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ヤマケイ ―山の警察—(第3話-3)

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(第3話 二つの沢-3)


   ❃

 冷たい。だけど気持ちがいい。
 腰まで水に浸かって川底の岩を踏んで歩く。水は透明すぎて、岩魚たちが泳いでいるのがよく見える。
 合戸は、黒部川、タル沢出合のゴルジュに向かっていた。
 二日目、早朝に奥黒部ヒュッテを出て、東沢出合から下の黒ビンガまで順調に進んだ。数日後には雨の予報が出ていたが、今は水量も多くなく、鼻歌交じりで渡渉できるくらいだった。二日目は、日が暮れる前に広河原にツェルトを張ってビバークした。
 そして三日目。
 合戸は日の出と同時にツェルトを出て行動を開始した。
 今日はいよいよ、上の黒ビンガを目指すのだ。
 冷たい沢に踏み入る。水は多いが渡れないほどじゃない。天気も上々だ。よく冷えた風が頬を撫でる。気持ちがどんどん引き締まっていく。
 行けるぞ。今度こそ、きっと行ける。
 合戸は沢を登って行った。迎えるはタル沢出合のゴルジュ。
 風が冷たいと思ったら、岸に巨大な雪渓が残っていた。これら残った雪が融け、沢の水をつくるのだ。
 ここを越えれば――。
 ゴルジュの流れは激しかった。装備を身に着けた体は自分のものじゃないみたいに重かった。必死に水を掻いてほんの少しずつ進み、ようやく岸に取りついて一息ついた。なんとか泳ぎ終えた。これでいよいよ核心部に向かえる。ここがおれの挑戦の、ハイライトだ。
「あっ」
 振り返った瞬間に声が出た。何度も瞬いて、見間違いであってくれと祈った。でも何度瞬いても、それは消えずにそこにあった。チェック柄のシャツ。でもそのシャツに体のふくらみはあまりない。頭があるべきはずのシャツの上には、僅かに毛髪のこびり付いた丸く白いものが見えていた。その丸く白いものに、黒く深い穴が二つ並んでいた。
 合戸は思う。認めざるを得なかった。
 人だ。
 遺体だ。
 タル沢出合のゴルジュは難所だ。足を滑らせて動けなくなり、息絶えてやがて水に流されれば、おれもきっとああなる。あれはきっと、おれと同じように、上ノ黒ビンガを目指した登山者の成れの果てだ。
 ……マジかよ。
 思考が停止した。やっとここまで来たのに。こんなチャンス、きっともう、二度とないのに。
 ――ここにきて、これかよ。

   ❃

 今日一日で何とか家に帰る。
 そう決めたから、望田はすべての食料を腹の中に詰め込んだ。これで荷物が軽くなった。それに、食事のために休憩を設けるなんて悠長なことはしたくなかった。休まず歩いて何としても今日中に帰るのだ。そうすればまだ何とかなる。遭難したとか言われなくて済む。
 沢筋を下り続けていたら、やがてゴウゴウと何かが砕ける音が聞こえてきた。一歩進むごとにその音が大きくなる。
 音の真上で、沢の流れが途切れていた。望田は大きな岩につかまりながら、沢の途切れたところを覗き込んだ。沢の水は、二十メートル下で白い飛沫となって砕けていた。飛沫の向こうに深く淀んだ水が見えた。滝つぼだ。
 ……マジかよ。
 望田は天を仰いだ。自分をバカだと思った。確かに、沢を下ることはできる。だけど沢には滝があるのだ。滝は、沢の水が岩を削って作るものだ。沢の水量が少ないから甘く見ていた。少ない水だって、重力が加われば勢いは強くなる。水は岩を削るから落差だって大きい。現にこの滝も、水の高さだけでビルの五階くらいある。とても下りられない。
 望田は背中側を振り返ってみた。
 一日半、この沢を下ってきたのだ。沢はどこまでも続いている。
 左右を確認してみた。
 切り立った岩場だ。登れないし、登った先は樹林帯。きっと巻いては歩けない。
 ――今さら、戻れねえよなぁ。
 ザックの中にはロープがあった。使うつもりなんてなかったけど、登山グッズとして持っていると格好がつくと思って以前に購入したものだ。まさか、実際にこんなものを使う日が来るなんて。
 近くの木にロープを括り付けた。滝つぼの脇の岩場に下りるつもりでロープを放った。首だけ突き出してロープの行方を覗く。長さは足りたようだ。ロープの先端が滝つぼの端の方、浅そうな水の中に浸っていた。
 ロープを何度か引いて強度を確かめてから、おそるおそる足を踏み出した。
 たった一歩。
「あっ」
 シューズの底が苔を踏んだ。望田は空中に投げ出される。滝つぼから伸びてきた見えない巨大な手に足首をギュッとつかまれたみたいだった。空を見たまま望田は滝つぼに落ちていく。水面にぶつかった瞬間、足と腰に大きな衝撃が走った。次の瞬間には世界がぜんぶ青く染まっていた。空気の粒が泡になって、深青の視界の中を蛍みたいにキラキラ舞っていた。水を隔てて空が見える。輪郭を失った黄色い太陽が遥か向こうにゆらりと揺れた。

   

〈要救の名は望田広一。二十五歳の男性会社員だ。提出された登山届によると、七月十四日に入山。目的地は国見岳となっている。日程は日帰りだが、十六日現在、望田が下山したという情報は入っていない〉
 自分の意志に反して足が前に進んでいく。息が上がる。
「奥村。あまり急ぐな」
 森口分隊長に諌められた。花は額に汗しながらザラ峠を急いでいた。自分でもハイペースすぎるのはわかっている。けど足を止められなかった。
 今日の朝一番から捜索を開始して、今はすでに夕刻。太陽が傾き始めている。
「せめて、携帯電話のGPSが捉まえられりゃあな」
 森口分隊長が空を見上げながら言った。道迷い遭難の捜索方法は時代とともに移り変わっている。かつては人海戦術が主体だった捜索だが、今は携帯電話のGPSを利用して遭難者の位置を特定するのが主流だ。遭難者の大まかな位置が特定できれば、救助方法の検討ができるし、救助に費やす人員も大幅に削減できる。だけど――。
 携帯電話を水の中に落としたか。あるいはバッテリーが切れたか。
 望田さんの携帯の位置情報が見つからない。
 険しい顔で歩く花に森口分隊長がまた声をかけた。
「奥村。焦りは禁物だぞ。助ける側のお前が焦ってどうする」
「でも」
 日帰りの予定だったってことは、おそらくシュラフもツェルトも持っていないってことだ。夜を迎えるつもりがなかったんだから、きっとライトだって持っていない。食料だって同じだ。何とか水を確保できていればいいけれど、そうでなければそろそろ動けなくなっているはずだ。
 早く。
 早く見つけてあげないと。
 森口分隊長がまた空を見た。遠くに見える獅子岳の稜線が赤く染まりはじめている。
 足を止めた。
「日が暮れる。今日はここで捜索打ち切りだ」
 そう言われた。花は誰にも見られないようにクッと唇をゆがめる。
「あの、分隊長」
「なんだ」
「もう少し……。あの岩の向こうまで……」
「だめだ。打ち切りだと言ったろ」
 息を弾ませながら言い返した。
「あそこ……。あの岩までです」
「だめだ。あの岩まで進んで要救が見つからなかったら、お前はまた次の岩まで探そうとする。それをくり返したら帰れなくなる。だからだめだ」
「…………」
「わかったな。奥村」
「……了解、しました」
 花は嘘をついた。了解なんてしていない。だってまだ、望田さんが見つかっていないんだ。遭難者が見つかっていないんだから救助が終わるはずがない。わたしたちは山岳警備隊なんだ。人を助ける隊なんだ。
「よし。引き返すぞ」
 森口分隊長の指示で隊員たちは踵を返した。日が残っているうちに山を下りるのだ。
 花は、近くにいた隊員に「お花を摘む」と言って、隊から一人離れた。森口分隊長を先頭に、隊員四名がザラ峠の岩を踏んで麓に向かっていく。花はそちらに足を向けなかった。もう一度、国見岳の頂上をゆっくりと見上げた。
 ――もう少しだけ。
 花は歩き出した。
 危なくなったら戻ればいい。だからもう少しだけ。
 自分でも止められなかった。
 わたしは、人を助けるんだ。

「第3話 二つの沢-4」へ続く

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※涌井の創作小説です。


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