賞味期限の過ぎた才能に居場所はあるのか~らーめん再遊記論「原田編」~
いいものなら売れるなどというナイーブな考えは捨てろ。

これは「ラーメンハゲ」こと芹沢の座右の銘と言ってよいほどにネットに浸透し、一種のネットミームと化している言葉である。
確かに良い作品、良い商品だからといって売れるとは限らない。なんだったらその逆になることの方が多いくらいと言ってもいいだろう。この作品性と商業性の両立に苦しまない制作者などいるのだろうか。それくらいに普遍的であり不変の問題である。
このセリフを、作中で誰よりも優れたラーメンを作れる才能を持っている芹沢が言うから説得力は段違いに高まる。そしてかつて芹沢自身もまたそのナイーブな考え方に捉えられていた一人だったからこそ、芹沢という人物を読者は嫌いになれない。一種のダークヒーローとしての芹沢を象徴する言葉だろう。
芹沢は自身の信念に背くような形で、大衆に受け入れられるラーメンの開発に成功する。そうして彼は、自分の作品性の追求とラーメン店の経営の両輪を回すことが出来た。
では、芹沢のように信念を曲げず、自身の作品性を高め続け、商業的には不遇の才能がもう一人いたらどうなっていたのだろうか。そんな才能がもしまだ生きていたとして、そして再起をしようとしていたのだとしたら、その才能は時代を超えて再び輝くのだろうか。そんな芹沢のifのようなキャラクターこそが、今回の「原田編」に登場するメインキャラクター、原田正次である。

そして結論から言ってしまえば原田がかつて才能の輝きを取り戻すことは不可能である。『らーめん再遊記』より以前の『ラーメン発見伝』、『らーめん才遊記』から、この作者は一貫して時代は前に進み続けるし、その時代の進化から目を背けて停滞したものは敗北していくという物語を描き続けてきた。『らーめん才遊記』におけるラスボスであり、最強の料理人である汐見洋子ですらもその「時代」の前進を見落としたことによって実の娘とのラーメン勝負に敗北している。つまり登場した時点で原田がもし再起したとしても成功することはほぼないと言って良いだろう。
それでも、現時点における『らーめん再遊記』の集大成といえるエピソード、それが「原田編」である。時代に取り残され、登場時点で敗北が確定しているかつての才能の「その後」をどう描くのか。芹沢のもう一つの可能性とも言える原田を通して、物語は彼と芹沢が生きたかつての「時代」を照射し、やがてそれは現代へと辿り着く。
それは、ラーメンを通して描かれる「時代」と「才能」についての物語である。
エンタメジャンルにおける「過渡期≒黄金期」
「原田編」はその直前のエピソードである「インスタントラーメン編」の終わりとシームレスに繋がる形で始まる。
なぜ「原田編」の前に「インスタントラーメン編」が描かれる必要があったのだろうか。それは「原田編」を描く上で「インスタントラーメン編」が前振りとして機能しているからだ。
インスタントラーメンの取材を通して芹沢は、現代の大衆文化における、「偽物」が「本物」よりも人気を獲得する瞬間についての考えを展開する。そこで、取材を通して得られた気付きでもある「偽物」は、「模造品」であると同時に「誇張品」であるという指摘は非常に重要である。
ラーメンも、その「模造品」であると考えられがちなインスタントラーメンも、既存の麺類のいいとこどりをした「誇張品」であるがゆえに大衆的な人気を獲得した。そして「誇張品」が広く人気を獲得するのは、ラーメンに限らず、ロックやプロレスなど様々なジャンルで広くみられる現象である。
さらに芹沢はそこから、「偽物」と見なされてきたジャンルが「本物」に近づくときこそがそのジャンルが最も活性化する瞬間ではないかという仮説を提示する。ロックにおける60年代のビートルズ登場からの20年ほどの期間、プロレスにおけるアントニオ猪木が異種格闘技戦を展開した70年代から80年代までの期間、そしてラーメンが「本物」になるとした90年代、これらの「偽物」が「本物」になろうとする過渡期こそがジャンルの黄金期なのではないかと。

この過渡期こそそのジャンルの黄金期であるという芹沢の考え方には私も同調する。私が所属するゲーム業界で言えば、既存の2Dのグラフィックが3Dに変わり、ゲームの可能性が爆発的に広がった90年代から2000年代こそがゲームの黄金期だろう。
しかし、なぜ原田編を描くにあたってこのようなラーメンに限らないエンタメジャンル全般の仮説を、かつてラーメンの過渡期=黄金期を生きた当事者である芹沢自身から展開する必要があったのだろうか。それは、かつて確かにあった黄金期が既に過去になっているということを提示するためである。そしてその黄金期は二度と戻らない。むしろインスタントラーメンのようなラーメンからすら偽物と見なされていたものにこそ、新たなる過渡期、黄金期はやってくる。
であるならば「原田編」における原田の役割とはなんだろうか。かつての黄金期の復活?そんなことが一個人の才能で出来るわけがない。「インスタントラーメン編」が丁寧な取材で構成されていたのは、一つのシーンの盛り上がりが一人の天才によって生まれるのではなく、さまざまな職種の人達の連なりによって生まれていることを具体的な事実として提示するためなのである。
不遇の天才ってかっこいい
「原田編」を語る上で、欠かせないのが原田正次のカッコよさである。自分の才能に圧倒的な自信を持ち、その片鱗を見せるだけでもラーメンマニアたちはひれ伏してしまい、自身はそんな成果など一顧だにしない、無頼なたたずまい。
物語上は原田が芹沢と時代に敗北していくことは登場時点でほぼ確定しているのだが、それでも原田というキャラクターの魅力と、かつて彼が営んでいた伝説的な店「麺窟王」とそこで提供された、有栖をしてラーメンの極北と言わしめるラーメンの存在によって、原田を中心にグイグイと物語はドライブしていく。
若者代表のグルタくんなどは原田の醸すカリスマ性と、彼が手すさびに作った「生姜焼きラーメン」の美味さに一発でやられてしまうし、かつての原田の圧倒的な才能を知っている小宮山などは、原田の再起のために奔走する。まさに以前このnoteでも書いた通りの「便利なキャラ」としての面目躍如である。
男女、年齢を問わずに周囲を魅了し、再起へと向かう原田だが、そんな中で、原田のパートナーと称する女性が有栖の大学を訪れる。そして居合わせた芹沢と共に、原田の過去を知らされ、それを聞いた芹沢は一つの覚悟を決める。
最初から見通していたものと最後まであきらめなかったもの
原田との過去の因縁ゆえに再会した当初こそ動揺が隠せなかった芹沢だが、それ以降は原田に対して終始冷静だ。
再起しようとした原田に対し、芹沢は過去の因縁に決着をつけようとラーメン勝負を原田に申し込む。その末に、原田が勝負の場から逃亡した時もそれすらも予想の範疇として処理していく。
芹沢は才能というものが、どれほど輝かしいものであっても時代の流れには勝てない賞味期限付きであるものだということを嫌というほどわかっているからだ。
それでも芹沢はかつての盟友へのケジメとして、自分が勝負のために作ったラーメンを原田たちに食べさせる。自身の最高傑作と共に閉店した「麺窟王」以降、どこにも行けなかった原田への介錯をするために。そう、かつては芹沢ですら嫉妬するほどの才能を発揮していた原田は、自身の店を畳んで以降、どこにも行けずに停滞し続けてしまっていたのである。
「原田編」の後半で明かされる原田の最後のラーメンは実際に読者が食べられないのだが確かに前衛的過ぎるラーメンである。そして同時に一般受けしないであろうことも直感的にわかる点も含めて凄い一杯である。
そこで展開される手段であった筈が自己目的化してしまう「独創性」の話や、かつては唾棄すべきものだった化学調味料を使わないことへのこだわりが却って自由を失わせているのではないかという提言や、「もっと独創的なもの」ではなく「もっとうまいもの」を目指すべきだったという言葉は、あらゆる創作において重要な箴言だろう。

芹沢が原田に突きつける現実は酷薄極まりないが、確かに世の中にはありふれたものでもある。あまりに眩い才能を発揮し最高傑作を早くにものにしてしまった天才が、その最高傑作が呪いとなることでやがては時代に残酷に置いていかれる例などは例を挙げていけばキリがない。原田は確かに天才なのだが、広い視野で見れば、原田のような天才は世の中の様々な分野にいくらでもいるのである。かくして「原田編」はかつての天才が、そこから一歩も前に進めないという醜態を晒して終わるところであった。
しかし、そこで1人だけ原田の才能を諦めなかった人物がいる。
グルタである。
冒頭で、本作、本シリーズにおいて時代の流れの中での過程の進歩を見落とした者は必ず敗北すると書いた。その意味において時代に取り残された原田が無惨な姿を晒してしまうのは物語の冒頭から確定していた事であった。
しかし、時代の先端を生きる現代の若者であるグルタだけは原田の才能を諦めきれない。グルタは現在の原田のラーメンの味を知っているからだ。
そうして、グルタは計画倒れに終わるはずだった原田の再起プランを、独断で遂行する。
劇中でも突っ込まれているが、グルタが暴走と言っていいほどにだいぶめちゃくちゃやってるのは間違いない。だが、原田がかつて作った生姜焼きラーメンを看板メニューに据えた麺窟王は、開店するや否や大繁盛してしまい、その評判は芹沢達や、そして当然原田自身の耳にも届く。
そして、ついにラーメン勝負では叶わなかった、原田が25年ぶりに作ったオリジナルラーメンを芹沢が食するという機会が得られ、芹沢はそのラーメンを激賞する。
そこから語られるポップとディープの対比はこの「原田編」の締めに相応しいものである。
「ディープ」は少数のマニアや信者に溺愛され、「ポップ」は一般大衆を熱狂させる…それぞれに魅力はあり、作り手がどちらの道を選ぼうが自由だ。
「ディープ」の袋小路に入って身動きできなくなったお前が、偶然にも「生姜焼きラーメン」という「ポップ」への足掛かりを得たことを活かすかどうかも勝手だ。
この「ポップ」と「ディープ」の考え方、さまざまな局面で応用できる枠組みである。特に批評の世界などにおいてはよりマニアックで通受けのよい「ディープ」に対して言葉は偏りがちであり、なにかと「ポップ」は軽んじられがちである。「ディープ」の極限まで辿り着いてしまった原田がそこに捉われてしまうのも止む無しだろう。
いいものなら売れるなどというナイーブな考えは捨てろ。
かつてそう芹沢は言った。だが、そんなナイーブさを完全には捨てきれてはいないからこそ、芹沢は原田の復活を後押ししようとする。
そして、原田は遂に再起する。
しかし、のちに芹沢も言及するように最後に一番重要な動きをしたのは勝手に麺窟王を復活させたグルタである。この作品、そして「原田編」が『らーめん再遊記』の最高到達点と言って良いほどに優れているのは、ほろ苦くも美しい過去をそれはそれとして描きつつ、最後には新しい世代の新しい才能が、未来を切り拓くところまでを描いているからである。
そして、地道な試行錯誤を続ける人間がいる限り、その分野は成長、進化をし続けるという根本的な部分での楽観性、人間の営為に対する大きな信頼はこのシリーズ全てを通して一貫しているところであり、過去シリーズ史上もっとも過去を美化した思い出話にもなりかねない「原田編」がこのような形で締められた点は、まさに集大成と呼べるだろう。
そして、日々のラーメン屋の営業は続く。新たなる「万人の形式」を求める芹沢の歩みはまだ終わらない。
※サムネイルは[作]久部緑郎[画]河合単『らーめん再遊記』Kindle版10巻 No.25より引用
