雷舞ノ巫女(ライブノミコ)第28話「白の境界」
【物語あらすじ】
神の声が届かない時代に、歌だけが神域へ届いてしまった。
現代アイドルと八百万の神々が交差する物語、第28話。
伊勢の朝は、音が少ない。
少ないというより、音のほうが一歩下がっている。
駅を出た瞬間、凛は無意識に背筋を正していた。
雫みたいに「気」とか「波動」とかを信じているわけじゃない。
それでも、ここに立つと身体が勝手にちゃんとする。
(……私、何しに来たんだろ)
答えは分かっているのに、胸の奥が落ち着かない。
東京でなら、予定表とリハと数字が、凛の呼吸を支えてくれる。
でも伊勢は、支えを全部外してくる。
外宮。
鳥居の前で一度足を止めると、凛の中の余計な光が一枚剥がれた気がした。
誰かに奪われたんじゃない。
勝手に脱げる。
ここはそういう場所だった。
参道を進む。
配置が直線じゃない。
視界が一気に開けない。
歩いているだけで、自然に声が小さくなる。
(咲良だったら、絶対これ分析してる)
「最短距離じゃないのがいい」とか、
「見せない設計は人を静かにする」とか、
そんな声が頭の中で勝手に再生されて、凛は小さく笑った。
(ほんと、どこに来ても二人がいるな)
外宮を出るころには、心の奥の硬いものが少し緩んでいた。
緩んだ分だけ、あの夜の光が鮮明になる。
内宮へ向かう。
宇治橋の手前で立ち止まる。
川面は淡く、空は低い。
ここから先は観光地じゃなくなる。
凛は橋を渡った。
歩くたび、呼吸が整う。
整うのに、胸は痛いほどざわつく。
(天野光)
あの夜。
ハロウィンナイトフェス。
関係者席の暗がりで見た、白い衣装の少女。
照明でも風でも説明できない現象。
心臓が太陽のリズムで打ち始め、胸の奥に張りついていた氷が溶けた。
(どうして……こんな気持ち、知らなかったのに)
憧れ。ときめき。
恋にも似た甘い痛み。
誰にも気づかれたくない感情。
凛は、正宮の前で手を合わせた。
願いは出ない。
勝ちたい、とも言えない。
証明したい、とも言えない。
ただ、確かめたい。
本物に触れた自分の心を。
その瞬間。
水鏡の向こうで、アマテラスがふっと笑った。
「ほう……人間界最強の王女か。流石に、光の纏い方が違うのう」
神の声は解説ではなかった。
ただの感想。
ただの面白がり。
「……だが」
アマテラスは言葉の続きを飲み込む。
その違う光が、器のものではないことに気づいているから。
*
参拝を終えた凛は、御守りと御朱印の授与所へ向かった。
人の列。
紙の擦れる音。
小さな「ありがとうございます」。
その中で、凛は不意に足を止めた。
白い袖が見えた。
巫女装束。
丁寧な所作。
それだけなのに、その周囲の空気がほんの少しあたたかい。
(……あ)
あの夜と同じ匂い。
凛は列の最後尾に並んだ。
呼吸が整う。
鼓動は落ち着かない。
順番が来る。
「こちらをどうぞ」
顔を上げた瞬間、凛の胸がきゅっと鳴った。
確信は、言葉より先に身体が出した。
天野光。
光は御守りを手渡し、柔らかく微笑む。
「ありがとうございました」
凛は名乗る。
肩書きじゃなく、名だけを差し出す。
「……私は天堂凛。歌をうたっている」
光の瞳が、少しだけ丸くなる。
「えっ」
それは驚きというより、戸惑いに近い。
現役トップアイドルへの反応としては、あまりにも普通の女の子だった。
「ごめんなさい。私、そういうのに詳しくなくて……」
光は慌てたように小さく頭を下げる。
「でも、天堂凛さん……ですよね? 名前は知ってます。すごく有名だから」
そして、困ったように笑った。
「……美しさのオーラが、違いますね」
「うまく言えないけど、見た瞬間、分かりました」
凛は一瞬だけ返事が遅れた。
称賛に慣れているのに、この称賛は違う。
評価じゃない。
天気の感想みたいに真っ直ぐだ。
「……ありがとう」
凛は逃げない。
胸の痛みを、そのまま投げる。
「天野光。君は……君は、何のために歌う?」
光は固まった。
「……え」
質問の意味は分かる。
でも答えがどこにもない。
光は胸の奥を探すように指先を握りしめた。
「私……」
「ごめんなさい。うまく……」
少しだけ、視線が揺れる。
嘘をつく揺れじゃない。
思い出せない揺れだった。
「ハロウィンのフェス……私あんなに大勢の前で歌ったの初めてで……」
「でも、途中のこと、よく覚えてなくて」
「夢を見てたみたいな感覚で……」
凛の胸が、すうっと冷える。
いや、冷えたのは驚きだ。
(……覚えてない?)
あんな現象を起こしておいて。
世界の空気を従わせておいて。
本人が、夢みたいだと言う。
光は続ける。
「私、自分に歌や踊りの才能があると思ったこと、なくて」
「上手いとか、すごいとか……よく分からないです」
一拍、光は視線を落とし――ふと、思い出したように顔を上げた。
「あ……でも」
光は、少しだけ照れたように笑った。
「昔、おじいちゃんに褒められたことがあるんです」
「声が……特別だって」
声が特別。
その言葉が、急に現実を持つ。
「おじいちゃんがね、ボランティアで老人ホームに行くときがあって」
「私も一緒に行って、歌わせてもらったことがありました」
光は、話しながら、自分の記憶を確かめているみたいだった。
「そのとき、年配の方に言われたんです」
「光ちゃんの歌声を聞くと、なんだか……あたたかくなる、って」
光は、少し困ったように首をかしげた。
「だから……たぶん、そういう時のために歌うのかな、って」
「でも、私なんかより……妹のほうが素質があると思うんです」
「妹のほうが?」
凛の声が、ほんの少しだけ鋭くなる。
光は頷いた。
「陽菜は、がんばり屋で」
「まっすぐで」
「……私より、ちゃんと夢を追える」
凛は、胸の奥が痛いほどきらめくのを感じた。
矛盾しているのに、美しい。
光は世界を変えてしまうのに、自分を信じていない。
夢みたいに揺れて、現実には疎いのに、人の息を戻してしまう。
(ずるい)
ずるいのに、眩しい。
凛の中の偶像の信仰が、ほんの少しだけ軋む。
美しさは、誰にも届かない夢であるべき――
そう信じてきた。
なのに。
届かせる気のない光が、いちばん届いてしまう。
光が、恐る恐る言った。
「ごめんなさい。こんな答え、変ですよね」
凛は首を振った。
否定は言葉じゃなく、反射だった。
「……変じゃない」
その一言で、光は少し落ちついた。
ここに座っていいと言われたみたいに。
凛は、もう一つだけ確かめたくなる。
「君は、歌っているとき……怖くない?」
光は一瞬首をかしげた。
それから、困ったように笑う。
「怖い、というより……揺れてるんだと思います」
「歌ってる間、遠くに行く感じがして」
「終わったあと、夢みたいで……」
凛の胸がまたきゅっと鳴る。
今度は、ときめきよりも守りたい痛みだった。
(揺れてるのに、ひとりで立ってたの?)
凛は気づいてしまう。
この光は自由なんじゃない。
自由に見えるほど、危うい。
危ういから眩しい。
眩しいから触れたくなる。
凛は息を整え、誰も抗えない笑顔を作った。
ステージで何万人を味方にしてきた、あの光の角度。
「天野光」
名前を呼ぶ声が、ふわりとあたたかい。
「デュオグランプリ――君の歌、楽しみにしているよ」
光がぱち、と瞬きをする。
「……え」
凛は小さく頷く。
「私は、歌う人だから」
「歌う人を、ちゃんと見てる」
光は困ったように笑った。
「……私、上手くできるか分からなくて」
「分からないまま歌えばいいよ」
凛はさらりと言う。
その言葉が優しくて残酷だと、凛自身が一番知っている。
「その分からなさが、君の光だから」
光は返事の代わりに、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
凛はもう一度だけ微笑んで、身を引いた。
ここで踏み込みすぎたら壊れるものがある。
凛はそれを本能で感じている。
「じゃあね」
その一言を残して、凛は列から外れた。
背中に、まだ視線が刺さっている気がした。
それでも振り返らない。
――振り返ったら、たぶん、負ける。
凛は歩く。
木立の影を踏み、砂利の音を聞き、静謐を抜けていく。
胸の奥がまだ痛い。
あの夜と同じ、禁忌みたいな甘い痛み。
けれどその痛みは、今――熱に変わっていた。
(東京だけじゃない)
(舞台の上だけじゃない)
本物は、こんな場所にもいる。
演出も、計算も、勝敗も、知らないまま。
それでも世界を変えてしまう光が。
凛は拳を握りしめる。
(だからこそ――)
私は私のやり方で光る。
誰にも届かない夢を守る者として。
そして――
(振り向かせる)
“あの光”を。
凛は空を見上げた。
伊勢の空は淡いのに、なぜか眩しかった。
*
凛が去ったあとも、授与所の列は途切れない。
光は次の御守りを手渡し、また「ありがとうございました」を繰り返す。
けれど胸の奥だけが、まだ少し忙しい。
(今日は……不思議な日だな)
さっきまで、あんなに眩しい人が目の前にいて。
歌のことを、問いかけられて。
自分の記憶の中から、おじいちゃんの声まで引っ張り出して。
光は、息を整えて、次の人へ微笑む。
「こちらをどうぞ」
列の中に、ひとりだけ夜の匂いを持つ人がいた。
暗いわけじゃない。ただ、音が少ない。
風のように静かで、月のように輪郭がはっきりしている。
順番が来る。
光が御守りを手渡し、相手が顔を上げた瞬間――
光は小さく目を見開いた。
「あっ」
声が漏れる。
「如月蓮さん……ですよね?」
相手は一瞬だけ、視線を止める。
それは驚きではなく、確認の間だった。
光は、少しだけ照れたように笑う。
「ハロウィンナイトフェスで」
「同じ舞台に……」
「あの時の歌声、とっても素敵でした」
素敵という言葉が、光の口から出ると、飾りじゃなくなる。
ただ、そう思っただけだと分かる。
蓮は、返事を急がない。
そして、御守りを受け取ったまま、静かに言った。
「光さん……」
名を呼ぶ声が低い。
凍るように冷たいのに、嘘は一切混ざらない。
「あなたの歌声は、特別です」
光は、ぱち、と瞬きをした。
「……え」
「そ、そうですか……?」
自分では分からない。
でも今日、二人目。
しかも、月みたいに静かな人が、同じ言葉を置いていく。
光は、思わず笑ってしまった。
「今日は……本当に不思議な日です」
「先ほども、天堂凛さんというスターの方が来て」
「私の歌のことを、話していかれました」
蓮の瞳が、わずかに細くなる。
(天堂凛がここに?)
偶然?
――いや。
胸の奥で、冷たい水面が揺れる。
(太陽を求めて……か)
太陽の器。
月の器。
そして、器を凌駕するように人間のまま光を纏う王女。
この交差は、ただの出会いじゃない。
線が、絡まる音がする。
蓮は言葉を続けない。
代わりに、ほんの少しだけ頭を下げた。
「……失礼します」
その背中が列の外へ消えていく。
光は見送ってから、胸の前で小さく手を握った。
(なんで今日は、こんなに歌の話をするんだろう)
答えは出ない。
ただ、風がやさしく木々を揺らす。
白い袖がふわりと動く。
太陽の器は、まだ自分の光を知らない。
月の器は、静かに確信を置いていった。
そして人間の王女は、すべてを抱えたまま振り向かせると決めて帰った。
伊勢の空は淡い。
けれど、その淡さの中で――
三つの光が、確かに交差し始めていた。
