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ヤマケイ ―山の警察—(第2話-3)

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(第2話 縦走(夏)-3)


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〈要救の名は飯起(いぼこり)賢哉(けんや)。剱岳にはツアー登山で入ったようだ。現在はツアーに同行していた山岳ガイドが滑落場所まで下りて要救といっしょにいる〉
 登山者が多くてなかなか進めなかった。剱岳名物の大渋滞だ。
 剱岳には、〝カニの縦這い〟と〝カニの横這い〟と呼ばれる鎖場がある。夏山での登山ルートは限定されていて、別山尾根ルートの場合、行きは〝カニの縦這い〟を、帰りは〝カニの横這い〟を通らねばならない。名前からわかるように、いずれもカニのように岩にへばりつき、カニのようにちょこちょこと進むよりない非常な難所だ。足の下に何もない垂直の岩を、鎖につかまって少しずつ登るのだ。難所だから、事故を避けるために慎重に進むよりない。つまり、ここに必然的に人が詰まる。この岩場が、剱岳の〝大渋滞〟を引き起こすのだ。
 渋滞を見上げながら花はボソリと言った。
「祭先輩……。あのおじいちゃん、大丈夫ですかね。あんなにガチガチに鎖をつかんでたら、足なんてなかなか前に出ないと思います」
「うん。危なっかしいね。まわりがぜんぜん見えてない感じ」
「でも……。前にも後ろにも人が大勢いて、危なかろうが前に進むよりどうにもならない感じですよね」
 花はヤキモキしていた。山は町とちがって、救急だからって別ルートを辿れない。登山道は狭くて、サイレンを鳴らせば登山者が道を空けてくれるわけじゃないからだ。
 ――天候さえ不安定でなければ、〝つるぎ〟に乗って現場近くまで急行できたのに。
〈要救は、今朝早くに剣山荘を出発し、一服剱を経て剱岳を登頂。下山中にカニの横這い付近で足を滑らせて十メートルほど転落したらしい。ガイドは重傷だと言っている〉
 隊長はそう言っていた。重傷ってことは出血があるってことだ。山の死亡事故のほとんどは、心臓や脳などの内疾患か、外傷による失血死だ。
 ――急がなきゃならないのに……。
 焦る。けど動けない。
 ――これ……。何とかならないのかな。せめて救助隊には道を譲るってルール化できれば……。
 考え事をしていたら、すぐ前にいる祭先輩の叫び声が花の耳を打った。
「花ちゃん! ラーック!」
 花は反射的に顎を引いて身を小さくした。落石だ。一瞬で汗が湧き出し全身の筋肉が緊張する。奥歯をギュッと噛みしめた。
 背骨にガツンと衝撃が走った。ヘルメットに岩がぶつかったのだ。危なかった。咄嗟に顎を引いていなければ、むき出しの顔に直接当たっていたかも知れない。こんな場所でケガなどしたら一大事だ。動けなくなってしまう。
「花ちゃん。大丈夫!?」
 祭先輩の声が裏返っている。花の心臓は破裂しそうにバクバクしていた。ぶつかった岩はおそらく十数センチのサイズでしかない。そのへんに転がっている岩だ。だけど、転がり落ちる岩は凶器なのだ。
 花は顔を上げて、先行する登山者たちの背中をキッと睨みつけた。
 怒りに体が震える。
 岩を踏み落としたのに、なぜ注意喚起しなかったのだ。
 すさまじいほどの怒りだった。花は今、偶然にも大きなケガをせずに済んだ。だけどそれは、花が訓練を受けた山岳警備隊員で、なおかつ安全保持のためにヘルメットを着用していたからだ。山を登る人全員がグローブやヘルメットを装備しているわけじゃない。ヘルメットがなかったら、ただそれだけで今の落石は大事故につながった。
 きっと、石を落とした登山者にしてみれば、「小さな石を踏んで、それが転がった」程度のことだったのだろう。だけどそれって、人の命を奪いかねない一歩なのだ。殺人未遂ですらあるのだ。それに気づいていないことに腹が立つ。わかってないんだから、また同じことをしでかすにちがいないからだ。
「危なかったね」
 言葉は穏やかだったけど、祭先輩の顔も怒りに震えていた。本当は、今花たちが立っているこの場所は、日本で一、二を競う程に危険な場所なのだ。年間に十数人がここで遭難する。何人かは死ぬ。そんな場所が日本のどこにある。それだけ危険な場所なのに、これだけ大勢の人が連なって登っていると恐怖が麻痺する。これだけ大勢で登っているんだから、まさか自分が死んだりするわけないと錯覚する。
 切歯扼腕の想いだった。列はなかなか進まない。
 この間に、死神の足は進んでいるのに。

 何度見ても身が震える。これがカニの横這いだ。
 雲海の中に垂直の岩が浮かび、その岩に一本の鎖が横に向かって打ちつけられている。足の下には何も見えない。あるのは岩と雲だけだ。
 花は鎖につかまりながら、空中に足を踏み出した。角度が急すぎて次に足を乗せるべき岩が見えないのだ。感覚的には何もない空間に足を踏み出す感じだ。この一歩が怖い。心理的な怖さじゃなく、本能的な怖さを感じる。
「花ちゃん。急いで」
 先行している祭先輩にそう言われた。でも怖い。脳みそが「行くな」と何度も叫んでいる。
「花ちゃん。右足。右足から踏み込むの」
「は……、はい」
 足のはるか下に雲があった。雲の切れ間には、ところどころに雪の残った岩場が見える。
 なんだか頭がグワングワンしてきた。見たことのない景色だから、きっと脳みそがびっくりしているのだ。自分がどこにいるのかわからなくなってくる。
 鎖場のすぐ下には、数メートル程度の岩場が広がっていた。そこに男の背中が見えた。その背中がガタガタ上下していた。
 祭先輩が短く言う。
「山岳警備隊です。通報者の方ですね?」
 男性が振り返った。顔中、汗と涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。下唇に血がにじんでいた。ガイドの男性は、大怪我を負ったツアー客を前にして、明らかに動転していた。応急手当てをした形跡もない。触れられなかったのだ。顔中を汗にしてパクパク口を動かしていた。花たちを認めて近寄ってくる。
「この人が……。横這いの順番待ちの時に他の登山者と無理にすれちがおうとして……」
 今は原因なんてどうでもいい。まずは要救助者の状態確認だ。
「花ちゃん、ガイドさんをお願い。あたしは要救を見る」
「はい」
 祭先輩が要救助者の男性に駆け寄った。しゃがみ込んで状態を確認している。
 ガイドがすがるような目で花を見ている。「私はちゃんと注意したんです。ここは危ないからちゃんと順番を守ってくださいって……」
 花はガイドの肩に手を置いて落ち着かせる。責任問題になるのを恐れているのだ。
「他のツアー客はどうしていますか」
「あ……、みんなそこで待っています」
「ここからはわたしたちが引き継ぎます。あなたはツアー客を安全に下山させてください」
「あ……、あ、はい」
 花は空に顔を向けた。登山道が見える。そこに何人も人がいた。一人残らずこっちを見ている。みんな足を止めて、ある人は顔をしかめて、ある人は感心したように「ほう」と息を漏らして、ある人は珍しい動物でも見つけたみたいに頬を上気させていた。
 その中にカメラを見かけて、花の頭にカアッと血が上った。
「撮るなぁ! この人を写すなぁ!」
 花は両手を広げて要救助者の前に立った。唇を噛んで堪えていた。なんだこいつら。なんでそんな目で救助活動を眺めるんだ。なんでそんなふうに、血だらけの要救助者を写真に写せるんだ。
 青年がわめいていた。身をよじろうとするけど上半身が動くだけで下半身は岩棚に張り付いたままだ。「いい痛い、い。いだい」
 祭先輩が青年の肩を抑えている。「暴れないで。大丈夫」
「あああ足、足が動かない」
「うん」
 祭先輩の額に汗が浮いている。三角巾を取り出してそれを細くして青年の右腿に通した。青年の右脚は三角定規みたいに直角に折れ曲がっていた。膝が真逆に折れている。折れた足の脛から先は、内出血で信じられないほどに太く腫れ上がっていた。頭から血を流している。自分の血で目の中を赤く染め、その目を開いて祭先輩を見ている。
「花ちゃん」
 呼び寄せられた。青年に聞こえないよう、花の耳に口を寄せて祭先輩が言った。
「おそらく骨盤と肋骨が折れてる。このままだと長くは持たないと思う。ヘリを呼んで」
 花は唾を飲んでから肯く。「はい」
「〝つるぎ〟がダメなら民間でもいい。とにかく早く。急がせて」
「はい」
 無線機に飛びついた。背中で祭先輩が応急処置を続けている。断続的に青年の声が聞こえる。
「おおおれ、落ちて」
 祭先輩の応じる声。
「うん。大丈夫。しゃべらないでいいから」
 喉がカラカラだ。
「こ……、こちら現場の奥村です。要救と接触し、現在応急処置中。ヘリをお願いします」
 すぐに隊長の声が返ってきた。
〈正確な場所はわかるか〉
「剱岳別山尾根ルート、カニの横這い直下のガレ場です」
〈わかった。すぐに要請を出す〉
 通信を終えて振り返った。祭先輩が、青年の折れて曲がった右脚に体重を乗せてまっすぐにしようとしていた。青年がわめいた。「いいいぃ!」
 青年の口から空に向かって血の泡が舞った。花はぶん殴られたみたいなショックを受ける。
「先輩!」
「なに」
「痛がってます! そんな、折れてるんですよ!」
「まっすぐにしなきゃもっと痛がる。運べない」
 祭先輩が青年の右足を抱くようにして元の位置に戻した。青年がカッと目をむいてからガクリと首を垂れた。気を失ったのだ。花は足がガクガクしている。
 怖い。
「よし。花ちゃん運ぶよ」
 頭が回らない。
「運ぶって……。どこに……?」
 祭先輩が上を向いた。カニの横這いの鎖場が見えている。いまもそこを登山者が渡っている。血の海の中、顔と体をぐしゃぐしゃにした花と祭先輩を見下ろしている。
「ここじゃあヘリでピックアップできないから。乗せられるところまで降ろさなきゃ」
 祭先輩が、血の海になっている岩場に体を横たえた。長い髪が血だまりに浸かる。青年の腕を引いて半身を起こさせた。その下に自分の体を潜り込ませる。
 背負う気なのだ。
「……寒い。寒い」
 青年が意識を取り戻した。祭先輩が岩棚に膝をつき、体を起こす。花は慌てて補佐に回った。青年の体を背中側から支える。ひどい匂いだった。日に照らされた血の匂い。青年の体は小刻みに震えていた。蠅が舞う。何度も手のひらで追い払った。それでもまたすぐにやってくる。付きまとって離れない。死神みたいだ。
「腹が痛い。痛くて死にそうだ。うんちが出る」
 青年がそんなことを言っている。祭先輩が答えている。
「うん。すぐにヘリのところまで運んであげるからね」
「痛い。降ろして! 降ろせ!」
「うん。ごめんね。がんばって」
 花は上を見た。大勢の登山者。そして十数メートルの垂直な壁。
 登れない。
 花は下を見た。ほとんど垂直に見えるゴツゴツした岩の急坂。祭先輩が言った。
「平蔵のコルへ降りよう。そこでヘリにピックアップしてもらう」
「は……、はい!」
「花ちゃん、先行、お願い」
「はい」
 ロープを下ろした。ここは登山道じゃない。道から一歩外れるだけで山は表情を変えてしまう。まるで、体中全部のうろこが逆鱗になってる竜みたいだ。踏み外せば暴れる。触れたものを飲みこもうとする。だけど降りなきゃならない。この人を助けなきゃ。
 懸垂下降でコルまで下りる。ビレイ支点をキープした。
「先輩! どうぞ!」
「わかった」
 祭先輩がロープを伝って降りてくる。背中で青年が揺れていた。見上げる花の顔に赤い滴が垂れてきた。それでも花は顔を上げ続ける。怖すぎて目を離せない。目を離したその一瞬に、あの青年が死んでしまうかもしれない。祭先輩が足を踏み外すかもしれない。
「花ちゃん。このまま平蔵のコルまで歩こう」
「先輩。わたし代わります。わたし、背負います」
「いや。だめ」
「でも……」
「花ちゃんがもし転んだら、それだけでこの人には大きなダメージになっちゃう」
「…………」
 祭先輩が汗だくのまま笑った。
「でも、ありがとう」
「……はい」

「降ろして。腹が痛い。うんちが出る」
 祭先輩が、岩棚の上に青年を下ろした。自分もその場にへたり込む。祭先輩の背中が大きく上下しているのを見ながら、花は無線機をつかみ取った。
 叫ぶようにして言った。手が小刻みに震える。
「現在、平蔵の避難小屋です。ヘリでピックアップ願います」
 隊長の無情な返事が返ってきた。
〈天候が不安定で、そこでのピックアップは不可能だ。平蔵の出会いか剱山荘まで要救を搬送せよ〉
 無線機を叩きつけたかった。できるかそんなこと。たった数十メートル、ここまで要救を下ろして、ガレ場まで背負って運んだだけでこの有様なんだ。体力的なことだけじゃない。要救は、飯起さんはきっと内臓を痛めている。運ぶこと自体が危険なのだ。出血だって激しいから、一刻の猶予だってない。早く病院に運ばなきゃ死んじゃうんだ。ヘリに乗せるしかないんだ。
「無理です。何とかヘリを飛ばしてください」
〈できない。天候が回復するのを待て〉
 押し問答でしかなかった。空は曇っている。視界には時々ガスがかかる。でも、見えるじゃないか。山々の稜線だって、登山道を歩く登山者たちだって見える。視界はゼロじゃない。だから飛んでよ。飛んで、この人を助けにきてよ。
 祭先輩が背中に立っていた。
「花ちゃん。ヘリ、飛べないって?」
 いつの間にか泣いていた。喉を鳴らして涙を飲みこむ。
「……はい」
「そっか」
 どうしましょうとは聞けなかった。祭先輩だって答えなんてもっていないのだ。このままなら、何もできずに、ここでこの青年が死んでいくのを見るよりない。大勢の登山者たちの目の中で、血まみれのまま喘ぎ苦しんで死んでいくというのはあまりにも忍びなかった。
 祭先輩が無線に言っている。
「天候不順のため陸路で搬送します。応援とストレッチャーをお願いします」
 その瞬間、岩棚の上で仰向けになったまま、青年が突然腕を振り回し始めた。転げ落ちそうになりながら叫ぶ。
「うんちがしたい! ベルトを下ろしてくれ!」
 祭先輩が青年のいる岩棚に近づいていった。振り回している青年の腕を抑えて、そのまま青年の上半身を抱く。
 顔を近づけてゆっくりと言った。
「大丈夫。もう、うんちはちゃんと出たよ」
 青年が腕を止めた。祭先輩に抱かれるままになっている。花は震えていた。この人はもうすぐ死ぬのだ。肋骨と骨盤を折って、内臓をひどく痛めて体の中はぐちゃぐちゃだ。きっと内臓からの出血が腸を激しく圧迫するからそんなことを言っているのだ。もうもたない。
 青年が祭先輩を見ていた。
「おお、おれの体……、動かか、かない」
「そう」
「おおれ……、や山を、下りたい」
「うん。大丈夫。あたしが運ぶ。運んであげるから」
「…………」
 青年が何も言わなくなった。祭先輩は青年の体を抱いたままだった。花も見ていた。青年が死んでいくのを見ながら震えていた。なんだこれは。
 これが山の死か。
 こんなに簡単に、人は死ぬのか。
 祭先輩が体を起こした。青年の血で体中を黒く染めたまま、空をひと仰ぎした。
「だめだった」
 花はこらえきれない。チューブを握り締めたみたいにドッと涙が湧き出した。ボタボタ落ちる。何を言えばいいのかわからない。
 祭先輩が青年の脈を診て、それから瞳を開いて瞳孔反射を確認した。
 長い息をついた。
「花ちゃん」
 花は答えた。
「はい……」
「疲れたね」
「……はい」
「隊長に連絡、お願いしていいかな。ストレッチャーはもういらないって」
「はい……」
 祭先輩が青年に言っていた。
「痛かったね。ごめんね。生かしてあげられなくて」

 祭先輩が山を見ていた。剱岳のてっぺんを見て、呟いたみたいだった。
 先輩の目尻が、キラリと光っているみたいに感じた。
「山で死なせて、ごめんなさい」

(「第3話 二つの沢-1」へ続く)

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※涌井の創作小説です。


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