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ヤマケイ ―山の警察—(第3話-5)

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(第3話 二つの沢-5)


   

〈要救の名は望田広一。二十五歳の男性会社員だ。提出された登山届によると、七月十四日に入山。目的地は国見岳となっている。日程は日帰りだが、十六日現在、望田が下山したという情報は入っていない〉
 自分の意志に反して足が前に進んでいく。息が上がる。
「奥村。あまり急ぐな」
 森口分隊長に諌められた。花は額に汗しながらザラ峠を急いでいた。自分でもハイペースすぎるのはわかっている。けど足を止められなかった。
 今日の朝一番から捜索を開始して、今はすでに夕刻。太陽が傾き始めている。
「せめて、携帯電話のGPSが捉まえられりゃあな」
 森口分隊長が空を見上げながら言った。道迷い遭難の捜索方法は時代とともに移り変わっている。かつては人海戦術が主体だった捜索だが、今は携帯電話のGPSを利用して遭難者の位置を特定するのが主流だ。遭難者の大まかな位置が特定できれば、救助方法の検討ができるし、救助に費やす人員も大幅に削減できる。だけど――。
 携帯電話を水の中に落としたか。あるいはバッテリーが切れたか。
 望田さんの携帯の位置情報が見つからない。
 険しい顔で歩く花に森口分隊長がまた声をかけた。
「奥村。焦りは禁物だぞ。助ける側のお前が焦ってどうする」
「でも」
 日帰りの予定だったってことは、おそらくシュラフもツェルトも持っていないってことだ。夜を迎えるつもりがなかったんだから、きっとライトだって持っていない。食料だって同じだ。何とか水を確保できていればいいけれど、そうでなければそろそろ動けなくなっているはずだ。
 早く。
 早く見つけてあげないと。
 森口分隊長がまた空を見た。遠くに見える獅子岳の稜線が赤く染まりはじめている。
 足を止めた。
「日が暮れる。今日はここで捜索打ち切りだ」
 そう言われた。花は誰にも見られないようにクッと唇をゆがめる。
「あの、分隊長」
「なんだ」
「もう少し……。あの岩の向こうまで……」
「だめだ。打ち切りだと言ったろ」
 息を弾ませながら言い返した。
「あそこ……。あの岩までです」
「だめだ。あの岩まで進んで要救が見つからなかったら、お前はまた次の岩まで探そうとする。それをくり返したら帰れなくなる。だからだめだ」
「…………」
「わかったな。奥村」
「……了解、しました」
 花は嘘をついた。了解なんてしていない。だってまだ、望田さんが見つかっていないんだ。遭難者が見つかっていないんだから救助が終わるはずがない。わたしたちは山岳警備隊なんだ。人を助ける隊なんだ。
「よし。引き返すぞ」
 森口分隊長の指示で隊員たちは踵を返した。日が残っているうちに山を下りるのだ。
 花は、近くにいた隊員に「お花を摘む」と言って、隊から一人離れた。森口分隊長を先頭に、隊員四名がザラ峠の岩を踏んで麓に向かっていく。花はそちらに足を向けなかった。もう一度、国見岳の頂上をゆっくりと見上げた。
 ――もう少しだけ。
 花は歩き出した。
 危なくなったら戻ればいい。だからもう少しだけ。
 自分でも止められなかった。
 わたしは、人を助けるんだ。

   ❃

 夜半に近づくと雨が降り出した。
 花のフードを大粒の雨が叩く。ボツンボツンと耳元で大きく弾けて、まるで木の実でも落ちてフードに当たっているみたいだった。一粒ごとに鼓膜がビリビリ震える。
 雲が出たから月は見えない。ヘッドランプの明かりだけが頼りだった。
 ――もし、わたしが遭難したと仮定するなら……。
 そう考えながら歩き続けた。
 ――一秒でも早く見つけてほしい。だからきっと……、登山道のどこかに、わたしならじっとしている。
 沢筋の立木の影にこんもりとした丸いものを見つけた。大き目の動物かと思った。だけど、その黒く丸いものは、花のヘッドランプを見つけて手を振った。人だ。しゃがみこんでいる人間だ。
「望田さんですか」
 駆け寄って、花は勢い込んでそう尋ねた。人影がモゾリと動いた。
「はい……?」
「あの……、望田さんでしょう?」
「あ……、いえ……。ちがいます」
 予想外の返事が返ってきた。女性の声だ。花はヘッドランプの明かりをしゃがみ込んでいる人影に向けた。白く丸い光の中で、初老の女性が眩しげに目を細めていた。望田さんじゃない。誰だこの人。
「あの……、こんなところで何を?」
 女性が答えた。しゃがみ込んだままだ。
「あのねぇ……。実は……、動けなくなっちゃって……」
「え?」
「急にね。気分がね、悪くなっちゃったの。それでね。こうして休んでいたら、日が暮れちゃったものだから……」
 花の顔を見てほっとしたのか、初老の女性は目尻に涙を浮かべていた。花は困惑する。別の遭難者だ。花たちが捜索していた望田さんとは別の、救助要請をしていない要救助者を偶然見つけてしまったのだ。何てことだ。
 戸惑いながら尋ねた。
「あ……、あの、お名前は」
「品部幸子って言います」
「わ、わたしは山岳警備隊の奥村です。あの……、お仲間は?」
「いないの。私ね、一人で登っていたの。一人でゆっくり歩くのが好きなものだから」
 花は冷や汗をかく。ますます危なかった。単独行なら、こうして体調不良で動けなくなっても通報する人間がいない。誰にも知られず、一人山に取り残されてしまうのだ。
 品部さんが言っている。
「やぁねえ。今までこんなことなかったのよ。急に気分が悪くなるなんて……」
「はあ……」
 花は何と答えていいのかわからなかった。
 今まで無かったというのは、これからも起こらないということではないのだ。人は歳を取るし、歳を取れば体の機能は衰える。若い頃に冬山に登ったことがあるからと言って、年取ってから同じ計画で山に入ったら死ぬのだ。
 花は品部さんに肩を貸して立ち上がらせた。いつまでもこんなところに居させるわけにはいかない。体が濡れれば体温が下がってしまう。低体温症っていうのは冬に限定して起こる現象じゃなく、冷えさえすればいつでも起こるのだ。そして起きてしまったら、もう花にはどうしようもない。
 何とかしなきゃ……。とにかく、これ以上体を冷やさないように。雨風を逃れられる場所へ。
「近くに……、冬山小屋があったはずです。そこまで一緒に行きましょう」
 品部さんの手をとって歩き出した。冬山小屋というのは、山荘が閉じてしまう冬の間、登山者たちが夜を越すために開放されている緊急用の小屋のことだ。緊急用の小屋だから人はいない。だけど雨風は防げる。そこに行って品部さんを休ませ、ヤマケイに連絡を入れて救助隊に来てもらうのだ。品部さんは疲れているだけだ。だからそこで一晩いっしょにビバークして、翌日、やってきた救助隊に彼女を引き渡せばいい。
 雨でぬかるんだ山道は思いのほか歩きにくく、花の体力を奪った。品部の肩を抱いて支えているからだ。山を歩く時に、最も気力と体力を消費するのはバランスを保つことなのだと理解した。自分一人歩く時とはぜんぜんちがう。相手の呼吸と状態を把握しながら、転ばないように歩くのは至難の技だった。この気遣いが救助する者の気力、体力をみるみる削いでいく。
 ヘッドランプの明かりに切り取られた空間を斜めに雨が落ちていく。雨の斜線が小屋の形にはっきりと切り抜かれた。やっとたどり着いた。あそこが小屋だ。
 ドアを押し開けたら床が黒く濡れていた。何かが這いずった跡みたいに、水の染みがドアから小屋の奥までずるずると続いていた。顔を上げるとヘッドランプの明かりが小屋の奥を照らした。そこに何かいる。黒い。ぐしゃぐしゃに濡れたぼろ切れみたいな何か。
「たた……、助け、て」
 小屋の奥には、死にかけた男がうずくまっていた。

「第3話 二つの沢-6」へ続く

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※涌井の創作小説です。


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