ヤマケイ ―山の警察—(第4話-3)
(第4話 道迷い-3)
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まだ薄暗い山道を歩きながらため息をついた。
背中を丸めてとぼとぼ歩く。
わたし――、いったい何してるんだろうか。
自分でもバカだと思う。今日は、自分を見つめ直すためにわざわざ山荘に泊まってまでモルゲンロートを見に来たのだ。目的は、朝日に赤く染まる立山の山々を眺めながら、自分がしてしまったことを反省し、今後どうしていきたいか未来について考えることだ。そのはずなのに、なぜにわたしは今、別山の尾根ではなく、木々の茂る樹林帯の山道をえっちらおっちら歩いているのだ。
そしてなぜわたしは、雪さんの後を追っているのだ。
どうしても放っておけなかった。山荘からの出掛けに、カラフルなウェアを重ね着してモコモコしている人たちの隙間に、パーカー姿の雪さんを見つけた。誰に向けているのかわからない笑顔を浮かべたまま、まわりの人たちの活気の中で一人だけ浮いていた。雪さんのまわりだけ、まるで光が当たっていないみたいにぽっかりと浮かびあがって見えた。
どこに行くつもりなのか。
何をしにここに来たのか。
それを知らないとどうにも安心できなかったのだ。
ほとんど道なき道を進んでいた。どうやら雪さんは餓鬼山方面を目指しているようだ。ただ、目的が見えなかった。このルートを歩くのは祖母谷温泉を目指す人がほとんどだ。だけどとてもそうは見えない。雪さんの足取りはどこかフワフワしていた。何というか、「ここに行く」という目的を持っていない、危うい足取りに見えるのだ。
この間、森口分隊長に言われたことを思い出しながら歩いた。
「お前は山を下りろ」
森口分隊長にそう言われた時、花は、半分くらい「やっぱり」と思って受け止めた。つまり、半ばやけくそだったってことだ。
ちがう自分を考える。
山を下りたら、わたしはどこへ行くことになるんだろう。やっぱり、交番勤務に専念することになるのだろうか。
交番勤務が嫌いなわけではないのだ。
交番は、市民と警察をつなぐ支点だ。落し物を拾った小さな子どもがやってくることもあるし、帰り道がわからなくなってしまったおじいちゃんやおばあちゃんを家まで送り届けたりすることもある。飼い犬が逃げてしまったというおじいちゃんに頼まれて、一日中犬探しをしたことだってある。常に人と触れ合っている。感謝だってされる。笑顔だって見られる。みんなの生活を守っているっていう誇りだって十分に感じられる。
対して、山岳警備隊の仕事ってどうだ。
山岳警備隊は、安全な登山を目指すための啓蒙活動やパトロールを行う。そして、山で起きた事故から人を救う。道に迷った人を救い、亡くなった人の遺体を見つける。山岳警備隊は、日常的に人の生死に関わるものだ。
そして花は、そんな山岳警備隊を自ら希望したわけだ。
あの後、森口分隊長に言われた。
「溺れている人間に、溺れている人間が救えるか」
その通りだと思った。花は溺れている。溺れているから、目の前にあった、要救助者という藁にすがったのだ。つかんだらいっしょに沈むって知っているのに、パニックになってその腕をつかんでしまった。あの時の花の手は、亡者を地獄に引きずり込む鬼の手だった。
考えていたら、胸がカアッと熱くなって涙が湧いてきた。
明らかだ。
奥村花は、山岳警備隊失格。
ここまで考えると、いつもこの問いに帰結する。
だったらなぜ、わたしはヤマケイを希望したのだ。
ヤマケイに戻れないかもしれないと思うと、どうしてこんなに悲しいのだ。
「あ……」
顔を上げたら、雪さんが立ち止まっていた。崖状に切り立った場所だ。たぶん崖の向こうは沢だろう。沢を見下ろす崖の突端に、こちらに背中を見せて雪さんが立っていた。
花は何気なく声をかけようとした。
「あの、雪さん……」
景色でも見ているのかと思ったのだ。雪さんが、こちらに背中を向けたまま、背中のザックを降ろして胸に抱えた。胸の前で重さを確かめて、その上下運動の続きみたいにしてポイとザックを崖に向かって放り投げた。当たり前のことをしているみたいな動きだった。
青ざめる。
「ちょ……! 雪さん――」
雪さんが、グイと体を崖に乗り出していた。体の半分くらい崖から突き出している。花は混乱する。風が吹いたら落ちてしまうような体勢だ。背中にブワッと汗が浮いた。目の中全部が雪さんの丸っこい背中になって、花は駆け出す。
まさか雪さん。
「だめ!」
叫んだ。
飛び込む気なの?
必死に手を伸ばした。そうしたら雪さんが首だけをこっちに向けた。何だか焦点の定まらない目をしていた。笑っているみたいだった。花は雪さんの肩をつかもうとする。
その瞬間、雪さんがふわりと身を屈めた。
え――?
しゃがみこんだ雪さんの頭を越えて、花は腕を伸ばしたまま崖に突っ込んだ。すぐ下にいる雪さんと一瞬だけ目が合った。花はもう止まれない。叫ぶことしかできなかった。
「死んじゃ」
落ちながら叫ぶ。「だめ」
落下の途中で何度か岩に体をぶつけた。猛烈な勢いで空が遠ざかっていく。背中から水の中に突っ込んだ。コンクリートみたいに固くて、腕や足が、もげてバラバラに散らばりそうだった。
水に沈んで何も見えない。猛烈な圧力が花を押す。流される。濁流に飲みこまれる。
水しぶきと泡の世界のはしっこに、崖の上で雪さんが身を乗り出してこっちを見ているのが見えた。
花は我が身を呪う。
わたし、ホントに何やってるんだろう。
奥村花は、この瞬間に遭難者になった。
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瞼を開けると空だった。青い空。その両脇に、白い岩場と緑の枝葉が見えていた。
花は何度か瞬く。
頭のすぐ上で声がした。
「あのう……。気が付きましたかぁ」
女性の声だ。花は目だけ動かして声の主を見ようとした。途端にズキリと頭が痛む。
「ツッ……」
声にならない声が出た。ギュッと目をつぶる。
「頭ぁ、怪我してますう。無理に動かない方が……」
女性が花の背中に手を差し入れて半身を起してくれた。景色が変わった。沢沿いの岩場だ。すぐ左手に青みがかった渓流があった。白い岩の集まった乾いた岩場が、花の体の形に黒く濡れていた。
目の前の女性を見て思い出す。
雪さんだ。今朝、佐倉山荘で朝ごはんをいっしょに食べた彼女だ。
逆さになった世界と水の中の記憶がよみがえった。
落ちたのだ。
首を動かすと頭がズキンと痛んだ。
辛うじて声は出た。
「わたし……、どうなったの……?」
雪さんの返事を待った。雪さんが不安そうにきょろきょろあたりを見回している。それから花に顔を向け、目を逸らしたままボソボソと答えた。
「あのう……。落ちたあと……、奥村さん、沢を流されて、岩にひっかかったんです。頭の怪我はぁ、たぶんその時に……」
手を伸ばして後頭部に触れてみた。濡れた髪が紙粘土みたいに固まっている。結構な出血があったようだ。血は――? 良かった……。何とか止まっているみたい。
「……雪さん」
「はいぃ」
「雪さんは……、どうして……、ここに?」
少し戸惑ってから、雪さんがニコニコ顔に変わった。笑顔のまま額に汗を浮かべている。
「あのう……、わたしのせいでぇ、奥村さんが、沢に、落ちたから……」
そのまま待った。「わたしのせい」って言った。
「わたしのせいでぇ、奥村さんが死んじゃったらぁ、申し訳ねんで……」
それで追いかけてきたというのだ。花を追って沢まで下りて水に入り、花を引っ張って岸に上げたってことだ。
この人、なんで、「わたしのせい」なんて言うんだろう……。
しばらく戸惑った後で頭を切り替えた。
次に何をするべきか、考えないといけない。
「……ザック。わたしのザック、ありますか。流されてませんか」
「あ、はいぃ。あります。向こうに」
微かに見えた。白く大きな岩の上にザックの内容物が並んでいる。ずぶぬれになった荷物を乾かしてくれていたのだ。その中に赤い袋があった。ファーストエイドキットが入った防水の袋だ。それを指差そうと腕を上げたら刺すように胸が痛んだ。咳き込めない。腰を屈めて咳き込んだら肋骨が折れると思った。激しく顔がゆがむ。
「奥村さん!」
「だ……、大丈夫、赤い……、袋、取って……、もらえますか」
「わ……、わかりましたぁ」
雪さんがファーストエイドキットを持って戻ってきてくれた。ひどく心配そうな顔で花を見ている。
「奥村さんン……。だ……、大丈夫ですかぁ?」
「わたし……、どこを怪我してますか……?」
胸が痛んで体を上手く動かせない。「わ……、わたしの体に順番に触ってください。怪我の箇所を確かめなきゃ……」
「でもう……、触れたら痛いんでは……」
「構わないから。お願い、調べて」
雪さんの手が小刻みに震えながら花に近づいてきた。花の頭に手が置かれた。途端にズキリと痛む。だけどこれは傷の痛み。眩暈や吐き気はない。次に胸。雪さんの手が花の体の上を滑っていく。かなり苦しい。たぶん折れてはいないと思うけど、もしかすると肋骨にヒビが入っているのかもしれない。腹。大丈夫。上腿。大丈夫。下腿。痛む。すごく痛む。何これ左足。痛すぎる。もしかして折れた?
「そこ……、どうなってますか? 確かめてください」
上手く体を屈められなくて、天を仰いだまま花は尋ねた。雪さんが花のソフトシェルパンツの裾をめくり上げて足に触れた。その途端に悲鳴を上げてしまった。
「ご、ごめんなさいぃ」
謝られた。雪さんは目に涙を浮かべている。「痛かったですか? 痛いですよね。ごめんなさい、ごめんなさい」
何度も謝る。花は額に脂汗を浮かべたまま無理やり微笑んだ。悪いのはわたしだ。
「こっちこそ……、ごめんなさい。さ……、叫んだりして」
「あ……、足首、ものすごく、腫れてるみたいですぅ」
「い……、色は?」
「赤黒いですぅ」
内出血だ。足首の骨を折ったか、あるいは靭帯が切れたのだろう。痛む左足を延ばしたまま、花は右ひざを立てて立ち上がろうと試みた。途端にドンと突き上げるような痛みが背骨をかけ上がってきて吹き出すように汗が出た。数センチだけ上がった腰が再び落ちた。とても立てない。
「奥村さんン……、立てないですか」
雪さんがそう言った。これ以上ないほどに不安そうな顔をしていた。花は顔中から汗を滴らせ、ギュッと唇を噛んだ。足を痛めてしまった。つまりもう、わたしはここから動けないってことだ。
どうする。
花の携帯は花といっしょに水に浸ってダメになった。私的な入山だから無線機は所持していない。
「雪さん……、携帯電話、持ってないですか?」
花の質問に雪さんが首を横に振った。泣きそうな顔のまま言う。
「ごめんなさいぃ。荷物みんな、捨てちゃってぇ……」
雪さんがザックを放り投げたところを花も見ていた。もしかしたら携帯電話だけは身に着けているんじゃないかと期待したのだけどダメか。
サムスプリント(患部の形状に合わせて変形できる万能副木)をかかとの形に合わせて折り曲げた。額に浮かぶのは脂汗だ。どんどん出てくる。サムスプリントを副木にして三角巾で包んで患部を固定する。こうすればいくらかマシになるはずだ。
花の額に浮かぶ汗を見て、雪さんが取り乱していた。
「あのう……、わたしぃ……、助けを呼んできましょうか」
花は首を横に振った。花は沢に流された。それを追って雪さんも沢沿いをかなりの長い距離移動したはずだ。だから登山道からはずいぶん離れている。今から登り返して無事に元の道に戻れる可能性はとても低い。きっと山中で道に迷ってしまう。そうなれば花だけじゃない。雪さんも遭難する。
無理。ダメだ。
空を仰いだ。
――しかたない。
花が山に居ることは長次郎さんが知っている。花が戻らなければ、きっと長次郎さんが救助要請を出してくれるはずだ。だからきっと見つかる。動き回ってトレースを消すより、ここでじっと救助を待つ方が生き残る確率が高いはずだ。
決断した。
「雪さん」
「はいぃ」
花の額から汗が一滴垂れた。迷ってはだめだ。
「ここで、いっしょに救助を待とう」
(「第4話 道迷い-4」へ続く)
※涌井の創作小説です。
