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ヤマケイ ―山の警察—(第4話-5)

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(第4話 道迷い-5)


   

 翌日は熱に浮かされてあまりよく覚えていない。花はシュラフの中で目を覚ました。起きた瞬間からガタガタ体が震えていた。沸き立った湯の中で氷の塊を茹でているみたいなちぐはぐな感じがする。神経の中を情報が上手く伝わっていかない感じだ。何もかもがぼんやりしていた。
 ひんやりとしたものが花の額に当てられた。雪さんの左の手のひらだ。
「奥村さぁん――。すごい熱」
 今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「奥村さぁん」
「……だ、大丈夫」
 声を出すのにも気力を振り絞らねばならなかった。
 二日目の朝だ。昨日、山荘を出たのは夜明け前だから、すでに二十四時間以上経過している。花は長次郎さんに、昼過ぎには帰る予定だと告げていた。だからきっと、すでに捜索隊がわたしたちを探しているはずだ。この山のどこかに、遭対協の人たちやヤマケイのみんながいるはずだ。
「きっとすぐに――、捜索隊が、わたしたちを、――見つけて、くれるから」
「奥村さぁん。死なないで」
 花は血の気の無い唇を歪めて笑みを作った。それを雪さんに見せる。
「……死なないよぅ」
 雪さんにぎゅっと左手を握り締められた。雪さんの熱い手。震える手。
 花は言う。
「だから……、雪さんも、死んじゃあ、だめだよ……」
 雪さんが小さく肯いた。
「ね……。約束、して」
 小さい声。でも、ちゃんと聞こえた。
「はいぃ」

 夕刻に近かったと思う。
 夢を見ているのかと思った。
 かすんだ視界に山の稜線が映っていた。沢向こうに見えている山だ。稜線上を何かが動いている。小さなもの。それが連なって、ほっほっとリズミカルに揺れていた。
 花は呟いた。
「ああ……。大勢、人がいるねえ」
 花を覗き込むようにしていた雪さんが振り返った。花の視線を追いかけていた。花は夢うつつだった。今見ているものが現実なのか幻なのかはっきりしない。だけど見えていた。緑色の山の稜線に黄色い登山服が連なってどこまでも続いているのが。それが少しずつ進んでいるのが。
 雪さんが小さな声で言った。
「奥村さぁん……、あれぇ」
「うん……。探してるんだよ。わたしと、雪さんを……」
 雪さんの唇が小刻みに震えていた。完全に怯えていた。
「あ……、あんなに大勢の人が……? あんなにたくさんでわたしを……?」
 目に涙を浮かべていた。
「わたしぃ……、とんでもないことを」
 子供みたいに身を縮めていた。
「なんてぇ、迷惑を……」
 そこまで言って、雪さんがハッと口を閉じた。花を見ていた。
 花は笑う。雪さんを見て、ニコリと笑ってから、「うん」と肯いた。
 迷惑なんかじゃないのだ。
「見て……。あんなに大勢の人が」
 花は続けた。
「あの人たちみんなが……。雪さんに、生きててほしいって、願ってるんだね」
 雪さんの唇がキュッと結ばれた。目尻にポコリと涙が浮いた。
 横たわったまま、花はコクンと肯く。
 いいんだ。
 誰かに助けてって叫ぶのは迷惑じゃない。
 叫んでいいんだ。
 心の中で、何度もがんばれって応援した。
 雪さんが、キュッと首を曲げ、捜索隊の列に体を向けるのが見えた。
 大きく息を吸い込む。
「お……」
 潰れた声。花はエールを贈る。
 がんばれ。大丈夫。あなたはここにいていい。
 生きていていいんだ。
 だから、叫んで。
 どうか、自分が生きるのを、許してください。
「おおーい!」
 喉を破るような声だった。
 花は微笑む。雪さんのこの声、なんて気持ちがいい。
「助けて、くださぁあああい」

   

 母さんが怒っている。泣きながら怒っている。
「ふざけんじゃないわよ。何勝手に危ない目に遭ってんのよあんた! 死ぬなって言ったでしょ!?」
 怒ってもらえる。すごく嬉しい。
「うん……。母さん、ごめんなさい」
 花は病室にいた。上市の総合病院だ。
 花の左の足首は靭帯が部分的に断裂していた。全治までひと月程度はかかると言われた。ただ、歩行に後遺症が残るようなことはなさそうだった。高熱の原因は、肺炎を起こしかけていたからだ。落下して全身を冷やし、ケガをして疲労した。当然と言えば当然だ。発見が早くて助かった。あのままもう数日足止めを食らっていたら、きっとこんな短期間の入院程度では済まなかっただろう。下手をしたら死んでいたかもしれないのだ。
 だけど花は助かった。ケガが治れば、つまりまた、山を歩ける。
 母さんがグシグシ泣いている。子供みたいに鼻を垂らしていた。花は枕元のティッシュを一枚取って母さんに手渡した。母さんが唇を尖らせて花を見て、花のティッシュをスルーして、ボックスから直接数枚引き抜いた。ブーンって大きな音を立てて鼻をかむ。
「あー」
 目を真っ赤にして呻いている。花は手にティッシュを持ったまま苦笑いした。母さんがジトッとした目のまま花に言う。
「あんたもほら、目」
「え?」
「涙。拭きなさいよ」
 言われるまで気がつかなかった。いつの間にか目に涙が浮いていた。慌てて手に持ったティッシュで目元を拭う。なんだ? 恥ずかしい。なんかいつの間にか泣いてた。
 照れ隠しみたいにして言った。
「あのさ、母さんの御守り、効果抜群だね」
 真っ赤な顔のまま、母さんが花を見た。
「何よそれ。どういうことよ」
「わたしも雪さんも死ななかったし……」
 母さんが呆れている。
「あんたね、死ななきゃいいってもんじゃないでしょうが。母さんどんだけ怖い思いしたかわかってんの?」
 深いため息の後で言われた。ビシリと指を突き付けられた。
「もう嫌だ。あんた、金沢に帰ってきなさい」
「え」
「何よ。まさか、こんな危ない目にあったってのに、嫌だとか言うわけ?」
「…………」
 嫌とかそういうんじゃない。考えていなかったのだ。ヤマケイを辞めて山を下り、警察官を辞めて普通の仕事に就くこと。そんな選択肢もあったのか。他にいくらも道はあるはずなのに、頭の中にまるっきりそれが浮かんでこなかった。
 なんで?
「母さんはね、あんたに帰ってきてほしい。これは母さんの希望」
「…………」
「あんたはどうしたいの?」
 尋ねられた。母さんの問いにどう答えるべきか迷う。
 わたしは、本当にヤマケイに戻りたいのか。
 母さんが花をじっと見ている。花の答えを待っている。
「わ……、わたしは……」
 なぜか声が震えた。なぜか涙が湧いてきた。それを飲みこむまでずいぶん時間がかかった。
 おかしいくらいに声が震えてしまう。何だろうこの気持ち。何でこんなに苦しいんだろう。何でこんなに切実なんだろう。
 ヤマケイにあるもの。
 先輩や上司。大勢の登山者。山荘のご主人たち。山。高山植物や雷鳥、それに雪。誰も入れない場所。岩ばかりの難所。人の死。おいしいご飯。
 わたしの持っているもの。
 想いだけだ。
 たぶん、わたしはあの場所が好きなのだ。きれいだから。人が人を助ける姿は美しいから。それを見ていたいから、わたしは山に戻りたいんだと思う。戻ってヤマケイのみんなと、人を助けたいんだと思う。
 涙を飲みながら答えた。喉がゴロゴロ鳴っている。
「お山に……、戻りたい」
 母さんがコクンと肯いた。「ああ、そう」って言った。
 また深いため息。ものすごく深い、何秒もかかるようなため息だった。
 それから顔を上げて言った。
「なら、戻りなさい」
「うん」
「いつまでもしみったれた顔してるんじゃないの。警察官でしょ、あんたは」
「うん。あのね母さん」
「何よ」
 母さんはいつも花に決めさせてくれる。何度その一言に救われてきたか。その一言に何度、自分の本心を気づかされたか。
「ありがとう」
 母さんが泣き笑いの顔になった。「バカ」って呟く。
 花も笑った。
 わたし――。
 花はヤマケイに戻ることを決めた。
 やっと、吹っ切れたような気がする。


(「第5話 雪崩-1」へ続く)

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※涌井の創作小説です。


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