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自動販売機は「木」だった:藤本タツキの作家性の根幹を秋田のエッセイから読み解く

 藤本タツキという作家について考える上で、藤本タツキ自身によって書かれた非常に面白く、重要な文章がある。

  短いが非常に端的に彼自身の自然観、非自然観について述べられているので、興味がある人は読んでみてほしい。

 なかでも興味深いのは以下のくだりだ。

 僕は秋田県にあるにかほ市という所で育ちました。
田んぼが地平線の奥まで続き、家の畳を蟻が当然のように歩くくらいのド田舎です。
ジブリのアニメを見ていると自然の偉大さや恐ろしさが伝わってきます。
しかしその自然が僕の幼少期には日常にあったので、自然と非自然との境目が曖昧なまま生活をしていました。
夜の自動販売機には時々カブトムシやクワガタもくっついているので、友達と採りにいったりしていました。
その時の自動販売機は山に生えている木々と同じ認識でした。


大人になって本や誰かの話を聞いていると自然の見方が変わっていきます。
僕がにかほ市で見た木々はおそらくすべて植林だとわかりました。
田んぼの横に流れている小さい川など市で作られたものだし、カブトムシを採りに行った山は、月に2,3回、管理者が整備をしているそうです。
自分が自然と認識していたものはすべて人の手が加えられた非自然でした。
あの時、自然と非自然の曖昧さは正しい感覚だったのだと思います。

https://akitacc.jp/article/memory-003-tatsuki-fujimoto/

 私も東北の福島県出身で、植林されてつくられた春に花粉をガンガンに撒き散らす杉の森や林に囲まれて育ったのでこの感覚は良くわかる。大いなる自然に思えた森は、ちょっと前の世代くらいに人工的に植えられたもので、定期的に人の手で管理されており、一方でカブトムシをおびき寄せる街灯や自動販売機の灯りは、自然そのものとまでいかなくとも、草木と同様にその場にあり続けているものだった。

 この文章の後半の、『ヨコハマ買い出し紀行』を読んで似たような感覚を得たり、人は自分の幼少期に馴染んだものを自然だと認識し、それより後の物は全て不自然、非自然と認識していくのだと思うというくだりも興味深いので是非リンク先で全文読んでみてほしい。特に最後の一文は非常に重要なのでここも念のため引用しておこう。

意識をしなければ幼少期にふれあい馴染んだものが自然、それより後の物は全て不自然、非自然と認識していくのだと思います。
大人になってあまり新しいジャンルの音楽にハマれないのもそれが不自然だからだと思います。
曖昧な境界を持っていてもいいということを僕は秋田県にかほ市から学びました。
そうすれば常に新しい事を面白がれると思います。

https://akitacc.jp/article/memory-003-tatsuki-fujimoto/

 この自然と非自然の境界は曖昧であっていいし、今後もその感覚を持ち続けようとする点に、藤本タツキというクリエイターの根幹があると考えている。

 自然だと思っていた木々が生い茂る森が、人工的に作られたもので、明らかに人工的に設置された自販機を、森の木々と同じように接していたように、彼にとってのレンタルビデオ店に並ぶ、古い映画のビデオなどは木になっている果実を取って食べるような感覚だったのではないか。映画館で映画を観ることも、海や山の景色を眺めることも、どちらも感動的な出来事として、等価なのだ。

 だから、藤本タツキ作品における映画とは、重要な人物と出会って交わす会話であるとか、やがて訪れる別れであるといった人生にとって重要だと誰もが当たり前に思う出来事と、等しく重要なのだ。虚構と現実でどっちが重要かみたいなありふれた対立軸などは彼の中には存在しない。

 この辺の感覚が、自身の作品が自分が見てきたマンガやアニメ、特撮のコピーであることを意識し、自分のオリジナリティというものを強く意識する庵野秀明との違いだよなあと私などは思うわけである。

竹熊 例えば過去の作品のコピーしかできない我々っていうのがいるわけでしょう。でも、ただのコピーじゃないぞってことで何かを作ろうとするわけじゃないですか。

庵野 僕らは結局コラージュしかできないと思うんですよ。それは仕方がない。オリジナルが存在するとしたら、僕の人生しかない。僕の人生は僕しか持っていない、それがオリジナルだから、フィルムに持っていくことが僕が作れるオリジナリティなんです。それ以外はすべて模造といっても否定はできない。

『庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン』大泉実成・編 p49より引用

 今でこそそういった発言はあまりしないが、TV版の『新世紀エヴァンゲリオン』放映時にはアニメやマンガを見て育った世代の作り手としての葛藤やコンプレックスを感じさせる発言が多かった。そりゃ上の世代が宮崎駿とか富野由悠季とかだったらそりゃそうもなるわなとも思うけど……。

 現在においても、漫画やアニメ、ゲームを遊んで育った世代が作り手になることの是非は関心を集めやすい話題だが、藤本タツキという作家にはそもそもそういった葛藤自体がほぼ存在しないのではないかと思う。彼にとっては映画館で映画を観るという行為は、沈む夕日の美しさに心奪われるのと同等、もしくはそれ以上に尊い行為だからだ。『ファイアパンチ』の主人公が最後に拳を握る瞬間、呪いの炎が消え、この先を生きる理由も見失いかけた彼の心に再び火が灯る瞬間はどこなのかを振り返ってみれば、それは明らかだろう。

 それにしてもこの文章を誰でも閲覧できる形でホームページに掲載し続ける秋田市文化創造館はグッジョブである。永遠にこの文章は掲載しておいてほしい。


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