ヤマケイ ―山の警察—(最終話-1)
(最終話 山の警察-1)
1
〈助けてください。友人が落ちちゃって、死にそうなんです〉
新堂信秀は室堂警備派出所に詰めていた。携帯電話で第一報が入ったのはすでに夕刻だ。
〈私たち、阿曽原温泉小屋に向かってて……。倫子が歩道から落ちちゃって……〉
「何名のパーティーですか? あなたと転落した友人のフルネームは?」
書き留めて次の質問をする。通報者を慌てさせないように。けど、情報は逃さないように。
無線機をつかみ取った。
「遭難者の名前は矢木倫子、二十七歳。黒部川下ノ廊下、志合谷の隧道前の歩道から転落した模様。三人パーティーのうち一名が崖を降り、転落者とともにいるとのことです」
隊長の声。
〈怪我の程度は?〉
「不明ですが、意思疎通はできないそうです」
〈すでに日が落ちた。ヘリは出せん〉
「はい」
新堂は無線機にはっきりと告げた。
「すでに奥村隊員が向かっています」
❃
花は走っていた。
志合谷だ。志合谷のある黒部川下ノ廊下まで、普通なら日中であっても半日はかかる。まして今は夕暮れ時。夜になればもう動けない。
無線が鳴った。
〈花ちゃん。トラックを出してもらえることになった。それに乗れ〉
「え?」
聞き間違いかと思った。「トラックですか? でも、ヤマケイにトラックなんてないじゃないですか」
〈立山黒部貫光のトラックだ。大観峰まで花ちゃんを運んでくれる。そこでロープウェーに乗り継げ〉
信じられなかった。立山黒部貫光は立山黒部アルペンルートを管轄している民間の会社だ。民間企業なんだからお金なんて出ない。運転手さんだって普通の会社員のはずだ。なのに。
「でも……、ロープウェーはもう営業時間が」
〈臨時便を出してもらう〉
暗闇を引き裂くようにして、トラックのヘッドライトが近づいてきた。花はごくりと唾を飲みこんだ。一つの報を受けて、みんな同時に動いている。一つの想いで、みんながつながっている。
辛うじて答えた。
「はい。奥村、志合谷に向かいます」
黒部平の駅からケーブルカーに乗り継いだ。いつもなら大勢の人で溢れているケーブルカー乗り場に誰もいない。明かりだけが煌々と灯る静かすぎるホームを走り抜けた。
「山岳警備隊の奥村です」
改札に私服姿の男性が立っていた。
「乗ってください。発車します」
黒部湖駅に着いたら、そこにはすでにジープがアイドリング状態で停まっていた。ジープのドアのところに社名のロゴが見えた。黒部ダムを運営している関西電力の社用車だ。
運転席のドアが開いて叫ばれた。
「ヤマケイ?」
「はい」
「乗って。黒部トンネルで黒四まで行く」
「はい」
十キロ以上の地下道をジープで走り抜けた。ここからはインクラインと呼ばれる関西電力の荷物搬送用の軌道装置(労働者や荷物を運ぶための装置)に乗って黒部第四発電所に向かう。すべて地下だ。乗っているのは花だけだ。次は上部専用鉄道というオレンジ色をしたトロッコ列車。誰もいない座席に座っていて涙が出る。何と尊いのか。
みんな同じ想いなのだ。人を救いたいのだ。
そのため。そのためだけに。
できることをすべてするのだ。
❃
志合谷でトロッコを降り、地上に出てヘッドランプの明かりを頼りに水平歩道に向かった。そこで遭対協のメンバー三人と合流した。みんな、近くの山小屋の従業員だ。崖を降りて負傷者をストレッチャーに乗せ、ロープを引いて引き上げようとしているところだった。
「山岳警備隊、奥村です。要救の状態は?」
「まずいね。全身打ってるしたぶん頭蓋も骨折してる。骨盤も折れてると思う。ヘリは?」
「飛べません。だけど、陸路で運べます。要救を運ぶルートをみなさんが用意してくれました」
「みなさん?」
「ええ」
「奥村さん?」
「みなさんが……」
二時間だ。本当なら半日かかるはずなのにたったの二時間で着いた。みんながルートを作ってくれたからだ。一人の人間の命を救うために、何十、何百の人間が、夜を徹して、莫大なお金を費やして動き続けてくれたからだ。ここにもこうして人がいる。夜の山奥なのに。本当なら家族で団らんしたりお酒を飲んだりしているはずの時間なのに。なのにみんなここにいて人を助けている。
たった一人のために。
「奥村さん。ロープ、確保頼みます」
「はい」
花はロープを受け取った。重くてとても熱いロープ。
このロープの先には、ここにいるみんなが救いたいと願う、命がある。
❃
室堂警備派出所に戻ったのは明け方だった。でも戻れただけありがたい。本当にありがたい。だって戻れたから寝られる。あったかいご飯が食べられる。町に居る時はそんなのあたりまえだって思っていたけど、いまになってみるとその二つが幸せにとってかなり大きなファクターを占めていることに気がついた。これに気づけただけでもヤマケイに入った意味があるかも。
「奥村、戻りましたぁああ」
魂を吐き出しながらそう言ったら、キッチンから新堂先輩の声が聞こえてきた。
「おー、花ちゃん、ご苦労様。つい今しがた連絡が入ったよ。彼女、命を取り留めたってさ」
聞いて腰が砕けそうになった。何度も経験しているのにこの瞬間だけは慣れない。この、一気に気が抜ける感じ。パンパンに膨らんだ風船に針を突き刺したみたいな感じ。腰に力が入らない。そして、張りつめていた気力がほどけて散って、花の空っぽの胃袋にもようやく神経が届いた。スイッチが入ったみたいにぐううううと腹が鳴る。
「新堂先輩……。お腹が」
「ん。ちゃんと花ちゃんの分残してあるよ」
「今日の晩御飯なんですか」
正確には昨日のだけど。新堂先輩はまだ姿を見せない。笑い声だけ聞こえる。
「カレー」
「またあ?」
「しかたないだろ。ぼくがまともに作れるの、それだけなんだから」
「ええー……」
ぶつくさ言いながらテーブルに着いた。ラップがかぶさったカレーの皿。あっためなきゃと思って皿に触れてみたら思いのほかアツアツだった。新堂先輩、もしかしてわたしの帰任に合わせて温め直してくれたのかなと思う。ちょっとありがたいなと思う。
食べてみた。
あれ……?
ほんのりと甘い。一、二度噛んでみた。そしたら今度は微かな苦み。何というか、味に奥行きがある。舌が元気になる。カレールーを纏ったお米が喜んでる。スプーンに勢いがつく。もう一口。うん。ゴクリ。もう一口。うん。うん。ゴクリ。飲みこむのがもどかしい。なんだコレ。掻き込みたいぞ。喉に一気に流し込みたい。なんだコレ。食べるとお腹が減っていく。モリモリ食べたい。口が幸せになって、だんだん体が幸せになってく。この味。この感覚。
涙がぽろぽろ落ちてきた。
キッチンから聞こえた。
「はーなーちゃーん」
顔見る前に泣いていた。スプーンくわえたまま泣くなんて恥ずかしいけど抑えられない。いくらでも出てくる。泣いたっていいや。これは嫌な涙じゃないからいいや。うれしい涙なんだから許してもらおう。やっと言える。名前を呼べる。
おかえりなさい。
「祭先輩」
❃
翌日の花はお休みだ。山に入るためじゃなく、町に下りるために着替える。
祭先輩がニヤニヤしている。
「おー、花ちゃん、女子みたい」
笑いながら答える。
「いやいや、女子ですから。わたしは」
「町?」
「ええ。ちょっと出かけてきます」
笑顔で見送られた。派出所の玄関口に座って靴ひもを結んでいたら、今度は新堂先輩がひょっこり顔を出す。制服姿だ。制服の上になぜかエプロンをしている。
「あれ? 花ちゃん、朝ごはん食べないの?」
「あー、今日は結構です。町で何か食べるから」
「そうなの? そっかぁ。味噌汁、作りすぎちゃったんだよ。なんか今日、みんないなくない?」
「だって今日は、警察学校の山岳訓練の日じゃないですか」
言ったら新堂先輩がポッカリ口を開けた。「あ、そっか。だからか」
花は背中を丸めたまま言う。
「ま、みんないないから不安でしょうけど、新堂先輩、留守の間お願いしますね」
新堂先輩が頬をひくひくさせながら言ってきた。
「それ先輩に言うセリフじゃなくない?」
花は立ち上がった。今日の靴は登山靴じゃなくスニーカー。外は快晴だ。
「お味噌汁、登山者たちにおすそ分けしたらどうです?」
新堂先輩がパアッと顔を明るくした。
「おお、そうか。それいいね!」
今日は花の休日。笑いながら手を振った。
「じゃー、奥村花、行ってきまーす」
※涌井の創作小説です。
