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ヤマケイ ―山の警察—(第6話-8)

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(第6話 縦走(冬)-8)


   ❃

 体が持ち上がりそうだった。ゴーグルをしているのに目を開けているのが辛い。ゴーグルのはしっこはすでに凍っていた。ひどく視界が狭い。それがゴーグルのせいなのか、自分の疲労のせいなのかわからない。生きている実感がない。
「な、夏実さん。大丈夫……?」
「…………」
「夏実さん」
「……ふぁ、ふぁい」
 舌がもつれてきていた。すでに五時間近く吹きさらしの雪原にいるのだ。限界だ。もはや気力すら残っていなかった。凍る。脳みそが凍る。ほとんど何も考えられない。歩いているのは惰性に近かった。時折夏実を振り返る時も、自分がまるでそういうふうにプログラミングされているようにしか感じなかった。確かめ、声をかけ、また歩く。それだけ。どっちに向かっているのかもうわからない。生きているのは動き続けている足だけだ。生きるために歩いていたのに、いつの間にか、歩くことが生きることになっていた。
 どっち……。
 右も左も真っ白だ。わからない。
 どうすれば……。
 行くことも引くこともできない。何もできない。
 空を仰ぐよりなかった。
 終わったのだ。

 その時、花は目を疑った。
 ホワイトアウトした真っ白の空。その空の一部が赤く染まっていた。赤い部分は風に流されあっという間に消えていく。だけど赤には尻尾があった。大きく左に流されながら、それでも尻尾は途切れずにつながっていた。花はそれを目で追う。白い空から白い雪原へ、その赤い尻尾は伸びていた。尻尾の先端が左右に揺れている。空と雪の境目、一本の平行線にしか見えない雪原に、小さな黒いものが揺れていた。それがだんだん大きくなる。白い風の中、赤い煙を発しながら、小さな人型のものが右手を大きく振っていた。発煙筒だ。ここだって言ってる。ここに来いって言ってる。
 花はぎゅっと唇を噛んだ。何だかわからない奇妙な昂揚感だった。こんなに体は冷え切っているのに、湧き出す涙が温かいのが信じられなかった。涙を飲みこんで、大きく目を開いた。
「夏実さん」
 夏実の背中をバンと叩いた。夏実も赤い煙を見る。目に光が戻った。あれは希望。
 あれはきっと、父さんの、手。
 二人同時に喉を開いた。肺の中全部の空気を吐き出して、全力で叫んだ。
「おおーい」
 わたしたちは、ここに生きています。

   ❃

「花ちゃん!」
 発煙筒を振っていたのは新堂先輩だった。白い空気を引きちぎりながら新堂先輩が花たちのところに近づいてくる。顔中を凍らせていた。凍ったまま口をひん曲げて叫んでいた。たぶん花も同じ顔をしていた。生きられる。夏実さんもあかりさんも生きてる。この世界にまだ、わたしたちは存在できる。
 新堂先輩の胸に倒れ込んだ。長次郎さんが花の背中からあかりさんを降ろし、ガシリと抱きかかえた。夏実さんがその場にくずおれた。声にならない泣き声が出てきた。わけのわからない涙だった。
「花ちゃん。よく歩いた」
 新堂先輩が花の背中を撫でてくれる。子供に返って何度も肯いた。
「うん」
「よく生きたね」
「うん」
 鼻を啜って顔を上げた。新堂先輩と長次郎さんが目を細めて花たちを見ている。不思議だった。だから尋ねた。
「でも……、長次郎さんと新堂先輩の二人だけで、どうやってここまで……」
 風が吹いた。白く突き刺す風じゃなかった。霧を払うような乾いた風。花は何度か目をしばたたいた。目にしたものが信じられなかったからだ。
「え……」
 視界が開けていた。別山乗越に繋がる稜線。そこに光が連なっていた。ずっとずっとつながっている。どこまでもずっと、真っ黒と真っ白の世界の中に、黄色い光が幾百、幾千と連なって、稜線に光の道を作っていた。
「なに……、これ」
 そこにあったのは、人の作った道だった。
 長次郎さんの後ろに佐倉山荘の従業員さんが立っていた。そこからまたロープが繋がって、数メートル離れたところにまた別の人がいる。それがずっと続いている。黄色い光はヘッドランプだ。幾百、幾千の光は人間だ。信じられないほど大勢の人たちが、互いに互いをロープで結んで、一本の道を作り上げていたのだ。それがずっと続く。どこまでも、迷わぬように。無事に帰れるように。帰るための道を、花たちに伝えるために。
 新堂先輩が言った。
「長次郎さんが、みんなに声をかけてくれたんだ」
 花は光の道から目が離せずにいた。
「こうすれば絶対に迷わない。花ちゃんを助けられるって」
 ガスが晴れていく。お山が姿を現した。お山の稜線に並んだ人々。一つになった人々。大きな山。そこに生きる人々。ここがわたしたちの世界。
 この世界は――
 きれいだ。
 思わずつぶやいていた。こんなに美しいもの、見たことがなかった。
 新堂先輩が、無線に向かって言っていた。
「西原夏実、伊豆あかり、両名生存です」
 花の肩に手を置いた。花は顔を上げる。
「花ちゃん」
 いつの間にか泣いていた。知らず涙がこぼれていた。三歳児みたいに新堂先輩を見上げた。生きてるってすごい。泣けるし笑えるし喜べるんだ。こうして人に会えるんだ。
 わたし、やっと人を救えたよ。
 お父さん。
 新堂先輩が花に言った。
「よくやった」


(「最終話 山の警察-1」へ続く)

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※涌井の創作小説です。


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