一人で来たの? #2 ささやかな冒険
#2 ささやかな冒険
ノースウィングの1階は、ありとあらゆるいい匂いでサチを誘って来た。ベーカリーの焼き立てパンの匂い、バーガー屋さんのソースの匂い、甘い焼き菓子の匂い…… お昼ご飯はまだだけど、幸せな匂いに包まれているとサチはいくらでも食べられそうな気がしてきた。
サーモンと菜の花のクリームパスタ:3,650 JPYS
(クリームパスタ大好き! 後でパパ達を連れて来ようかな)
クアトロチーズビーフィー:2,480 JPYS
(うわっ、バーガー一つでお腹いっぱいになりそう)
アップルマンゴーと練乳のジェラート:1,790 JPYS
(これサイコーだ!)
「今フランスで大人気のチョコレートが限定入荷しました、メゾンから届いたばかりの味を試食していただけます、こちらでーす」
サチが声の方を振り返ると、チョコレートのポップアップストアが試食を配っているところだった。チョコレートに目がないサチがすぐさまストアの方へ行ってみると、3人のエプロン姿の店員がトレイを持って試食品を提供していた。サチと目のあった店員の一人がサチに声をかける。
「いかがですか、ベリーとプラリネ、どちらがお好みですか?」
「プラリネ! あっ、これタダですか?」
「はい、試食品なので無料ですよ、でもその前にこちらをお願いします」
そう言って店員さんは左手の手のひらをこちらに向けた。手のひらの真ん中には小さなディスプレイがあり、こう表示されていた。
『以下のアレルギーはありますか?
○豆類
○乳製品
○金属類
◻︎はい、あります ◻︎いいえ、ありません』
サチは、いいえをタップした。試食では必ず聞かれるのでサチも勝手が分かっていた。
「ありがとうございます、ではどうぞ」
小さなカップに入ったナッツプラリネを一つ、サチにくれた。
「ありがとうございます!」
「一人で来たの?」
「ううん、パパとママとお姉ちゃんと」
「そう、じゃあ気をつけてね」
サチは近くのベンチに座って早速味見をしてみた。カップに添えられていた小さなピックでチョコレートを口に運ぶ。ミルクチョコレートの甘さとナッツの香ばしい風味が口に広がった。「んー」サチは目を閉じて、濃厚なナッツプラリネを味わった。
ナッツの後味を惜しんでいると、さっきの店員さんが目の前を横切った。サチは駆け寄って空いたカップを返しながら「あの、とっても美味しかったです! ママやお姉ちゃんにも……」と言いかけたが、店員さんは空いたカップを受け取ると、無表情でスッとレジ横に戻って行った。
サチには分かっている、店員さん達はアンドロイドなのだ。とっても美味しかった事を伝えたくって声をかけたのに、返事は無かった。アレルギー対策や防犯対策は規則通りにやってても、試食のフィードバックまではプログラムされていなかったようだ。サチはこういうことには慣れている。慣れてはいるけど、やっぱり瞬間ちょっとガッカリしてしまう。
でもプラリネは最高だった! サチは気を取り直して他の店を見てみることにした。
エスカレーターに乗って、お姉ちゃん達がまだ買い物をしているであろう2階を飛ばして3階へ。
『春の新作ネイルお試し 一本:2,000 JPYS~』の看板がサチの目に入った。
「うわー、可愛い!」
サチはカラフルなネイルチップのサンプルをのぞき込んだ。
チューリップ模様、さくらんぼ模様、そしてもちろん桜模様。ハートやキラキラや、ちょこんとしたカエルのアクセントが付いてるのもある。百種類以上ありそうなサンプルを眺めていると、ネイルショップのお姉さんが声をかけてきた。
「何か気に入ったの、あったかな?」
この人は人間だ。
「あっ、はい、もう全部可愛いです!」
「ふふ、ありがと、今だと両手全部やらなくても、一本だけお試しでできるけど、やってみる?」
「あっ、えっ、でも……」サチは一本:2,000 JPYS~ の文字が気になっていた。
「ああ、値段のこと? そうね、お嬢ちゃんの爪はまだ小さいから、1,000 でいいわよ」
サチは少し考えてキッズパッドを取り出して見てみた。
キッズパッドは大人が持つデバイスに比べると機能が制限されている。何かを契約したり、クレジット機能を使ったり、本名以外のハンドルネームを使ってSNS投稿したりすることはできないけど、万一の事態に備えて、少額決済用のステーブルコインJPYSをチャージしておくことはできる。両親との約束で、チャージ上限の10,000 JPYSまではサチの判断で使っていいルールになっていた。
マユがお金を使うのに躊躇が無いのに対して、サチはとても慎重だ。お年玉やお小遣いはずっと貯金してあるし、必要な物ならおねだりしなくても買ってもらえるから、あまり自分の意思でお金を使うことにサチは慣れていない。
ネイル一本1,000 JPYS、残りは9,000。
残高は十分なぐらい残るし、何よりサチはここの可愛いネイルをママやお姉ちゃんにも見せたかった。
「じゃあ一本お願いします」サチはお姉さんにオーダーした。
「はい、了解しました! じゃあこちらに座ってもらって。どんなのにしましょうか、何かご希望のデザインありますか?」
「うーん、どれも可愛い……」
「ふふ、選べないよね、じゃ私が今お嬢ちゃんに似合いそうなのをオリジナルで考えるから、任せてもらってもいいかな?」
「あっ、はい、お任せで!」
サチは前から、パパが時々使う「お任せで」というセリフを言ってみたかったので、ちょっと嬉しくなってしまった。
お姉さんはサチの右手の中指の爪をリムーバーでサッと拭き取ったあと、手早くジェルの小瓶を何色か取り揃えた。お姉さんの頭の中ではもうデザインが決まったらしい。黙々と手なれた手つきでサチの爪に色を置いてゆく。
一度だけ作業の途中で下を向いたまま、お姉さんがサチに聞いてきた。
「一人で来たの?」
「いいえ、パパとママとお姉ちゃんと」
「そう、今お買い物中?」
「そうです」
お姉さんの手は止まらない、色を変え、道具を変えてお姉さんの頭の中にあるデザインがサチの小さな爪の上に描かれてゆく。カラフルな絵柄の上にいくつかのパーツを置いて、最後にプルっとしたトップコートを塗ると、艶やかに絵柄が浮き上がってきた。
アクアブルーのグラデーションをベースに、可愛らしいコーンに盛られた虹色のアイスクリーム、そのアイスクリームから弾け出る桜の花びらとクリスタル。
「はい完成です、これでいかがですか?」
サチはパッと手を広げて中指の爪を見た。
「可愛い! すっごい綺麗です! ありがとうございます!」
「……あの、それでね、お嬢ちゃん、」お姉さんが気まずそうに切り出した。「私クリスタルを奮発してたくさん置き過ぎちゃったのね、最初1,000でいいって言ったけど、1,500もらってもいいかな? 本当に申し訳ないんだけど……」
「えっ、」
サチは戸惑った。1,500もらってもいいかと聞かれても、いいかどうかをどうやって決めればいいのか自分では分からない。買い物って、値段があらかじめ決まっている物を買うか、それとも買わないかの二択だと思っていた。こんな風に大人を相手に交渉などサチは今までしたことが無い。
「えっと……」
「本当にごめんね、私できるだけ可愛く、可愛くなるようにって、頑張っちゃったもんだから…… 」
「……」
「でも、お金持ってないならいいのよ、1,000で」
サチはネイルの出来に大満足だったし、もともと2,000 JPYSのを1,500でいいって言ってくれているわけだし、残高が8,500になっても全然問題はない、そう納得することにした。
「わかりました、じゃあ1,500払います、これで」とサチはパッドを取り出して見せた。
「ありがとうございます、ごめんなさいね」お姉さんは本当に申し訳なさそうにレジ用デバイスに金額を打ち込み、1,500 JPYSという金額をサチに見せて「お間違えないですね」と確認したあと、ピッとサチのパッドをスキャンして支払いを終わらせた。
「気をつけてねー」
お姉さんは手を振ってにこやかにサチを見送ってくれた。
まあいい、ネイルはとっても可愛いし。サチは自分にそう言い聞かせながら、キッズパッドをバッグにしまう前に残高を見て驚いてしまった。
『残高 8,050 JPYS』
「えっ、なんで……」
サチは利用履歴を開いたが『本日の利用額 1,950 JPYS』とある。でも確かにお姉さんは1,500 という画面を見せてくれたし間違ってたとは思えない。いろいろ画面をいじっているうちに利用履歴詳細という画面が開いた。ごちゃごちゃした明細の中に『サービス税率30% 450 JPYS』の文字を見つけた。
「これか……」
あの1,500 JPYSには税金は入っていなかったんだ、サチはようやくそれに気づいた。サチは税金のことを知らなかったわけではないし、よくママが内税か外税か分かりづらいと愚痴っているのを聞いている。
(知らなかったわけじゃない、そうじゃない、けど……)
サチは中指のネイルを見た。可愛いことに変わりはないのに、なぜかさっきほど気分が上がらない。もう終わってしまったことだから仕方がない、2,000 JPYSよりかはそれでも50安く済んだんだ、早くこれをママやお姉ちゃんに見せてあげたい、そう思った時、パッドの上に通知が表示された。
『サチどこ⁈』
メッセージの通知、ママからだ。サチはメッセージに返信せずに、ボイストークでママに発信した。
「ああ、サッちゃん? 今どこにいるの、建物の中にいることは分かるけど、勝手にその場を離れないでちょうだい」
「ごめんなさい、今3階にいる」
「3階にいるのね?」
ちょっと私に代わって、とマユの声。
「サチ⁈ パパとママが気が散っちゃって買い物にならないからさ、大人しくしといてよ!」
「ごめんお姉ちゃん」
「そんなにキツく言ったら可哀想じゃない。じゃあこうしましょう、12時半ごろにお昼ご飯を食べることにするから、それまではサッちゃんも自由行動でいいわ、でもこの建物から出ないでね。12時半に1階の入り口で集合、それでいい?」
「分かったママ」
ボイストークを切った後、サチはなんだかモヤモヤした気分になってしまった。お姉ちゃんの買い物に付き合って、放ったらかしにされて、思わぬ出費をしてしまって落ちこんで……
挙げ句の果てに“勝手”だと叱られてしまった。いつもは優しいママも少しイライラしているのが声音で伝わってきた。今日はなんだかうまくいかない。
でも12時半までは自由行動のお墨付きを得られたんだ、それまでは自分の好きな店を見て歩こう。
サチは4階へ上がって行った。ここは赤ちゃんから小学生までをターゲットとするフロアで、小さな子供を連れた家族で溢れている。ボールプールではしゃいでいる子供たちやそれを見守る親たち、鉄道のジオラマを取り囲んで目を輝かせている男の子たち。子供にとっては夢の世界だ。
サチは洋服屋さんを探した。マユが欲しがるような大人びたデザインじゃなく、いつものジュニクロで買うシンプルなのでもない、そんな雰囲気の店をサチはキョロキョロしながら見て歩いた。
数年前、まだサチが小学校に上がったばかりの頃、海外の女性アイドルグループが世界的にブームになった。小学生から大学生まで、彼女らのセクシーなスタイルを女の子が真似したがり、露出の多い服装で登校する女子生徒が増えた。学校と家庭の間でのトラブルが急増し、生徒の間で服装に関するイジメも増えた。そのことが社会問題にまで発展し、日本中に大論争が巻き起こった。
『服装の自由』『表現の自由』『子供の権利』『秩序』『道徳』『分断』…… そんな言葉が子供達の頭上を飛び交い、ありとあらゆるメディアでくる日も来る日も24時間、大人たちが喧喧諤諤とやり合った。
学校側もそんな状況を無視できずに、ついには完全に服装の自由を宣言する学校、それとは逆に新たに制服を導入をする学校、間を取って服装のルールを細かく指定する学校に分かれたが、自分が通う学校の判断に納得できない親子は、転校や退学をするという事態にまで及んだ。
親子の間でも意見や価値観が合わず、親子喧嘩の末に家出をして友達の家に居候をする子や、夫婦間で意見が衝突して離婚してしまうケースまで出てくる始末で、『家族の崩壊』とまで言われるに至った。
そこに現れたのがジュニクロだ。
ジュニクロは教育省の公認ブランドとして立ち上がり、小学校から高校生まで通学に適した服装を提案・提供するようになった。シンプルで機能的、かつ種類が豊富で生徒の個性を出すこともできるし、それにもし他の生徒とかぶっても気にする必要がなかった。ジュニクロはある意味制服、そんな認識が広まっていった。
ジュニクロのアイテムなら何でもOKとする校則を採用する学校が大半を占めるようになり、マユとサチが通う小学校もそうだった。洋服に限らず学校生活で必要なものは靴も文房具も全てジュニクロで間に合った。ジュニクロ側も学校と保護者の要望をバランスよく取り入れ、無駄な論争で子供を悲しませないことこそが戦略と理解していて、日本はもとより、数年で世界規模の巨大企業にのしあがった。
サチはまだ小さかったから大人たちが何をそんなに騒いでいるのかよく分からなかったけど、一つ印象に残っているのは、日頃から主張の強いあのマユが、この事についてはあまり自分の意見を言わず、どちらかと言えば大人たちの表情をずっと観察しているような素振りを見せることが多かったことだ。
『TF w/ NF』
店の名前、なんて読むのか全然分からない。でもお店の雰囲気は良さそうだ、そう思ってサチは店を覗いてみた。
レースの袖、襟元のフリル、ギャザーのスカート、ジュニクロではおよそ見かけない、女の子の憧れを体現したようなコンセプトのお店だった。
(いいかも)
サチだって本当はこういうのが好きなのだ。何着かママに買ってもらったことはあるけど、サチはあまり着ることがなかった。着た瞬間はとっても気分が良くなるけど、それを着たまま遊んだり、学校へ行ったりするのはなんだか違うと思った。やっぱりどこか窮屈さを感じたし、汚してしまわないかと気がねするもの嫌だった。そうしてサチのクローゼットにある女の子らしい洋服は、どれもサイズの合わない小さい服になっていってしまったのだ。
お店の壁の一際高いところに一着のワンピースがディスプレイしてある。サチはそのワンピースに目を奪われた。
総レースでできた白のワンピース。可愛らしいチュールのフレンチスリーブに襟元に立ち上がったレースのフリル、ウエストにはラベンダー色のサッシュがアクセントになっていた。
(すごい……)
半ばあっけに取られたように口を開いたまま見上げるサチに、店員さんが声をかけた。
「気に入りました?」
「えっ、はい、すごいですね!」
「着てみます?」
「えっ、いや、買えないです、こんなワンピース」
「買わなくてもいいのよ、着てみたいなあと思ったら着てみてほしいの」
「買わなくてもいいんですか?」
「全然いいわよ、一人で来たの?」
そうたずねながら店員さんはサチの答えなど聞かずに、もう吊ってあるハンガーを取り外しにかかっている。
「試着室はこっちです」
サチは言われるままに靴を脱いで試着室に入った。
「着替えは一人で大丈夫? 背中のファスナーは閉めなくていいから、終わったら声かけてね」
とうとう試着することになってしまった。絶対に買わないのに。
サチは恐る恐る値札を見てみた。
158,300 JPYS
(えっ)
何桁なのかすぐに金額が読めなかった。
(一、十、百、千…… 15万!)
こんな値段の洋服はサチはこれまで見たことがなかった。
なんだか胸がドキドキしてきた、もう試着するのも怖いけど仕方がない、早く試着してお店を出よう。サチはできるだけレースの裾を引き摺らないように、そうっと気をつけて着替えた。
「あの、できました」
「はい、お疲れ様でした、じゃ背中向いてもらって」
店員さんは手慣れた手つきでファスナーを上げ、サテンのサッシュをシュッと結んでくれた。
「これ履いて、鏡で見てごらん」出されたのは黒のエナメルの靴。サチには少し大きかったけど、白いワンピースと黒のエナメルはよく合っていた。
店員さんはサチを鏡の前に立たせ、
「どう、サイズもちょうどいい感じね」と鏡越しに笑顔を見せた。
鏡に映ったのは、夢の世界のワンピース。その上にサチのいつも見慣れた顔が乗っかっている。
似合ってない。サチは少し恥ずかしい気持ちになったけど、そんなサチの頭に、店員さんがワンピースと同じレースのカチューシャを乗せてくれた。するとちぐはぐだったコーディネートは一気にまとまりを見せた。
サチは不思議な感覚になった。さっきまで自分には手の届かない物だと思っていたワンピースは、当たり前だけどちゃんと自分が着られるように作られていて、それどころかとても着心地が良くて、決して自分と無縁の物ではないんだと。
「後ろも向いてみて」
鏡を振り返ったサチの腰には、ふっくらと結ばれたラベンダー色のサッシュが揺れている。
欲しい、サチは一瞬そう思ったけどそんな考えはすぐに打ち消した。着て行くところもないし、こんな値段の物なんて買ってもらえるわけがない。
「もう脱ぎます、汚れるといけないし」
「いいのよそんなこと気にしなくても」
店員さんは中腰になってサチに向かい合った。
「最近はね、なんだか過激な洋服か、地味な洋服か、どちらかに片寄ってるのが多いでしょ、普段着まで地味になっちゃって。そうじゃなくてね、洋服を着るのは楽しいんだって気持ちを思い出して欲しいと思ってるの」
サチは店員さんのいう意味を、サチなりに分かったつもりでうなづいた。
「これじゃなくていいのよ。動きやすくして、お手入れを簡単にして、また可愛らしい洋服を着たいって思ってくれる女の子が増えたらいいなあって、そう思って洋服を作ってるのよ」
サチはレースのワンピースを脱いだ後、お店の中を何周も何周も見て回った。もしサチの洋服も買ってもらえることになったら、ママたちをここに連れてこよう。
サチはキッズパッドで『TF w/ NF』のストアページにお気に入りマークを付けた。
店員さんに見送られながら店を出ると、サチのお腹がキュルっと鳴った。 時計を見るとまだ11時前、待ち合わせまではあと1時間半以上もある。また1階に戻るのはちょっと面倒だなと思っていたところ、4階にも親子向けのレストランがあるのを見つけた。大人用のメニューとは別に子供用のメニューも準備されていて、手書き風の可愛らしいメニューには『10歳までは子供用メニューのご利用可』とある。サチは今10歳、大丈夫だ。子供用メニューは大人用より小ぶりでその分値段も安い、小腹を満たしたい今のサチにはちょうどいい。
サチは、子供メニューのトマトのブリトーを一つテイクアウトした。春巻きぐらいの大きさで865 JPYS。
4階の広場のベンチに座ってブリトーをあっという間に平らげたサチは、広場の真ん中にそびえるからくり時計を眺めていた。4階と5階が吹き抜けになっている広場に鎮座するこのからくり時計はノースウィング棟の主のような存在で、1時間ごとにベルが奏でる音楽が鳴り響き、文字盤の上にある小さな両開きのドアが開いてからくり人形が列をなして出てくる。
今、ちょうどその音楽が始まったところだ。
先頭はお城のお姫様、続いて近衛の騎士。その後を鎌を振り上げた死神と手下のカラスが後を追い、その後ろに王様、司教様、女官と、森の動物たちが続く。ベルが紡ぎ出すメロディは、長調から短調へ、そしてまた長調へと、転調を繰り返す不思議な雰囲気を醸し出す曲だった。
着ぐるみのウサギがその音楽に合わせて踊っている。
サチは、少しの疲れを感じて目を閉じた。目を閉じると買い物客のざわめきがひときわ大きく聞こえる。
サチはさっき試着したワンピースのことを思い出した。レースやチュールをふんだんに使っているのに少しもチクチクした感触が無くて驚くほどに着心地が良かった。ピアノの発表会用のドレスとしてなら買ってもらえるかも知れない。発表会は夏休みだから今買えばサイズも大丈夫だ。あれを着てステージに立ったらどんなに注目を浴びるだろうか。パパ、ママ、お姉ちゃんはもちろん、友達やその家族にまで『サッちゃん素敵』って思ってもらえるに違いない。
あのワンピースが欲しい。あのワンピースが買ってもらえるなら、ピアノの練習はもっともっと頑張れるのに!
ベルの音楽が鳴り止み、続いて時報の鐘が鳴る。
低い響きのベルがゆっくりと刻を数え始めた。サチも心の中でベルを数える。
ゴーン(いーち、)
ゴーン(にーい、)
ゴーン(さーん、)
ゴーン(しいーい、さっきウサギがいたけど…… )
ゴーン(ごー、試着して店を出たところからずっといる)
ゴーン(ろーく、)
ゴーン(なーな、)
ゴーン(はーち、まさか私について来ている?)
ゴーン(きゅーう、なんだかちょっと気味が悪いな)
ゴーン(じゅうーう、)
(あれ、じゅういちが鳴らない……)
(なんで…… 鳴らないの……)
大人たちのざわめき、子供がはしゃぎまわる足音、赤ちゃんの泣き声。
色々な音が少しずつ遠ざかってゆく。
サチはいつの間にか浅い眠りに落ちかけていた。
「ちょっとあなた!」
肩をポンっと叩かれてサチは飛び上がって目を覚ました。
目の前には一人の女の人がサチの顔を覗き込んでいた。
「目が覚めた?」
「あ、え、」
「あなたさっき、あそこの店で洋服を試着してたでしょう?」
「え……」
「でも買わなかった」
「……」
「あそこの洋服はお高めだからね。でも今お金が無くても買える方法があるんだけど、知りたい?」
「お金が無くても買えるんですか?」
「その通り! 良かったら案内するけどどうする?」
「え、でも……」
サチは目の前の時計を見上げた。11時ちょうどだ。
「あ、時間が無いのかな?」
「そんなことないですけど……」
「じゃ決まり、行こう行こう!」
