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ヤマケイ ―山の警察—(第6話-6)

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(第6話 縦走(冬)-6)


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 伊波には道が見える。いままで散々、立山の空を飛んできたからだ。
 最初はそんなもの見えなかった。最初はただただ青い空でしかなかった。だけどだんだん、その青の中に、真っ白い道が見えるようになってきた。
 伊波は見える道に沿って空を飛ぶ。それは、かつてその空路を飛んだことがあるからだ。そこに道があると知っているからだ。
 だけど、今日は空に道が見えない。横殴りの雪で白く染まった、ただの一枚の壁だ。
 ――道がない。
 はじめて何かをやったやつは、道を作ったやつだ。
 はじめてフグを食ったやつ。はじめて納豆食ったやつ。はじめて望遠鏡で空を見たやつ。人間の力で空を飛ぼうとしたやつ。人跡未踏の山の頂上に、はじめてその足で立ったやつ。みんな同じだ。みんな、いろんな山に登っている。
 空だって山だ。
 おれはクライマーだ。だから、初めての山に挑むんだ。
 伊波は新しい道を作る。スロットルを深く倒した。
 おれの山に登るんだ。

 つるぎが空を割って降りてきた。雲を粉々に引きちぎり、雪を千々に吹き飛ばして。
「奥村ぁ、新堂ぉ!」
 伊波さんの声がした。「早くしろぉ!」
 新堂先輩が背中に藤岡さんを乗せたまま、ヘリに向かって大きく手を振っていた。ここにスリングを降ろせと言っているのだ。ヘリがガクンガクン揺れている。横殴りの風に横っ面をバシバシ引っぱたかれているみたいだ。
「よし。まずは藤岡さんを収容する。次はモグさんだ。いいね」
 花は森口分隊長を支えたまま強く肯く。新堂先輩が続けて言った。
「その後に西原さんを収容する。花ちゃんはサポートを。ぼくが三人を支える」
 その瞬間に気が付いた。
「新堂先輩!」
 花は叫んだ。
「夏実さんがいません!」
「何!?」
 夏実が姿を消していた。途中までは確かについてきていた。ヘリのダウンバーストで雪が舞いあがり、視界を奪われている間にいなくなっていた。
「なんで!?」
 花の叫びをかき消すようにして伊波が叫んだ。
「急げ! 時間ねえぞ! ホイストつなげぇ!」
 ヘリからホイストが降りてくる。迷っている暇などなかった。今ここにある命を救うよりないのだ。新堂先輩がホイストをつかんで藤岡さんをロープにつかまらせた。藤岡さんごと抱くようにして新堂先輩がその上に覆い被さる。
「伊波さん! 上げて!」
 ホイストが上がっていく。新堂先輩が地上から離れていく。花は血が出る程強く唇を噛んでいた。怒りにも似た感情だった。なんで自分がこんなに怒っているのかわからない。花だって同じことをしたいと思った。だけど本当にそれをされたら、わたしはこれほどに怒るのだ。身勝手すぎる。死ぬのは自分だから自分の判断で動いていいとか、そんなことはない。生きられるのに死ぬのは、それ自体が罪だ。
「次だ! モグさん、スリングにつかまって!」
 ヘリに藤岡さんを収容して、新堂先輩が下りてきた。森口分隊長が新堂先輩の手をつかむ。新堂先輩が叫んでいる。「早く!」
 再びホイストが上がっていく。それを花は見ていた。ヘリはガクンガクン揺れている。二つ目の低気圧はすでに立山上空を覆い始めているのだろう。だからもうヘリは飛べない。これは最後のチャンスだ。これを逃したらもうこの山から出られない。ヘリには伊波さんと藤岡さん、それにヘリに繋がるスリングに森口分隊長と新堂先輩がつかまっている。山には誰がいる。わたしだ。わたししかいない。
 夏実さんは生きている。
 そしてここには、わたししかいない。
 上空にいる新堂先輩に向かって花は言った。
「新堂先輩」
 新堂先輩が花を見下ろした。花の決意の目を見ていた。
「頼みます」
 花がそう言った時、猛烈な風が吹いた。あたりの雪が何メートルも舞い上がり、上空のヘリまで白く包んだ。視界を完全に覆った雪が再び舞い落ちた時、花はもう歩き出していた。ヘリに背を向けて歩く。振り返りたくなかった。迷いもなかった。
 行くのだ。
 彼女たちのところへ。

   ❃

「伊波さん、ぼくを降ろしてくれ。花ちゃんのところに行かせてくれ」
 新堂は我を忘れて叫んでいた。自分がこんなふうに取り乱すなんて予想もしていなかった。
 操縦桿を握ったまま、伊波が短く答える。
「だめだ。戻れねえよ。今戻ったらダウンする。要救もお前も分隊長もみんな死ぬ」
「ぼくだけ降ろしてくれればいい。伊波さんとモグさんは要救を連れてこのまま病院に」
「お前少し頭冷やせ」
 新堂は口をつぐむ。
「自己責任って言葉の意味、知ってっか? ありゃあな、自業自得とはちがうんだ」
「伊波さん、何を……?」
「自己責任ってのは、てめえで背負える責任までなら自由に行動していいってこった。お前がいま山に戻って、山で死ぬのは自己責任か? ちがうだろ」
 何も言えない。
「お前には背負えない責任だろうが。お前が死んで悲しむのはお前じゃねえんだ」
「…………」
「できることをするしかねえだろ。やれることを探すしかねーんだよ」
「…………」
 新堂は震える。
 何ができる。
 この猛吹雪の山の中に取り残された三人を、どうやったら救えるんだ。

   ❃

 白い風が吹き抜けた時、母さんの声が聞こえたような気がした。
「花はどうしたいの?」
 花は答えた。やっと迷いなく言えた。
「助けたい」
 だから決めた。戻ることに決めた。吹き荒ぶ雪の中を行く。生きるために。生かすために。あの雪洞へ。彼女たちのいる場所へ。
「夏実さん!」
 二人は、まるで一つのオブジェのようになっていた。夏実さんがあかりさんを抱いている。ピクリとも動かない。きつく目を閉じている。吐き出す息だけが動いていた。彼女たちの顔のまわりだけが途切れ途切れに白くなっていた。
 彼女たちはそこに生きていた。
 花は夏実に近づいた。そしてそのまま、夏実の頬を思い切り引っぱたいた。
「バカ!」
 力の限りに叫んでいた。
「何いっしょに死のうとしてんの!? いっしょに死んでどうすんの!?」
 夏実がゆるゆると瞼を上げた。花を見ている。鬼気迫る顔の花を見ている。
「あかりさんは、あなたがいっしょに死ぬのを喜ぶの? 藤岡さんは、あなたに彼女といっしょに死んでほしいって願うの?」
 夏実がふるふると首を横に振った。叱られている子どもみたいだった。
 もう一度叫んだ。
「わかってるんじゃないか! だったら何で! なぜ戻った!」
 わたしと同じだ。わたしは父を救えなくて、救えなかったのが悔しすぎて、代わりになる何かを求めて生きてきた。自分なんてどうでもいいんだってずっと思ってきた。だから救助の道を選んだんだ。どうせ価値のない自分の命なら、価値がある誰かのために使いたいと思ったから。父を救えなかった償いのための人生だと思っていたから。
「死んでもいいとか、思うなあぁ!」
 涙がこぼれた。ボロボロ、真珠みたいな大粒の涙がこぼれた。声を割って叫んだ。
「そんな悲しい生き方、すんなあ!」
 だけどちがったんだ。だってわたしは、いま夏実さんを叱った。
 許せなかったんだ。いっしょに生きるんじゃなく、ともに死のうとする人を。
 許せなかったんだ。
 今までの自分を。

 泥の中沈みながら、花に向かって手を伸ばす父の目が思い出された。
 あの時、父さんは目を見開いていた。口を動かしていた。濁流で聞こえなかったけど、確かに何かを言っていた。大きく口を三度動かした。わたしはずっと、それを「助けて」だと思っていた。だからずっと苦しんでいた。だってわたしは流される父さんを助けられなかったんだから。
 だけどね父さん。わたし今、やっとわかったよ。
 父さんは「助けて」って叫んだんじゃない。「助ける」って言ったんだ。
 ごめんね父さん。わたし、父さんに謝らなきゃ。
 ずっと勘違いしていてごめんなさい。
 父さんはあの時、助けを求めて手を伸ばしたんじゃなかった。
 父さんは、わたしを助けようとしてたんだ。
 わたしの命を救うために、父さんは手を伸ばしたんだ。
 父さんのあの手は希望の手。
 救おうと、生きようと必死に手を伸ばした希望の手だったんだ。

「行くよ。ここにいたら死んじゃう」
「あ……、あかりちゃんを」
「わたし一人じゃ運べない。だからそれはできない」
「じゃ、じゃあ、私も」
「私も……?」
「私もいっしょに、あかりちゃんを運びます」
 花は夏実の目を見た。突き刺すように、心の底を見据えて夏実の目を見つめた。
 怒りを含んで尋ねる。
「何のために?」
 夏実が答えた。
「い……、生かすために」
 父さん。
 花は思う。
 わたしはこの人を救うよ。救うために手を伸ばして、いっしょに生きようとしぶとく喘ぐよ。みっともなくても、汚くても、必死に生きるよ。
 だから見てて、父さん。
 父さんがしようとしていたことをわたしはするから。
「わかった。夏実さん。あかりさんを救おう。助けよう」
「は……、はい!」
 花は志す。
 助けて、帰る。
 わたしは、救助をするんだ。


(「第6話 縦走(冬)-7」へ続く)

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※涌井の創作小説です。


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