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ヤマケイ ―山の警察—(プロローグ-1)

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(プロローグ-1)


「本部渡部より各局。本部渡部より各局」

 お行儀よく三角に並んだ白いダリアの真ん中から、ちょこんと赤いダリアが顔を出していた。小ぶりな花束を大事そうに抱え、霞色のスカーフを揺らしておばあちゃんが花に尋ねてくる。
 奥村花は富山県上市市のエリアマップを広げ、そこに指を滑らせた。
「ええと……、かみいち総合病院なら――」
 巡査になって地域課交番勤務に配属され数か月。地理案内にはまだ慣れない。建物の場所さえわかっていれば案内なんて簡単だと思っていたけど、実際やってみたらこれでなかなか奥が深いのだ。地理案内のコツは相手を見ること。こんな荷物をもっていて、こんな用事でどこそこに向かうから、それに適したルートはどうなるか。年齢はいくつくらいで健康状態はどうか。天候によって利用に適した交通機関だって変わる。それを踏まえて案内するのが地理教示。それが相手の身になるってこと。そう教わった。
 それってきっと、山でも同じなんだと思う。
「ごめんなさいねえ。ここにははじめて来たものだから」
「きれいなお花。お祝いですか?」
「そうなの。娘に四人目が生まれたの。待望の女の子なの。だから白いのがお兄ちゃんたちで、赤いのがお姫さまね」
「わあ。すてきですね」
 ルートを決めた。この荷物を抱えて歩いて行ったら三十分近くかかってしまう。ここから数分の若杉新のバス停から総合病院を経由する路線バスが出てたはず。花は笑顔のまま口を開いた。
「あのですね、この交番を出て……」
 無線機が鳴り出した。
「あ、ごめんなさい。ちょっと待ってくださいね」
 花は椅子を鳴らして腕を伸ばし、無線機をつかんだ。
「はい。上市警察署上市町交番。奥村です」
〈奥村か。鬼岳東斜面で滑落遭難が発生した。来い〉
 渡部隊長だ。花は浮かべていた笑顔を一瞬で引っ込めた。奥の詰所にいる同僚に声をかける。
「権田さん。呼び出しかかったんで行ってきます。マップにルート引いてありますから地理教示の続きお願いします」
 おばあちゃんが心配そうに花を見ていた。
「あら、どうしたの? 何かあったの?」
「ええちょっと。お山に行ってきます」
「お山に?」
「はい」
 花は駆け出した。まずは室堂ターミナルへ。そこでみんなと合流して山に入る。着替えは移動の車の中で済ませてしまおう。
「わたし、山岳警備隊なんです」

   ❃

「はい。室堂警備派出所」
 新堂信秀は受話器を上げた。その顔は半分が三角巾で被われている。なぜなら掃除の最中で埃っぽいからだ。明日は、冬の間閉め切っていた出張派出所を開く日。その日に向けての掃除の真っ最中だからだ。
〈鬼岳東斜面で滑落遭難が発生した。祭、新堂、行けるか〉
 奥で、濡れそぼった煙突と格闘していた祭誠が大声を上げた。
「なにぃ、ノブヒデぇ? 遭難ンん?」
 ノブヒデは答える。
「うんそう。出動だってマコトさん」
 ゴホゴホ咳込む音の後に聞こえた。
「ういー。わかったー」

   ❃

「はい。こちら"つるぎ"、伊波」
 県警ヘリパイロットの伊波は通報を受けて走る。走りながら渡部隊長の救助方針を確認した。
〈立山鬼岳東斜面で男性一名が滑落した。先行していた別パーティーからの通報だ。明日の室堂派出所の開設に備えて新堂と祭が先に山に入っている。二人を先行して現場に向かわせる。追って救助隊を組む〉
 伊波は短く答える。
「ガスかかってるから、しばらくは出られないぞ」
〈ガスが晴れるのと同時に飛んでほしい〉

   ❃

「雪やべー。雪。アハハハ。見て見て! 派出所出るのにすでにラッセル!」
「マコトさん、わかったからそういうの楽しそうに言わないで。パッケージは済んだの? ファーストエイドキットは?」
「OK。ふかふかサクサク白い雪」
「歌うな。行くよ」
 春の立山はあまりに雪深い。冬の間に出張派出所は姿を消してしまう。降り積もった雪の中に埋没してしまうのだ。だから派出所の開設のためには重機を入れ、まずは派出所を掘り起こす。ここはそういう場所だ。
 横にしたピッケルで胸の前の雪を叩き、足で踏み固めて階段を作る。そうして前に進んでいく。雪は水だ。とても重い。そうしないと前に進むことすらできない。
 ノブヒデの吐く息が白くなって空に溶けて行く。マコトはノブヒデの作ったラッセルを楽しげに踏んで歩く。
 山を見上げてマコトが言った。
「鬼岳の東斜面だから、スキーかな」
 息を弾ませたままノブヒデが答える。
「だろうね。目撃情報によると雪渓を滑り落ちて斜面途中の岩に引っかかってるらしい」
「じゃあケガしてるね」
「うん。よくないと思う」
「よし。急ごう」
「うん」
 雪を踏んで歩く。足の下でパキパキと乾いた音がする。ここ数日はやや暖かく、降雪があまりなかった。そのせいで今、足の下の雪は大粒でザラメに近い。だからより重い。小さな氷の粒を踏んで歩いているようなものだ。
 頬にパラパラと白いものが落ちてきた。
 ノブヒデが空を仰ぐ。
「……まずいな。降り出した」
「ん」
「ヘリ、きっと飛べないな」
「ん。だね」

   ❃

 立ち上がれないのは足が折れているからだろうか。
 男は雪の斜面で空を見ていた。視界はかすんでいるけど、男の目はまだ辛うじて開いていた。かすかに見える。何でだろうと男は思う。
 何でだろう。おれのスキー板が、おれの顔の前にある。
 黒部湖を見下ろす絶景の中を滑ってみたくて、男は一人春の山に入った。
「まるで、湖に向かって空を飛んでるみたいな気持ちだぜ」
 スキー仲間にそう言われたのだ。冬山が危険なのは知っていた。単独で山に入るのが危ないのも理解していた。だけど男には時間がなかった。こうしてまとまった自分だけの時間が作れるのはこれがもう最後だろう。
 まだ腹の中だけど、子供ができたのだ。子の顔を見た後で、いままでと同じように山に入る自分は想像できなかった。スキー仲間を連れてくる気にもなれなかった。自分でもひどい奴だと思う。きっとおれは、山を独占したいのだ。まだ誰も踏んでいない真っ白い冬の山を、一人で滑り降りたいのだ。
 四月を過ぎ、町では外を歩けば汗ばむほどの陽気になった。しかし、山はまだ冬だ。目の中は真っ白な雪と黒い山塊だけ。あとは青い空と風が吹いているだけだ。この瞬間がたまらなかった。この世界に自分が一人きりになったような強烈な孤独感。でもそれはきっと孤独じゃないのだと男は思う。きっとこれは、世界と自分が一つになった感じなのだ。世界が自分だから、一人きりに感じるのだ、と。
 山全部が自分のものになったみたいだった。晴れた空。地上で見るよりずっと、太陽と雲が近かった。太陽の光がキラキラと粒子みたいに降り注いで、男は歯をむいて空に笑った。気持ちがいい。
 背中にハの字に取りつけていたスキー板を外して、代わりにアイゼンを背中のザックに括りつけた。尾根に立ち雪の斜面を見下ろす。絶景だった。真っ白な雪の世界を滑り降りる自分を想像して男は身震いした。下り始めた瞬間から、鞍部に滑り降りスキーを外す瞬間まで、五感を全部使って、世界と一体になる楽しみを余すところなく感じ取ってやろうと思った。
 空を仰ぎ、足を踏み出した。
 行こう。
 まるで、山に「来い」と導かれているみたいだった。スキーは快調に雪を滑る。一つの足跡もない雪原に自分のトレースを残すのは快感だった。強い風がさらに勢いを増して男の耳を塞ぐ。山の吐き出す風の音と、自分のスキーが雪を掻く音しか聞こえない。時折混ざるのは自分が息を吐き出す音だ。ハッ、ハッと短く、自分の呼気が、まるで笑い声みたいに聞こえる。
 たぶん、雪の中に隠れていた岩の塊にぶつかったんだと思う。男は突然バランスを崩した。体が傾いたと思った瞬間には目の中全部が青い空になっていた。完全に仰向けになり、男は背中から雪渓に転がった。右脚のスキー板が雪に突き刺さって軸になり、落下のスピードと男の全体重が右脚一本に一気に圧し掛かった。乾いた枝を叩き割ったみたいな音がして、右脚がありえない方向に折れ曲がった。骨を失った右足が、縦横無尽に顔の前を飛び回っていた。
 男は頭を下にして斜面を滑落する。折れた右脚の痛みは感じなかった。それどころではなかった。猛烈な勢いで雪の上を身体が滑っていく。両手を空に向かってバタつかせるけどそこにあるのは山麓の澄んだ空気だけだ。耳の中に雪が入る。聞こえる音はザザザザからザン、ザン、と飛び跳ねる音に変わった。何度も背中を打ちつける。傾斜で跳ねあがって空中で体が一回転した。硬い雪の上にまた落ちる。頭を打った。もう何も見えない。
 バツン
 聞きなれない音が体の内側から響いて、男は「あっ」と思った。まるで、強靭なロープが切れたような音だった。斜め前に空が見える。何でだろう。おれは滑落している最中のはずなのに、なんで止まったんだ。なんで空が見えるんだ。
 男は、雪面に突き出した巨大な岩に背中からぶつかっていた。ちょうど椅子の背もたれのように、岩は男の背中にぶつかって男の肋骨をくだいた。両の腕が弛緩している。腕も折れたのかも知れない。折れた足はギュッとしぼった雑巾みたいにねじれていた。スキー板が垂直にそそり立って男の顔の前にある。
 足が動かない。あれ……、左足もだ。
 雪面を転がる間にゴーグルを失っていた。目の中がざらついた雪でいっぱいで前がよく見えない。目を擦りたくて腕を動かそうとしたけど、腕がどこにあるのか男にはもうわからなかった。体中、ぜんぶの神経をいっぺんにズタズタにされたみたいだ。
 ――ああ。
 ただ一言、
 死ぬんだ、と思った。

「プロローグ-2」へ続く

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※涌井の創作小説です。


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