緑色の満月 #短篇小説
短篇小説・1928文字
鍵を掛ける音がする。
仕事へ行くときの、ためらうような音ではない。いつもより軽い調子で鍵は回った。彼が踵を跳ね上げスキップでもするように、アパートの階段を下りていくのを想像する。
そのまま転げ落ちてしまえ!
そんな悪態が頭をよぎる。
私は鼻が利く。比喩ではなく、本当に鼻が利くのだ。そのせいで、彼のにおいの違和感に一瞬で気づいてしまった。帰宅が遅かった週末、不意にかすめた安っぽいにおいは、これまでに嗅いだことのないシャンプーのにおいだった。
女だな。
と思った次の瞬間、私の目の色は胆汁のように緑色に染まった。愛してやまない彼の仕草一つ一つが、すべて疑念の種になる。スマホを見ながらニヤニヤしたり、安物のパンツがckと書かれたものになったり。彼の機嫌がいい日ほど、私の心は不安に苛まれた。
初めてこの部屋に来た日、彼は私にミルクをくれた。
「ミルクを飲むと、よく眠れるんだよ」
そう話す彼を遠巻きに見ながら、私はおそるおそるミルクを口にする。
「美味しい?」
訊かずにはいられないといった様子で、彼は私に訊ねた。けれど、私は返事をしなかった。軽い女だと思われたくなかったからだ。彼は、私のつれなさを気にするでもなく静かに微笑む。やさしそうな垂れた笑顔は、頑なだった私の心を一瞬で解きほぐした。
新しい暮らしにも慣れてきた頃、彼は押し入れから平たい箱を引っ張り出して言った。
「一緒にオセロやろうよ」
緑色のボードの上に、白と黒の平べったい円形の石。私はオセロを見るのは初めてだった。彼が遊び方を説明しながら、
「はい」
と私に石を持たせる。適当に並べてみせたら、彼が私の様子をスマホで撮影しはじめた。思わずたじろぐと、ごめんごめん、と謝りながらも、
「あまりに可愛くってさ」
と目尻を下げた。好きな人に褒められれば、やはり嬉しい。
スマホだったカメラは、やがて一眼レフの高級品になった。そのレンズを私に向けて、彼は「かわいいかわいい」と言いながら私の姿を撮りつづけた。彼は映したものをパソコンに移し、毎日真剣な顔でそれを見返している。連日連夜、仕事から帰宅した彼は私にカメラを向け、パソコンから目を離すと、またカメラを手に私を撮りはじめる。
また撮るの?
と文句を言うと、彼はかわいい声だと言って私を抱いた。その指先はいとも簡単に私を恍惚とさせる。我を忘れるほど、私は彼に甘えた。
そんなことを繰り返すうちに、彼は突然、今まで見たことないほど高そうな腕時計を買ってきた。満面の笑みでそれをつけ、
「似合う?」
と訊いてくる。
あのとき嘘でも、似合う、と言ってあげれば、彼がよそ見をすることはなかったのかもしれない。でも、似合うと言ったら、彼がもっと遠くに行ってしまうような気がして怖かった。
今日彼は、その時計をして出かけた。いつもより髪のセットに時間をかけていた。帰りがいつになるかも訊けず、私はまんじりともせず、彼の帰りを待っている。
まだかな。
夜が深まり気もそぞろになってくる。そっと出窓に手を掛け外を眺めた。
見上げた満月は緑色をしていた。
嫉妬の毒が、とうとう視界を遮るまでになったらしい。いつになく自分の爪がギラギラと光って見える。窓に映る猛獣のような目が、三角に形を変え尖っていた。
これが私?
驚いてカーテンを引こうと思ったら、勢い余って引きちぎってしまった。レールの弾ける派手な音が、保っていた自制心を一気に奪う。
私は化け物になったのかもしれない。
手あたり次第に物を蹴散らし、床に物を落としていく。満月のときに暴れるのは、確か狼のほうではなかったか。そんなことを思いながら暴れていると、玄関ドアの鍵がガチャンと回った。
風のにおいが鼻をかすめる。
唐突に、かつて暮らした外の世界が恋しくなった。私はふらりと玄関へ向かう。ちょうど彼が、女を連れて帰ってきたところだった。
「ほら、この子がうちのミイちゃん」
「わぁ! 超かわいい!」
馴れ馴れしく伸びてくる女の手を、私は思い切り引っ搔いてやった。
「いったぁーい!」
彼が女に気を取られているうちに、私はドアの隙間から、さっと外へと飛び出した。
◇
夜、物陰に潜んでいると、カップルの話し声が聞こえてきた。
「ほら、前に見たオセロ猫のミイちゃん、家から脱走したらしいよ。飼い主どうすんだろう。登録者数100万人超の人気動画だったのに」
男は無関心そうに、どうせすぐに次の猫見つけるよ、などと返している。
「あっ! ねぇ、あの子。ミイちゃんに似てない?」
指差す女から逃れるように、私は素早く高い塀に上る。
ふと夜空を見上げると、まるくて大きい月が出ていた。
その色はもう、あの日のような緑色ではない。
〈了〉
「今、2000字で書けって言われたら、どこからの発想で書き始めますか」
そんなテーマで書かれたこちらのコッシ―さんの記事にコメントしたら、
「丸恵さんならどう書きますか」
と返信を受けました。
やや!《2000文字は難しいぞ》と恐れをなし、コメントで寝たふりして誤魔化したのですが、更に、
「丸恵さんの創作スタイルが気になるー!w」
と返信いただきました。
「2000文字の小説を一日で書く」
という制約なら、気負わずに書けるかもしれないと思い、やってみることに。書いてみて納得できなかったら、書けなかったと言えばいい、そう思ったら、かえって気楽にできました。
私は書くのが遅いので、丸一日かかってしまいました。トホホ。私は翌日にどうしても読み直して推敲したいので、厳密にいえば日はまたがっています。(でも一応、24時間以内では書きましたが……)
2000文字くらいだと、ちょっと際どいくらいに言葉を削ったほうが、わかりやすくなるんですねー! 言葉を足すよりも引くほうが物語の輪郭がはっきりすることに気づき、面白いなぁと思いました。
今回の作品は、畏れ多くも、シェイクスピアのあの名セリフを下敷きにして書きました。
お気をつけ下さい、将軍、嫉妬というものに。
それは緑色の目をした怪物で、ひとの心をなぶりものにして、餌食にするのです。
セリフが有名なので知った気になっていましたが、私、またオセロー読んでなかった! ああ、読もう。
新潮文庫版とちくま文庫版、どちらも表紙が素敵で驚きました。
コッシ―さん、どうでしょう? 答えになったでしょうか? こういう感じの答えで大丈夫でしょうか。
テーマでいうなら、嫉妬からの解放、という感じかもしれません。
これを弾みにして、次作に取りかかろうと思います。
お読みいただきありがとうございました!
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