ヤマケイ ―山の警察—(第4話-4)
(第4話 道迷い-4)
5
救助を待つことを決めてから、まずはビバーク場所を探した。今日のような晴天ならまだしも、雨に濡れでもしたら一気に体温が下がって低体温症に陥ってしまう虞があるから、ぜひにも屋根が必要だった。それで、あたりを見回して、岩が庇状に突き出している場所を拠点に決めた。ここで、救助がやってくるまで粘るのだ。
「奥村さんン。寒いですか?」
ツェルトを身体に巻きつけてカタカタ震えていたら、雪さんが花の背中を摩ってくれた。花はカチカチと歯を鳴らしていた。寒い。水に濡れてそれが乾いたから、気化熱で体温が奪われたのだ。空にはまだ日があった。日が暮れるまでに食事を準備しないといけない。何か食べないと体温が維持できない。
「雪さん……。申し訳ないのだけど、食事の準備をしてもらっていいかな」
足を痛めて自分では動けない。雪さんに調理してもらうよりなかった。
花の言葉を受けて、雪さんが意外なほどにしり込みした。
「でも……。わたしぃ、何もできねんです。きっと失敗する」
「大丈夫。すごく簡単だから」
「でもお……」
「大丈夫。温めるだけだから。本当に簡単だから」
「わ……、わかりましたぁ」
インスタントの食品を温めるだけのことをずいぶんと渋られた。雪さんが自信なさげにアルファ米のパックを持って花を見ている。
「あのう……」
本当に不安そうに言うのだ。
「わたしぃ、何もできねんで、必ず失敗するんで、『こうしろ』って言ってくださいねぇ」
「……………」
雪さんは甲斐甲斐しく動いてくれた。ただ、どんなちっぽけな作業の時にも必ず花の指示を待つ。言われたことを、言われた通りにだけやろうとする。まるで、それ以外のことをしてしまったら、激しい叱責を受けると怯えているみたいな態度だった。
雪さんが、湯気の立つカップを花の口元に近づけてくれた。
「はいぃ、どうぞぉ……」
今日の遅い昼食は、アルファ米のリゾット風おかゆ。アルファ米をお湯で戻し、その上にチーズ味のカロリーバーを砕いてのせたものだ。
花は首を曲げてスプーンに口をつけた。歯にカチリとスプーンがぶつかる。どろっとした熱い液体を喉に流し込んだ。はあ、と息が漏れる。
「……あったかい。ありがとうございます」
「いいええ」
雪さんが嬉しそうだ。花の喉を熱いものが落ちて行く。体が奥から温まる。
生き返る。
「雪さんも……、食べてください」
ニコニコ笑っている。
「わたしはぁいいです」
「だめですよ。食べなきゃ」
「これは奥村さんのもんだから……。だからわたしはぁ」
花は少しだけイラッとする。
「だめです。食べて。夏だって夜は冷えるんです。ちゃんと食べないと、夏だって低体温症になることもあるんです」
「はあ……。でもわたしぃ……」
その先を雪さんは言わなかった。花は雪さんの言葉の続きを想像して、自分のその思いつきに身震いした。
――どうせ死ぬんで。
雪さんはそう言おうとしたんじゃないのか。あの時、雪さんは明らかに、崖から飛び降りようとしていた。
この人は、確かにあの時、死のうとしていたのだ。
沢に夜が降りてきた。
あたりの景色が消えていく。今の今まで目の前にあったすべてのものが掻き消えて行く。太陽が落ちるにつれてだんだん暗くなっていくのではなく、落陽と同時にすべての光が一気に遮断された感じだ。すぐそこに見えていた立木が見えなくなった。流れている沢が音だけを残してなくなった。目を閉じるよりなお暗い。黒い絵の具で塗りつぶしたみたいな夜だ。
花は、雪さんと横に並んで一つのシュラフにくるまっていた。雪さんの震えが伝わってくる。カタカタ途切れずに震えている。
しばらく黙り込んで震えていたら、雪さんがボソッと花の名を呼んだ。
「奥村さぁん……」
真っ暗だけど、花は声のする方に顔を向けた。続けて聞こえる。
「奥村さんはぁ、なんで……、わたしを追ってきたですか」
少し考えてから答えた。
「……なんだか、気になったから……」
「…………」
「…………」
「それだけ……?」
「うん……」
「そう、ですかぁ」
雪さんが言った。
「わたしぃ、何だか、嬉しかったです」
それきりまた黙った。しばらくしてから花は尋ねる。
「ねえ、雪さん」
「はあい」
「あのさ……、もしかして、さっき……、死のうとしてた?」
雪さんの声が笑っていた。明るい声のまま言う。
「わたしなんかぁ……、いない方がいいですから」
何を言っているのかわからなかった。
「……どうして?」
言葉が出てこなくて、そう言うよりなかった。
「……わたしぃ、ちっちゃい頃から、『人様に迷惑だけはかけるな』って、ずうーっと言われてきましたぁ」
雪さんはそう言った。
「でもわたしぃ……、バカだから。なんにもできねんです。勉強も運動も、なぁんもできね。どこぉ行っても、まともに仕事もできなくて皆さんに迷惑かけるし、お父ちゃんもお母ちゃんも、わたしのことぉ、持て余してますから」
淡々とそう言って、雪さんが「あはあ」と笑った。
「わたしぃ、ばかでのろまだから、学校でもずうっといじめられてました。仕事でもみんなに迷惑かけて、追ん出されちまいました。行くところ、ねえんです」
「…………」
「お父ちゃんには、『自分で何とかしれくれ』って、言われました。弟はぁ、わたしとちがって頭ぁいいから、大学に進みたいって言ってます。けんど、家にはお金がねえから。だから、しかたねんです」
こんな話を明るくするのだ。
「わたしはばかだけど、わたしだってわかります。生きてるだけで人に迷惑かける人間もいるんです。迷惑かけねえようにすんには、いなくなるしかね」
「家を出て一人で暮らすことは……?」
「あはあ。わたしなんか、誰も雇ってくれねえす」
「…………」
「前の職場じゃあ、わたし、大きな事故をはぁ、起こしました。家に帰ったら、ものすごく怒った工場長から電話が来てて、お母ちゃんが死にそうな顔で工場長に謝ってました。わたしぃ、情けねくて」
少しだけ、雪さんの声が湿った。
「いねえほうがいいんす。生きてればご飯食べるし、寝る場所がいるし、お金がかかる。死ぬまでずっと、ご飯と布団とお金がいるから。お父ちゃんとお母ちゃんに、これ以上迷惑かけられねもの。一人で生きていけねえんだもの」
また、「あはあ」と笑った。
「わたしぃ……、まともに働けねえし、物覚え悪いし、融通が利かね。人に叱られてる時も、自分が何で叱られてるのかわかんねんです。誰にだって嫌われるんす。それなのに飯だけは人並みに食べます。金を食うだけじゃねえ。わたし、お父ちゃんやお母ちゃん、それに弟の人生を食って生きてる」
「…………」
「わたしぃ……、生きてると、みんなを困らせる。みんなに迷惑かけねえと生きていけねんす。だから、何とかせねばって、山に来ました」
鼻をすすった。
山で死ねば、自殺ではなく事故だと思われる。そうなれば、まわりの人にあまり迷惑がかからないはずだと雪さんは考えたのだ。事故なら、両親も妙な責任を感じたりしないで済むだろう。職場の人たちも、職を奪われて追い出された結果死んだのだと思わずに済むかもしれない。みんな、越河雪は、たまたま死んだのだと勘違いできる。
それが雪さんが山に入った動機。
笑って言うのだ。
「わたしぃ、人の手ぇ借りねえと生きらんねから。人様に迷惑かけないと、なぁんもできねから。人様に迷惑かけて生かしてもらうくらいなら、いっそのこと」
花は声に力を込めた。腹の底が震えていた。
「ちがうよ。雪さん。それは迷惑って言わない。ちがうよ」
そんなわけ、あるか。
生きることが迷惑なんてことがあるか。あってたまるか。
人に手を貸すことを「迷惑だ」という人間は確かにいる。
でも、それはただ、人に手を貸したくないというだけだ。人に手を差し伸べるのを億劫がっているだけだ。人に手を貸すことは迷惑なんかじゃない。
迷惑なんかで、あってたまるか。
「絶対にちがう」
いつの間にか怒っていた。
「迷惑って言うのは、自分がしたいことを、他の人のことを考えずに、好きにやることを言うんだ。夜中に大騒ぎしたり、欲しいものを買い占めたりすることを言うんだ」
何に怒っているのかわからなかった。
「人の手を借りることは迷惑なんかじゃない。人の手を借りずに生きている人なんて誰もいないんだから。この世界中をくまなく探したって、一人きりで生きている人間なんて、どこにもいないんだから」
ほとんど叫んでいた。
「だから雪さん。そんなふうに笑っちゃだめ」
心を閉ざすな。
「雪さんがいたから、わたしは今生きてるんだよ? 雪さんがいたから、ご飯が食べられたし、怪我の手当てができたし、こうして寒くなくいられるんだ。雪さんはわたしを助けてくれたじゃない。わたしは今、雪さんの手を借りてるじゃない。雪さんは、何にもできなくなんかないんだよ」
胸が熱かった。想いを伝えたかった。
生きることは迷惑なんかじゃない。人は、人といっしょじゃないと生きられないのだ。人の手を借りることを、貸す側も借りる側も、迷惑だなんて思ってはいけないのだ。
「だから雪さん。そんなこと言っちゃだめ」
声がかすれる。なんだか視界がぼやけてきた。
抗いがたい眠気が突然やってきた。顔と体がものすごく熱いのにすごく寒い。吐き出す息がひどく生臭い。きっと高熱が出ているのだ。深い穴の底に落ちるような眠気だった。
「奥村さん……?」
雪さんの心配そうな声が届いた。抗うことができずに花は眠りに落ちる。
「だから――、ちゃんと――」
願った。
助けてって、言って。
※涌井の創作小説です。
