ヤマケイ ―山の警察—(第3話-1)
(第3話 二つの沢-1)
1
ここ数日、雨が続いていた。
この時期になると、花は時々夢を見る。まだ幼い頃、父と過ごしたある一日の夢だ。
その日もひどい雨だった。
「今日は今年一番の大雨だ」という会話をくり返すような異常な日が続いていた。
その日、中学一年生だった花は自宅のリビングにいた。夥しい湿気でガラス窓は真っ白だった。真っ白のガラスに右手を当ててサッと拭うと、花の手の形に外の様子が窺えた。庭の土が大粒の雨だれにボツンボツンと穿たれていた。紫陽花の緑の葉は土色の厚い雲のせいで紺色に染まっていた。雨に打たれすぎて全部の葉っぱが頭を垂れている。痛そうなくらいに強い雨だ。
花の後ろで、父が誰かと電話で話していた。悲鳴みたいな雨音のせいでよく聞き取れない。
「わかりました。すぐに署に向かいます」
電話を終えた父が花に言った。
「花。母さんの学校に行くぞ。準備しなさい」
非番のはずなのに、すでに父は出勤用のシャツに着替えていた。状況が飲みこめずポカンと口を開けている花に父が続けて言った。
「このあたり一帯に避難指示が出た。母さんの中学校に避難するんだ」
まだポカンとしたまま花は尋ねた。
「父さんは?」
「非常呼集だ。お前を送ってそのまま署に向かう。早く準備しなさい」
大雨のせいで、中学校につながる山あいの道路はすでに冠水していた。
信じがたいことに、冠水した道路に何台も車が立ち往生していた。あまりに急激に水が増したせいだろう。車の中に何人も人が取り残されていた。取り残され、どうすればいいのかわからなくなった人たちが、次第に沈みゆく車の中で怯えていた。
父は高台に車を止め、水の中を歩き、車内の人間に「高台に逃げるんだ」と避難誘導を始めた。花は高台に続く上り坂の入り口で、ガードレールにつかまりながら父のすることを見ていた。皆が父に続いて花のいる坂道を上がってくる。みんなひどい顔をしていた。泣いている人もいた。花は怯えていた。水嵩がどんどん増していく。いつも歩いて学校に向かう通学路だ。それが茶色い水の中に沈んでいる。どういうことだ。何が起こってるんだ。この世界が終わるのか。
地鳴りがして、近くの斜面が崩れた。土の津波が道路に覆い被さって、鉄でできた車をおもちゃみたいに飲みこんでいく。本当にあっけなかった。土砂の重さと勢いの前に、人の作ったものはあまりにも無力だった。逆らいもしない。土が流れるままに流れていく。形を崩し、ベコベコに凹んで、時にはちぎれて、まるでゴミみたいに町が壊れていく。
「ガードレールにつかまれ」
父が叫んだ。みんなつかまる。誰も何も言わなかった。花も何も言わなかった。声なんか出なかった。何も判断できない。
みんながガードレールにつかまったのを確認した後、父が坂を上がり、花のところにやってきた。花の顔に手を触れ、「大丈夫だからな」と言った。その直後だった。二度目の土石流が、花たちのいるコンクリートの坂道を一瞬で川に変えた。濁流が落ちてきた。
大地が揺れた。大きすぎるその揺れのせいですべての音が掻き消えた。斜面の上から真っ黒い土の塊が流れてくる。ミキサー車を倒したみたいに半固形の泥の津波が山からあふれ出した。花は大きく口を開けてそれを見ていた。神さまが怒ったんだと思った。みんな壊れてしまうんだと思った。
父の声がした。
「しっかりつかまれ」
土砂が大地そのものを揺らして斜面をごっそりと浚っていく。花の足が数センチ空に浮いた。次の瞬間にドン、ドンと二回ほど突き上げるような衝撃があって斜面にヒビが走った。土の塊が巨大な波になって花の顔のすぐ前を流れていく。土そのものがうねっていた。何メートルもある大きな渦になって土が流れる。その土の真ん中に、父がいた。
「花」
父が叫んだ。父の半身は泥の中に埋まっていた。辛うじて出ていたのは首と左手。父の左手が花に向かって伸びていた。花は必死でガードレールにつかまっていた。顔の前に父がいる。父の手がそこにある。花は左手でガードレールを抱えたまま、父に向けて右手を伸ばした。限界まで伸ばした。首筋がミキミキ軋むくらい伸ばした。でも父の手まであと数センチ。
届かなかった。
花の右手の指は、父の左手に触れなかった。
土の津波が父を飲みこみ、そのまま山あいの道路まで落ちて行った。父は一瞬で見えなくなった。どこにもいない。何もない。みんな無くなった。みんな消えてしまった。
「おとうさぁん」
声は割れていた。大降りの雨音にかき消された。でも叫んだ。叫ぶことしかできなかったから。父さんの手に、わたしの手は届かなかったから。
わたしは、父さんを見殺しにしたんだ。
それから数年経ち、高校生になった花はボルダリングをはじめた。
もっと手を伸ばしたかったから。
意味がないのはわかっている。でもそれしか見つからなかったのだ。
どうしても、できることをしたかった。
毎日思っていた。
わたしの人生は――、きっと贖罪だ。
❃
昼下がりに雷鳥沢のキャンプ場を歩いているとき、登山道の脇で小さなつむじ風が起こった。何だろうと思って花は振り返る。町では見慣れているけれど、ここでは見かけたことのない大きな鳥が、黒い翼を羽ばたかせて飛び上がろうとしているところだった。
眉を少しだけしかめて祭先輩に言う。
「先輩、あれ……」
祭先輩が淡々と答えた。
「うん。ハシブトガラスだね」
でも、ここは山だ。
「ここ……、標高二千メートル以上あるんですよ?」
「うん。最近、時々見るようになったんだ」
カラスの生息域は基本的に平地だ。ハシブトガラスの一部は高地に順応しているものもいるけど、それだって二千メートル以上の高地に来るものなんて聞いたことがない。なぜなら高地には、カラスが食べるようなエサが基本的にはないからだ。
でもいる。ということは――。
祭先輩がキャンプ場のテントの群れを見ていた。黄色いテントを前に、テーブルを広げて数人の男女がバーベキューをしていた。白い煙が上がっている。笑い声がここまで聞こえてきた。
「花ちゃん」
先輩が遠くを指差した。その指の先にラフな格好をした若い男がいた。腰を屈めて何かしている。目を凝らしたらわかった。キャンプ場の草地に穴を掘っているのだ。穴を掘って、そこに何かを埋めている。
祭先輩が唇を噛んでいた。こぼれるように呟いた。
「だめ」
歩いて行く。花も慌てて後を追った。祭先輩が近づいてくるのを認めて男が腰を起こした。空っぽになったビニル袋を片手に持っている。ビニルは何かの液体でべっとりと汚れていた。
「今、何してた?」
祭先輩が言った。きつい口調だ。男性の顔がムッと歪む。
「なに?」
「だから、今、何してたって聞いてるの」
「なんだよ。あんた誰?」
「県警の山岳警備隊」
「警察? マジかよ。こんな山の中にも警察とかいるわけ?」
「何を捨てたの?」
「ああ? 生ゴミだよ生ゴミ。食べ残し」
祭先輩が間を置いてからゆっくりと言った。
「なぜ捨てたの」
男性がムッとした顔のまま固まった。答えようとしない。祭先輩がずっと目を逸らさないのを見て、吐き捨てるように短く言った。
「生ごみなんだから土に還るだろ」
「冷蔵庫に入れたものは腐らないよね。それはわかるよね」
「…………」
「毎年、夏になると雪が解けてこういう生ごみが出てくる。そうするとね、カラスがくるの。本当はこんなところにはいないはずなのに、エサを見つけて飛んでくるの」
雷鳥沢のキャンプ場は、登山者のベースキャンプの役割を果たすと同時に、高地での行楽を楽しめる場所でもある。夜になれば満天の星が見られるし、近くには温泉もある。夏場ならトイレだって水場だってある。だからこの時期は、大勢の人がこのキャンプ場にやってくる。中にはここを、山だと思わないでやってくる客だっている。そういう人は、町の理屈をここでも主張する。場所の利用料を払っているんだから。管理者がいるんだから。みんなやっているんだからって言う。
祭先輩は激しく怒っていた。
「するとね、カラスはここで生きようとする。雷鳥の雛を取って食べたりする。高山植物だって荒らされる。でもカラスは悪くない。生きてるだけ。だけど、あなたたちはちがうよね。自分でどうするか選べるよね」
男性が怒りとも戸惑いともつかない表情で小刻みに肩を震わせていた。このままだと後にも先にも引けなくなって、きっと怒鳴り合いのケンカになってしまう。さすがに止めようと思った。花は祭先輩の背中におずおずと声をかける。
「あの……、祭先輩……?」
「花ちゃんごめん。あたし怒ってる」
男性も後に引けない様子だった。顔を紅潮させて言ってくる。
「だからさぁ! おれたちだけじゃねえだろ? 見てみろよ。みんなやってる」
花もそれはわかっている。祭先輩だって知ってる。そう、一人ではない。同じことをしている人は、他にも大勢いるのだ。
「取り締まるなら全員取り締まれよな。だいたいよぉ、そんなに山が大事なら誰も入れねえように封鎖しちまえばいいんだよ。山に人を呼んで商売してるのに、お客に無理難題吹っかけるのはおかしいだろ?」
無茶苦茶だ。山に人を入れるのは、山を楽しんでほしいからだ。山を楽しみたい人が大勢いるからだ。でも山はレジャーランドじゃない。
祭先輩はキュッと唇を噛んでうつむいていた。
「人は……、お山に場所を借りてるんだ」
うつむいたままそう呟いた。男性が、唾棄するようにチッと舌を鳴らす。
そして言い捨てた。
「警察なんだから、山じゃなくて人を守れよ」
何とか男性にゴミを持ち帰らせ、花たちは室堂派出所への帰路についた。
祭先輩があまり話さない。いつもなら登山道に高山植物を見つけては、散歩中の子どもみたいに目を輝かせて花にいろいろ教えてくれたりするのに。
花は横目で祭先輩の表情を盗み見た。
すごく悲しそうな顔をしていた。
口の中で言っていた。
「どうして……、もうしないって言ってくれないんだろう」
肩を震わせていた。
「なんで……、頼んでも止めてくれないんだろう」
噛んだ唇が真っ白くなっていた。そこに血が滲みそうで怖くなる。
花は時々、祭先輩がちょっと怖い。
この人を動かしているのは、いったい何なのだろうって怖くなるのだ。
※涌井の創作小説です。
