『AEDっていうんだって』第3章
~2004年夏~
心臓を専門とする医師たちが、日本でも「一般市民による除細動」が認められるようにと、活動を始めた。
その中心となったのが、「AED検討委員会」の委員長を務めた医師である。
彼は、日本でAEDにいち早く注目した医師の一人だった。
すでに2000年には、別の市民向け公開講座でAEDを取り上げるなど、関心を持つだけでなく、早い段階からその重要性を世間に向けて発信していた。
2003年にはAEDの必要性を訴える書籍も出版している。
しかし、その背後には、まだ誰にも知られていない、一人の少年の切実な手紙があった。
「AEDを、使わせてください。お医者さんじゃないぼくにも。そうしないと、あの子が死んじゃうかもしれないんです」
「当時、医療の現場でもAEDはまだ珍しく、誰でも使えることには反対の声も多かった。けれど委員長は、少年の切実な手紙を見て、何かが変わるかもしれないと感じたという。」
その手紙は、医師たちの議論のテーブルに静かに置かれ、やがて大きな決断の火種となった。
誰にも読まれず、忘れられてしまってもおかしくなかったその手紙は、確かに届いていた。
ひとつの命を思う気持ちが、言葉となって誰かの心を動かし、やがて大きな波となって日本全体を変えていった。
──そして今日、“その日”がやってきた。
7月1日。蝉が、信じられないほど早く、夏の朝の空気を震わせて鳴き始めていた。
街には至るところにAEDの設置を知らせるポスターが貼られ、テレビや新聞では「一般市民がAEDを使えるようになった」というニュースが何度も繰り返される。
そんなふうに、大々的に報じられる日が来ると、ずっと思っていた。
だけど現実は、静かだった。ニュース番組の一コーナーで数分だけ触れられて、テロップの隅にひっそりと「AED 使用解禁」の文字が流れただけ。
通学路に変化はなく、学校にも赤い箱は見当たらなかった。
僕以外の誰かにとっては、きっと今日もただの一日だった。
これで、本当に彼女は安心して日本に戻ってこられるのだろうか。
そんなことを思ってしまう自分が、なんだか情けなかった。
当時のAEDニュースは、まだ多くの人にとって「遠い医療の話」だった。
街の人々は、テレビのニュースで流れる「一般市民でもAEDが使えるようになった」という言葉に、どこか他人事のような目を向けていた。
救急車のサイレンは耳にしても、心臓が止まる人が身近にいるなんて想像しにくかった。
病院や空港にしかなかった赤い箱が、自分の生活圏に置かれる未来はまだ、はるか遠いものに思えた。
「命を救う道具」としてのAEDがニュースになるのは革新的だったが、同時に戸惑いもあった。
正しく使えるか不安な人、誤って使ったらどうするのかと心配する声も聞こえた。
実際、医療現場の反対意見も根強く、法の整備が追いつかない部分もあった。
それでも、ニュースの端々には「救命の可能性が広がる」という希望の光があった。
これまで救えなかった命に手が届くかもしれない、そんな期待感が静かに広がり始めていた。
街角で赤い箱を見かけるのはまだ先の話。
だけど、その日を境に「もしものとき、誰かが命を救うかもしれない」という意識の種が、少しずつ人々の心に蒔かれたのだった。
蝉の声は、夏の始まりを告げる合唱のように空いっぱいに響いていた。
風鈴の涼やかな音色が隣家の軒先から聞こえ、緑の葉がそよ風に揺れて光を踊らせていた。
朝の空気は、すでに日差しの強さを予感させ、僕の制服の袖を優しく撫でていく。
まだ夏休みでもないし、テストも終わっていない。
太陽はすでに高く昇り、すっきりと晴れ渡った青空が広がっていた。
いつも通り制服に袖を通し、髪を適当に直し、玄関を出るとき――なんだか今日が特別な気がした。
そう、あの日から、5年と半年が過ぎていた。
まだ小学生だった僕が、「AEDを使わせてください」と手紙を書いてから。あの子が「赤い箱が、命をつないでくれる」と教えてくれてから。
そして今日――日本で、AEDが、一般市民でも使えるようになった。
正式には「非医療従事者によるAED使用が法的に認められた日」。
新聞はそんなふうに書いていた。
だけど、僕にとっては、もっともっと個人的で、私的で、たったひとりの、たったひとつの命のための出来事だった。
僕はこの日を忘れない。
「本日より、全国の公共施設や駅構内などに設置されているAEDを、一般市民でも使用できるようになりました」
アナウンサーの言葉に、画面の下に流れるテロップ。
あの赤い箱の映像。「AED 使用解禁」の文字。
それらを見ながら、思い出していた。
あの冬の帰り道、雪の積もった足元で、「AEDっていうんだって」と彼女が言ったあのとき。
「じゃあ僕が使うよ」って言ったときの、彼女の小さな笑い顔。
「でもダメなんだって。日本では、お医者さんしか使えないんだよ」
その言葉が、今日をつくった。
きっとあのとき、ただの「無理なんだ」で終わっていたら、今の日本はなかったかもしれない。
僕は、ランドセルを背負ってポストに向かった日々を思い出した。
震える字で手紙を書いた。どんな言葉を綴れば、あの子の命に届くのだろうか。何度もペンを止めては、ため息をついた。文字はうまく並ばず、涙でにじむこともあった。
返事もなかった、あの無力さ。でも、届いてたんだ。
そして今。ようやく、ひとつの“届いた”が、国を動かした。
「……届いたよ。やっと、届いた」
自分でも驚くほど、涙が出なかった。
「涙が出なかったのは、もう悲しみではなく、確かな未来への期待が胸を満たしていたからかもしれない。」
ふと、机の引き出しから手紙を取り出した。
引き出しの中で擦り切れた手紙の匂いが、時を超えて僕を包んだ。
最後にもらった彼女からの手紙。もう何度読み返したかわからないくらい、折り目がくったりしていた。
最後の手紙をもらったのは、中学3年の、受験の少し前だった。
彼女はあいかわらずアメリカで元気にしていて、「こっちはもうすぐハロウィンだよ」とか、「AEDを使った授業をやったよ」とか、そんなことが書いてあった。
便箋の隅に描かれた、ちょっとヘタなかぼちゃの絵。今でも覚えている。
でも、そのあと僕は受験で忙しくなった。手紙を書きかけて、途中でやめたこともあった。
忙しさにかき消されそうになった気持ちが、言葉にする勇気を少しずつ奪っていったのかもしれない。
気がつけば、もう春になっていた。
それから、返事はこなかった。
いや、僕のほうが、もう出せなかったのかもしれない。
僕は、彼女にまた会いたいと思っている。
何気ない日常のなかで、ふとその顔を思い出し、また話がしたいと感じることがある。
けれど同時に、時間と距離がそれを難しくしていることも知っている。
もしかすると、もう会えないかもしれないという気持ちが、いつもどこかにあった。
会うことが叶わないかもしれない不安と、また会いたいという静かな願い。
その両方が、僕の中でそっと共存していた。
それは、ただ大切な存在を思う、自然な気持ちだった。
向こうでも、きっと環境が変わったんだろう。学校が変わったのか、住所が変わったのか――それとも、何か、言葉にできない理由があったのかもしれない。
だけど一通だけ、今も僕の手元にある。
最後に届いた、彼女からの手紙。
「きっといつか、日本でもAEDが当たり前になる。わたし、それを信じてる」
「そのとき、わたし、まだ生きてるといいな」
その言葉だけが、ずっと僕の中に残っていた。
その一文を読むたび、胸がつぶれそうになる。
今、彼女はどこで何をしているんだろう。まだ、アメリカにいるんだろうか。それとも、もう日本に帰ってきたんだろうか。
それとも――。
いや、そんなふうに思いたくない。
だって、今日という日は、彼女の願いが形になった日だから。
彼女が生きていた証を、国が認めた日だから。
机の上には、もう使わなくなった赤いポスト型のレターセットが、まだ残っていた。
もう住所もわからないのに。切手を貼る必要もないのに。
それでも、いま書けば――また届く気がする。
彼女のいる、どこか遠くの空に向かって。
**
夜、空を見上げた。
虫の声が、静かに響いていた。
あの日、飛行機に乗っていった彼女のことを思い出しながら。
「また手紙、書くよ」
星空は静かに輝き、その光は遥か遠く、彼女のもとへ届くかもしれない。
僕は深く息を吸い込み、震える手でペンを握り直した。
今度はもっと強く、もっと確かに。君のそばに立つために。
今度は、もっと大人の字で。でも、中身はきっと、変わらない。
君の心臓が止まりそうになったとき、誰かが、君のそばにいてくれますように。
AEDを使える日になりますように――
その願いは、確かに実現した。
でも、あの日々はゴールじゃなかった。
今日という日は、たった一人の願いから始まった、“命をつなぐ物語”の、本当の第一歩だった。
**
2004年7月1日、日本で一般市民によるAEDの使用が認められた。その日、日本は初めて、「誰かの命を救う準備」を、すべての人に託したのだった。
実は、2004年7月は厚労省より各自治体宛に通達が出され、それによりAED(体外式自動除細動器)を医療従事者でない一般市民が使用して救命することができるようになったものの、当時のAED設置は空港や病院など一部の場所に限られていた。
一般への普及が大きく広がり始めるのは、翌年の愛・地球博以降のことである。
