ヤマケイ ―山の警察—(第3話-4)
(第3話 二つの沢-4)
❃
冷たい。だけど気持ちがいい。
腰まで水に浸かって川底の岩を踏んで歩く。水は透明すぎて、岩魚たちが泳いでいるのがよく見える。
合戸は、黒部川、タル沢出合のゴルジュに向かっていた。
二日目、早朝に奥黒部ヒュッテを出て、東沢出合から下の黒ビンガまで順調に進んだ。数日後には雨の予報が出ていたが、今は水量も多くなく、鼻歌交じりで渡渉できるくらいだった。二日目は、日が暮れる前に広河原にツェルトを張ってビバークした。
そして三日目。
合戸は日の出と同時にツェルトを出て行動を開始した。
今日はいよいよ、上の黒ビンガを目指すのだ。
冷たい沢に踏み入る。水は多いが渡れないほどじゃない。天気も上々だ。よく冷えた風が頬を撫でる。気持ちがどんどん引き締まっていく。
行けるぞ。今度こそ、きっと行ける。
合戸は沢を登って行った。迎えるはタル沢出合のゴルジュ。
風が冷たいと思ったら、岸に巨大な雪渓が残っていた。これら残った雪が融け、沢の水をつくるのだ。
ここを越えれば――。
ゴルジュの流れは激しかった。装備を身に着けた体は自分のものじゃないみたいに重かった。必死に水を掻いてほんの少しずつ進み、ようやく岸に取りついて一息ついた。なんとか泳ぎ終えた。これでいよいよ核心部に向かえる。ここがおれの挑戦の、ハイライトだ。
「あっ」
振り返った瞬間に声が出た。何度も瞬いて、見間違いであってくれと祈った。でも何度瞬いても、それは消えずにそこにあった。チェック柄のシャツ。でもそのシャツに体のふくらみはあまりない。頭があるべきはずのシャツの上には、僅かに毛髪のこびり付いた丸く白いものが見えていた。その丸く白いものに、黒く深い穴が二つ並んでいた。
合戸は思う。認めざるを得なかった。
人だ。
遺体だ。
タル沢出合のゴルジュは難所だ。足を滑らせて動けなくなり、息絶えてやがて水に流されれば、おれもきっとああなる。あれはきっと、おれと同じように、上ノ黒ビンガを目指した登山者の成れの果てだ。
……マジかよ。
思考が停止した。やっとここまで来たのに。こんなチャンス、きっともう、二度とないのに。
――ここにきて、これかよ。
❃
今日一日で何とか家に帰る。
そう決めたから、望田はすべての食料を腹の中に詰め込んだ。これで荷物が軽くなった。それに、食事のために休憩を設けるなんて悠長なことはしたくなかった。休まず歩いて何としても今日中に帰るのだ。そうすればまだ何とかなる。遭難したとか言われなくて済む。
沢筋を下り続けていたら、やがてゴウゴウと何かが砕ける音が聞こえてきた。一歩進むごとにその音が大きくなる。
音の真上で、沢の流れが途切れていた。望田は大きな岩につかまりながら、沢の途切れたところを覗き込んだ。沢の水は、二十メートル下で白い飛沫となって砕けていた。飛沫の向こうに深く淀んだ水が見えた。滝つぼだ。
……マジかよ。
望田は天を仰いだ。自分をバカだと思った。確かに、沢を下ることはできる。だけど沢には滝があるのだ。滝は、沢の水が岩を削って作るものだ。沢の水量が少ないから甘く見ていた。少ない水だって、重力が加われば勢いは強くなる。水は岩を削るから落差だって大きい。現にこの滝も、水の高さだけでビルの五階くらいある。とても下りられない。
望田は背中側を振り返ってみた。
一日半、この沢を下ってきたのだ。沢はどこまでも続いている。
左右を確認してみた。
切り立った岩場だ。登れないし、登った先は樹林帯。きっと巻いては歩けない。
――今さら、戻れねえよなぁ。
ザックの中にはロープがあった。使うつもりなんてなかったけど、登山グッズとして持っていると格好がつくと思って以前に購入したものだ。まさか、実際にこんなものを使う日が来るなんて。
近くの木にロープを括り付けた。滝つぼの脇の岩場に下りるつもりでロープを放った。首だけ突き出してロープの行方を覗く。長さは足りたようだ。ロープの先端が滝つぼの端の方、浅そうな水の中に浸っていた。
ロープを何度か引いて強度を確かめてから、おそるおそる足を踏み出した。
たった一歩。
「あっ」
シューズの底が苔を踏んだ。望田は空中に投げ出される。滝つぼから伸びてきた見えない巨大な手に足首をギュッとつかまれたみたいだった。空を見たまま望田は滝つぼに落ちていく。水面にぶつかった瞬間、足と腰に大きな衝撃が走った。次の瞬間には世界がぜんぶ青く染まっていた。空気の粒が泡になって、深青の視界の中を蛍みたいにキラキラ舞っていた。水を隔てて空が見える。輪郭を失った黄色い太陽が遥か向こうにゆらりと揺れた。
※涌井の創作小説です。
