小豆沢貝塚出土・後藤守一氏寄贈
《異形台付土器(J-17948)》千葉県銚子市 余山貝塚出土
徳川頼貞氏寄贈

↑わたしが一番気になっているトーハクの寄贈者の1人、徳川頼貞さんが寄贈した土器です。まぁ気になっているのですが、簡単にまとめて終わりにしてはもったいない人物だなぁと思っていて……まだ語れませんw

右《注口土器》茨城県利根町 立木貝塚出土・個人蔵
左《注口土器(J-1593)》茨城県土浦市 小松貝塚出土

■縄文時代晩期(近畿地方)の土器

やっと縄文時代の晚期です……って、前項も晩期の紀元前1000〜前400年の土器でしたが、今回のは同じ時期の、近畿地方の土器2点が展示されています。

右《深鉢形土器》大阪府柏原市・藤井寺市 船橋遺跡出土・田村淳正氏寄贈

突帯文土器は、縄文時代晩期後葉の西日本に分布した土器群で、刻み目をもつ突帯で口縁部や胴部を飾る特徴があります。しばしば最古段階の弥生土器と共伴することから、稲作を受容しつつある社会状況を示す土器として研究されてきました。

解説パネルより

時々思うんですよね……考古学者って、なにを研究しているんだろう? って。考古学に限りませんけど、考古学となると、その学問が深化して、分かったことが増えていったとしても、社会に何か還元できるものがあるんだろうか? とね。おそらく学者さんたちも、若い頃に誰もが「わたしの存在理由って、何だろう?」って悩むのと同じように、「なんで俺は考古学なんてやっているんだろう?」って思うと思うんですよね……特に20代の後半とか30代半ばくらいに。

でも、解説パネルにあるように、なんだかよく分からないことをどんどん研究している人がいて……そういうのを見ていると、何かの役に立たなくてもいいじゃんって思いますよね。昨日だったかに、イグノーベル賞の発表がありましたけど、その受賞者の1人が「一見、役に立たない研究や失敗続きの研究にこそ、無限の価値が潜んでいる」と語ったそうです。実際にどうなのか分かりませんが、まぁそんなこともあるだろうなと。

また、年を取ると「自分の家系を知りたい」って思う人が増えるそうです。NHKの『ファミリーヒストリー』ですよね。なぜかしら自身のルーツを探りたくなる。考古学を含む史学も、そういう人間本来の欲求に拠っているものなのだと思います。マレにね……五重塔の心柱が、スカイツリーに応用されたりして……史学も現代に役立つことがあるんだなぁなんて盛り上がりますけどね。

これを何で撮っているかといえば、口縁部がギザギザと刻まれているからです。だから何? とか言わないでくださいね。博物館なんて「だから何?」だらけであって、「だから何?」って思って興味を示さないのは、すっかり頭が大人化してしまっている証拠です。「どうしてギザギザにしたんだろう?」って、知ったところで何の役にも立たないだろうことを考えるのが、おもしろいんですから。

■続縄文時代の土器

紀元前3世紀頃から紀元後7世紀

続縄文時代 北海道

■弥生時代の前期(九州地方)の土器

弥生時代(前期)・前4~前3世紀

■弥生時代中期(関東地方)の土器

弥生時代(中期)・前2~前1世紀/田中国男氏寄贈

■弥生時代中期(東北地方)の土器

■弥生時代後期(九州地方)の土器


以上、今回も最後まで整理できずにタイムアップです。いつかこちらのみ整理分を整理していきたいと思います。

<関連note>


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