ヤマケイ ―山の警察—(第6話-4)
(第6話 縦走(冬)-4)
午前四時半。テントのジッパーを下ろすと、吹き込んでくる空気が何となく温かった。
夏実は漆黒の空を仰ぐ。さっきまで見えていた星々が見えなくなっていた。ということは、星の明かりを雲が覆い隠しているってことだ。いつの間にか雲が出てきたのだ。何だか皮膚がピリピリする。ちょっと嫌な感じだ。
「天気予報によると、二つ玉の低気圧が近づいてきてるみたいだ」
富士夫の説明に良太郎が食いついた。
「何だよ。二つ玉低気圧って」
「西の方から、低気圧が二つ並んで近づいてるんだ。だけど大丈夫。天候が崩れるのは三日後の予定だから。ちょうどおれたちが帰るころに雪が降り出すはずだ」
「ホントに大丈夫なのかよ? 嫌だぞ。遭難とか」
「大丈夫だって。せっかくここまで来たのにもったいないだろ?」
「まあ、そりゃあ、なあ?」
典ちゃんを見た。典ちゃんもコクンと肯く。一日目、剱沢のキャンプ場に来るまでも、雪の上を相当歩いたのだ。町の数キロとちがう。この労力を無駄にするのって、相当に勇気がいる。
「みんな、準備できたか。行くぞ」
五人、縦に並んで歩き出した。先頭は富士夫。富士夫に続いてあかり。その後に夏実が付いて、典子、しんがりが良太郎だ。富士夫のヘッドランプが白い雪原をまっすぐに照らしている。
「まずは剣山荘を目指そう。三、四十分で着くはずだ」
そう言って歩き出したけど、三十分経っても何も見えなかった。富士夫は何度も地図を確認していた。きょろきょろあたりを見回してフラフラ歩いて、剣山荘の黒っぽい屋根をようやく見つけたのは一時間近く経った後だった。
風が吹き出していた。
「なんか、視界が霞んできたな」
良太郎が言っている。剣山荘は、風に煽られた雪のせいで入り口が半分近く埋まっていた。誰もいない。冬季休業中だからだろう。でもまだみんな元気だった。
「なんかさ、雪山に来たって感じだよな」
「うん。迫力あるよね」
「このまま遭難したりしてな」
「大丈夫だよ。ちょっと時間かかったけど、道、間違ってなかったろ? 次は、一服剱を超えて前剱を目指すよ。時間がない。行こう」
やめるべきだったのだ。
もう一時間ほど歩いた頃、雪が降り出した。最初はフードをかぶるくらいで何とかなったのだけど、その雪は数分で斜めに降るようになって、三十分もする頃には真横から吹き付けていた。開けていたはずの視界を雪の粒が埋め尽くしていく。もうゴーグルがないと目を開けていられない。踏ん張らないと足が前にでない。ほとんど何も見えない。見えるのは、数歩先を行くあかりのオレンジ色のウェアの背中だけだ。
本当に大丈夫なのか?
そう思ったけど、誰も口に出せないまま歩き続けた。
あかりのオレンジの背中が止まっていた。夏実はその背中に手を置く。
「ど……、どうしたの?」
あかりが振り返った。ゴーグルのすぐ下で鼻水が凍っていた。
「あのね。引き返そうって。富士夫が」
「引き返す?」
「うん。もうダメだって富士夫が」
あかりの背後に黒い影がヌッと現れた。富士夫が顔を出す。ニット帽に雪が積もっていた。雪のカーテンの向こうにこんもりと盛り上がっている大きな影を腕で示す。
「たぶん……、あれが前剱だと思う。でもダメだ。こんなに吹雪くなんて予想外だ。戻らなきゃ危ない」
「き……、来た道を帰ればいいの?」
良太郎と典ちゃんも合流した。
「おい富士夫。これ大丈夫なのかよ?」
良太郎は典ちゃんの肩を支えていた。ウェアのところどころに雪がこびり付いている。
「ダメだ。戻ろう」
「戻る!? この雪ん中をかよ」
「たぶんあれが前剱だ。目印を見失ったら本当に戻れなくなる。だから今引き返さなきゃ」
「引き返すって……。ここまで来て、お前、勘弁しろよぉ」
来た時と同じように、縦列を作って引き返すことにした。さっきまで背中を押していた風が、今度は向かい風になった。すぐにゴーグルが雪で埋まる。視界はほとんどない。真夜中みたいに暗い。風の音で声が聞こえない。誰がしゃべっているのか、しゃべっていないのかわからない。
体感的には、ほんの数分しか歩いていない気がしていた。夏実はあかりのオレンジ色の背中にぶつかった。頭をぶつけて少しよろける。猛吹雪の中、顔を上げた。あかりのオレンジの背中。その隣に富士夫の黒い背中。その向こうに巨大な黒い影が見えていた。映画に出てくる怪獣みたいだ。ぬうっと高く伸びて夏実たちの行く先を塞いでいる。
「何これ」
呟いた。富士夫が無言でそれを見上げている。あかりが富士夫の腕をぎゅっとつかんだ。夏実は黒い影に触れてみる。固かった。ゴツゴツしていた。岩だ。でっかい岩が、道を塞いでいる。
「なんで、こんなところにこんな岩塊が……」
富士夫が呟いていた。典子と良太郎が合流する。
五人、立ち尽くして岩を見上げた。
「何だよこれ。富士夫」
「…………」
「何か言えよ」
「わからない。地図にこんな岩、描かれてない」
「じゃあ何だ。この岩、空から降ってきたのかよ」
「……わからない」
「どうすんだよ富士夫。もう何も見えねえぞ」
「う……、うん」
「『うん』じゃねーだろ。どうすんだって聞いてんだよ」
「うん」
一番聞きたくない言葉が返ってきた。
「……どうしよう」
「はあ!? お前、リーダーやるって言っただろーが」
「ちょ、ちょっと待って。こんなに早く天候が崩れるとか聞いてないから」
良太郎が見切りをつけるように富士夫に背を向けた。
「こんなとこにずっといたら凍えちまう。さっさと戻ろうぜ」
「で……、でも、どっちに戻ればいいのか……、わからない」
「…………」
「動いたら、もっとわからなくなる」
時刻は午後二時を回っていた。富士夫が全員の顔を見回してからゴクリと唾を飲んで言った。
「ここで……、ビバークするよりない」
❃
ほとんどパニックだった。
「か、風を防がなきゃ……。岩棚にツェルトを張って風よけにするんだ」
「貸せ!」
良太郎が富士夫のツェルトを奪い取った。強引にそれを広げ、力任せに岩棚に括り付ける。
「これでいいのか?」
「た……、たぶん」
「おいい。頼りねえなぁ」
五人横に並んでツェルトに収まった。風がビュウビュウからゴウゴウに変わった。吹き飛ばされそうで、端っこにいる良太郎と富士夫が手でつかんでツェルトを支えていた。しだいに日が落ちて行く。吹雪で外は暗くて、まるで夜みたいだと思っていたのに、本当の夜ははるかに暗く、寒かった。
冷蔵庫とか冷凍庫とかそういうんじゃないと思った。あれはただ温度が低いだけ。外のマイナス十五度は飛んでくるナイフだ。尖った欠片状の雪を含んだ強風が、肌の露出しているところにビシビシぶつかってその度に深く肌を引っ掻いていく。同時にごっそり熱を奪っていく。頭の上でツェルトがビイビイ鳴いている。風に煽られすぎて、ビニルを引きちぎるような音が連続して鳴っている。ツェルトには隙間があってそこから細かなナイフが何百本、何千本と飛び込んでくる。顔は、目だけを残してフェイスマスクで被っているけど布の隙間。一ミリにも満たないその隙間から凍った空気が忍び込んでくる。冷えすぎて、最初の数分は寒いを超えて痛かった。いまは痛いを超えて皮膚が麻痺し始めている。体を動かして筋肉で熱を作ろうとか、そんなのは元気な人間が考えることだと知った。とてもそんな余裕はない。そもそも、一枚のツェルトで作ったこの小さな空間で、体を動かすことなんてできやしなかった。風を避けるため、ほとんど隙間なく密着しているのだ。身じろぎすらできない。寒いからだ。隙間を作ればそこに冷気が差し込む。体温が奪われてしまう。
――みんなで体を寄せ合って……。生まれたての子鼠みたいだ。
顎を縮めて膝に埋めながら、夏実はそんなことを思っていた。真っ暗だ。隣は誰だったっけ。体の大きさからしてたぶん富士くんか良くん。腕をくっつけて座っているのに隣の人の顔も見えない。みんな一言もしゃべらない。口を開くとそこから熱が逃げるからだ。
最初は緊張とツェルト張りの作業のせいでまだいくらか元気があった。雪でほとんど全部が真っ白だったけど、まだ日が出ていて視界もいくらか保てていた。体もまだ熱を持っていた。富士夫も何とかリーダーを務めようと努力していた。
「みんな、ザックから荷物を出して、ザックを尻の下に敷くんだ。直接座るよりましになるはずだ」
夏実とあかりだけが従った。岩重夫妻は動かなかった。たぶんもう、富士夫のことをリーダーとして信頼しないという意思表示だったんだと思う。良太郎は自分でザックから替えの下着を出して尻の下に敷いていた。典子にも同じようにするように言っていた。
富士夫がちらりと良太郎を見てからまた言った。
「ひ……、一晩だけだから大丈夫だと思うけど、か……、各自、持っている食料を確認して計画的に食べるんだ」
富士夫が良太郎、典子、あかりの順に手を伸ばして何かを渡した。最後に夏実に手を伸ばす。
「はい」
「何……、これ」
夏実は黄色いグローブの上にのっかった二粒の黒いものを見ながら言った。富士夫が唇を震わせながら答える。
「く……、黒飴だよ。食べないと体が冷えちゃうから」
「そうじゃない。何でみんなにこれを配るの?」
富士夫が良太郎を見た。それから良太郎の向こうに隠れるようにしている典子も見る。
「だ……、だって俺はリーダーだから。みんなを守らなきゃいけないから」
「富士くんは、みんなに配っても余るほどたくさんの食料を持って来てるの?」
「…………」
「…………」
「……大丈夫。だって明日には山を下りるんだから」
「なんで明日になったら吹雪が止むってわかるの?」
「だから……。大丈夫なんだって」
それを食べてからはみんな無言だった。ツェルトに入ってから約二時間。変化と言えば、日が暮れたこと、それに風が強くなったことくらいだ。
「富士夫」
男の声がした。良太郎だ。風に煽られたツェルトの悲鳴に混じっているからひどく聞き取りにくい。
「救助……、頼んだほうがよくねえか。これ」
風が怖い。ポールで固定しているはずなのに、ツェルトがジリジリ体に迫ってくる。きっと風が強すぎて、五人の体重ごとツェルトが少しずつ移動しているのだ。
良太郎の声がかすれていた。
「持つのかよ。一晩、これで」
「…………」
「なあ」
「…………」
「なんでそこで黙るんだよ。まさかまだ、大丈夫だって思ってんのかお前」
「きゅ……、救助なんて大げさだろ」
「大げさじゃねえよ。これ、完全に遭難だろうが」
「も……、もう少しだけ……」
「あ!?」
「風と雪が止めば歩けるんだ。そうしたら山を下りられるから……」
「お前! そんなん言ってる場合――」
その瞬間、猛烈な勢いで空に引っ張られた。夏実は何が起こったのかわからない。ツェルトごと、急にひっくり返されたみたいだった。空中でグルンと回転してそのまま横倒しになる。体の上に誰かが降ってきた。混乱した。慌ててもがく。誰も何も言わない。ツェルトがビイビイ震えながら頬をビシビシ叩いている。這い出した。途端に吹雪交じりの風が夏実の頬を叩いて夏実のニット帽を吹き飛ばした。氷のドライヤーが吹き付けて髪が引っ張られ、首を曲げられない。夏実の長い髪が凍っていく。
背後で悲鳴が上がっていた。断片的に聞こえる。「破れた! ツェルトが破れたぞ!」
「みんないるか」
「ザックが吹っ飛ばされた」
「生きてるか」
「ちくしょう。食料と着替えが」
「返事しろ」
「西原ここにいます」
「あかりは」
「います」
「良太郎、典子ちゃんは」
「おれが支えてる」
「良太郎、ツェルト出して」
「ザックが吹っ飛んだ。ツェルトもザックの中だよ」
「誰か」
夏実は這いずって腹の下を探った。ある。夏実のザックは飛ばされていない。
「私、ある」
「出して」
無理だ。ザックを持ち上げるだけで吹っ飛ばされる。誰かの手が伸びてきて夏実の体ごと抱きしめた。支えのつもりなのだろう。夏実はザックを抱いたまま、下部のジッパーを引っ張ってツェルトを取り出して叫んだ。
「広げらんない。風を防いで」
夏実を抱いていた腕が開いて風がいくらか緩くなった。体で壁を作ったのだ。夏実は黄色いツェルトを袋から引き抜いた。途端に外袋が闇の中に消えていった。猛烈な勢いでシートが引っ張られる。「離すな!」
「誰か。手」
何人かの手が伸びてきて黄色いツェルトを何とかつかんだ。まるで旗のように闇夜にツェルトがはためく。とても固定などできない。
「無理。みんな集まって。体重で」
岩場にツェルトを設置することはもはや不可能だった。雨合羽のように羽織るしかない。暗闇の中、さっきよりもっと身を寄せ合って黄色いツェルトで五人の頭から肩を包み込んだ。耳元でツェルトが鳴く。死にかけのセミみたいにビイビイ鳴く。下半身はもはや吹きさらしだった。
しゃべれない。
歯の根が合わないのだ。もう、震える余力すらなかった。足の爪先から順に凍っていく感じがする。真っ暗闇の中で氷水の足湯に浸かっているみたいだ。凍った雪の地面が私たちの熱を強欲に奪い取っている。命を、爪先から一ミリずつ削り取られている。
「典子、典子」
声が聞こえる。良太郎だろう。「典子。死ぬなよ」
返事はない。風がびゅうびゅう鳴るだけだ。
「富士夫、救助隊呼べ。呼んでくれ。典子が死ぬ。死んじまう」
「だめなんだ」
「何でだよ!?」
「電波が通らない」
「…………」
「ここじゃ、電話が通じないんだ」
だから富士夫は言わなかったのだ。言ったらみんな絶望するから。
じゃあなぜ今、富士夫は絶望的な事実を皆に突き付けた。
夏実は考え、理解した。
あきらめたのだ。ここでみんな死ぬと、そう判断したのだ。
だめだ。
誰かがやらなきゃ。
夏実はスマホを取り出してバックライトをつけ、隣を見た。真っ白い顔をした富士夫とあかりがそこにいた。真っ白い顔を二つ寄せ合っている。
「富士くん」
「…………」
「ここからは私が決める。だから教えて」
「……え。あ」
「冬山で遭難したらまず何をすべき? 教えて」
「か……、体を冷やさないようにする」
「どうやって」
「ツェルトを」
「ツェルトはもうだめ。その時は?」
「ゆ……、雪を掘って雪洞を」
立ち上がった。そして叫ぶ。
「なら掘るの! 堀りなさい! なに黙って震えてるの!」
みなで雪洞を掘り始めた。ようやく作った二つの雪洞に、富士夫、あかり、夏実組と、岩重夫妻が入った。真っ暗闇の中、時折声をかけあって互いの無事を確認しながら夜明けを待った。
空が白む瞬間を、こんなに待ちわびたことはなかった。こんなに長い夜はなかった。
雪洞の壁を少し崩して、顔だけ外に出した。音と明るさでだいたい予想はできていたけど、やっぱり絶望した。こんなに風が吹いている。夜が明けたのにこんなに何も見えない。だから天候は回復していない。
今日も吹雪だ。
雪洞を出て隣の良太郎と典子に話しかけた。
「良くん、典ちゃん。大丈夫?」
良太郎の声が返ってきた。「天気は?」
「ダメ。吹雪のまま」
「典子がやばいんだ。ほとんど動かない」
「息は?」
「してる。けど、手が真っ白なんだ。昨日、典子のやつ、手袋を風に飛ばされたから……。典子の手、凍っちまってるみたいなんだ」
「救助を呼ぶから。待ってて」
自分の雪洞に戻った。富士夫に顔を近づけて言う。
「助けを呼ばなきゃ。典ちゃんが死んじゃう」
富士夫が怯えていた。
「でも……、携帯が通じないんだ」
「どうしたら通じるの。教えて」
「む……、無理だ」
「無理じゃない! 富士くん何言ってんの!? あかりちゃんを殺す気!?」
「さ、山頂や山荘では通じるって聞いたことがあるけど……」
「けど、何」
「この吹雪じゃ登れない。岩壁が電波の邪魔をするから、携帯は、開けたところじゃないと通じないんだ」
決意した。
「この場所はどのあたりなの? できるだけ詳しく教えて」
「な……、夏っちゃん?」
「私が登って助けを呼ぶから」
「ダメだ。死ぬよ」
「ここに居たら死なないの?」
「…………」
「富士くんはあかりちゃんを守って。良くんは典ちゃんを守るの」
「な……、夏っちゃんは……?」
夏実は雪洞を出ようとする。歩くのだ。
「私は、みんなを守る」
※涌井の創作小説です。
