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ヤマケイ ―山の警察—(第3話-7)

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(第3話 二つの沢-7)


   ❃

 品部さんの肩を支えながら、花は無言で歩いていた。
 数歩前には森口分隊長がいる。分隊長の広い背中に望田さんが載っている。森口分隊長の体は大きい。大きいから安定する。望田さんの体の揺れも小さくなった。これなら傷もそれほど痛まないだろう。安心もするだろう。花の背中とちがって。
 雨がいくらか弱くなってきた。その代わりに、土からしみ出すように霧が湧いてきた。花は何度も目をこする。前を行く森口分隊長に、何を言えばいいのかわからない。
 枝から滴る雨粒が、大き目の葉をボンと打つ音が聞こえた。森口分隊長が静かに言った。
「奥村」
「はい……」
「お前はバカだ」
「はい……」
 言い返せない。
 花は、隊の秩序を乱し、自分の力量を見誤って、要救二人を危険にさらした。ほとんど二次遭難になりかけていた。森口分隊長が花の居ない事に気づいて、わざわざ花のトレースを追いかけてきてくれたから、今、花は生きている。森口分隊長が「もしや」と思ってくれなかったら、あるいは花のトレースを見失っていたならば、それだけで花は帰れなかった。二人の要救助者も危なかった。花は二人を、殺しかけたのだ。
 森口分隊長が振り返らずに言った。
「お前、自分がいくつ規則を破ったかわかってるか」
 花は答える。隣で品部さんが不安そうな顔で花を見ている。
「命令を、無視しました」
「そうだ。他に」
「自分の力量を、見誤りました」
「そうだ。他に」
「他に……。他には……」
 はっきりと言われた。
「最大のミスは、お前自身だ」
 花は言葉を失う。何を言われたのかわからなかった。
 森口分隊長が、断言した。
「お前、『死んでもいい』と思ってるだろ」

   

 室堂警備派出所の明かりが見えた時には、精も根も尽き果てていた。
 森口分隊長が無線を手に取った。
「こちら森口だ。救助要請の出ていた望田広一と、道迷いの女性一名を確保。現在、室堂派出所に向けて搬送している。救急の手配を願う」
 途端に警備派出所の明かりが強くなった。まだまだずっと先だからもちろん音は聞こえない。だけど明らかに空気が変わった。ドアが勢いよく開かれた。無線を握った隊員が何か叫んでいる。救助隊に、今、要救二人の命が渡ったのだ。これでもう大丈夫。もう二人は死なない。
 それに――。
 花は、隣の品部に微笑みを見せた。無理やり唇を曲げたから笑顔に見えなかったかもしれない。だけど笑いたかった。大丈夫だよって伝えたかった。
「品部さん」
「は、はい……」
「もう、大丈夫、だから」
 花はその場に頽れた。
「奥村さん? 奥村さん?」
 品部さんが花の肩を揺すっている。花は笑顔のまま揺られるだけだ。もう、一歩だって歩けない。立ち上がれない。
 隊員が何名か、こっちに向かって駆けてきていた。「おーい」という声が聞こえる。
 花は膝を折ったまま目を閉じた。瞼すら鉛みたいに重かった。こんなに疲労したのは生まれてはじめてだ。
 何も考えられない。体は綿。脳みそはスポンジだ。
 ――疲れた。

   ❃

 派出所の中は別世界だった。明かりがある。暖がある。人がいる。
 花は床にへたり込んでいた。できるならこのまま横になりたい。辛うじて上体だけ立てていた。目を開ける元気もない花のところに祭先輩がひょこひょこ近づいてきた。
「花ちゃん、要救を背負って運ぼうとしたんだって?」
「……はい」
「無茶するねえ。重かったでしょ」
 何だか軽い感じにそう言われた。祭先輩が両手のマグカップのうち、右手の方を花に渡してくれた。白い湯気で祭先輩の顔が見えなくなる。
「はい。ココア」
「あ……、どうも」
 マグカップをコチンとぶつける。
「ほい。おつかれさん」
 花はカップを口に運んだ。
「あちっ」
 でも飲みこんだ。甘い。脳みそがしびれる程甘い。舌の細胞を通して甘味が体中に伝わっていく。甘味といっしょに温もりも戻る。指先に血が通う。
「はあぁ」
 液体みたいに重く、長い息がもれた。そんな花を祭先輩が見ている。
「どうだった?」
 聞かれた。花は感じたままを答える。
「重かったです」
「でしょー? ザックの重さとちがうんだよね。雨の日はなおさらさ」
「死ぬかと思いました」
 冗談以外で、こんな言葉を口にしたのは始めてだった。祭先輩が笑いながら言う。
「うん。でも死なないで」
 新堂先輩が奥のテーブルで誰かと話していた。ブルーのウェアを着た若い男性だ。新堂先輩も祭先輩も、まだ山岳警備隊の制服を着たままだった。だから尋ねた。
「あの……、祭先輩たちは、今日……?」
「あー。あのね。ほら、向こうのテーブル。ノブヒデといっしょにいる彼」
 花は男性を注視する。なんだか項垂れているように見えた。新堂先輩が薄く微笑みを浮かべて彼の話を聞いているようだった。
 祭先輩が静かに言った。
「彼がね、上ノ廊下で遺体を見つけたの。その遺体の搬送に丸一日かかっちゃった」
 花は不思議に思う。
「……でも、遺体の搬送が終わったのなら、なんで彼、まだここにいるんですか?」
「なんかね。遺族に会いたいんだってさ」
「遺族に?」
「うん。遺留品から身元がわかったから、今日の昼に遺族に連絡したんだ。そしたらすぐ来るって言うから、今、待ってるの」
「今日、これから遺族が来るんですか」
 夜中だ。日付も変わっている。
「そ。少しでも早く、会いたいんだよ」
 もう一度男性を見た。やっぱり項垂れている。遺体を見つけたのがショックだったのだろうか。
「じゃあ彼は、遺族の到着をずっと待ってるんですか」
「うん。そう」
 シャワーを浴び仮眠を取ってからもう一度詰め所に行くと、窓の外を車のヘッドライトがすうっと通り過ぎるのが見えた。砂を削る音がして車が止まる。夜通し起きていた新堂先輩が椅子から立ってドアに向かった。
 遺族がやって来たのは、もう明け方に近い時間だった。
「三井の妻でございます」
 室内に入り警備隊員と顔を合わせるなり、老女はこれ以上ないほどに深く頭を垂れた。
「本当に、ありがとうございました」
 たぶん八十は過ぎているだろう。かなりの年配だ。
 三井さんがようやく頭を上げ、奥のテーブルの合戸さんのところに向かった。
「あなたが主人を見つけてくださったそうで」
 また頭を下げる。
「ほんとうに、ありがとうございました」
 発見者の合戸さんが椅子から立ち上がった。何だかふらふらしていた。三井さんの前でベタリと膝を床につけた。顔が天井を向いて表情が見えた。泣いていた。花はわけがわからない。
 なんで。発見者の合戸さんが泣いてるの?
「おれ……、感謝される資格なんてないんです。ごめんなさい。すいません。本当に、ごめんなさい」
 何のことだかぜんぜんわからなかった。三井さんが合戸さんを見て、目をパチパチさせている。
 合戸さんが深く項垂れた。
「おれぇ……、どうしても上の廊下を自分の目で見てみたくて……。でも、あとちょっとってところでご主人を見つけて、それで……」
 声になっていなかった。
「おれぇ……、もう死んでるし、いいんじゃないかって思って……。このまま登ったっていいんじゃないかって思って……」
 理解した。
 そういうことか。
 合戸さんは、遺体を見つけても、そのまま沢登りを続けようとしたのだ。
 ぐしゃぐしゃの顔をしていた。
「だけど……、ゴルジュを越えて、そっから振り返った時、思ったんです。おれが山から帰らなかったら、母ちゃんはどう思うかなって。死んだって認めないだろうなって。ずっと探し続けるんだろうなって」
 何年も。
 何十年だって。
「そう思ったら……、もう登れなくて」
 遺体はおそらく、偶然、沢に現れたのだ。もし雨が降って沢の水が増えれば遺体は流されてしまう。そうなったらもうきっと見つからない。ずっと出てこない。
「そしたら母ちゃんはどうするかなって……。心の中でずっと探し続けるんじゃないか、ずっと待ち続けるんじゃないかって思って……」
 祭先輩が合戸さんの肩に手を置いた。
「――彼、わたしたちが到着するまで、ご主人のご遺体の隣にずっといてくれたんです。一日中隣にいて、ずっとご主人にお詫びしていたんだそうです」
 合戸さんが体を起こし、三井さんの手をとった。手をとったまま顔を見上げる。
「おれぇ……、ご主人を見捨てようとしました。本当にごめんなさい。許してください」
 三井さんが目を見開いていた。その目にじわりと涙が浮く。
「ありがとうね」
 そして言った。
「ありがとうね。ほんとうに、ありがとう。これで私も安心できる。ほんに、ありがとうね」
 花はずっと見ていた。
 人を救うって、もしかして、こういうことなんじゃないかと思いながら。

   ❃

「花ちゃん。はいこれ」
 透明な小袋に入った小さなおかしを手渡された。きょとんとして祭先輩を見る。
「馬場島の山開きの日にね、毎年、必ず訪ねて来てくれるご夫妻があるの」
「…………」
「ずっと前にね、息子さんを山で亡くしたご夫妻なんだって。もう、何十年も前のことらしいんだけど、息子さんが冬山で遭難して、ヤマケイが探したけど結局見つからなくて、捜索は打ち切られたの。だけどね、渡部隊長たちが勤務の合間にずっと探し続けて、夏の終わりになってようやく遺体を見つけたんだって。今日のご遺族みたいに」
 先輩が小袋をピリリと破った。中のおまんじゅうを取り出す。
 それを眺めながら言った。
「それからね。毎年尋ねてくれるんだって。このおまんじゅうを持ってさ。だからさ、いただこうよ」
「……はい」
 甘じょっぱい。口の中でほどけていく。なんだかまた涙が出てきた。

 奥の仮眠室に向かおうと思ったら、詰め所の入り口近くに立っていた森口分隊長に呼び止められた。
「奥村、ここへ来い」
「はい」
 花は分隊長の前に立つ。分隊長が花を見降ろしていた。
「奥村」
「はい」
「隊長からの命令だ」
 何を言われるのかわかっていた。
 当然だ。
「お前は、山を下りろ」


「第4話 道迷い-1」へ続く

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※涌井の創作小説です。


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