洗濯物は笑顔で干せ〜ハラスメント加害者を意識から抹消する〜
介護施設で働くAさんは、休日の朝、洗濯物を干しながら、ふと手を止めることがありました。頭の中にあるのは、今日の予定でも、家族のことでもありません。月曜日、出勤したら先輩のBさんがどんな顔をしているだろうか、ということでした。
Bさんは、Aさんの入力ミスや申し送りの言葉尻を執拗に指摘し、他の職員の前でため息をついてみせる人でした。直接怒鳴られるわけではありません。ただ、Aさんが話しかけると、わざとらしく視線を逸らされる。報告をしても「はあ」と短く返されるだけで、必要な情報を渡してもらえない。そうした小さな棘が、毎日少しずつAさんの中に積もっていきました。
まだ起きていないことにまで怯える
休日であっても、Aさんの頭の中からBさんが消えることはありませんでした。「今日も無視されるかもしれない」「あの件を伝えたら、また不機嫌にされるかもしれない」。まだ起きていない出来事なのに、Aさんはその場面を何度も想像しては、心をすり減らしていました。
これは、Aさんが弱いからではありません。繰り返し傷つけられてきた人であれば、誰でも起こる自然な反応です。人は、過去に痛みを受けた相手に対して、次の痛みを避けようと先回りして考えるようになります。それは、身を守るための本能的な働きです。ただ、その働きが行き過ぎると、加害者が目の前にいない時間まで、加害者に支配されてしまうことになります。
「先読み不安」が起きる心理的なメカニズム
脳は「危険の予測」を優先する
人の脳は、危険を察知することを何よりも優先するようにできています。何度もBさんから理不尽な態度を取られてきたAさんの脳は、Bさんに関する情報を「危険信号」として学習してしまいました。その結果、Bさんが実際に何かをしていなくても、Bさんのことを考えるだけで、体が緊張し、心拍数が上がるようになっていたのです。
これは異常なことではなく、繰り返し脅かされた人間なら誰にでも起こる反応です。問題は、この「危険の予測」が、実際の危険がない時間にまで発動し続けてしまうことです。Aさんの場合、休日も、家にいる時間も、Bさんという存在に心を占領され続けていました。
答えの出ない問いに時間を差し出し続ける
もう一つ厄介なのは、まだ起きていない出来事に対しては、どれだけ考えても対処のしようがないということです。Aさんは、月曜日にBさんがどんな態度を取るか、何度もシミュレーションしていました。しかし、実際にBさんがどう出るかは、その場になってみなければ分かりません。つまり、Aさんは答えの出ない問いに、休日の時間を差し出し続けていたのです。
この構造に気づくことが、抜け出すための最初の一歩になります。「まだ起きていないこと」を考える時間は、安心のためではなく、不安を長引かせるためだけに使われてしまうことが多いのです。
相手の機嫌は、あなたが管理するものではない
先回りして動き続けたAさん
Aさんは、あるときカウンセリングの場で、こう漏らしました。「Bさんを怒らせないように、いつも先に動いてしまうんです」。申し送りの順番、言葉の選び方、休憩のタイミングまで、Bさんの機嫌を損ねないように調整していたのです。
しかし、ここで確認しておきたいことがあります。Bさんが不機嫌になるかどうか、Bさんが陰で何を言うか、Bさんがどんな態度を取るか。これらはすべて、Bさん自身が選んでいることであり、Aさんが管理できることではありません。
コントロールできないものを管理しようとする消耗
Aさんがどれだけ気を遣っても、Bさんが機嫌よくいてくれる保証はどこにもありません。逆に言えば、Aさんがどれだけ丁寧に対応しても不機嫌にされるのであれば、それはAさんの対応の問題ではなく、Bさんの問題だということになります。相手の機嫌という、自分にはコントロールできないものを管理しようとし続けることは、終わりのない仕事を自分に課しているのと同じです。
問いを変える ー「相手はどう思うか」から「私はどうしたいか」へ
基準がBさんにあった頃
カウンセリングを重ねる中で、Aさんは一つの問いの立て方を変える練習を始めました。それまでのAさんは、何をするにも「Bさんはどう思うだろう」を基準にしていました。申し送りの内容を選ぶときも、休憩室での座る位置を決めるときも、常にBさんの反応が最初にありました。
基準を自分の中に取り戻す
その問いを、少しずつ「私はどうしたいのか」に置き換えていきました。たとえば、業務上どうしても確認しておきたいことがあったとき、以前のAさんなら「Bさんを怒らせないためにはどう聞けばいいか」と考えて、結局聞かずに終わらせていました。しかし新しい問いに変えたAさんは、「私は正確な情報を持って利用者さんに対応したい。だから聞く」という順番で考えるようになりました。
結果として、Bさんの反応が変わるとは限りません。それでも、Aさんの中で何かが変わりました。行動の基準が、Bさんではなく、自分の中にある大切にしたいことに戻ってきたのです。
嫌われてもいいと決める
開き直りではなく、理解に基づく選択
Aさんが次に取り組んだのは、「嫌われてもいい」「不機嫌にされてもいい」と、自分の中で決めることでした。これは開き直りではありません。必要なことを伝えたときに相手がどう反応するかは相手の選択であり、その選択の結果として自分の価値が下がるわけではない、という理解に基づいたものです。
踏みとどまった一言
ある日、Bさんから理不尽な言い方で業務のやり直しを求められたとき、Aさんはそれまでのように黙って従うのではなく、「その指示の根拠を教えてください」と落ち着いて尋ねました。Bさんは案の定、不機嫌な顔をしました。以前のAさんであれば、その表情を見た瞬間に謝って引き下がっていたはずです。しかしAさんは、そこで踏みとどまりました。Bさんが不機嫌になったのは事実ですが、それはBさんの反応であり、Aさんが間違ったことをしたからではありません。
この経験は、Aさんにとって小さいけれど確かな転換点になりました。相手を怒らせないことよりも、自分が納得できる行動を取ることのほうが、後に残るダメージが少ないと実感できたからです。
記録・相談・距離という、具体的な行動に落とし込む
事実だけを残すという備え
問いの立て方や心の持ち方を変えるだけでなく、Aさんは具体的な行動もあわせて始めました。Bさんから理不尽な言動を受けた日は、日時とやり取りの内容を簡単にメモに残すようにしました。感情的な表現は避け、事実だけを淡々と書き留める形です。これは、後に上司や相談窓口に伝える必要が出たときのための備えであると同時に、「自分の記憶だけに頼らなくていい」という安心感にもつながりました。
距離を取り、一人で抱えないと決める
また、業務上どうしても必要な会話以外では、Bさんと物理的な距離を意識して取るようにもなりました。休憩時間を少しずらす、必要な連絡は口頭ではなく記録の残る形で行うなど、無理のない範囲での工夫です。そして、一人で抱え込まず、施設の相談窓口に状況を伝えることも決めました。誰かに話すという行為そのものが、Bさんの存在をAさんの頭の中だけで無限に膨らませることを防いでくれました。
洗濯物を干す手が、再び自分の一日に戻るまで
休日の朝、洗濯物を干しながらBさんの顔を思い浮かべる時間は、以前よりも短くなっていきました。完全になくなったわけではありません。それでも、Aさんは気づいたときに自分にこう問いかけるようになりました。「これは、今すぐ考える必要があることだろうか」。答えが「いいえ」であれば、Aさんは洗濯物に、そして自分の一日に、意識を戻していきます。
相手の機嫌を先回りして管理する仕事は、もともとAさんが引き受ける必要のなかったものでした。それに気づき、少しずつ手放していく中で、Aさんの休日は、ようやくAさん自身のものに戻り始めています。まだ起きていない月曜日を、今日という一日から締め出すこと。それは、Aさんが自分の人生の主導権を、加害者の手から少しずつ取り戻していく作業そのものでした。
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