ヤマケイ ―山の警察—(第5話-1)
(第5話 雪崩-1)
1
雷鳥荘を午前二時に出発して別山を目指した。
山々の稜線が明け始めた空に輪郭を残している。手前に見える尾根は濃く、向こうに行くほど薄くなる。すべてが漆色だ。グラデーションのように峰が層をなしている空の向こう、ポツンと小さくオレンジの明かりが灯った。世界に力を与えながらオレンジが登って行く。漆色だった世界が反転していく。空の上の方からオレンジに染めていく。
山塊のほとんどは夜。だけどてっぺんだけは朝になる。オレンジ色の光が、山にベールをかけるように空から舞い降りてくる。山頂から山が染まっていく。夜を脱いで朝に変わる。
この世界に今日がやってきた。
ああ。
世界が、正常に回っている。
この景色。
花は別山の頂上近くに立っていた。まわりには誰もいない。空と山と空気、それに登りかけた太陽だけの世界だ。清冽だ。何もかもが整っている。
空か、陸か。
光か、闇か。
生か、死か。
山はまるで二進法のようにシンプルでまじりっけがない。そういう場所だから、こうして自分の足で立って山の空気に触れていると、自分の輪郭まではっきりしてくるような気がする。ただ山の上に立っているだけなのに、体を震わして全力で、ここにいるぞって叫んでいるみたいに感じる。
すごくきれいだ。
きれいすぎて怖いくらいだ。
花は大きく息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たす。
よし。
あの場所へ、帰ろう。
❃
冬が近づき、山の植物たちともしばしお別れだ。
祭誠は一人で歩く。
みくりが池近くの草地に群生しているシラタマノキ。白くてまん丸い実が朝露を纏ってキラキラしている。朝の気温はもうずいぶん低くて露は半分凍っている。
指先で触れると、パッと露が落ちた。
みくりが池を回るように歩く。今度はチングルマ。近くにナナカマドも見える。チングルマはとても背が低くて一見すると草にしか見えないけれど、これで立派な樹木なのだ。樹木だから越年する。何年もかけて少しずつ育つのだ。たった数ミリの茎に見えるものは幹で、そこには年輪だってちゃんとある。
一踏み十年。
そんな言葉がある。成長の遅い高山植物は、人が一度でも踏んでしまうと、その植生を取り戻すまでに十年かかるという意味だ。山の時間は人の時間とちがう。山の時間は大らかに流れていく。急いでいるのは人間だけだ。
大汝山に向かう。ハイマツにも凍りついた水滴がびっしりだ。その上にうすく雪が積もっている。
すごく寒そう。なのに、雪が布団みたいであったかそう。
別山を越えて剱岳方面へ。
草原の中にポツンと紫を見つけた。
「ミヤマリンドウ」
呟いてしゃがみこむ。お山を歩いていると、時々こうして一人だけの花を見つける。すごく不思議。どうやってここに根を張ったのだろう。どうして毎年、ちゃんと咲くんだろう。
みんな冬支度を始めているのだ。
祭誠は山に告げる。
「しばらくお別れだね」
立山に、冬が来る。
2
かに。かにだ。
かにの刺身にかにみそを付けて食べるとかそんなのアリなのか。贅沢すぎないか。バチ当たらないか。そしてそれを顔の上に持ち上げて、躊躇いなく口に放りこむ森口分隊長。筋だけを残して真っ白い前歯で肉をこそぎ取って、もぐもぐ二、三回噛んでゴクリと飲みこむ。
そして笑顔。
「あー。うん。ああー」
ウマいって言わない。ちくしょう。わたしも食べたいぞ、それ。
森口分隊長の顎髭がもっさりしている。きっと冬毛に生え変わったのだ。すごい笑顔のまま花に言う。
「ん。どうした奥村食わないのか?」
腹が立つ。
「食べたいですよ! なんで森口分隊長、かにの皿一人で抱え込んでんですか!」
「ん? だってこれ、おれの分だろ?」
「んなワケないでしょ!? みんなに回してください!」
花は上市市の県道三号線沿いにある居酒屋に来ていた。四月から開設されていた室堂警備派出所は冬の間は閉鎖される。冬が来れば派出所そのものが雪の下に埋まってしまうからだ。今日は、今年度の最後の開設日だった。さっき、みんなして派出所に雪よけの板を打ちつけて、綻びていた箇所を修繕して冬籠りの支度をすませてきた。これでしばらくは派出所に常駐する警備隊員もいなくなる。冬の立山は、夏の間みたいに、要請があったらすぐに飛び出して行けるような環境じゃあないのだ。山岳警備隊員だって無敵じゃない。氷点下の空気と猛烈な吹雪の山中に居続けることはできない。
最終日だからみんな揃った。料理が並んだ長テーブルの両端にずらり警備隊員が並んでいる。注文とかしなきゃいけないから入り口近くの席に座った花の隣にはなぜか森口分隊長がいる。偉い人なんだから奥に行けばいいのに。奥の方にはなぜか祭先輩と新堂先輩がいて、そこに他の隊員も混じって、さっきからずっと「冬山に最適なツェルト」とかいうニッチすぎるテーマで熱い議論を交わしている。向かい側には遭対協(山岳遭難対策協議会。民間のボランティアで構成される救助隊)の人たちが座っている。花たちがやってくるずいぶん前から飲み始めていたみたいで、遭対協の面々はすでに完全にできあがっていた。一人残らず顔が真っ赤だ。佐倉山荘の長次郎さんも、県警ヘリ〝つるぎ〟のパイロットの伊波さんもいる。すごく珍しい。
酔っぱらった伊波さんが祭先輩に言っている。
「だからよぉ。おれはえらいと思うんだよ」
?油皿にわさびを溶きながら、極めて適当な感じで祭先輩が答えている。
「んー。何が?」
「初めて納豆食ったやつ」
「あー、おいしいもんね。納豆」
「初めて納豆食ったやつはえらいよ。だって腐ってんじゃん」
「ねー。ナットウキナーゼで血液サラサラだしね」
「そう。あんなもん食おうとするなんて勇者だろ。勇者」
「健康にもいいし、見つけてくれた人に感謝だよね」
祭先輩と伊波さんの会話が噛み合わないまま奇跡的に続いている。なんだコレ。頭がクラクラする。
新堂先輩が突っ込みを入れた。
「マコトさんと伊波さん。混乱する。お互いの話を聞いてください」
ありがとう新堂先輩。わたしの気持ちを代弁してくれて。
それでも伊波さんの話は止まらなかった。誰に言っているのかよくわからないけど、とにかく目に映る人に手当たり次第に語っている。講演会で客席に下りて、聴講者の間を歩き回る迷惑な講師みたいだ。
「お前も思うだろ? 新しいことをしようとする奴は、それがどんなことであれエレえんだよ。だってそいつがはじめてなんだから。誰も教えてくれねえんだから」
新堂先輩の肩をガッとつかんだ。目を座らせて言う。
「だいたいお前ら山ヤだって同じだろーが。前人未到の山とかいうフレーズに心ときめかすような奴らだろーが。自分の名前が付けられたルートを作りたいとか思ってる口だろーが」
新堂先輩が苦笑いしている。手振りで「はいはい」って言っている。
「なのによう。はじめてその山に登ったやつは褒められて、はじめてフグを食った奴は『バカだねー』っていうのはちがくねえかって話だよ。褒めろよ! 勇者だろうが!」
祭先輩が、半分笑い、半分呆れって感じで口を挟んだ。
「伊波さん、酒癖悪いなぁ」
「おう! 滅多に飲まねえからな! 飲むときはつぶれるまで飲むぜ!」
「いやいやいや。いらないっしょ、そんなムダな覚悟……」
今度は別のテーブルから別の声が飛んできた。
「おーい。奥村、ちょっとお前こっち来い」
いつの間にか遭対協側に移動していた森口分隊長に手招きされた。笑顔が怖い。
熊みたいな森口分隊長と狸みたいな長次郎さんの間に花は収まる。せめて左右のどっちかだけでも逃げ道が欲しかった。捕えられた宇宙人みたいな気分だ。
「なあ奥村。山でな、おーいって聞こえたらお前ならどうする?」
森口分隊長が真っ赤な顔を近づけてそう言ってきた。ちょっとだけ考えてから花はボソッと答える。
「『おーい』って呼び返します」
言ったら森口分隊長が、半分に切ったスイカみたいにニンマリと口を曲げた。
「はい残念。奥村死んだー」
ものすごくうれしそうに言う。反射的に花は、「は!?」と叫んでしまう。不謹慎すぎる。「何でですか!?」
まだニヤニヤしている。
「あのな、山で『おーい』って言うのはバケモノなんだよ。『おーい』って声に呼ばれて、『おーい』って呼び返しながら近づいてくと、そのまま道に迷って二度と帰れなくなるんだ。そうやってな、昔から何人もいなくなってんだ」
納得いかない。
「何ですかそれ。じゃー、なんて言えばいいんですか?」
「ヤッホー」
「え?」
聞き返す。
「だから、『ヤッホー』って叫ぶんだよ。そしたらバケモノは黙るから」
「…………」
ヤッホーて。ヤッホーって。
長次郎さんがニヤニヤしている。嬉しそうに言った。
「カベッケよな」
「カ……、カベッケ?」
「まあ、河童みたいなもんちゃ」
戸惑う。
「はあ……。河童……、ですか」
森口分隊長が満足そうにうなずいている。語り出した。
「だいぶ前の話だけどな。ある大学の山岳部員八人が、薬師沢を下ってカベッケが原に出ようとしたことがあったんだ」
森口分隊長は身振り手振りを交えて花に話した。要約するとこんな感じだ。
山岳部員八名は若く健康で活気も強かった。だから、山荘の親父が戯れに若者をおどかそうとしているんだと笑い飛ばした。
「いやいや。河童とかいるわけないじゃないですか」
親父は笑っていなかった。
「じゃあ行ってみろ。お前ら眠れねえぞ。夜便所に行くと、尻をペロッと冷たい手で撫でられるんだ」
その頃はまだ、薬師沢の道もなく、彼らはキャンプをしながらカベッケが原に向かった。薬師沢を歩いているうちに、しだいに谷の幅が狭まっていく。カベッケはまだかと思いながらそれでも進んでいくと、いつの間にか、爪先だけしか引っかけられない断崖絶壁の真ん中に自分たちがへばりついていることに気が付いた。こうなるともう一歩も動けない。進退窮まっておそるおそる下の沢を見ると、ゴウゴウと水が渦巻いていて、その流れの端に、なにやら白いものが見える。よく目を凝らすと、なんとそれは頭蓋骨だ。なかば砂に埋まったまま、ぽっかり空いた二つの黒い穴の目で彼らを見ている。
「ああ、おれたちもあんなふうになっちまうのかな」
そう思っていたら、下流の岩陰から釣り人が現れた。岩壁に引っ付いている彼らに釣り人が尋ねた。
「おい。お前たちどこへ行くんだ」
「三俣へ」
「三俣の小屋は源流だぞ。お前ら、なぜ沢を下ってきた」
そこで初めて彼らは自分たちがすでに化かされていたことに気が付いた。
釣り人の助けを得て、ようよう彼らはカベッケが原の小屋にたどり着いた。カベッケが原の小屋というのは、薬師沢の出合から二百メートルほど下流の、見るからに陰気な薮の中にある。釣り人の話によると、昔はたいそう立派な小屋だったらしい。何でも「砂金が出る」と噂が立って人が集まり、立派な小屋ができたけれど、無許可だったもので営林署がきて焼き払ってしまった。その跡地に、燃え残りの木材を集めて建てた小屋がこいつだそうだ。
彼らは小屋の中で夜を過ごした。夜が更けても沢の音しか聞こえてこない。
「なんだ。やっぱりバケモノなんて出ないじゃないか」
酒を飲んで強がりながらそう言っていたら、突然はっきりとした声で、
「おーい おーい おーい」と三度聞こえた。
彼らは顔を見合わせた。次の時には、みんな一緒に叫んでいた。
「ヤッホー ヤッホー」
するとなんの返答もない。再び静かになった。
また半時間ほど過ぎると、今度はがやがやした話し声が近づいてきた。
「誰か来たようだぞ」
「呼んでみるか」
「何と呼ぶ」
彼らは声をそろえてまた叫んだ。
「ヤッホー ヤッホー」
声は消えた。彼らは顔色をなくした。その晩は、便所に行くにも互いに手をつないで、ガタガタ震えながら行くよりなかったという。
翌日彼らは山小屋に帰ってきて言ったそうだ。
「ほんとうに出た。ほんとうに出た。八人全員が聞いたのだ。ぜったいに錯覚などではない」
「…………」
結構しっかり、最後まで聞いてしまった。花は何だかぽわんとする。
怪談を聞いたっていうより、何だかおじいちゃんの昔語りを聞いた気分だ。どっちかというと心温まる気がする。
「どうした奥村。ビビったか?」
「いや、ビビりませんけど……」
ビビる要素が少なすぎる。森口分隊長の語りもあまりにも怪談にそぐわない。
「でも分隊長、『ヤッホー』って叫んで、もしそれが遭難者だったらどうするんですか? 助けを求めて必死で叫んでるのに、『ヤッホー』って声が返ってきたらズッコケません?」
笑い出した。
「遭難者なら、人の声ってだけで充分だろ。『ヤッホー』だって、聞こえたら嬉しいに決まってるぞ」
「そういうもんですか」
「そうだったろ。お前も」
思い出して肯いた。
「はい」
「奥村」
言われた。
「よく帰ってきたな」
「花ちゃーん。電話ぁ」
ニヤニヤしている祭先輩に言われた。自分の携帯電話をぶんぶん振っている。
「なんで祭先輩の携帯にわたし宛ての電話がかかってくるんですか」
「渡部隊長からー。花ちゃんと話したいんだって」
「え?」
一気に酔いが引いた。おそるおそる携帯を顔に引っ付ける。
「はい……。奥村です」
何だ? 叱責か? 叱責なのか?
〈ああ。奥村さんですか。せっかくの宴席なのにすみませんねー〉
花はホッとする。叱責じゃない。電話の向こうにいるのは優しい方の渡部隊長だ。
〈奥村さんがようやくヤマケイに復帰したっていうのに、直接迎えることもできずにすみませんねぇ〉
渡部隊長らしからぬことを言われた。花は何だかポカンとする。
「そんな。お気遣いいただいて恐縮です」
電話の向こうで、隊長が微笑んだ気がした。
〈冬の山がヤマケイの本番です。奥村さん、頼みますよ〉
「あ……。は、はい!」
隊長の電話。用件は花への激励だった。いつも現場では、「やれ」か「できん」の二つしか話さない隊長なのに。このギャップにはいつもびっくりする。何度経験してもぜんぜん慣れない。
ニヤニヤしたままの祭先輩に言った。
「渡部隊長って、ホント、無線とリアルで真逆ですよね」
祭先輩がグラスを傾けながら適当に答える。「あーね」
「あーね?」
「ああ、まあね。やっぱ、現場だと一秒が大事だから、自然とああなったらしいです」
「へー」
何だかすごい。あの短すぎる指示、渡部隊長の様式美なんだ。
「ホントはさ、渡部隊長って、やさしいおじいちゃんって感じなんだよ。モグさんの方が怖いくらいかも」
「あー。現場の森口分隊長は時々熊より熊っぽいですもんね」
「常時、冬籠り前の熊状態だからね。食べても食べても空腹の呪いにかかってるんだよ、あの人」
「ああ」
さもありなん。
祭先輩とくだらないことを全力で話していたら、なんだか妙にお酒が進んでしまった。ああもう、これ自分でもわかる。制御不能だ。完全に酔っぱらってるや、わたし。
気が付いたら普段の二倍くらいに声が大きくなっていた。
「だからわたしはずるいと思うんですよ!」
「おお? どうした花ちゃん。何が?」
「…………」
「花ちゃん?」
「…………。先輩が」
「先輩って、どっちの?」
無言で祭先輩を指差す。祭先輩が「あー」と苦笑いした。「あー、……こっちの」
「そう! そっちの! 神経質な方じゃなくてちゃらんぽらんな方! 祭先輩はずるい。いろいろ独占しすぎ!」
「んんー? 何の事かなー」
「料理の才能とか容姿とか! あと体力も。ずるいですよ!」
「そんなこと言われてもなぁ」
「どれか一個ください」
「あげらんないなあ……」
「だからずるいって言うんですよ! 大企業ですか!? 生まれてから死ぬまで全部自社製品でカバーしちゃう大企業ですか!?」
「あー、花ちゃんはあれだね。酔うとこんなふうなんだね」
「酔ってませんよ!」
「いやあ、酔ってるよ」
「酔ってない!」
「ははは。酔ってるよお」
「酔ってない……」
「あれ? 花ちゃん?」
「酔ってないって言ってるのにぃい」
「え? うそ?」
「わあああああん」
「ここで泣くんだ!?」
ひとしきり笑い泣きしたら何だかすっきりした。花はグラスを片手に立ち上がる。みんなの目が集まるのと同時に大声を出した。
「奥村花わぁ!」
命を命で救うんじゃなく、命と命で生きていくために。
宣言した。
「山といっしょに生きていきまぁす!」
※涌井の創作小説です。
