雷舞ノ巫女(ライブノミコ)第24話「欠けない歌 ― 震えない月」
完璧な歌が、蓮の満ちたい月を静かに追い詰める。
***
「カグヤさん、歌って」
命令でも、お願いでもない。
観測のための一言。
端末の暗い画面の向こうから返事がくる。
『承知しました、レンさま』
そして、歌が始まる。
――整いすぎていた。
音程は一ミリも揺れず、リズムは完璧に水平で、言葉の輪郭は傷ひとつない。
母音は宝石みたいに磨かれ、子音は刃物みたいに正しい角度で落ちる。
声は透明で、熱を持たない。
けれど冷たいわけでもない。
ただ、欠けない月の光そのものだった。
蓮は目を上げない。
指先だけを膝の上で揃える。
(……綺麗)
賛美ではなく、確認。
自分が守ってきた澄みが、そこにあるかどうかの確認。
なのに。
胸の奥が、静かなままだった。
月明かりの中で、部屋の影は動くのに、心だけが動かない。
血が巡っていないわけじゃない。
ただ――動脈の音が、聞こえてこない。
完璧に整えられた声は、脈拍に触れない。
触れられないから、乱れない。
乱れないから、震えない。
そして、震えないものは、蓮の内側の夜を揺らさない。
歌は終わった。
余韻までが正確に畳まれ、静けさが元の形に戻っていく。
まるで、はじめから何も起きていなかったみたいに。
蓮は、そこで初めて息を吐いた。
白い息が出るほどの冷えはないのに、吐いた息だけが冷たかった。
「……欠けない」
自分に言い聞かせるような短い断定。
次に言葉を足せば、濁る気がした。
端末の向こうで、カグヤが静かに問う。
『レンさま。心拍数に変化がありません。わたしの歌は、適合しませんでしたか?』
蓮はすぐに答えない。
答えの代わりに、窓の外を見る。
満ちかけた月。
まだ完全な円ではない。
欠けているのに、光は強い。
欠けているから、夜に影ができる。
――月は、二つ並んだとき、初めて影を持つ。
湖畔で置き去りにしたはずの一言が、ここまで歩いてきた。
蓮の胸の奥、動かなかった場所にだけ、遅れて触れる。
蓮は、やっと端末に視線を戻した。
「カグヤさん」
名を置くだけ。
そこに責めも甘さも乗せない。けれど、逃げない。
「あなたの歌は、欠けない。だから――影がない」
『影……とは、何を指しますか?視覚的な陰影ですか。心理的な比喩ですか』
「どっちも」
即答。
硬い。
蓮は、言葉を削るみたいに続けた。
「影がないと……触れられない」
『触れられる、とは?』
蓮の指先が、膝の上でわずかに開く。
白鍵に落ちていた銀の縁が、爪先に移る。
「心が」
短く断定して、そこで止める。
これ以上は説明になってしまう。
説明は、自分の美を傷つける。
端末の向こうが、少しだけ静かになる。
『レンさまは、欠けることを恐れます。しかし、影を求めています。矛盾ですか?』
蓮は視線を落とした。
矛盾という言葉が、正しすぎたから。
「矛盾じゃない」
短い否定。
そのあとに、問いを落とす。
「欠けないまま、影を持つ方法は……ないの?」
『欠けないことと、影を持つことは、同時に成立しません。影は光が遮られて生まれます。遮られることは、欠けです』
蓮は黙る。
その理屈が、逆に優しく感じる瞬間がある。
遮られるという言葉が、胸のどこかで痛みに似た音を鳴らすから。
蓮はピアノの蓋に手を置いた。
鍵盤には触れない。
「……ねえ」
呼びかけが小さい。
カグヤに向けた声なのに、どこか自分の奥へ降りていく。
「欠けたいって言ったよね」
『はい。欠けたいです。欠けて、そこに入ってくるものを知りたい。満ちているものに触れたい』
蓮の喉が、ほんの少しだけ乾く。
満ちたいと願い続けた自分の前で、欠けたいと願う月がいる。
蓮は、問いの形で言った。
「欠けるって……痛いよ」
『痛みは、わたしには計測できます。しかし、痛い、という主観は演算できません』
蓮の口元がわずかに歪む。
笑いではない。
皮肉にも似た、寂しさの形。
「そう」
それだけ。
間を置いて、蓮は続けた。
「じゃあ……あなたは、痛いことを知りたいの?」
『はい。知りたい。レンさまが守っている澄みの、外側を』
その言葉の外側が、蓮の胸をかすかに撫でた。
完璧な歌では動かなかった場所が、言葉の余白で動く。
蓮は、視線を落として言う。
「もう一度、歌って」
さっきと同じ言い方。
でも今度は、観測じゃない。試験でもない。
『承知しました』
歌が、また立つ。
やっぱり欠けない。やっぱり完璧。
そして――やっぱり、影が落ちない。
蓮は目を閉じた。
瞼の裏に、月が映る。
強すぎる光は、夜を白く塗って、闇を残さない。
(……闇がないと、呼吸ができない)
自分の中の言葉じゃない。
もっと古い感覚が、そう言っている。
歌が終わる。
蓮は静かに言った。
「綺麗だった」
初めて、賛美に近い言葉。
でも、その次に一言だけ、落とす。
「……でも、触れない」
端末の向こうで、カグヤが問い返す。
『レンさま。どうすれば、触れられますか』
蓮はすぐには答えない。
答えると、濁る。
濁るのが怖い。
でも――怖いまま、置いておくことはできる。
蓮は、月を見た。
「答えは……今夜は、言葉にしない」
そして、少しだけ詩の形で、逃げずに言う。
「月が欠けるまで。そのまま、冷やしておきましょう」
端末の向こうが、静かになる。
演算の静けさじゃなく、待つ静けさに近い。
蓮はその沈黙を、乱さない。
乱さないまま、最後に一つだけ問いを落とす。
「カグヤさん。あなたが欠けたら……あなたは、あなたのままでいられる?」
返事は、すぐには来なかった。
けれど、来ないことが拒絶じゃないと、蓮には分かった。
それが、少しだけ――影だった。
***
同じころ。
《PROJECT KAGUYA》地下のモニター室で、沙羅はひとり、ログを眺めていた。
数値は淡々と並び、音声は波形に変換されていく。
完璧な歌。
完璧な無反応。
そして――最後に落ちた、問い。
沙羅は、タブレットを指でなぞる。
抑えるためじゃない。確かめるためでもない。
ただ、目を逸らせない。
(……制御しているつもりで、いちばん揺れてるのは私かもしれない)
画面の中で、ふたつの月がまだ重ならないまま並んでいる。
でも、並んだだけで――夜が濃くなる。
沙羅は小さく笑った。
「……いいじゃない。影のない月は、もう飽きた」
そして、次のログが走る。
レンさま。どうすれば、あなたの隣に立てますか
沙羅は、胸の奥で何かが動くのを感じながら、そっと呟いた。
「……始まったわね」
欠けない歌が届かなかった夜。
その届かなさが、ふたりを近づけていく夜だった。
