ヤマケイ ―山の警察—(第6話-5)
(第6話 縦走(冬)-5)
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〈非常です。非常です。五人が遭難しています。救助をお願いします〉
花は室堂警備派出所にいた。空はすでに真っ黒だ。
〈通報者の名は西原夏実。五人のパーティーで剱岳登頂を目指し、一服剱近辺で方向を見失ったとのことだ。通報者以外の四名が雪洞でビバークしている〉
――こんな状況で山に入るなんて……。
気ばかり焦る。二つ玉の低気圧が直撃して山は吹雪の巣だ。気温もマイナス二十度近くになっているはずだ。窓の外は吹き付ける雪で何も見えない。
通報を受けて、すでに新堂先輩と森口分隊長の二人が救助に向かっていた。アルペンルートの閉鎖される冬期であっても登山者は途絶えない。毎年、ご来光登山にやってくる登山者が多くあるから、それに備えて、剱岳近くの早月小屋には山岳警備隊員が順番で詰めている。今日は新堂先輩と森口分隊長が小屋にいた。だから二人が向かっている。救助要請があったのは一服剱付近。別山尾根ルートの途中だ。
花はやきもきしながら新堂先輩と隊長のやり取りを無線で聞いていた。すでに通報から三時間ほど経っている。
新堂先輩が無線の向こうで声を張り上げた。
〈通報者の西原さんと一服剱付近で合流しました〉
ようやく進捗が見られた。通報者と合流した。これで遭難場所がわかる。助けに向かえる。
新堂先輩の声にかぶさるように風の音が響いている。ギイギイとまるで悪魔が喚いているみたいだ。
新堂先輩が叫ぶように言った。
〈森口、新堂両名、これより残り四名の救助に向かいます〉
隊長の問い。
〈四名の遭難場所は?〉
〈おそらくクロユリのコルあたりです。隊長。ヘリは?〉
〈一つ目の低気圧が抜けるところだ。一時的に天候は回復するはずだ〉
〈飛べますか?〉
渡部隊長が言った。
〈すでに、出動要請は出してある〉
二つ玉の低気圧は、台風の目のように一瞬だけ雪がやみ、晴れ間を見せることがある。だが、それは偽物の好天だ。すぐにまた、前よりひどい嵐が確実にやってくる。そういう嘘の青空だ。本来なら絶対に飛ぶべきじゃない。その嘘の晴れ間が何分続くのか、あるいは数時間持つのか、誰にもわからないからだ。その上、天候は絶対に悪化する。百パーセント山は大荒れになる。だけど、飛べるのはその隙間しかないのだ。
答えは決まっていた。
「飛ぶ」
伊波は言い切った。無線機に向かって声を張り上げた。
「疑似好天の間に飛ぶ。隊長、動ける者はいるか」
花だけが動けた。警備派出所で花は無線機を握り締める。
「奥村花、行けます。隊長、わたしに出動命令を出してください」
窓を叩く雪の音がほんのわずかだけ治まった気がした。花は外に出る。ヘリのローターの音が近づいてきたからだ。伊波がやってきたのだ。
ドアを開け、雪を踏み固めて作ったヘリポートに向かい走った。伊波が窓から身を乗り出して叫んでいた。
「乗れ。行くぞ」
「はい!」
ヘリは激しく揺れた。厚い雲に覆われた山々は暗い。しかもそろそろ日が暮れる。
上空から見る山は真っ白だった。剱沢を越え、一服剱を舐めるように降下して、遭難場所と目されるコルを目指す。
猛烈に揺れるヘリから花はホイストで雪原に下降した。要救がビバークしているはずの地点(クロユリのコル東側斜面)に最も近く、ヘリがホバリングできる開けた場所がここしかなかったのだ。
ヘリのプロペラが巻き上げる風で足元の雪がはじけ飛ぶ。まるで爆弾でも投げ込んだみたいだった。白い欠片が円の形に冷たく飛び散って花が降りるための場所を作る。花は白い世界をずっと見つめていた。どこまでも白しかない世界。ここがわたしのいる場所。わたしの挑む世界。
「スリング外します! テンション解放注意してください!」
〈了解〉
花は抉れた雪原に転がった。しゃがんだ姿勢で見る雪原はまるで雪の壁だ。立ち上がって息を飲む。胸まである。この真っ白い壁をピッケルで砕き、踏み固めながら進むのだ。
〈分隊長と新堂は東斜面にいるはずだ。見つけて要救を救出してこい〉
「はい」
〈一時間だ。一時間で戻れ。それ以上は無理だ〉
「はい」
歩き出した。横に倒したピッケルを目の前の白い壁に打ち付ける。砕いた雪を踏んで前へ。一歩ずつ確実に。でも急ぐ。消えかけた命の火を消さないために。
風そのものが白かった。ゴーグルが雪で埋まってすぐに前が見えなくなる。花の吐き出す熱い息は、唇のほんの少し先までを白くして、次の瞬間には白い風に溶けて消えてしまう。雪がギュウギュウ鳴いている。歩け。こんな壁、なんだ。新堂先輩は剱岳でヘリに引きずられて死にかけた。でも生きてるじゃないか。祭先輩は頭から雪崩に飲みこまれた。でも生きてる。森口分隊長は何人も要救を背中に背負って、それでもガハガハ豪快に笑っている。だから、わたしだってできる。わたしにだってきっと、人を助けられる。
普段だったらここから前剱や早月尾根が見える。だけど今は雪で視界を塞がれて、自分がどっちを向いているのかほとんどわからなかった。確実なのは斜面の角度だけだ。足が下に向かうから自分が下っているのだとわかる。それだけだ。風にかき消されないよう、風の呼吸を読んで叫んだ。
「おーい」
残り五十分。返事がない。左手を斜面に触れるようにしながらまた数歩進んだ。斜面を横切るような感じだ。普段ならそれほどの急斜面じゃないはずなのに、降り積もった雪のせいで斜面が厚みを増して左側全部が雪の壁みたいになっている。足の下に何があるのかわからない。雪がないクロユリのコルはガレ場だ。尖った岩が地面にむき出している場所なのだ。足を滑らせて滑落でもしたら何にぶつかるかわからない。アイゼンの爪を強く意識して進む。雪を踏むんじゃなく爪先を刺すイメージで。自分の体重が確実に移動しているのを確かめながら進む。「おーい」
叫んだ口に、強風で吹き飛んだ雪の塊が飛び込んできた。花は口を閉じて反射的に首を曲げ、雪の塊をベッと吐き出した。一瞬だけ雪の上に穴が開き、その穴が次の瞬間新しい雪で覆い隠される。残り四十分。
「おおーい」
怖くて振り返れない。目印になるものが何もない。雪の上で道を示すのは自分の足跡だけだ。花はさらに強く雪を踏み固める。道を作る。だってわたしの役目は、分隊長と新堂先輩と合流して、要救助者を連れて、もう一度ヘリまで戻ることなのだ。戻るためには道がいる。花のトレースが彼らの命をつなぐのだ。
道を――、つくるんだ。
また数歩進んだ。くり返し叫ぶ。
「おおーい」
その瞬間、花の左側の雪の壁がバツンとはじけ飛んだ。花の顔の前にヌッと太いものが伸びてきた。紺色の何かだ。花は驚いて目を見開く。伸びてきた何かがグッと曲がって花の腕をつかんだ。人間の腕だ。
腕に引っ張られるようにして、雪の斜面が崩れ落ちた。そこから紺色のウェアが現れる。まるでサツマイモを引き抜くみたいだった。紺色の塊が言う。
「花ちゃんか」
声を聞いてわかった。新堂先輩だ。ゴーグルの下の口が開いて白い息を吐き出した。
「新堂、先輩」
「奥村かぁ」
森口分隊長の声も聞こえた。少し先の斜面が砕けてそこからヌッと体を引き出した。「ここだぁ」
思わず立ち尽くしそうになった。ゴーグルの内側で湧き出した涙が一瞬で凍りついた。口の中で呟く。
見つけた――。良かった。
「モグさん、要救は?」
新堂先輩が大声で言った。「ぼくの方の三人は大丈夫。生きてる」
「こっちはだめだ。二人とも死んだ」
森口分隊長がやっぱり大声で答えた。「持たなかった」
森口分隊長が自分の左肩を右手で押さえていた。
「分隊長、左肩……?」
「あ? ああ。しくじった。折れたがまだ歩ける。大丈夫だ」
新堂先輩の掘った雪洞から、要救の女性が一人、顔を出してこっちを見ていた。その女性がヒクリと頬を震わせる。言った。
「良くんと典ちゃんが死んだ……?」
森口分隊長が、自分の体を楯にして雪洞に覆い被さるようにして言った。
「そうだぁ」
「死んじゃったの……?」
「そうだぁ。すまんが、あきらめろ」
女性が森口分隊長を弾き飛ばす勢いで雪洞を飛び出した。すぐ隣のもう一つの洞に顔を突っ込む。森口分隊長が右手一本で女性を雪洞から引きはがした。そのままその腕でがっしり抱きしめて動けないようにする。
新堂先輩が無線に報告していた。
「要救五名のうち二名が死亡。生存者は西原夏実、藤岡富士夫、伊豆あかりの三名です」
女性が何か叫んでいる。ああああああって聞こえる。言葉になっていない。
「これから奥村隊員の残したトレースを辿ってピックアップポイントに戻ります」
森口分隊長に押さえられている女性が通報者の西原夏実さん。花は雪洞を覗き込んだ。雪洞の中に居るのは二名。一人は男性、藤岡富士夫さん二十六歳。一人は女性、伊豆あかりさん同じく二十六歳。藤岡さんの方は辛うじて歩けそうだ。でもあかりさんは――。
いまにも霜が降りそうなくらいに真っ白い顔をしている。
「し……、新堂先輩」
「なに。花ちゃん」
聞こえないように新堂先輩に顔を寄せた。
「彼女……」
「うん。低体温症だ」
「…………」
「わかってる。“つるぎ”のピックアップまであと二十分だ。急ごう」
新堂先輩が森口分隊長の耳元で叫んだ。
「モグさん。自力で歩ける? 足の具合は?」
森口分隊長が足元に目をやった。左肩の骨折だけじゃないのだ。
「ああ。なんとか歩ける。雪原までならもつだろ」
新堂先輩が顔を上げた。強い目をしていた。
「ぼくが藤岡さんを背負う。花ちゃんは森口分隊長のサポートを頼む。西原さんはぼくらについてきてくれ」
「え」
詰まった声が出た。藤岡さんと西原さん。要救は三名だ。あと一人は……?
「あの、先輩……」
「行くよ。花ちゃん」
「あ……、え?」
「行くよ」
新堂先輩の目は揺らがなかった。あかりさんを置いていくのだ。他のみんなが生きるために、あかりさんを見捨てるのだ。
新堂先輩が藤岡さんを背中に載せた。藤岡さんが押しつぶされたカエルみたいに肺を潰しながら声を吐き出す。
「い……、いやだ……!」
藤岡さんが、カサカサに乾ききった唇を割って、カエルの声で訴えていた。
「いやだ。助けて。あかりを……、助けてぇ」
子供みたいに喚いていた。目尻に湧き出した涙が氷になって散る。
「行くよ。花ちゃん、早く!」
藤岡さんが花を見た。すごい顔だった。こんな顔今までに見たことがない。あらゆる感情をごった煮にしたみたいな顔だった。
花の全身がしびれる。
「いやだ……。お願いだから、助けて」
助けを求める目。生きたいと、生かしたいと願う目。お父さんの目だと思った。この目を二度と見ずに済むように、花は山岳警備隊を選んだのだ。
新堂先輩が短く言った。
「花ちゃん。彼の話を聞くな。受け止めるな」
「で……、でも……」
「聞くな。聞いたら花ちゃんも死ぬ。全員死ぬ」
「わたし……」
野太い声が空気を破った。
「命令だ。奥村」
森口分隊長だった。花の目を見て、分隊長が怒りの顔でそう言った。
「命令だ。彼女を見捨てろ」
花は身を震わす。森口分隊長は、この一言ですべてを背負った。命を背負う決断ができない花のために、すべてを背負ってそれを自分の言葉にした。
命の器を、つなぐために。
花は震えたまま答える。喉が震えた。
「はい」
※涌井の創作小説です。
