ヤマケイ ―山の警察—(第3話-2)
(第3話 二つの沢-2)
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ふうん。登山届ってこういう書類なんだ。
男は片手に三五〇ミリリットルの缶ビールを持ったまま、もう一つの手で登山届の用紙に鉛筆を押し付けた。普段ならこんなもの出さない。今日はたまたま、山に入る前に一本目のビールを飲みたくなったから、それを飲んでいる間、手持ち無沙汰でなんとなく書いてみただけだ。
目的の山は?
あたりを見回してからちょっと考えた。天気がいい。だからだろうけど登山客が大勢だ。人ごみに揉まれながらの登山は趣味じゃない。帰りに温泉によって汗を流したいし……、近場であまり人がいない山――。
登ったことはないけど、いつだったか山荘で隣り合った登山客が言っているのを聞いたことがあった。人気はあまりないけど、稜線からの景色は最高だって。立山のカルデラを眼下に望みながら飲むビールはうまそうだ。
「国見岳……、行ってみるかな」
登山期間は?
「はいはい。日帰りですよー」
登山構成員の氏名・住所等
「望田広一、二十五歳、と」
山に入るための装備とか食料とか、そういうのは空欄でいいやと思った。ウォーキング用のシューズに缶ビールの六本パック。それにコンビニおにぎり数個と裂きイカのパック。そんなの書いたら格好悪い。一応、山登り用のウェアを着込んではいるけど、本格的な登山をする気なんて端からないのだ。ちょっと歩きでのあるハイキング程度で十分。山に入るのは、いい景色を肴にビールを楽しむためだって言った方が正しい。
望田はバスターミナルを大きく迂回して、国見岳の裾野を目指して歩き出した。国見岳にこれといった登山ルートはない。だから好きに歩ける。
少しだけ開けた場所を見つけて倒木に腰かけ、二本目のビールに手をつけた。炭酸の抜けるプシュという音で、隣で汗を拭っていた男性が振り返った。
目が合った。
「あ。どうです、一本」
「ああ、こりゃどうも」
それで一緒にビールを飲んだ。
「あのう。国見岳の頂上ってもうすぐですか?」
「頂上? さあ……。私ゃ登ったことないから」
「え? でも……」
こうして山にいるのに。
「私ゃね、これ」
腕をクイと持ち上げる仕草をしてみせた。「沢でね、岩魚をこう、釣るのが目的でね」
「へえ」
「山もいいけどさ。沢もね、いいもんだよ。流れを見てるだけでさ」
それで、行ってみようかという気になった。こんな、年寄りと言っていい年齢の人が自由に出入りできる場所なんだし、サッと行って、沢の水でビール冷やして、ガーッと飲んで帰ってこよう。上手く行けば、釣り人の誰かから岩魚の一匹くらい分けてもらえるかもしれないじゃないか。
❃
黒部上の廊下、上ノ黒ビンガ。
はじめて写真でその岩壁を見た時、こんなものが日本にあるとはとても思えなかった。
沢を挟んで両脇に切り立つ数百メートルの岩の壁。岩壁は短冊状の岩がいくつも張り付いたような幾何学模様だ。そしてその白い岩壁の隙間から、白糸ともいうべき細い水が滝となって流れ落ち、限りなく透明な沢を作る。
どうしても行ってみたかった。
合戸吾朗は会社員だ。だから自由に休みなんて取れない。ただでさえ山は時間が必要なのだ。たとえば夏の上の廊下を登るのに必要な期間はおおむね三日間。だけど、天候次第でそれは四日にも五日にも変わる。それを見越して予備日を確保しておかねばならない。これは会社員には相当なハードルだ。「三日か四日か五日、状況に応じて有給をとります」なんて、上司を目の前にして言える者は少ないだろう。
上ノ黒ビンガへの挑戦。それは合戸の三年越しの夢だった。初挑戦の時はタル沢のゴルジュ(二つの岩壁が近く、川幅が狭まっているところ)で断念した。思いのほか水量が多かったのだ。技術も知識も足りなかった。これ以上進んだら戻れなくなると思ったのだ。
二年目は思いつく限りの準備をして再び挑んだ。だけど今度は天候に阻まれた。下の黒ビンガの先、広河原に向かう途中の岩壁に取りついている時にポツポツ雨が降ってきて、登り終えた時には沢の水が茶色く濁っていた。見上げると雲は近くて、乳白色の霧も出てきて、霧と雲の切れ目がわからないくらいだった。断念せざるを得なかった。
そして三年目。合戸はさらに準備を続けた。黒部上の廊下のガイドビデオだって諳んじられるほど繰り返し見たし、クライミングの講習会にも何度も参加して腕を磨いた。クライマーとしてできる努力はぜんぶしたと思う。だから後は祈るだけだ。
晴れろ。
七月第二週の今日。天気予報の北アルプス辺りには、ニコニコ笑った太陽のマークが並んでいた。当面は雨の心配はないと言っていた。奇跡的に、条件がぜんぶ整った。
船に乗せてもらって平ノ渡場を越え、奥黒部ヒュッテで一日目の夜を過ごした。そこで登山計画書を提出する。
目的の山は?
黒部上ノ廊下 沢登りのため
登山期間は?
七月十四日~七月十八日予定(予備日二日間)
登山構成員の氏名・住所等
合戸吾朗 東京都 二十五歳
装備は? 食料は?
防寒、防水のウェアに沢登り用シューズ。ヘルメット。スリングにカラビナ。ヘッドランプ。シュラフにナイフ、食器、地図にコンパス。使い捨てカイロ。食料は白飯のアルファ米八〇〇グラム。マカロニサラダ五〇〇グラム。シリアル五〇〇グラム。ベーコンビッツ、魚肉ソーセージにカレーフレーク。マヨネーズに顆粒のコンソメ。
これでだいたい七日分。予備日を含めて用意した。
それに加えて緊急時連絡先と、予定している行程をできる限り詳細に書き込んだ。最後に備考欄に「行ってきます」と書いてヒュッテのポストに投下した。これですべての準備を終えた。後は挑むだけ。
翌朝は、日が登り始めるのを待って四時に出発だ。早めに夕飯を腹の中に入れてしまおう。
「明日、おれの夢が叶うんだ」
こんなに胸が高鳴るのなんていつぶりだろう。合戸はなかなか眠れなかった。
❃
おかしいな、と感じた時にはもう引き返せなくなっていた。
望田は疲労していた。道迷いにはパターンがある。人の足跡を見つけてそれを登山道だと思い込んだり、木に括り付けられている蛍光色のテープを「道しるべ」と勘違いしたりして迷い込むケースや、下山時に、「登る時に通ってきたんだから道に迷うはずがない」と思い込んで、不注意でルートから外れてしまうケースなどいろいろだ。
でも、どんなパターンでも共通していることが一つある。それは〝疲れ〟だ。人はたくさん歩くと疲れる。疲れるから、心理的にも体力的にも、来た道を登り返せなくなる。
そうなるともう、道なき道をひたすら下り続けることしかできなくなるのだ。
「登山道はないけどさ、あっちの樹林帯に獣道があるよ」
いっしょにビールを飲んだ時、隣に座った老人はそう言った。
「沢までどれくらいかかります?」
「そうだなぁ。三十分ほどかね」
それからすでに二時間以上経過していた。稜線が見えているうちはよかった。山の峰と比較して、自分がいま、だいたいどこにいるのかわかったからだ。だけど樹林帯に入ったら途端に方向を見失った。どっちを見ても木しかない。森の中で現在位置を知るには、道標となる歩道が必要なのだと知った。自分がどこに向かっているのかわからない。わかるのは、登っているか、下っているかの二つだけだ。
望田は焦り始めていた。
――やばい。
腕時計の針は午後の三時を回っていた。本来ならすでに下山しているはずの時間だ。もう岩魚などどうでもよかった。早くしないと今日中に帰れなくなる。そうなれば明日は無断欠勤になってしまう。そう考えてから望田は思った。あ、そうか。会社に電話を入れれば無断欠勤にはならないじゃないか。でも何て言おう? 山で道に迷って今日は帰れないので明日会社休みますって言うのか? 何だそれ。もしそんなこと言ってみろ。
「いまどこだ」
「山の中です」
「まさか、遭難してるのか」
そうなったらどう答える? こんなのちょっと道に迷っただけじゃないか。でも、電話の向こうにいる課長にはおれがいま元気に歩いている姿が見えないから、「山で迷ってる」なんて告げたらきっと大事にするだろう。下手したら警察に救助要請までするかもしれない。そうなったらおれはもう遭難者だ。山岳警備隊やボランティアの人たちがわらわらやってきておれを探し始める。大恥だ。こんなに元気でピンピンしてるのに、どんな顔して発見されりゃいいんだ。それに、どんな顔して会社に行けばいいのかわからないぞ。
傾斜が強くなってきた。望田は立木の枝につかまりながら一歩ずつ下っていく。足を止めるのが怖かった。こうして一歩ずつでも下っていけば、山なんだから、いつかは麓にたどり着く。来る時に、室堂ターミナルから二時間もかからずに上ったんだから、きっと後数十分も歩けば、山を巻いている登山道のどこかに出るはずだ。そしたら急いでターミナルに戻ればいい。
そう信じて下り続けたのに、一時間後、見つけたのは道ではなく沢だった。
「マジかよ……」
沢に降りたら樹林が切れて、ようやく空が見えた。でも太陽はもう見えない。日はすでにだいぶ落ちていて、沢に木々の長い影を伸ばしていた。
暗くなっていく山を見ていたら、深く重いため息が出た。
「一晩……、ここで過ごすしかないかあ」
望田はため息といっしょにそう呟いた。すごく嫌だけれど仕方がない。ここなら水には困らないし、幸い、まだ手をつけていない食料もいくらかある。明日、明るくなったらこの沢を下ればいい。水は上から下に流れるんだから、沢を下れば絶対に平地に出る。それに何より、山肌に生い茂った木々を掻き分けて、山の稜線まで登り返すのは体力的に辛すぎた。沢なら水と岩しかないのだ。すいすい歩けるはずだ。きっとすぐに平地に着く。それに、これだけ見晴らしだっていいんだから、きっとそのうち誰かがおれを見つけてくれるはずだ。
望田は、体をもたせ掛けられる程度の大きな岩を見つけ、そこを今日のねぐらに決めた。沢にビール缶を浸して、それから空を仰ぐ。
「とんでもない休日になっちまったなぁ」
スマホを取り出して、彼女にメールを打った。
山でプチ遭難。明日には帰るから心配無用。
会社には明日の朝電話して、体調が悪いので今日は休みますと言おうと思った。
暗闇の中、望田は川の流れに目をやった。光の無い夜の川は墨汁のようだ。どこまでが川岸なのかわからない。黒く細長い竜みたいな生き物が、うにょうにょとのたくっているみたいに見える。
この川の流れる音――。
望田は目を閉じた。
明日の朝電話してる時に、スマホが拾ったりしなきゃいいけどなぁ。
※涌井の創作小説です。
