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ヤマケイ ―山の警察—(第3話-6)

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(第3話 二つの沢-6)


   ❃

 男は、三日前から行方不明になっていた望田だった。花たちが捜索していた要救助者だ。
 ひどい怪我をしていた。右足の脛のところに大きな傷があって、そこが黒く変色し、大きく窪んでいた。饐えた匂いと腐った匂いが混じっている。出血を防ぐつもりだったのだろう。右足の腿のところをロープで強く圧迫していて、腿から下が濃い紫に変色していた。傷口からは血ではなく透明な液がじくじく垂れていた。
 傷の近くに手を置いてみた。
「痛みは……?」
 首を横に振る。きっと組織が死んでいるのだ。
 触れるとほとんど体温がなかった。花は傷の様子を確認しながら望田の語りを聞いていた。辛うじて届く程度の小さな声だ。今にも消えそうな声で望田が言う。
「み、……道に迷って……、沢に、下り……、ました」
 沢を下ればふもとに着くと思ってひたすら下った。そしたら滝に阻まれて後にも先にも進めなくなって、意を決して岩をつかんで下りてみたら、滝つぼに落ちて全身濡らした。その時に足を傷つけて動けなくなって、一日滝つぼのそばでうずくまっていた。一日経ったら血は止まったけど、今度は傷が倦んで歩けなくなった。それで、はいずるようにして辺りをうろうろしていたらこの小屋を見つけた。もう死ぬと思ったけど、花の顔を見て「助かった」と安心した。そう言った。
「よよ……、良かった」
 治療を施しながら花は思っていた。顔には出さなかったけれど、望田のことを、こう思った。
 バカだ。
 山で道に迷ったら、ぜったいに沢に下りてはいけないのだ。道迷いの時は登り返して登山道に出るのが鉄則だ。山に入る者なら誰でも知ってる。命に関わることだから、これは、「知らなかった」では済まされないんだ。
 望田の傷は直視するのが辛いくらいにひどく膿んでいた。どうやら敗血症を起こしかけているらしい。応急手当を続けながら、花は声に出さずに自問自答していた。
 どう助ける?
 今から救助隊を呼ぶか?
 いや、救助隊の到着は早くても明日の昼。望田さんは持たない。
 ヘリを要請すれば?
 外は夜。そして雨。飛べない。
 自分で運ぶ?
 それしかない。望田さんには時間がない。今からわたしが背負って運べば、朝までには室堂派出所に着くはず。あそこなら医者がいる。救急車も入れる。
 花の背中から覗き込むようにして品部が怯えていた。小屋中を臭気が満たしているけど、外は雨で夜。小屋から出るのが怖いのだ。
「奥村さん……。その人、大丈夫なの?」
 花は品部を見た。この人……、怖がりのおばあちゃん。
 自分の判断に自信はない。だけど――。
 決めた。
「……品部さん。わたしは今から彼を背負って室堂派出所に向かいます。救助隊を呼びますから、品部さんはこのまま小屋に残ってください」
「え……?」
「天候にもよりますが、明日の昼過ぎにはここに到着するはずです。だから品部さんは、ここに一人で……」
「嫌よ」
 思いがけない反応をされた。品部さんが救いを求める目で花を見ている。
「私、置いていかれるの?」
「え……?」
「嫌よ。こんなところに一人きりなんて」
「でも……」
「私を置いていかないで。いっしょに連れていって」
「…………」
「ね」
 とても運べない。一人を背負い、もう一人の肩を支えながら夜の山を歩くなんてどう考えても不可能だ。
「……だめです。品部さんはここに残って」
 品部がゆるゆると右手を花に差し出した。その目がうるんでいる。
「ね。お願い。奥村さん、助けて」
 その言葉を耳にした瞬間に、花の心臓が跳ね上がった。血が一瞬で熱くなって花の体中を駆け巡った。助けを求める目。差し出された右手。
 花は助けを断れない。
 それが花の生きる理由だから。

   ❃

 歩かなきゃ。
 山小屋を出た途端に全身が重くなった。上着が、ズボンが、靴が、降り注ぐ雨を吸って何倍にも膨れ上がったからだ。傘なんてさせないし意味がない。何より、花の背中には大怪我をして敗血症になりかかっている望田が載っていた。
 隣にいる品部に声をかけた。
「い……、行きましょう。品部さん」
 品部が不安そうに花を見ている。花の顔を見て、それから目を動かして、花の背中の望田を見た。望田はずっと目を閉じている。ほとんど会話もできなくなった。時折意味のわからないうめき声を、喉を鳴らすようにして吐き出していた。望田がどんどん弱ってきているのに花も気づいている。だから焦っている。
 歩き出した。小屋の前にはすでに軽い水の流れができていた。花の足が水たまりを踏み砕く。普段の二倍以上になった体重のせいで、泥の中にシューズが半分ほども埋まった。足が上がらない。右脚を引き抜いて持ち上げるだけでものすごく体力を使う。持ち上げた足を前へ。また泥に突き刺して再び引き抜く。反対の足を突き刺して引き抜く。息が上がる。これだけやってたった三歩。一メートルも進まない。
 背中で望田が、「グウ」とうなった。痛むのだと思う。ファーストエイドキットしかないから、できたのは血を止めることだけだ。花の体が揺れれば望田も揺れる。その度にきっと傷口がひどくこすれるのだ。望田の息は熱かった。そしてひどく臭かった。血が腐りかけているんだと思う。急がなきゃ。急いで麓に運んでお医者に診せなきゃ。じゃないときっと、この人はすぐに死んでしまう。
「奥村さん、……大丈夫?」
 また言われた。大丈夫なわけがなかった。だけど音を上げるわけにはいかない。ここで花があきらめたら、三人とも行動不能になってしまう。行動不能になったら、花と品部はともかく、望田は確実に死ぬ。花はそんなの耐えられない。自分の目の前で、何もできずに人を死なすなんて、花にとっては自死より辛い。きっとこれから先ずっと、「あの時こうしていれば助けられたんじゃないか」と後悔しながら生きることになってしまう。
 それだけは嫌だ。
 だから花は歩いた。望田を背負って数メートル進み、その度に立ち止まっては息を整え、振り返って品部を励ます。
「と、品部さん。大丈夫ですか」
「ええ。でも、奥村さん」
「は、はい」
「あなた、鼻から血が」
「え?」
 望田の両腕に絡めていた右手を自分の顔に当ててみた。ビシャリと思いのほか大きな水音がして、ヘッドランプの明かりを当ててみたら、オレンジ色の袖口が真っ黒に染まっていた。痛みとかない。どこにもぶつけてない。なのにいつの間にか出血していた。
「だ、大丈夫です。い、急ぎましょう」
「あなた、無理してるんじゃないの?」
 唇を噛んで耐えた。歩け。足を動かせ。この登りを越えれば下りになる。下りになればきっといくらか楽になる。足を止めるな。止めたらきっと、そこからもう動けなくなる。
 花の頭に、体内の血管が圧迫され、壁を破って出血するイメージが浮かんだ。心臓は加熱しすぎたボイラーみたいに不安定に血液を送り出している。たぶん限界を超えているのだ。
「奥村さん」
 また呼ばれた。「な……、何ですか」
「気をつけて」
 カアッと頭に血が上った。「い……! 言われなくても――!」
 その瞬間に、花は浮石を踏んだ。ガクンと重心が右にずれて急に体が軽くなった。そのまま右寄りに倒れそうになる。一瞬でいろんなことが頭に浮かんだ。転んだ。足元の確認を怠ったから浮石を踏んでしまったんだ。倒れる。ガレ場だ。わたしはきっと岩に体を打ちつける。全身泥まみれになる。体温が一気に下がるはずだ。そしたらもう歩けない。望田さんと品部さんを、わたしは助けられない。
「奥村ぁ!」
 太い声がして、その直後に丸太のような腕が伸びてきて、花の肩をガシリとつかんだ。花は体を斜めにしたまま目を泳がせて腕の主を見る。鬼気迫る表情の男がそこにいた。目をギラギラ光らせている。グイと体を引かれて、足と体が真っ直ぐになった。膝が笑う。背中の要救の重さに押しつぶされるように、花はその場に膝をついた。ハハ……、と間の抜けた笑い声が喉から零れ落ちた。
 男を見る。花は笑った。よかった。死なせずに済んだ。
「……森口、分隊長」

「第3話 二つの沢-7」へ続く

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※涌井の創作小説です。


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