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ノーエフォート思考、「努力」は存在しない

実は、努力というものは存在しない。
大谷翔平氏、藤井壮太氏など、とんでもない結果を出している人を指して「あの人は信じられないくらい努力している!」と他人が評価する。評価されている本人にその意識はないと思う。努力とは、他人からの見え方の中だけに存在する。

それでは、自分の中に感じる「努力」とは何なのだろうか?
おそらく「無理をしている」に近いのではないかと思う。それをどう呼ぼうが個人の自由ではあるのだが、「無理」は一時的には効果があっても、ずっとは続かないし、どこかで破綻する。

長期的に累積して、たしかな結果に結び付く努力、というか「行動」は、自分にとっては自然だけど、他人からは「ものすごい努力」とでも呼ばないと理解が不可能な、クレイジーなものなのだ。

自分で努力していると思っている時点で、何かが怪しい。
無理をしているか、あるいは、成果が出ないことの免罪符を欲しているかだ。職場にもひとりはいないだろうか。やたら残業しているけど、成果が何も出ないひと。努力しているから、わたしは許されるはず。そういう思考になってしまっている。

努力が存在しないなら、どうすれば目標や目的を達成できるのか。

① ひとつは、最初の話に戻ってしまうのだけど、「無理」をする。それがデフォルトになってしまうとまずいが、ときには必要だと思う。

② もうひとつは、好きなことをする。好きなことなら無理なく続けられるし、それが好きでない他人から見て「あの人はすごく努力している」状態になる。実際には、好きなことだけしていればいいなんて状況はめったにないので、別の方法が必要になる。

③ それがノーエフォート思考。いかに努力しないで、やらなければならないことを続けるか。まずは努力という幻想を捨てなければならない。そして工夫する。

ささいな例で恐縮だが、わたしは健康のために毎日平均して1万歩以上歩いている。他人に話すと「それはすごい」と言われるので、努力の部類として映っていると思う。
だが、わたしはいっさい努力していない。通勤しているだけだ。そういうふうに通勤路を設計した。何も考えず、習慣としてただ歩いている。

それから常に本を読んで勉強しているので、これもすごいと思われがち。②の「好きなこと」と思われていそうだが、もともと読書はそんなに好きじゃない。詳しくは「図書館の無限インプット術」を読んでほしいのだが、読む本は図書館から指示される(実際には、忘れるほど前に予約した本の順番が回ってきている)。

それを通勤電車で読む。ただそれだけ。通勤電車があまりに長くて苦痛なのを利用させてもらった。アクロバットな姿勢で頑張っている。

他に考えているノーエフォートは、視力訓練。これ以上目を悪くしたくないので、外を歩くときは一番遠くを見ることを習慣化しようと思っている。接近物など近くのものも見ざるを得ないので、自然に遠近トレーニングになる。

note記事執筆もなるべくノーエフォートにしたい。自分のための思考整理ツールとして使って、それが他人にも役に立つという形にできるのが一番だろうか。
なお、意識したわけではないけど、自分でも何度も読み直したい記事がいくつかできていた。

起業も趣味にしてしまうか。投資戦略の延長線上で財務を考えるのも楽しいかもしれない。そう考えると、歳の近い友達みたいな税理士を選びたいなという発想が出てきた。

努力すべきの思い込みを捨て、活動すべてをどんどんノーエフォートにしていきたいものだ。

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焔ふぁい|FIREの精霊 クリエイターであり続けたいー! が、整体に行かないと死ぬ。ポンコツゆえ、ポンコツゆえ、300円よろしくお願いしまーーす!