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ヤマケイ ―山の警察—(プロローグ-2)

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(プロローグー2)


 マコトは男の首の後ろに手を回した。グローブの両手でしっかりと頭をつかんで固定する。
 そして言った。
「聞こえる?」
 男の瞼が薄く開いた。黒目が微かに動く。マコトは笑って言う。「うん。大丈夫。後は任せて」
 男の黒目がほんの少しだけ下に動いた。肯いたのを確認してマコトは男の気道が開いているか確認する。顔を近づけると男の口から血の匂いがした。息は通ってる。だらりと弛緩して雪の上に転がっている腕に触れてみた。
「どうかな。感じる?」
 男がまた黒目を下に動かした。
「うん……。OK。脊椎は大丈夫そう。足、ちょっと見せてね」
 男の右足は腿で折れて尖った骨が突き出していた。運悪く外れなかったスキー板のせいで何度もねじれて今にもちぎれそうだ。白い雪の上に赤黒い水たまりができていた。むき出しになった赤い肉から白い湯気が立ち上っている。
 無線からノブヒデの声がした。
〈どう? マコトさん〉
「うん。OK。たぶん、運べる」
〈容態は?〉
「両足を骨折してるね。右脚は開放骨折で出血がひどい。あと、滑落時に露出した岩にぶつかってるから内部骨折があるかも」
〈意識レベルは?〉
「低い」
〈頭部外傷は?〉
「見るかぎり骨折はなさそう。岩と接触した時の切り傷が数か所」
〈わかった。まずは右脚の血を止めよう〉
「了解。ノブヒデ、隊長に報告お願い」
〈了解〉
「ごめんね。痛いかもしれないけど、足、ちょっとだけ動かすよ」
 肉がむき出した右腿に手を当ててほんの少しだけ持ち上げた。男は反応を見せない。今自分の身に起きていることが信じられず、テレビの向こうの出来事を眺めているみたいな顔をしていた。マコトはハサミで男のウェアを裂く。まずは止血だ。この怪我の程度でこの気温だ。失血だけじゃない。低体温症の恐れだって十分にある。
「血を止めるからね。しばるよ」
 三角巾を取り出し男の腿の付け根を圧迫するように縛り付けた。折れた骨の近くにある太い血管からピュッと赤いしぶきが舞い、それが雪原にパパッと赤い水玉を作る。
〈マコトさん〉
「なに?」
〈バッドニュース。雲のせいでヘリはまだ飛べないって。そこは不安定だから稜線まであげて、雲が切れるのを待とう〉
「わかった」
 マコトは男の耳に口を寄せる。はっきりと言った。
「これからあなたを稜線まで運ぶね。いっしょにがんばろう」

   ❃

 凍った風が雲の下から吹き上げてくる。気を抜くと足元をすくわれそうだ。
 奥村花は山に踏み込んだ。
 薄曇りの冬の山には色がない。何を目指して歩けばいいのかまるでわからない。
 だから花は、前を行く先輩隊員の紺色のウェアだけを見ていた。あたりに気を払う余裕なんてなかった。歩くだけで精一杯なのだ。足元の雪は重くて、踏み込んだ足を一歩ごとにがっちりとつかんでくる。風は強くて、小さな氷みたいな雪の欠片をビシビシと頬にぶつけてくる。大きく口を開けないと息ができない。歩き始めたばかりなのにものすごく苦しい。疲労ではなく、冷たい風と真っ白な景色に追い詰められるのだ。自分がちゃんと生きているのか不安になるくらいだ。ものすごく、息苦しい。
 先輩隊員の残した足跡だけが命綱だった。花はそれだけを必死で踏み続ける。冬の山は足の下に何があるのかわからない。白い雪がすべてを覆い隠しているからだ。ホワイトアウトに近い視界は左右の感覚すら奪ってしまう。たった数百メートル、冬の山中に踏み込んだだけで、花はすでに自分がどこをどう歩いているのかわからなくなっていた。
 訓練で入った山とぜんぜんちがう――。
 晴れた冬の山はどこまでも美しかった。山岳警備隊の訓練ではじめて冬の立山に入った時、花はすなおに感動した。
 何もかもが整っていたのだ。
 別山の山頂に立った時、白くかすんだ空気の向こうに、鋭くとがった剱岳がそびえていた。それを見て花は、「あ。神さまがいる」と思った。神々しいなんて言葉、いままで生きてきて使ったことがなかった。でもここは、その言葉がしっくりくる。
 それほどの美を湛えた場所なのに、光を通さない雲がたった一枚空を覆うだけで山は変わってしまう。今の山はあきらかに人間を拒んでいた。風が、雪が、「来るな」と言っている。
〈鬼岳周辺の現在の天候は雪。しばらくヘリは飛べん。気温はマイナス十度だ〉
 渡部隊長が無線で言っていた。
〈だから一の越山荘まで要救を陸伝いに運ぶ〉
 花は覚悟を決める。
 つまり、お前たちで背負えってことだ。
 すでに現場に到着している新堂、祭両隊員から報告を受けていた。要救の名は東田圭一、三十代の男性だ。東斜面から滑落した際に右脚大腿部を開放骨折、そのほかにも骨折箇所が多数あり、失血が激しく一刻を争う状態だ。ふつうならヘリを飛ばす。だけど今は山がそれを許さない。こうして陸を歩く花ですらほとんど前が見えないのだ。空から見た今の鬼岳は、きっとただの白い霞でしかないはずだ。
 吹き上げる風にあおられてフードが頬をバシバシと叩いた。雪のせいで前を行く隊員の足跡がすぐに消えて行く。
 ――祭先輩と新堂先輩、大丈夫かな。
 隊長にくぎを刺されていた。
〈いいか奥村。お前の任務は補佐だ。間違っても救助活動に参加しようとはするな〉
 山岳警備隊に入隊してまだ数か月。花に救助の経験はない。これがはじめての現場だ。
〈まずは山の救助を体で覚えろ〉
 白い雪のカーテンの向こうに小さな小屋の屋根が見えてきた。富山大学の立山施設だ。
 すぐ耳元で叫ばれた。
「奥村ぁ。ちゃんと付いてこれるかぁ」
 森口分隊長だ。視界は白くかすんでいるけど、一際大きな体と大きな声でそれがわかった。花の教育係として山のイロハを教えてくれる先輩だ。武骨でガサツ。それでいて大らかで時々繊細。何というか山みたいな人だ。森口分隊長が花の肩をグッとつかんだ。
「見失うなよぉ。雪の山はいつもの山とは別の場所だぞ。おれでも迷う」
 花の耳に放りこむみたいにして叫んだ。
「だから、助けてほしいときは助けてって言え。要救を救う前に、自分が生きることを考えろぉ」
「…………」
 花は大きく首を縦に振った。息が上がっていて「はい」すらなかなか出てこなかった。
「行くぞ奥村。おれのトレース、見失うなよぉ」
 ――言われなくても。
 花は歩き出す。森口分隊長の背中はもう見えない。
 ――悔しいけど、いまのわたしにはそれしかできない。

   ❃

〈マコトさん。支点確保したよ。登ってきて〉
「りょーかい」
 マコトの頬を凍った風が打ちつける。雪を含んだ風は氷水に近い。フードをすり抜け、ウェアに覆われていないマコトの顔に痛みを伴ってぶつかってくる。ぶつかった雪は水になって再びすぐに凍り、そしてごっそりと体温を奪っていく。
「体を横にするからね」
 マコトは男の体を横にして、その隣に寝転んだ。男の左腕を自分の首にかける。そのまま腰を滑らせて男の体の下に潜り込み、男の腕をぐいと引いた。首にかかった男の両腕を交差させ固定した。両手を雪に突き刺して腰を起こす。
「フッ」
 体重全部がマコトの両足に乗り、雪に埋まっていたスノーシューズがさらに深くズブリと沈んだ。男が「がっ」と声にならない悲鳴を上げた。マコトは男に声をかける。
「ごめんね。痛いね。でも、ここにはいられないんだ。もう少しだけ」
 ノブヒデが垂らした赤いロープを右手につかんだ。背中の要救に語りかける。
「雪、降ってきちゃったね。寒いね」
 濃い血のにおいがする。冷たい風の中で嗅ぐ血液の匂いは生々しい。生きてるぞって叫んでいるみたいだ。
「もうすぐここから出られるからね。すぐに、寒くなくなるからね」
 マコトがいるのは角度のきつい斜面だ。これから要救を背負って斜面を稜線まで登り返す。
 息を吐き、一歩踏み出した。二人分の体重が乗ったアイゼンが雪の斜面を深く穿つ。背中の要救の呼吸は浅く速い。マコトが一歩進んだ分だけノブヒデがロープを引く。これで足を滑らせても滑落の心配はなくなるが、安全が確保されるだけで重さは変わらない。マコトの体重と背中の要救助者の体重、その両方がマコトの足にのっかっている。ロープを介してマコトがつかんでいるのは二つの命だ。
「フッ」
 クライムとレスキューはちがう。
 あたりまえの話だけど、そのちがいはなかなか伝わりにくい。両者とも同じように山にあり、同じ技術と装備を使って山に登り、山を下る。ちがうのは命の数だ。
 クライマーは自分のために山に登る。だが、レスキューはそうではない。クライマーとレスキュー、二つを兼ね揃えることはあっても、レスキューである間は明確に目的を切り替えねばならない。
 要救を救うこと。そして自分も帰ること。
 それは絶対だ。
 吹きつける風と二人分の重さで、赤いロープがキュウキュウ鳴いていた。雪はそこまで強くないが風が止まない。何度も足元をすくわれそうになって、マコトはその度に体勢を整えた。急いで稜線に上げねばならない。それはヘリでの救助活動のためであるけれど、この天候なのだ。ヘリが飛べないケースを想定しなければならない。要救の東田さんは重体だ。おそらく朝までは持たない。だったら稜線を伝って、人の力で麓まで降ろさねばならない。彼を助けるためには、そうするよりない。
 歩くのだ。
「到着……」
 ロープの最後をつかんで、マコトはようやく稜線に上がった。雪のせいで見通しはひどく悪い。白くかすんだ空気を通して、ノブヒデがこっちを見ているのがわかった。
「マコトさん、おつかれ。要救は?」
「……大丈夫。……運べる」
「よし」
 マコトの背からノブヒデの背に要救が渡った。マコトはその瞬間に雪の上に膝をつく。
 百数十メートルの急坂をようやく登り終えたのだ。背中の要救の重さでウェアが張りつめて満足に呼吸ができなかった。肺の中に雪の粒がみっちり詰まっているみたいだ。けど笑う。マコトは笑顔をつくり、ノブヒデの背中の要救に向かって言う。
「がんばってくれて、……ありがとうね」
 ほんの少しでも彼に安心を与えるために。

「プロローグ-3」へ続く

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※涌井の創作小説です。


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