ヤマケイ ―山の警察—(第4話-2)
(第4話 道迷い-2)
2
越河雪は融通が利かない。自分でもたぶん、人より少しばかり頭が弱いのだと思っている。自分で判断し行動することがすこぶる苦手だった。決められたことを決められた通りにすることはできる。だけど、それしかできない。
雪は毎日、決まった道を決まった時間に歩いて工場に向かう。お父ちゃんが見つけてきてくれた、パンやお菓子をつくる小さな工場だ。
雪はそこで清掃の仕事をしている。毎朝、従業員たちがやってくるより早くに工場に入り、ミキサーやドゥコンにこびり付いたパンの粉をきれいにしたり、床を清めたり、トイレを磨いたりする。
その日もいつも通り、午前五時にまだ誰もいない工場に入り、原料室、生産ラインと掃除して回って、最後にパンの焼成室の清掃チェックをしたら、換気装置が動いたままだった。雪はゴウンゴウンと低い音を立てて稼働している換気扇を前に、常備しているチェックリストとにらめっこしながら考えた。
雪を雇ってくれた工場長の言ったことを、雪はメモ帳にすべて記録していた。
・朝は五時に工場に来ること。
・工場が動き出す八時までに、原料室、生産ライン、焼成室、トイレ、給湯室、事務所のゴミを捨て、床をきれいにすること。
・機械が動いたままだったら、スイッチを切ること。
・困ったことがあったら、工場長に電話をすること。
自分で作ったチェックリストには、動いている機械を見つけたらスイッチを切れと書いてある。雪はその場に立ったまま何分も考えていた。
換気扇は機械なのか?
前に、パン生地を攪拌するためのミキサーが待機状態で稼働していたのを見つけて、言われた通りに電源を落としておいたら、工場長に褒められたことがあった。
「ありがとう雪ちゃん。電気代だって馬鹿にならないからね。助かったよ」
褒められて、天に昇るほど雪は嬉しかった。あの時工場長は電気がもったいないと言った。だからこれもきっと同じなんじゃないかと思った。換気扇だって電気で動くんだから、止めておけばきっと電気代が浮いて工場長が喜ぶ。そしたらきっと、わたしは褒めてもらえるはずだ。
工場に人が集まってきて、朝のミーティングが終わって、工場内に人が散っていった。雪は各部署から集めてきたゴミの仕分けをしていた。そしたらにわかに騒がしくなって、背中を丸めて空き缶とペットボトルを分けている雪の背後を大勢が走り抜けていった。
すぐにサイレンの嫌な音も近づいてきた。雪は何が起こったのかわからず、ポカンと口を開いたまま、忙しそうに駆け回っている人たちをずっと眺めていた。誰もパンを作らない。なぜだろうと思っていた。
焼成室から社員さんが二人、運び出されてきた。二人とも顔が真っ青でぐったりしていた。工場長が、ぐったりした社員さんの一人に肩を貸して、敷地に入ってきた救急車のところに運ぼうとしていた。口の中でブツブツ言っていた。
なんてこった……。これ、労災になるよなぁ。何日営業できなくなるんだ……? なんてこった……。
後でわかったことだったが、社員二人が動けなくなった原因は酸素欠乏症で、焼成室内の酸素が足りなくなった理由は換気装置が止まっていたからだった。つまり、雪のせいだ。
雪のせいで、工場はまるまる一週間、稼働できなくなった。
工場長は泣いていた。
泣いて最後に、
あんたは疫病神だ
そう、雪に言った。
「雪よう。新しい仕事はまだ見つからんか」
雪は、テーブルを挟んで対面にいるお父ちゃんの顔をじっと見た。とても痩せている。ごま塩の毛のほとんどない頭と、深いシワの刻まれたこけた頬。お父ちゃんはもう二十年、ずっと同じ顔をしている。あんまりにも使わないから、笑うとか、微笑むとかの筋肉が衰えてごっそり落ちてしまったような顔だ。
もう工場に来るなと言われてから一か月。雪は家の仕事だけをしていた。お金の手に入る仕事はずっと探しているけれど見つからない。雪を雇ってくれる人は、どこを探してもどこにもいなかった。
丸一週間工場が止まって、一緒に働いていた人たちは雪を責めた。歩合で働く人たちは、仕事がなくなればお金が入らないからだ。救急車が去って、事務所の電話がひっきりなしに鳴り始めた頃、工場長は雪を呼んで雪を引っぱたき、その後は、奥の部屋にこもって出てこなくなった。いろんなところに電話をかけて何とかしようとしていたのかもしれないし、ずっと泣いていたのかもしれなかった。
その日は家に帰されて、次の日には首になった。工場長からの解雇通知の電話を受けて、お母ちゃんは泣いていた。雪を責めるでもなく、世を嘆くでもなく、我が身の不幸を呪って泣いていた。お母ちゃんが泣いていたから雪も泣いた。わけもわからず力いっぱい泣いた。
とんでもないことをしたと思ったのだ。
「人に迷惑だけはかけるな」とずっと言われてきた。誰にも迷惑をかけちゃいけないのに、どうやらわたしは、お父ちゃんとお母ちゃん、それに工場の皆さんに、とんでもない迷惑をかけてしまったらしい。
雪は人よりかなりどんくさくて頭が悪くて、人の言っていることの半分も理解できないけれど、この言いつけだけはずっと守ってきた。
雪は、自分で考えて何かすると、確実に何か良くないことをしでかしてしまう。だから雪は自分からは何もしない。そのことでまわりの人が、「あいつは使えない」とか、「ばかだ」と雪を責めても、雪はそれを受け入れた。
人に迷惑をかけるよりはずっといい。
人に迷惑をかけるくらいなら、わたしなんて、いないほうがいいのだ。
夕ご飯の買い出しに行こうと家を出ようとしたら、玄関先にお父ちゃんがやってきて、暗い顔をして雪に言った。
「あのな、雪。もうなあ、家にはお金がないんだ。雪よう。お前、なんとかならんか」
越河雪は小刻みに歩く。
どうしたら、わたしはわたしを何とかできるのだろう。
ずっとそれを考えながら、スーパーに向かって雪は歩き続けた。
3
「長次郎さん。今日、一泊できますか?」
長次郎さんに尋ねたら、思い切り怪訝な顔をされた。山道で妖怪にでも会っちゃったって感じの顔だ。
「どうしたが花ちゃん? そんなもん、室堂派出所に帰ればいいちゃ」
言われてモジモジする。帰れないのだ。なぜなら今日、花は勝手に山に来たからだ。森口分隊長から「戻れ」とは言われていない。まだ謹慎中だけど、休暇を使って個人的に山に入る分には許されるんじゃないかとおそるおそるやってきたからだ。だから夜を明かすためには山小屋がいるのだ。
「いや……、あの……。ヤマケイにはちょっと顔を出しづらいんです。今……」
長次郎さんが怪訝のレベルを一つ上げた。唇をひん曲げている。
「花ちゃん。何やらかしたがか?」
答えずに目だけ逸らした。黒目をバシャバシャ泳がせる。
「話してみい」
「いや……。あのですね。今日は個人的な用事で、あの……、モルゲンロートをですね」
「ええから。さ。向こうで話聞くちゃ」
さっさとご飯食べてさっさと寝ようと思っていたのに、結局長次郎さんと夕食をいっしょにすることになってしまった。仕方ないから一通り経緯を話したら、酔っぱらった長次郎さんにこっぴどく叱られたあとガハガハ笑われて、なぜか最後に許された。
「なーん。気にすることないちゃ。そんなもん、若い頃渡部も森口もやらかした。マコトちゃんや新堂くんだって似たようなもんちゃ」
「そうなんですか」
「一人で何とか運びきったからバレとらんようなこともある」
「あはは……。森口分隊長とか体力おばけですもんね」
「がはは。そうちゃ。バケモンちゃ、あんなの」
夜は大部屋で、登山者たちと雑魚寝した。みんなでこうやって寝るのってすごく久しぶり。布団は薄っぺらい。だけどシュラフで寝るのよりずっと楽。布団ってすごい。布団の中にはしあわせがたくさん詰まっている。
夜明け前には起き出して、朝食のために食堂に向かったらすでに満員だった。長次郎さんと従業員さんが何人か、戦場みたいに走り回っている。
空いている席を見つけて、テーブルの隣の人にとりあえず挨拶した。
「おはようございます」
短い髪をした丸っこい顔の女性がこちらを向いた。体型もずいぶん丸っこい。箸を口に近づけたままニコニコしている。
「あ……、どうもぉ。おはよう、ございます」
高校生と言われればそうも見えるし、三十歳と言われればそれはそれで納得できそうな、歳のよくわからない顔をしていた。花を見たまま笑顔を崩さない。薄い青色のパーカーに紺色のスウェットパンツをはいている。見たところ装備はそれだけ。ずいぶんと軽装だ。
シャケの切り身をほぐして、白いご飯に載せて食べながら尋ねる。
「お一人ですか?」
「あ、はいぃ。そうです」
ニコニコしている。ご飯を乗っけたまま箸が止まっている。
「どこの山に登るんですか?」
ニコニコ微笑んでいる。答えない。
花が話しかけるからだろうか。女性の箸が止まったままなのに気が付いた。
「あ……、ごめんなさい。お食事の続き、どうぞ」
「あ、はいぃ。どうもぉ」
再びご飯を食べ始めた。切り身を丁寧に箸でほぐして、皮に身が一かけらも残らないようにきれいに食べている。お味噌汁も最後の一滴まで飲み干す。
食事を続けながら花は考えていた。余計な詮索はよくないってわかっている。だけどさっき、この人は登る山を答えなかった。
それが不思議だった。
だからおすおずと尋ねてみた。
「あの……、お名前伺ってもいいですか? わたしは、奥村花っていいます」
ニコニコしたまま女性が答えた。
「はいぃ。わたしはぁ、越河雪ってえいいます」
雪さん。何だか不思議な人だ。こうして向き合って話をしているのに、なんだか雪さんの心に触れている気がしない。たとえはアレだけど、ロボットと会話しているみたいな感じがするのだ。こんなにニコニコしているのに。人懐っこい笑顔で話してくれてるのに。
雪さんは食べ終えた食器をきれいに重ね、布巾でテーブルを丁寧に拭いた。米粒一つ残さずに見事なまでにきれいに食べきっている。食器を持って立ち上がった。
「あのう……、お先に」
「あ、どうも」
花は味噌汁の椀を持ったまま、雪さんの背中を目で追っていた。
丸っこい太目の体。スウェットパンツの裾から、体に似つかわしくない細い足首が見えていた。食器を返して、「ごちそうさまでした」と深く頭を下げている。今時珍しいくらいに丁寧な人。だけど何だか、不安な人。
放っておいてはいけないような気がするのはなぜなんだろう。
(「第4話 道迷い-3」へ続く)
※涌井の創作小説です。
