ヤマケイ ―山の警察—(第6話-7)
(第6話 縦走(冬)-7)
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「歩いて山を下りるよ」
崩れかけた雪洞の中で花はそう言った。本当なら、雪洞を作り直してここで何日でも粘るべきだとわかっている。だけどそれでは間に合わないのだ。伊豆あかりは、きっとあと数時間しか持たない。
地図を広げた。ヘッドランプの明かりでそれを照らす。
「いい? いま、わたしたちがいるのはクロユリのコル東斜面の登山道から約二十メートルほど下ったところ。ここからまずは稜線上に上がる」
「はい」
「稜線上に出たら、一服剱を目指して進む。そこから佐倉山荘に向かい、小屋に入ってそこで救助を待つ。あそこなら食料も燃料もある。あかりさんを温められる」
「はい」
「じゃあ行くよ」
「はい」
雪洞の入り口に降り積もった雪を砕いた。伊豆あかりを背に載せて猛吹雪の外の世界にずいと一歩を踏み出した。
体育の時間に使う巨大なマットを勢いよくぶつけられたみたいだった。全身にドンという衝撃が走る。体の芯が揺れた。左足に重心がかかって雪に足が埋まる。奥歯を噛みしめて踏み止まった。倒れられない。倒れたらもう立ち上がれない。だから歩く。前を。前だけを見ろ。
「夏実さん、支えて!」
「はい!」
背中から夏実があかりを押す。それでようやく足が前に出た。ピッケルで雪を砕く。
ハア
雪を踏み固める。
ハア
足を踏み出す。背中の肉が軋む。
ハア
折れるな。歩け、わたし。
進め。
背中で二人が息をしている。
だから生きるんだ。
「夏実さん。無線機をお願い」
夏実が花のハーネスから無線機を取った。それを花の口元に近づける。
叫んだ。
「奥村です。現在、一服剱側の尾根沿いにいます。要救二名、西原夏実さん、伊豆あかりさんといっしょです」
ほとんど間を置かずに隊長の声が返ってきた。
〈こちら本部渡部だ。奥村、なぜ戻った〉
花は怯まずに答えた。
「要救を救うためです」
〈なぜ雪洞で天候の回復を待たなかった〉
「伊豆さんには時間がないからです」
隊長が言った。
〈なぜ、見捨てなかった〉
花は答えた。
「いっしょに生きるためです」
隊長の返事は待たなかった。続けて言う。
「佐倉山荘を目指します。ヘリ、飛べますか」
隊長は淡々と事実を伝えた。
〈ヘリは飛べん〉
「では、佐倉山荘まで増援をお願いします。伊豆さんは重度の低体温症で時間がないんです。お願いします」
〈奥村、佐倉山荘は――〉
その瞬間、猛烈な横殴りの風が吹き抜けた。夏実が「きゃあ」と悲鳴を上げた。夏実の手の中の無線機が吹っ飛ばされた。黒い塊が空に舞い上がって次の瞬間には見えなくなる。花もバランスを崩した。同時に足首に鋭い痛みが走った。「クッ」と声を上げる。
「奥村さん! 無線機が!」
吹雪の向こうに消えた無線機を追って、夏実が走り出そうとしていた。花は叫ぶ。
「ダメ! 行っちゃダメ!」
「でも……!」
「稜線を見失ったら戻れなくなる!」
視界はほとんどゼロなのだ。無線機を追って稜線から目を離せばその瞬間に自分がどこにいるのかわからなくなる。そうなればもうここへは戻れない。無線機はあきらめるよりなかった。今はただ、佐倉山荘を目指して歩くのだ。
「奥村さん、足」
夏実に言われた。花はゴーグルの下で額に汗を浮かべる。汗が凍りついて顔を引っ張る。
「うん……。ひねったみたい」
「あ……、歩けますか」
「歩く。歩くよ」
痛みなど気にしていられなかった。歩みを止めるわけにはいかない。夏実の目が、「大丈夫なのか」と問うていた。花はヤマケイだ。要救助者のこの目に応えねばならない。
言え。わたし。嘘でもいい。
「大丈夫」
微笑んだ。これはわたしの決意。ヤマケイとしての矜持。
「わたしたちは、山に負けない。絶対、助ける」
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芦峅寺の人間と富山県警山岳警備隊の歴史は密接に絡み合っている。
芦峅寺の岳人たちは、いわば山岳警備隊の山登りの師匠だ。発足間もない山岳警備隊に山のイロハを教え、岩登りの技術を仕込んだ。今も芦峅寺の人間は山岳ガイドとして山荘を経営したり、宿坊を営んだりしている。遭対協は、このガイドたちが中心となって構成されている救助組織だ。救助活動の時には、遭対協と山岳警備隊が密に連絡を取りながら協働する。そういう間柄だ。
〈花ちゃんが、いま、山におるんか〉
佐倉山荘の佐倉長次郎が上擦った声を上げた。
「はい。要救二名といっしょに吹雪の中を歩いています。長次郎さん、お願いが」
〈…………〉
「ぼくはこれから陸路で救助に向かいます。でも外は完全にホワイトアウトしていてほとんど何も見えない。ガイドが必要なんです。佐倉山荘までの道のりを知り尽くしている人間がどうしても必要なんです」
長次郎さんが黙った。しばらくしてから静かな声で言う。
〈外は吹雪いちょうぞ〉
「はい」
〈夜ぞ〉
「はい」
〈わしには家族がおる。今もいっしょに飯を食うとる。息子夫婦に孫も三人おる〉
「はい」
〈新堂くんは、そのわしに何を頼もうとしちょる〉
喉がひりつく。自分が何を言っているのか新堂だってわかっている。いっしょに死んでくれと言っているようなものだ。無茶をした隊員を救うために、命を賭して山に入ってくれと頼んでいるのだ。どれだけ不遜か。どれだけ横暴かわかっている。
でも言うのだ。
「あなたに、ぼくのガイドをしてほしい」
長次郎さんが黙った。新堂の額から汗が一滴伝い落ちた。電話を持つ手が震える。次の一声、それを待つ時間が永遠に感じる。
〈よう言うた〉
長次郎さんが言った。
〈一時間くれ。一時間後に室堂派出所で落ち合おう〉
新堂は今にも受話器を取り落しそうになっていた。信じられない思いだった。
電話を切る前に、長次郎さんが言った。さばさばした声で、まるで当たり前のことのように言ってくれた。
〈遭対協とヤマケイはの、家族ちゃ〉
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そこには何もなかった。
花は背中にあかりを乗せたまま立ち尽くしていた。
ありえなかった。だってここで何度もそばを食べたのだ。夏にはアイスクリームだって食べた。祭先輩と笑った。長次郎さんといろいろ話した。それらぜんぶが夢だったのではないかと思えてきた。雷鳥沢の稜線を下って、左手に別山、真砂岳を臨む山荘、佐倉山荘がどこにもない。
白い野原が広がっている。
「なんで……」
腰が砕けそうになった。場所に間違いはないはずだ。だって、稜線上を歩いてきたのだ。一本道だ。なのに何もない。花と夏実とあかり、三人の命を救うための小屋がここにあるはずなのに、それがない。
膝をついた。
「奥村さん……」
夏実がゆるゆると腕を伸ばして数メートル先の雪面を指差した。花は呆然としたまま夏実の指を追った。そこに赤い棒を見つけた。真っ白い雪原に数十メートルに渡って赤く細長い棒が倒れていた。何だろうと思う。そして次の瞬間に理解した。
理解したくなかった。
屋根の、棟板だ。佐倉山荘が、まるまる雪の中に埋まっているのだ。
叫びたかった。何と無力なのだろう。何てちっぽけなんだろう。三日ほど前まで佐倉山荘は確かにここにあった。それがこの吹雪で埋まってしまったのだ。積雪量は三メートルを超えている。とても掘り返せない。掘っているうちに凍えてしまう。つまりもう、ここにいても花たちは助からないのだ。別の策を講じねばならないのだ。
佐倉山荘がこの状態なら、剣山荘も剣御前小舎も似たような状況だろう。吹雪は止まない。背中の要救の呼吸はどんどん弱くなっている。選択肢なんてない。
「夏実さん」
決断するよりなかった。たとえそれが無謀だとしても。
別山乗越を越え、雷鳥沢を抜けて、
「室堂まで、歩こう」
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「その先は急坂になっちょる。あの岩を巻いて進むちゃ」
「はい」
長次郎さんと顔をくっつけるようにして進んでいく。二人の吐き出す白い息が重なる距離だ。そうしないと互いの声が聞こえない。声まで風に飛ばされてしまう。
長次郎さんが一言一言区切るように言った。
「新堂くん」
「はい」
「助けたいか」
「はい」
歩く。一面白に塗りつぶされたこの世界で、道を示すのは記憶だけだ。何百回、何千回とこの道を通ってきた長次郎さんの足の記憶。それだけが頼りだ。一歩ずつ進む。
長次郎さんが言った。
「わしも、山で命を、失いとうない」
(「第6話 縦走(冬)-8」へ続く)
※涌井の創作小説です。
