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東京国立博物館の『土偶を読む』……読めませんでしたが……。

東京国立博物館(トーハク)の今年の展示は終了してしまいましたね……さびしい……。そんな年内最終日の前の日に、閉館する2時間前の17時に行ってきました。そうなんですよ、最近では金曜と土曜の閉館時間が19時になりました。土曜日の17時以降であれば、旅行者やデートの方々もいなくなって、空いているのではないかと予測していましたが、明らかに空き始めたのは18時になってからでした。

17時に入館してから、まずは東洋館の中国書画の部屋を巡り、それから本館の1階を通って、平成館へ行きました。既に18時を過ぎていて考古室に入るとガラ〜ンとしていました。こんなに空いているのは新型コ●ナ以来のこと。「ひとりじめだぁ〜!」と、やや興奮気味に主に縄文から弥生時代の土偶と土器をじっくりと観察してきました。

まずはもう何度も見ている青森県つがる市木造亀ヶ岡で出土した《遮光器土偶》です。展示されているときはいつも、360度の全方位から見られる特等席……特等ケースに展示されています。

はじめは遠くから……じりじりと近づいては記録に残しておくことにしました。だってこんなに1人で落ち着いて見られるなんて久しぶりのことですから。

それにしても、いつみても面妖な姿形です。目がいきなり開いて、予告なしにビームを発射されそうです……こわっ。

もう色んな角度から撮っておこうと思いまして、カシャカシャとシャッターを切ります……と書きましたが、わたしは「静音シャッター」に設定しているので、カシャカシャと音が鳴ることはありません。美術館や博物館で、男性がカメラのシャッター音を鳴らせているのと、女性がヒールの音をカツカツと響かせているのだけは、改善してほしいと思います。

鼻の穴が一つしかありませんね……。鼻の穴ではなく、熱を逃がすための穴だったりするのでしょうか。宝冠というか炎のような頭部が気になります。よく見ると、顔が前後に平べったいですね。そして首と肩がガッチリとしています。

そろそろ見るのを飽きてきた方は、ずんずんスクロールして飛ばしてください。まだまだこんな写真が続きます。

こうやって近寄って見てみると、土偶の質感が伝わってきます。できれば触ってみたい……肌で表面の質感を感じてみたいですね。その質感は、なんとなく角が取れてツルツルしているように思えます。作った当時に、ず〜っと触られ続けて、結果的に研磨したようになったのではないでしょうか?

そうなると、神事などの時に土偶はわざと壊されていた……という説からは離れるような気がします。少なくとも作ってから何年か何十年かは、人々の手に触れられるものだったはず……という説。

身代わりとして使われ壊されていたというよりも、守護神のようなものだったのではないかなと、わたしは考えます。幼い子供が、ぬいぐるみやガンプラを身近に持っていたいと考えがちなのと同じで、多くの人が土偶を持っていた……または、だるまさんみたいに飾っていたとか。それで大切にしていた人が亡くなったり、まぁ飽きたりしたらゴミ集積地=貝塚にポイッと捨てていたのかなと。だって、この土偶を見ている多くの人たちは「この土偶を欲しい」と思って、レプリカを買って部屋に飾ったりしているんです。縄文時代の人たちだって、身近に置いておきたいと思うんじゃないかなと。

この角度↑……おじさん邪魔だなぁと、同じくおじさんのわたしは思いながら撮りました。まぁちょうど縄文中期の時が並ぶ撮影禁止エリアに、シンプルな黒いパーカーで立っていてくれたので、都合が良いといえば都合がよいです。

それにしても縄文中期の、派手な土器が並んでいるからなのか、もしくは「撮影禁止」の展示品をあえて撮りたい人が外国人には多いのか、けっこう気にせず撮っている人がいますね……このエリア以外でも……。外国人だと注意もされにくいですしね。この時、10分くらい後に、日本人の中年男性がガッツリと監視員に怒られていました……「撮ってないですよ」って言い返していましたけど……。

背後にもびっしりと刻まれた文様……これは入れ墨のようなものなのか、もしくは服やアクセサリーの柄を表現しているのか……いずれにしてもダイナミックなデザインです。

近所の銭湯へ行くと、必ず1人くらいは、背中にびっしりと入れ墨を入れた方がいらっしゃいますけど……さすがに前後ともびっしりと、という方に会ったことはありません。

でも、もし縄文人が全身に入れ墨をしていたとすると、けっこう豊かな生活というか、食べ物に困らない生活をしていたのかなぁとも思います。日本は今よりも温暖な気候だったろうし……温暖化の時代ですよね……、この土偶が発見された青森県も暖かかったことでしょう。それに面していた海も魚が豊富だったでしょうね。

■「太陽の塔」っぽい土偶

やっと遮光器土偶から離れて、土偶や岩偶、土製品などが並ぶ展示ケースへ移りました。こちらもしばらく展示されているものなので、これまでに何度も見てきました。

一番手前の《筒形土偶》は、「太陽の塔」のようにも見えますし、最近であればアニメ・漫画『キングダム』の河了貂かりょうてんの少女時代のようにも見えます。まぁでも後者の場合は、この土偶のように文様が入っていないので、やはり「太陽の塔」の方が似ていますね。

《筒形土偶》神奈川県横浜市 稲荷山貝塚出土・縄文時代(後期)・前2000~前1000年・個人蔵

表情をよく見ると、みみずくや遮光器などの土偶と比べると、かなりシュンッとした……不気味さの薄い顔立ちをしていますね。眉毛も高いけれど太くはなく、目や口の主張も少なく、耳や髪なども表現されていません。

「筒形土偶」でググってみたのですが、それほど全国的に多いようにも思えません。検索に引っかかってきたいくつの筒形土偶は、いずれも神奈川でしたが……必ずしも神奈川で特に多いとも思えず……こういう時に、土偶アプリとかがあればいいのになって思ってしまいます。

《筒形土偶》神奈川県横浜市 稲荷山貝塚出土・縄文時代(後期)・前2000~前1000年・個人蔵

《みみずく土偶》は、全国で出土していますが、これほど有名な《みみずく土偶》はないのではないでしょうか……わかりませんが。

《みみずく土偶》埼玉県さいたま市 真福寺貝塚出土
縄文時代(後期)・前2000~前1000年

上の赤ら顔の土偶は、サザエさんみたいな髪形ですが……これは髪を結ったものだと考えられているようです……まぁ言うまでもなく一つの“説”でしかありませんけどね。それにしてもこの土偶、上半身は丸=円などゆるやかな曲線で構成されているのに、下半身の特に脚部などは三角錐など、セザンヌかキュビスムなのかに影響を受けたような形をしていますね…←もちろん影響を受けているはずがありませんけど……。

そして下の《みみずく土偶》は、カウボーイハットのような髪形をしています。顔に対して頭がデカい! とか思ってしまいますが、まぁマレに現代でもそういうヘアーデザインの方はいらっしゃいますわよね。それにしてもこの土偶は、首より上は気合が入っているのに、首より下は、ちょっとテキトーというか造形が稚拙な印象を受けます。

《みみずく土偶》茨城県利根町 立木貝塚出土
縄文時代(後期)・前2000~前1000年・個人蔵


下の土偶は、え? 《遮光器土偶》なのか……。茨城県の稲敷市・福田貝塚という場所で出土したそうです。稲敷は、霞ヶ浦と利根川に挟まれた地域ですね。「稲敷」と言えば「稲敷郡」だと思っていたのですが、「稲敷市」という自治体もあったのですね……というのは、土偶とは関係ありませんね。

《遮光器土偶》茨城県稲敷市 福田貝塚出土
縄文時代(晚期)・前1000~前400年・個人蔵

それにしても何度みてもおかしな顔立ちをされていますね。なんでしょう……わたしが感じる印象としては、擬人化されたカエルっぽいような。

《遮光器土偶》茨城県稲敷市 福田貝塚出土
縄文時代(晚期)・前1000~前400年・個人蔵

何度も見ていますが、これも《遮光器土偶》だったとは知りませんでした。まぁたしかに目の部分が遮光器っぽいと言えばっぽいかもしれませんけど……いわゆる《遮光器土偶》の分類に入れても良いのか、素人のわたしとしては疑念を抱かざるを得ない……みたいな。遮光器というよりも、こちらははっきりと目玉のような気がするんですよね。

《遮光器土偶》茨城県稲敷市 福田貝塚出土
縄文時代(晚期)・前1000~前400年・個人蔵

この方の全身にも、びっしりと文様が刻まれています。こちらは先ほどの《遮光器土偶》の柄よりも、アグレッシブというか、戦闘的な感じがするのはわたしだけでしょうか。強そうというか……仏教で言えば阿修羅みたいなイメージを抱かせます。

《遮光器土偶》茨城県稲敷市 福田貝塚出土
縄文時代(晚期)・前1000~前400年・個人蔵

そんなコワモテの表情と文様ですけど、手先が2本という点が一気になごみます。全体的にはバルタン星人のような怖さがあるのに、手だけ見ると愛らしい感じです。まさに噺家の桂枝雀さんが提唱した笑いの理論……「緊張と緩和」ですね。

《遮光器土偶》茨城県稲敷市 福田貝塚出土
縄文時代(晚期)・前1000~前400年・個人蔵

この福田貝塚の《遮光器土偶》のことをググっていたら、下のような面白い本を見つけました。本の解説ページに、かなり本の内容が記されていて、サービス精神が旺盛な著者だなぁと思いました。おもしろいのは、縄文土偶に描かれた文様を紐解こうとしていること。本を読んだら、さらに土偶や土器の文様の意味が分かりそうな気がします……というのは置いておき……土偶の文様が分かりやすいように色を塗ったイラストが良いなぁと。文様が分かりやすいです。

■土偶や岩偶

ちょっと時間がないので、以下は未整理noteです。特に岩偶は欲しい! って思うくらいに好きなのですが、また今度ゆっくりと整理していきたいと思います。

《岩偶》青森県南部町小向出土
縄文時代(晚期)・前1000~前400年
《岩偶》青森県南部町小向出土
縄文時代(晚期)・前1000~前400年

■会津の容器形土器(撮影禁止)

今回は、実は土器をメインに見て回っていました。土器を見て回っていたのに、いつの間にか土偶に惹きつけられてしまった……ということで結局は土偶を見ている時間も長くなってしまいました。

なのですが……その土器コーナーの間に、いつも顔付きの土器などが展示されているスペースがあります。なぜか撮影禁止の遺物が多い印象を受けますが、今回も《容器形土器》という……「もはや土偶でしょう!」という感じの土器が展示されていました。

モノが撮影禁止だと解説パネルも撮影しにくいので、解説パネルを読んで「会津の土偶みたいな土器……会津の土偶みたいな土器……」と頭の中でぶつくさ言いながら帰宅して、ググってみたらけっこう有名人(遺物)のようでした。石川日出志さんという方の『茨城県北原遺跡再葬墓の研究』という資料の中に「これだよこれ!」という挿絵があったので、引用させていただきます。

明治大学人文科学研究所『茨城県北原遺跡再葬墓の研究』石川日出志著/2009年

トーハクに展示されていたのは、まさにこれですよ。資料名は『茨城県の〜〜』となっていますが、出土したのは福島県の西会津町・上野尻遺跡です。「上野尻遺跡」……上野のトーハクで見たので、どうしても「うえのじり」と発音してしまいますが「かみのじり」というのが正しいようです。

↓ 地図を拡大すると阿賀川という川に沿って遺跡があります。ここには、縄文時代だけでなく弥生時代以降の遺物も出土しているそうです。

さらに調べていくと、国立民族博物館の設楽博己さんが、『続縄文時代と弥生文化の相互交流』という資料の中で、やはりこの会津の土偶を挿絵付きで紹介しています。この土偶の挿絵が、前述した石川日出志さんの挿絵とそっくりなのですが、イラレで分析してみた結果、微妙に違うもの(絵)のようでした。

設楽博己『続縄文時代と弥生文化の相互交流』国立民族博物館研究報告/2003年

さらに調べてみると……まぁググっていっただけですが……西会津町の役場が作った『西会津町の歴史−概説編−』というPDFが出てきました。そこには同町の歴史が記されているのですが、その弥生時代の遺物として、トーハク所蔵の土偶……「中空土偶」として紹介しています。そこに写真が添付されていたので、こちらも引用させていただきます。

『西会津町の歴史−概説編−』西会津町編

さらに国立国会図書館で調べてみると……って、ネット上で調べただけですが……『福島県史跡名勝天然記念物調査報告 第四』という書籍に、おそらく99%くらいの確率で、上記のトーハクの土器/土偶について記しているんだろうという一文がありました。原文の書き起こしは、末尾に記しておくとして、まずは内容の概要を記しておきます。

まず同資料では、トーハクに展示されている撮影禁止の土器/土偶のことを、「雄性土偶」としています。見つかった場所は、河沼郡上野尻。「この土偶は、細かい粘土を使い、中空の円筒状の形状を持っており、焼き固めている間に全体が赤褐色になりました」としています。ただし、頭頂部と両腕、および下半身が欠けているとのこと。そうでしたか、カメラを持っていると、どうも「撮影禁止物」に近づきづらくて、よくは見られなかったのですが、両腕があったと思われているんですね……それに下半身も? さらに面白いのが「頭部より覆面頭巾を被る。この覆面頭巾は、框の内面に粗質の織物を張り、以て透光通氣に備へたるものと思はる」と記してあることです。頭巾を被っていると見立てられていた……いるようです。

また同資料が書かれた約30年前の、岩越線鉄道(現:磐越西線)の工事中に偶然この遺跡が発掘され、土偶が見つかったとしています。同資料が昭和5年に発行されたものなので、その30年前というのは明治33年(1900年)前後ということになります(発行)。

偶然に発掘したのは、河沼郡野澤組上野尻村………つまりは地元の百姓である、德左衛門さん(四十三歲)と妻の“しま”さん(四十二歲)ではなく、その息子の龜太郎さん(二十四歳)と、娘の“きい”さん(十四歲)も一緒にいたのでしょうか……。とにかくそんなようなことが書かれています。

第三版、雄性土偶
出土地 河沼郡上野尻
本土偶は、砂粒なく緻密なる粘土を用ひ、形狀は中空圓筒狀をなせる一種の様式にして、焼締り中等、全體に赭色を呈し、頭頂、兩腕及び下體部は缺損す。
頭部より覆面頭巾を被る。この覆面頭巾は、框の内面に粗質の織物を張り、以て透光通氣に備へたるものと思はる。
體部は、第二十七版48のごとき文様を以て装飾し、更に頸部以上に朱彩を施した点。其の文様は、第二十七版48の如く一般薄手に用ひらるる、凹刻にして、且つ手法の軽快なること、及び空洞なること、土質の水簸十分なる點等よりして、薄手の後期に属するものと思はる。
遺蹟は、阿賀川の左岸に沿へる段丘にあり。約三十年以前、岩越線鐵道工事の際、偶々この遺蹟を發掘して本土偶を得たるよしなるも、遺物の包含狀態詳ならず。
なほ此の遺蹟にては今より百十三年前にも一體の土偶を發見したることあり、記事は丙午隨筆第百壹卷に詳かにして、左圖の如き「スケッチ」を掲げあれば、全文と共にこへに引用すべし。
會津野尻驛にて掘得たる土人形
乙とし女化十二年といふ蔵の六月ばかり、會津河沼郡野尻驛より、上れる世の土物を掘出せしかば、そを見て詠める長歌(ということで長歌が記されるのですが、ここは省略)
遠き代の誰がかたみとか残るらむ此れの埴輪を見れば悲しも 直中
河沼郡野澤組上野尻村百姓德左衛門歲四十三。妻しま歲四十二。悴龜太郎
――此者掘出し候——歲二十四。娘きい歲十四。小四人。外馬一疋。持高
八石六斗貳升壹合。
一、右村方は我越後海道驛所に御座候。
一、掘出候場所は居村より二丁餘隔字林崎と申所に御座候。蕎麥蒔節に至六 月十四日、伏畠と唱へ荒うなへに參候砌、己の上刻と相開掘出候由。但右場 所館跡と申傳にて、瓦、矢根石、くた石坏稀に掘出候由、誰居住の申分は不相分候。
右隨筆原本は、新潟市縣立圖書館の秘藏なるが、昨年越佐地方見學の際、山中樵君 の示数により始めて此れあるを知りたり。意みに、此れこそ本縣の土偶に闘する 最初の文献といふべけれ。

福島県史跡名勝天然記念物調査報告 第四

ということで、今回は改めてトーハクの土偶をじっくりと見てみました。結局、土偶は全く読めませんでしたが……とても楽しかったです。次回は、トーハクの土器を読みたいと思っています。

<面白そうな本>
江見水蔭 (忠功) 著『地底探検記』,博文館,明40.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1918632/1/5

<関連note>


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